あたしが、陽太のやりたいことを叶えてあげればいい。家まで送ってくれた碧斗くんにお礼を言って部屋に入ると、あたしはスマホで【星空日本一】を検索する。
出てくる地名に見覚えがないか、懸命にスクロールしながら探した。だけど、表示される情報は、なかなかあたしの思う場所とは違う気がしてしまう。
小さくため息を吐き出した後に、ふとテレビの横に飾ってあった星型のキーホルダーが目に入った。
「……これ……」
すぐに手に取って眺めると、星型のドームの中に星屑に見立てた星の砂がシャカシャカと揺れてきれい。
裏を返すと、消えかけてはいるけれど〝衣星村〟と書かれている。もしかして……
あたしはすぐに美月に電話をかけた。コールが途切れるとともに、焦るように問い詰める。
「美月! このキーホルダーって、どこで買ったの⁉︎ これって、おばあちゃんちの地名だよね? ねぇ、教えて、ここってどこ!?」
『え⁉︎ ちょっと那月、どうしたの? 待って、えっと、キーホルダー? ってどの?』
「あ……ごめん、今写真送る……」
慌てすぎだ。あたしはクッションに座り直すと一息ついた。テーブルに星型のキーホルダーを置いて座ると、スマホを向けた。
『あ、いいよ。今カメラに切り替えるね』
美月がスマホの画面に現れて手を振る。浴衣美人からすっかりいつもの美月に戻っていて、その笑顔に安心する。すぐにこちらも切り替えて、キーホルダーを手にしてみせた。
『あ‼︎ なつかしーっ。それ、テレビの横にずっと置いてたやつじゃない?』
「気付いてたの? 美月のなら持っていけば良かったのに」
『えー、那月覚えてないの? それ、那月に小さい頃、ほしいって泣かれて仕方なくそこに飾っておくことにしたんだよ』
「……え……」
嘘。ごめん。あたし全然記憶にない。
なんなら、普段テレビなんて毎日見ているのに、このキーホルダーの存在には今気がついたよ。まぁ、なんかあるなくらいには思ってはいたけれど。
『それね、那月が産まれるずっと前に、お父さんがあたしにってくれたんだよ。お父さんの生まれ故郷だって。そこは、星空日本一なんだぞって自慢げに』
「それ! お父さんの実家ってどこなのか分かる?」
『……あたしも、行ったことないんだよね。お父さんはあたしが小さい頃によく話してくれていたけど、実際に連れて行ってもらったことなんてなかったし』
「……そっか。美月も、見たことないんだ、お父さんの言う星空日本一の空」
きっと、すごく綺麗なんだと思う。
お父さんがいつも空を見上げると、思い出すように目をキラキラと輝かせて話してくれていたから。
『そのさ、星空日本一っていう情報、たぶん二十年くらいは前の話だと思うよ? お父さんが子供の頃の話だと思う。そのキーホルダーだって今やレアかもしれないし。確か、それの裏に場所の名前が書いてあった気がするんだけど。そこがお父さんの生まれ故郷だよ。あ! もしかして、それを聞きたかったの?』
やっぱり。この地名が、お父さんの生まれ故郷で星空日本一だった場所。
「あたし、ここに行ってくる」
そこに陽太を連れていけば、きっと、綺麗な夕陽も星空も、広いあたしのまだ見たことのない空が見れるかもしれない。
『は?』
「ありがとう美月! またなんかあったら連絡する」
『え⁉︎ ちょっ、なつ……』
美月が呼び止めるのも聞かずに、通話をオフにした。すぐに【衣星村】で検索をかける。
今は村ではなく区になっているらしい。
二十年も前の話。あたしがお父さんに連れて行ってもらったのは約十年前。
あの時、あの場所はまだ田園の広がるのどかな場所だった覚えがある。あいにくの天候で、綺麗な夕陽も星空も見ることは叶わなかった。それどころか、大好きだった父を亡くした。
行くにはとても心が痛みそうだけど、陽太に見せてあげたい。あたしだって見てみたい。満天の星を見るのは、絶対に陽太と一緒がいい。
そう思ったから、あたしは衣星村までの道筋を何度も何度も検索する。スマホから確かな情報を探し出して、メモにまとめた。
今やらないと、後悔するかもしれない。これは、今やらなくちゃいけない。
