昨日からの雨は、まだ降り続けている。
 憂鬱すぎる外の景色と鈍い痛みを響かせる頭に、あたしは小さくため息をついた。

「学校、行きたくないなぁ」

 ポツリと呟いてみるけれど、この家にはあたし一人ぼっちで、美月の存在がどうしようもなく恋しくなってしまう。ベッドの上で膝を抱えて泣いた。
 いつも決まった時間に起こしてくれた美月は、もう居ない。
 朝ご飯の良い香りもしないし、ドジをして大きな物音が聞こえてくることもない。シンッとした部屋に響くのは、外の雨音と車の走行音。そして、あたしの嗚咽だけ。
 結局、立ち上がる気力もなくて学校を休んだ。

 上靴のまま帰ってきたから、玄関にはスニーカーが片方しか無い。外履は学校に置きっぱなし。買い変えたばかりだったから、履き古した靴を履いて外へ出るのも嫌だった。 
 スマホで動画を見たり、大して仲良くもない友人のSNSを見たり。そんな物では心は満たされない。また膝に顔を埋めた瞬間に、スマホの着信音が鳴った。
  知らない番号が表示されている。どうしようもない寂しさが、勝手に指を動かす。無言でそれに応えると、向こうから嬉しそうな声が聞こえてきた。

『あ! 水瀬(みなせ)さんですか? 僕、同じクラスの山中(やまなか)陽太(ようた)です。分かります?』
「……知らない」
『えっ……あー、じゃあ、僕、同じクラスの山中陽太って言います。今日学校休んでますよね? 渡したいものがあるから、帰りに家に伺っても良いですか?』
「……は?」
『とりあえず、まだ残り授業あるんで行く時また連絡します。じゃっ』
「は? ちょっ……」

 引き止めようとしたけれど、すでに通話は終了していてスマホの画面は無情にもしばらくして暗くなる。
 誰? 山中……なんだって?
 クラスの人の名前なんていちいち全部覚えていない。特段目立つ様な存在の奴だって、あだ名とか苗字か名前のどちらかしか分からない。だから、あたしの頭の中に、今のやつのイメージ像なんて浮かびもしない。
 突然どういう事なの? 渡したいもの……。
 考えてみても、なにも浮かびもしないから、あたしは諦めてようやく昼近い朝食を食べる事にした。
 付いていたテレビから流れてくる結婚雑誌の宣伝、エンゲージリングの煌びやかな映像。
 見ていると、思い出してしまった。先生の左薬指の指輪。ため息と共に、テレビの電源をオフにした。

****

『水瀬、放課後音楽室に来て』

 特に仲の良い友達もいなくて、出来ることなら誰とも深くは付き合いたくなくて。そうやってずっと過ごしていたから、学校で一人でいることなんて当たり前で寂しくも悲しくもなかった。友達が出来て仲良くなって、それが失われてしまうことの方が、よっぽど怖いんだろうと思っていたから。
 もうなにも失いたくない。最初からなにもいらなかった。
 だから、塞ぎ込んでいた心に先生が踏み込んできた時、あたしは先生のことが心底嫌だと感じていた。

『水瀬は一人でいて、寂しくないのか?』

 そんなことを言われて〝寂しいです〟なんて、誰がはっきり言うだろうか?
 心に中であざ笑ってしまうほどに、おかしいと思った。

『先生は、ずっと水瀬と一緒にいるよ? 寂しくなんてさせないから』

 何回めかの呼び出し。先生はそう言ってあたしを抱きしめた。毎回毎回、心配してくれるたびにかけられる言葉が痛かった。
 自分の心の内なんて、誰にも言えないし、誰も分かってなんてくれない。そう思って塞ぎ込んでいた。
 一人が寂しいなんて、とっくに知っている。 
 父を亡くした日から、あたしは一人になった気でいた。せっかく出来た友達とも些細なことで喧嘩をして口を利かなくなって、それがすごく寂しかった。こうなるなら、始めから仲良くなんてならなくて良い、そう思って、小学校では友達を作ることを諦めた。
 誰かに声をかけられても、どう反応することが正解なのか分からずに悩んだ。だったら、初めから答えなきゃ良い。そう思っていたら、誰も声をかけてくれなくなった。
 本当は、寂しかった。
 先生に抱きしめられて、優しかった父を思い出した。
 あの日、あんなわがままを言わなければ。そう、何度も何度も、後悔していた。

『那月、学校楽しい? 友達は出来た? 嫌なことはない?』
『……うざ』
『わっ、怖い。笑ってよ、那月は可愛いんだから』
『……行ってきます』
『うん、気をつけてね!』

