毎日がとても辛い。いっそうのこと死にたい……。母上様どうして迎えに来て下さらないのですか。
 何度もそう思い、ずっと阿漕には世話になって色々とよくしてもらいこれまでやってこられました。
 みすぼらしくて殿方と会うことなんて絶対恥ずかしいと思っていた時に少将が忍び込んできて、あまりの惨めさに絶望のどん底にいた時でさえ、何とか乗り越えて晴れて少将とめでたく結婚してしまいました。
 それなのにまた試練が訪れ、どうして私は今、こんなひどく臭い部屋に閉じ込められてしまったのでしょう。
 北の方は私に少将がいることを気づかれたに違いないわ。どこかで見られていたのね。だからこんな仕打ちをするのでしょう。
 ああ、涙があふれ出てくる。また袖を塗らして益々汚くしてしまうわ。(はな)まで出ちゃうんですもの。乾いたらカピカピよ。
 北の方は私を立ち直れないようにするために、自分の叔父、典薬の助を私にあてがおうとしているんですよ。
 典薬の助が私に言い寄って抱きしめてくるなんて、気持ち悪すぎる。
 初めて来た時は阿漕にも手伝ってもらって仮病で手を出さないようにさせた。二日目もまだ具合が悪いと頑なに押し通して添い寝で済んだ。
 なんとかこの二日は難を逃れ今の所無事でいられても、三日目はさすがに避けられそうもなさそう。
 このままあの気持ち悪い六十の爺さんと結婚させられるなんて嫌だわ。今夜絶対また来てしまうわ。あんなスケベおやじに触れられるくらいなら死んだ方がましよ。
 阿漕にも少将にも会えず、今度こそ絶体絶命。涙が止まらない。寒いし体も震えてしまう。
 ここは、息苦しくてとても気分が滅入る。このまま本当に病気になればどんなにいいでしょう。
 十分に食事を与えられないから、体に力は残ってない。
 絶望と悲しさで打ちひしがれていると、ふっと意識が飛んでいきそうになった。このまま息絶えて消えてしまいたい。そう願うと急に体の力が抜けて、床に突っ伏してしまった。
 気が遠くなる中、どこかに体が飛ばされる感覚がする。これでやっと私も死ねるとどこか安らぎにも似た気持ちでいた時、誰かかが私の肩に触れて揺り動かしてきた。
「姫ちゃん、先生が呼んでるよ。ほら起きて」
 何事かと思い、顔を上げれば私は大勢がいる部屋で机に向かって座っている。私に視線を向けるみんなにも驚いたけど、それらの着ている衣装がとっても奇妙なものだった。
「落窪さん、授業中よく眠れましたか?」
 緑色をした大きな板の前で、見たこともない衣装を着た女性が私を呆れた顔で見ていた。でもその顔はどこか見覚えがあった。
「あっ、少納言さま」
 思わず口に出すと、皆が一斉に笑った。
 少納言さまは私を気の毒に思って優しく声を掛けてくれる方だった。
「いくら、今、古典の授業だからといって、先生を少納言呼ばわりはないでしょう。でも面白いわね。それじゃ落窪さんは苗字から、落窪の君になってしまうわよ」
 何を言っているんだろう。まさに私は落窪の君と呼ばれている。でもここは一体どこだろう。自分が住んでいる世界と全く違う。私は今一体どこにいるというのだろう。
 聴いたこともない音が音楽となって流れてくると、少納言と呼んだ先生が「今日はここまで」と言って教室から去っていく。一体どうなっているのかわからない。
「姫ちゃん、どうしたの? なんかおかしいね」
 隣の席の女君が声を掛けてくる。振り返れば阿漕だった。やっぱり変な衣装を着ている。よく見たら私も同じ衣装を身にまとっていた。
「阿漕、一体これはどうなっているの?」
「やだ、姫ちゃん、まだ寝ぼけてる。私はアコよ。阿漕って、本当にそれ落窪物語じゃない」
 明るく笑う彼女の笑顔は、私がずっと見て来たそれそのものだ。阿漕にしか見えない。
「おいおい、堂々と授業中寝ちゃって、やってくれるじゃん、姫子」
 今度は少将も変わった装束をまとってやって来た。姫子とはどうやら私の名前のようだ。
(しょう)君、どうやら姫ちゃんまだ寝ぼけてるみたいよ。私のこと阿漕って呼ぶのよ」
「そうなのか、じゃあ、僕の事ははなんて呼ぶんだい、姫子?」
 私に向かって微笑んでいるその顔はまさにあの方にしか見えない。
「右近の少将、道頼さま……」
 二人は思いっきり笑い出した。私には訳がわからない。
「皆で何を笑ってるの、おいらも混ぜてくれよ」
 今度は帯刀が来た。