帰ってきたままの浴衣姿で、あたしはひたすらに検索を続けた。
濃い靄の中、遠くにうっすらと陽太の姿をみつけた。
近付こうとしても、その距離がなかなか縮まらなくて、陽太はこちらを見ているはずなのに、走っても走っても、遠ざかっていく。近付くことが叶わない。もう、走り続けることにも疲れて、荒くなった自分の息遣いしか耳に響かなくなって立ち止まると、ずっと同じ場所から動かなかった陽太の口が、動いた。
かすかに動いた唇。目を凝らして、なにを言っているのかを必死に聞き取ろうと陽太を見つめるけれど、ぼんやりしていて輪郭を捉えることしかできない。だけど、聞こえない「さよなら」が、あたしの心に突き刺さる。
陽太……どうして……行かないで。死ぬなんて、言わないで……いなくならないで、ずっと、ずっと一緒に……
────
気がつくともう部屋の中が明るくなっていて、窓の外から聞こえてくる賑やかな子供のはしゃぎ声に意識が目覚めた。頭の簪が頭皮に刺さる感覚が痛くて、むくりと頭を起こして一瞬のうちにピンもなにもかも外した。
悪い夢を見ていた。汗でぐっしょりと濡れた首元に触れると、立ち上がって浴衣を脱ぎ、シャワーを浴びる。
さっき見た夢のせいで、こうしている間にも、陽太は不安に押しつぶされているんじゃないかと思うと、居てもたっても居られなくなる。
タオルドライだけした髪をクリップで一つに纏めると、すぐに動きやすい服装に着替えてスマホを手に取った。陽太の名前を探し出して、通話をタップする。
『お掛けになった電話は 電波の届かない場所にあるか 電源が──』
「……え……」
あれ? なんで?
一度、通話を終了させてから、もう一度陽太の名前をタップする。
だけど、聞こえてくるのはやっぱりさっきと同じ無機質な音声メッセージ。一気に、あたしの胸がざわつき始める。頭の中に浮かぶのは、陽太の寂しそうな泣き顔。
いやだ、いやな予感しかしない。
スマホだけを手に玄関を飛び出すと、並木公園を通り過ぎた。学校を通り過ぎて駅まで走る。日差しが今日も容赦なく照りつける。セミは懸命に鳴いている。電車に乗り込んで、赤いとんがり屋根を目指す途中で。
「あ! 水瀬さん! ちょうど良かった」
碧斗くんが手を振っている。その顔は、笑っていた。
「……水瀬さん⁉︎」
笑顔の碧斗くんに安心して、一気に脱力してしまった体は地面に崩れ落ちた。
「大丈夫か? どうしたんだよ」
心配してくれる碧斗くんに力なく笑って、ゆっくりと立ち上がった。
「すげぇ汗だくじゃん。なんでそんな」
「……陽太の、スマホに繋がんなくて……あたし、最低だ。もしかしたらって、思ってしまった」
一瞬、心臓が握りつぶされたみたいに痛くて、苦しくて。こんなこと、思ってしまったらダメなのに。昨日の陽太の顔を思い出して、もしかしたら、もしかしたら……陽太が死んでしまったんじゃないかって……すごく、すごく不安で、怖くなった。
「……っ……ごめん……うっ……ごめん……」
碧斗くんが笑顔で現れたなら、陽太は大丈夫だって一気に安心した。
湧き上がる涙に嗚咽が混じる。碧斗くんが支えてくれて、あたしは裏口から家の中に入れてもらえた。落ち着くまで、座ってていいと言われて、ソファーに体を預けた。
陽太がいなくなると思った途端に、急に怖くなった。陽太はもっと、あたし以上にもっと怖いんだよね。希望なんて見上げる力も無くすくらいに、怖くて仕方がないんだよね。
簡単に、希望を持てだなんて、あたしが希望になるだなんて、そんなのあたしのヒトリヨガリだ。陽太の悲しい顔が頭から離れない。陽太にはいつも太陽のように笑っていてほしいのに。
「これ」
「……ありがと」
碧斗くんが差し出したのは、あたしが貸したハンカチ。もう何度涙を拭くことに使われているんだろう。
そっと受け取ると、目に当てた。
「運転の話だけど、母さんに聞いたらオッケー出たよ」
「え」
「ついでに、ユミさんにも。で、どこ行こうとしてんの?」
「あ、ありがとう……」
ハンカチを一度テーブルの上に置いて、あたしはスマホで衣星村の情報をまとめたメモを開いた。
