出逢ったことに、きっと意味はある。
離れたことに、きっと意味はある。
その意味を見出すことが、
きっと、僕の生きる意味だ。
ずっと一緒に、永遠に、
なんて、
ただの幻想でしかない。
スマホの音楽アプリから流れてくるのは、それまでは流行りの誰もが知っている曲ばかり並べていた。聞けば気分がノッて、少しくらいの嫌なことなどなかった事の様にどうでも良くなる。それまで音楽は、僕の感情のバロメーターだった。
人の行き交う駅のホームで一人、電車を待つ僕は、耳に押し込んだワイヤレスイヤホンからなんの音も聞こえてこないことにようやく気がついて、スマホに視線を落とした。
聞きたい曲が探せなくて、なにを聞いても心の中が落ち着かない。この、どうしようもない気持ちを、どうしたらいいだろう。なにも考えたくないのに、考えなくてはいけない。
どうしたって、決断しなくてはいけない時が、迫っていた。
熱はないからといつも通りに過ごしていた。風邪を拗らせたにしては、息苦しさと倦怠感がいつまでも抜けずにいたから、ただの体調不良だと思った。母と訪れた病院で、何故か大掛かりな検査をさせられた。気持ちも身体も今はなんともなくて、むしろ元気な方だ。
それなのに、白い空間へ呼ばれた僕の前で難しそうな顔をする主治医の先生の言葉に、僕は絶望する。
「手術をしたとして、成功する可能性は数パーセント。だけど、なにもせずに時に任せるには、君はまだ若すぎる。しっかり考えて、決断してほしい」
結局、最後は自分自身が決めなくてはならない。どんなに怖いと思ってしまっても、現実から逃げたいと思ってしまっても、ここにある事実は変わらないんだ。
諦めたら、それまでだ。だったら、やりたいことをやったら良いじゃん。人生悔いなく、謳歌したら良いんだ。それで死ねるのなら、本望じゃないのか? そう、強がってみたりした。
入学して数日。
教室の中で一人、周りとは全く違うオーラを纏う女の子が、窓の外を眺めて座っていた。
誰も寄り付かないと言うか、寄り付かせないような雰囲気を醸し出している。
普通なら放っておくんだろうけれど、なにかあの子なりの事情があるんじゃないかと、興味が湧いた。
この際なら、普段関わらない様なことをした方が楽しいんじゃないかと、普通なら近寄りもしないクラスメイトの水瀬那月のことを、僕は観察することにした。
学校に来ていて楽しいかと聞くことが出来たなら、きっと「楽しくない」と即答で返ってきそうなくらいに、水瀬さんは人と交流がない。
担任と話をしているのをたびたび見かけるくらいで、他は一切無表情、無言。だから、迂闊には話しかけられない。様子を見つつ、ゆっくり近づくことができたらと計算する。
だけど、なかなか近付けないその距離。当たり前だろうと思った。僕には彼女との接点などなんにもない。なにも進展がないまま時だけが過ぎていく。学年が変わって、運が良くまた同じクラスになることが出来た。だけど、きっと僕の存在なんて、ないに等しいんだろう。いまだに目すら合ったことが無い。なんだかそれが、無性に悔しくなる。
しばらくして、ゴミ捨てのために学校裏へ回った僕は、普段は誰も近づかない屋上階段のある旧校舎へと入って行く水瀬さんを見かけた。すぐにその姿は見えなくなって、少しその場で待ってみたけれど、水瀬さんが再び戻ってくることはなかった。
屋上に行ったのか? そうは思っても、あそこは立ち入り禁止で鍵がかかっているはずだ。生徒はもちろん、先生すらほとんど出入りしていないと思う。気にはなったけれど、それ以上は詮索しないで教室へともどった。
水瀬さんは、あんぱんはこしあん派だろうか? つぶあん派だろうか? 馴染みのパン屋でふと、そんなことを思った。しかし、本人になど聞く勇気もないし、いつも通り大好きなつぶあんのあんぱんを手に取ると、レジへと向かった。
いつか、水瀬さんと話せる時が来たら、絶対に聞いてみたい。そう思いながら、あんぱんにかぶりつく。
なんだか、最近は水瀬さんのことばかり考えている。話したことも、目もあったこともないのに、どうしてこんなに気にしてしまうんだろうか。
そんなある日、音楽室へと入って行く水瀬さんを見つけて思わず後をつけた。入口のドアを少しだけ開けると、中を覗き見た。僕はそこで、知ってしまった。信じられない秘密を。
水瀬さんの目の前に立つのは、担任の森谷先生。その手は水瀬さんの腰に絡みつき、もう一方は頬を撫でる。そして、そのまま二人はキスを交わした。衝撃的な現場を目の当たりにして、僕はしばらくそこから動くことができなかった。