 母親がわりの姉、美月はとにかくあたしに甘かった。
 父が亡くなって十年。母も父を亡くしたショックで精神的に調子を悪くしてしまい、元々抱えていた病が悪化して、父を追うようにすぐに亡くなってしまった。
 小学校も中学校も、誰とも深くは関わらなかった。声をかけられてもどう返して良いのかわからない。そんなあたしに近づく子はいなくなった。
 一人でいる方が気が楽だと思った。だけど、本当は寂しくてたまらなかった。

 家に帰ると、毎日笑顔で美月がおかえりと迎えてくれた。それが当たり前で、それが、あたしの唯一の幸せだった。
 先生に抱きしめられて、人の温もりを感じて、こんなに幸せなんだと初めて知ってから、あたしの中で先生の存在は日に日に大きくなってしまっていた。ズカズカと人の心に踏み込んできた先生のことが、嫌で嫌でたまらなかったのに、あたしは包み込まれた温もりを抱きしめ返して、涙を流した。
 寂しいのは、本当だ。誰かに、この寂しさを認めて良いんだと思わせて欲しかった。寂しさを吐き出す場所が、ずっと欲しかった。ただ聞いてくれるだけでよかった。ずっと、泣くことを我慢していた。
 先生は、堰を切ったように泣き出したあたしを、ずっと抱きしめていてくれた。その大きな胸と温かさに、ずっとこうしていたい、ずっと一緒にいたいと願った。
 それなのに、担任の森谷(もりや)(しん)はあの日、あたしの中で、最高で最悪な人になった。
 交わしたキスは何度だろう? 体は何度交わっただろう? 全部、あれは、全部偽りだったんだ。

****

 いつの間にか眠っていた。先生との思い出を夢に見て、無意識に流れ出ていた涙が頬を伝うのを袖で拭った。
 スマホに視線を向けると、着信履歴が表示されている。知らない番号。だけど、なんとなくその数字に見覚えがある。ああ、さっきかかってきた、同じクラスの……なんて言ったかな。分かんないけど、きっとその人からだ。
 そう考えていると、玄関の呼び出し音が鳴った。思わず肩をビクッと震わせて、玄関へと向かう。
 まさか、本当に訪ねてきたの?
 恐る恐るドアを開けると、そこにいたのは宅配業者。両手に収まるくらいの段ボールを抱えていて、あたしはそれを受け取ると部屋に戻った。
 宛名に〝水瀬美月〟と書かれた見覚えある字体を確認して安心した。
 中身は美月の手作り料理が入ったタッパー三つと冷凍の食品がいくつか。そして手紙が添えられていた。

【ちゃんと食べてね。なにかあったらすぐ連絡してね。那月が元気じゃないと、お姉ちゃんも元気になれないからね。これは押し付けだけど、しっかり食べてください。筑前煮は純くん作だよー、美味しいよ!】

 最後の一文だけ、美月の丸くて可愛らしい字体とは違って整った綺麗な文字で書かれていた。これは〝純くん〟の文字で美月の彼氏のものだと分かった。
 タッパーの一つを取り出すと、中には大きめに切られたじゃがいもと人参、玉ねぎが見えた。美月の作る料理の中でも、あたしの一番大好きな肉じゃがだと分かる。うちの肉じゃがは最後にキャベツを入れる。野菜をあまり食べなかったあたしに、栄養が足りないと思った時にいつも美月が作ってくれた。

 今でこそレパートリーは豊富になった美月も、初めはなにを食べて良いのか分からずに、近所のスーパーから買ってきたお惣菜を食べる日々だった。
 それはそれで美味しいと感じていたけれど、勉強の合間に少しずつ料理を勉強して、あたしの為にと初めて作ってくれた肉じゃがは、固くてなんだか野菜そのものの味しかしなかったのをよく覚えている。一口食べて、それからまったく手をつけなかったあたしを見て、美月は毎日肉じゃがを作り始めた。
 あの時は嫌いになりかけた肉じゃがも、ある日劇的に美味しくなって食卓に出された時は、思わず美月を褒めたことを覚えている。その裏には、今一緒に同棲を始めた彼氏、純くんの存在があったことを、あたしは知っていた。

 美月がいつも幸せそうに、嬉しそうに笑顔になって話してくれた。だから、あたしは美月と純くんが、ずっとずっと一緒に居られることを望んだ。
 〝ずっと一緒に〟なんて、先生とのことを思うと、幻想でしかないと思った。だけど、美月は幸せそうだ。手紙からもそんな幸せオーラを感じられた。あたしは箱の中身を冷蔵庫へ移すと、スマホに目を向けた。