「ここに、行きたいの」
スマホを覗き込んで、碧斗くんは目を見開いた。
「……マジ?」
「……マジ」
あたしがしっかりと頷くと、碧斗くんに「なんでここなの?」と聞かれて、父とのことを話した。
すぐに納得してくれて、「待ってて」と奥の部屋へ行ってしまって、しばらくしてからサチコさんと一緒に戻って来た。
「パン屋は旦那とあたしの兄弟に任せられるから、あたしでよければどこまでも連れて行くよ」
少し寂しげに、でも、笑顔でそう言ってくれたサチコさんは、きっと陽太の病気のことや手術のこと聞いたんだろうと感じた。
「ありがとうございます」
あたしのわがままにみんなが協力してくれることがなんだか申しわけなくて、だけど、とても嬉しくて、深く深く頭を下げてお礼を言った。
「感謝しなくちゃいけないのは、私のほうよ」
聞き慣れない穏やかで優しい声に、あたしは顔を上げた。
「初めまして。陽太の母のユミです。陽太のことをたくさん考えてくれてありがとう。昨日ね、陽太から初めて、あなたのことを聞いたの。とても大事な友達がいるって。だけど、もう一緒には居られないって、ひどく落ち込んでしまっているの。陽太がやりたいこと、ぜひ叶えてあげてください。よろしくお願いします」
グッと堪えた涙声でユミさんは頭を下げてから、あたしに向かって微笑んでくれた。
「陽太にも教えてこようぜ」
笑う碧斗くんに、俯いてしまう。言い出したのはあたしなのに、陽太の顔を見るのがなんだか辛い。
「陽太さ、水瀬さんが笑ってくれたってすごい嬉しそうに話してくれたことがあったんだよね」
動き出そうとしないあたしに、碧斗くんが壁に寄りかかって話し始めた。
「いつも外ばかり眺めてつまんなそうにしていた水瀬さんが、初めて少し笑ってくれて、自分のことを話してくれたんだって、にやけてさ。陽太は水瀬さんって子のことが好きなんだなってすぐに分かったよ」
「……え、」
「俺、初めて見たんだよ? 陽太があんぱん買う時悩む姿」
ククッと、思い出しながら笑っている碧斗くんに視線を向けると、優しく微笑んでくれる。
「つぶあん以外選択肢ないでしょって言ったらさ、まだいまいち水瀬さんがどっち派か分かんないんだよなって、めっちゃくちゃ真面目な顔してんの」
あんぱん一つ買うのにも、あたしのことを一生懸命考えていてくれたんだ。
「今度紹介してよって何回か言ったんだけどさ、なかなか会わせてくれなかった。でもさ、花火大会の日、いきなり水瀬さんを頼むって言われて。そんなん困るよね。見たことも会ったこともないのに。陽太はいっつも一人で抱え込むんだよ。勝手に怖がって、絶望して、そうなる前にちゃんともっと、頼って欲しいのに」
眉を顰めて、悔しそうな顔をする碧斗くんに、ユミさんが近付く。
「陽太はいつもそうなの。小さい頃から、あたしやお父さんが仕事で忙しくて遊んであげられなくても、一人で遊んでいて手がかからなかった。だけど、それが寂しいとも言わないし、あたしもつい放っておいてしまって。なんでも自分でやらなきゃって、誰かに上手く甘えることが出来ない子にしてしまったのかもしれない」
ユミさんがため息をついて、そばにあった椅子に座った。
「碧斗くんといる時の陽太は楽しそうで、いいお友達がいてよかったってずっと思っていた。病気のことも、碧斗くんにだけは打ち明けていたみたいだものね。この前も、すぐに駆けつけてくれてありがとう」
「……いえ、ほんと、あの時は驚きました」
「夏休み中にやりたいことがあるからって、なにか決心した様に陽太に言われた時ね、陽太はわがままだって言ったんだけど、そんなことは全然なくて、ようやく、ちゃんと自分の気持ちを伝えてくれたなぁって、嬉しかった」
あたしを見て、ユミさんが微笑む。
「今はほとんど外に出たがらないから、水瀬ちゃんが陽太のことをどこかに連れ出してくれることは賛成なの。ただ、心配だからあたしとお父さんも一緒についていきたい。いいかな?」
真剣な眼差しがあたしを捉える。そんなの、いいに決まっている。