二人は少し話をすると、音楽室の奥へと移動していった。ホッとしたのも束の間、わずかに聞こえてきた、水瀬さんのものにしては艶っぽい声。時折そんな声が漏れてきて、静かにドアを閉めた。途端に、廊下は無音になる。
単なる好奇心で近づいた水瀬さんは、担任の森谷と関係を持っていた。そんな事実を知ってしまって、胸が苦しくなった。
それから、水瀬さんのことがますます気になって仕方がなくなった。誰とも関わることのない学校へ来て、担任に抱かれて、あの子は幸せなんだろうか? と、疑問に思い始めた。
誰にも相談することが出来ずに悩んでいた僕は、森谷先生の左手薬指に指輪があることに気がついた。放課後、定期検査で休んでいた分の提出物を書くために残っていた僕と、先生の二人きりしかいない教室。
「あれ? 先生って、結婚していたんですか?」
内心、嘘だろと困惑しながらも、わざと陽気に言って見せた。すると、すぐに左手に視線を落とした森谷先生は困ったように笑った。
「あ、外してくるの忘れた。付けてないと怒るんだうちの奥さん。これ、内緒な。みんな結婚してるとなんやかんや聞きたがるだろ? あれ面倒でさ。結婚してないってことにしといてね」
軽々しくそう言って人差し指を口の前に立てて笑う先生の笑顔に、怒りが込み上げる。
表に怒りを出すことはなんとか耐えたけれど、じゃあ、あの音楽室での光景はなんだったんだ? と聞きたくなる。
先生と話している水瀬さんは、いつも見たことのない笑顔で笑っていたから。きっと、先生のことを信用している。それなのに、なんだよ。それ。
『これ、内緒な』
酷すぎやしないか? 孤独な生徒に付け込んで、己の欲求のためだけに水瀬さんを音楽室へと呼び出しているんじゃないのか? 何度、引き止めようとしたか。「行くな」と言いたくても言えなかった。僕は、水瀬さんの視界にすら入れていないから、そんな僕の話など聞いてはもらえないと、諦めてしまっていた。
『水瀬は寂しがりやなんだよ』
あの日、森谷先生に指輪の口止めついでに聞いてみた。
『水瀬さんは、どうしてみんなと話したりかかわったりしないんですかね?』と。
『一人が好きなわけじゃないんだ。一人になりたくないから、初めから一人でいるんだと思う』
『……それって、結局一人じゃないですか』
『うん。そーだよね。でも、〝一人になった〟と、〝一人だった〟では、全然意味が違う。なんか、放っとけないんだよね』
微笑む森谷先生の表情は穏やかだったけれど、まさか僕が水瀬さんと先生の関係を知っているだなんて、心にも思っていないだろう。
『僕が話しかけたら、水瀬さん答えてくれますかね? 先生ばっかりズルイですよ?』
『……え?』
『水瀬さんのこと、分かったような感じでいますけど、騙してますよね? それって、下手したら犯罪ですよ?』
お互い合意のもとでそうなっているんだとは思う。だけど、先生は嘘をついている。
その嘘を水瀬さんが知ってしまったら、その時のショックは計り知れないだろう。だったら、少しでも早い方がいい。
『先生、僕見ちゃったんです。音楽室で、水瀬さんといる所』
『……え?』
まずい。一瞬、そんな顔をしたような気がした。だけど、森谷先生は口角を上げながら冷静に答える。
『なに、してた?』
そんなこと、言えるわけがない。と、言うか、生徒に言わせるんじゃねぇよ。心の中で、本気で怒りが沸き起こった。
『はは、そっか、見られてたんだ。それはちょっと穏やかじゃないよね。分かった、もう止めるから。そろそろやめ時だと思っていたところだったんだよ。でも、水瀬と相性いいんだよね、なかなかやめれなくて。でも、これでスッパリ止めれるよ。ありがとな、山中』
なんで僕が礼を言われなくちゃいけないんだ? 止めたいとか、やめ時とか、なにを考えているんだ? この人は。でも、この人はなんの未練も謝りもなく簡単に水瀬さんとの関係を終わらせるんだろう。
だったら、その後の水瀬さんはどうなる? 自分の損得しか考えない奴が、水瀬さんのことまで考えてあげられるわけがない。
だったら──
そう思ってあの日、音楽室を飛び出して行った水瀬さんを廊下の陰から見届けると、森谷の前に立った。
『もう二度と、水瀬さんには近づかないでください。本当なら、担任も辞めてもらいたいくらいなんだ』
潤んだ瞳は悲しさなんて纏っていなかった。ただ、この関係に終止符を打てた安堵感だけが滲んでいるようで、そんな森谷を軽蔑するように睨みつけた。
そして、森谷の足元に転がっていた水瀬さんのスニーカーを拾って、僕はその場を去ったんだ。