大きく頷くと、ユミさんはにっこりと笑ってくれた。
天気予報を確認しながら出発の日程を決めると、サチコさんは一度パンの仕込みに戻った。
あたしと碧斗くんはユミさんに連れられて、陽太の部屋の前。コンコンッと碧斗くんがノックをするけれど、返事が返ってこない。
「寝ているのかも。そっと入ってて。今お茶待って来るわね」
ユミさんが戻って行くと、碧斗くんが慣れたようにドアを開けて部屋に入る。その後ろに続くと、ベットの上で寝ている陽太の姿が目に入った。
「ほんとだ。寝てんじゃん」
結構なボリュームの声で碧斗くんが言うから、あたしは思わず人差し指を口元に立てた。すると、微かに陽太が動く。
「俺、ちょっと忘れ物したから取ってくるね、水瀬さん」
「え! ちょ……」
すぐに部屋から出て行ってしまった碧斗くんに驚いていると「水瀬、さん……?」と、陽太の声がして、振り返った。
ゆっくり起き上がる陽太はどこか辛そうで、思わずその体を支えるために駆け寄って手を添えた。
「大丈夫?」
「……夢……かな?」
「え?」
「ずっと、水瀬さんとさよならしたことが辛くて、悲しくて。どうしようもないのに……水瀬さんのことばっかり考えていたから、夢にまで出てきてくれたの……?」
陽太の薄く開いた瞳から、ポロポロとこぼれ落ちる涙があたしの手の甲に当たる。いくつも弾けて、あたしまで波打ってくる涙で前が見えなくなる。
「夢じゃない……夢じゃないってば。ねえ、陽太、一緒に満天の星を見に行こう。そしてさ、星にお願いしてこようよ。ずっと、ずっと、一緒にいられますようにって。叶わないなんて言わないで。叶えようよ。あたしと陽太は、ずっと一緒にいられるって、幻想なんかじゃないって……証明しようよ」
骨ばった細い指、あたしの手よりもずっと大きい陽太の震えている手を、そっと包み込んだ。
──後悔なんて、してからでもまだ間に合う
「あの歌の歌詞にあったよね。あの日、陽太と歌ったあの歌を、もう一度一緒に歌おうよ。前向きじゃなくてもいい、希望を持ったり、未来に期待しなくてもいい。今を、この瞬間を、あたしたちは生きているんだから」
日差しを遮るためか、現実から逃げるためか、きちんと引かれていた窓のカーテンの隙間から、一筋の光が差し込んできた。
「陽太は希望を見ることが怖いって、思ったんだよね? あたしは、もう見ることの出来ない希望にいつまでも執着して、父にわがままを言った自分に後悔していた。だから、見て見たいと思いながらも、満天の星を見ることが、どこかで怖いと感じていた。だけど、満天の星が陽太の希望になるのなら、あたしはなにも怖くない。今はなによりも、目の前にいる陽太がいなくなることの方が怖いよ」
こんなに陽太への想いが溢れてくるなんて、思いもしなかった。ひたすらにあたしは、陽太の手を離すことなくしっかりと握り締めて湧き上がってくる想いを口にした。
ぼやける視界の向こうで、陽太が泣きながらあたしを見つめている。
「だからさ、一秒後にどうなっていようとも、今この時を、精一杯生きていよう」
今度は、あたしが陽太にできる限りのことをしてあげたい。陽太があたしにしてきてくれた様に。
「一緒に行こうよ、星の見える場所に」
少しでも、陽太の不安がなくなる様に。手術を受ける勇気が、出る様に。
陽太の手をしっかり握って、あたしは笑顔で陽太を見つめた。滲んだ視界の向こうに、戸惑いながらも笑ってくれる陽太がいて、あたしは安心する。
あたしは、陽太のことが大好きなんだ。だから、絶対にいなくなってほしくない。
あたしが毎日窓の外を眺めていたのは、空を見上げたら、いつかまた父に会えるんじゃないかって。そう思っていたから。いなくなってしまった人のことを思い出して悔やんでいても、どうしようもないのは分かっていた。
ただ、あの時の父の笑顔だけは忘れたくなくて、空を見上げるたびにまた笑ってくれたら。そう願っていた。
陽太を想って一人空を見上げるなんて悲しすぎる。あたしはその悲しみを誰よりも知っている。
だからさ、見上げるなら、一緒がいい。これからもずっと、陽太と、一緒がいい。