「お前、隣のクラスなのに、休み時間になると頻繁に現れるな」
 少将が迷惑そうに装いながらもすぐに笑顔を見せた。
「だって、アコちゃんに会いたいんだもん」
(なり)君たら、みんなの前でやめてよ」
 嫌そうにしながらまんざら悪くなく、阿漕の顔は赤くなっている。
「いいな、お前らはいつもラブラブで。僕も早く姫子とそうなりたいのに、なんで返事まだくれないの?」
 少将が私に顔を近づけた。
「あの、その私たちってもう結婚しているのでは?」
 一瞬、時が止まったように静かになったと思ったら、三人は大きな声で割れるように笑った。
「そっか、僕たちすでに結婚しているのか。僕は嬉しいな。それって僕と付き合ってくれるってことだよね」
 少将は嬉しそうにしている。
「おめでとう」
 阿漕と帯刀が声をそろえて喜んだ。
 とても不思議な光景だった。こんなにも平和で楽しい世界があるなんて、一体ここはどういうところなのだろう。見るもの、聞くもの全てが初めてで珍しい。
 その日、訳がわからなかったけど、阿漕がずっと私の側にいてくれた。いつもの通りのことだけど、周りの話が難しくて頭に入ってこなかった。だけど阿漕は優しく接してくれるから、やっぱり一緒に居て心地いい。
「姫ちゃんが、今日ちょっとおかしいのは、将君と正式に付き合うことになってやっぱりそれでいいのか戸惑ってるんでしょ。あの人強引だもんね」
 耳打ちでこっそりと阿漕が伝えてくる。
「確かに、強引かもしれないわ」
 忍び込んできた時のことを思い出すと、やっぱり恥ずかしくて仕方がない。
「でもね、将君はクラスの女子たちにもてるのに、姫ちゃん一筋なところが純愛よ。二人がやっと結ばれて本当によかったって私は思ってる」
 この世界の阿漕も私の知っている阿漕と同じように私の幸せを考えてくれている。
「ありがとう」
「当たり前じゃない。姫ちゃんは私の大切な親友なんだから」
 阿漕ってなんて素敵な人なんだろう。益々好きになっていく。例えこの世界に留まっても阿漕と一緒ならやっていけそうだった。

 一日の終わりも近づきかけて、部屋にいた皆が去っていく頃になると、ふとこの世界も消えていきそうに思えてくる。
 また私は閉じ込められた元の世界に戻るのかと心配していた時、少将、阿漕、帯刀が側に寄ってきてくれた。
「まだ落窪の姫ごっこしてるのかい?」
 少将がクスッと笑って訊いてくる。
「そういえば、落窪物語ってよく受験問題ででてこない? この物語もっと詳しく知っておいた方がいいのかも」
 受験問題って何かわからなかったが、阿漕は片手で四角い板を取り出して、もう片方の手の指を使って撫でている。覗き込めば文字や絵がでてきて驚いた。これがこの世界の絵巻だろうか。面白い世界だ。
「みんなはどこまで話を知ってるんだい?」
 少将が訊いた。
「継母に虐められて、縫い物ばかりさせられるんだっけ。阿漕が助けようと夫の帯刀に相談して右近の少将に話すと、とんとん拍子に落窪の君に惚れて結婚するんじゃなかったっけ?」
 帯刀が言った。
 あまりにもあっさりした話に聞こえて私は納得いかない。そんなに一言で言えるくらい、簡単な話じゃないのに。
 私は毎日泣きながら苦労したし、少将とも関わりたくなくて避けていたのに、あんなみすぼらしい姿でいるときに無理やり来るんだもの、どんだけ恥ずかしくて辛い出会いだったか知らないでしょ。心の中で反論した。
「少将って軽い人で、落窪の君が気にいらなかったら逃げたらいいとか無責任なこと言ってたみたい。なんか軽すぎて嫌だわ」
 阿漕が小さな板を見ながら話した。少将ってそんな人だったの。私もびっくり。だけど私はすでに本当の少将を知っている。
「確かに一度目の少将との逢瀬はもう自分が恥ずかしくて泣きじゃくって嫌だったけど、結局はとても優しくて私の事を大切に思ってくれる人になったのよ」
 思わず庇ってしまった。
「やだ、姫ちゃん、落窪の君になりきってる」
 また阿漕に笑われた。
「でも阿漕がとても落窪の君が好きで助けたかったから、その夫の帯刀も一役買って少将の手伝いをしたんだよね。すごくいい奴らだよね」
 帯刀の言葉に、私も思わず頷いてしまう。
「少将って一途なんだよな。だけど、紆余曲折あって、乳母や実の母に中納言邸の四の君との結婚を薦められて外堀固められてしまうんだよね。そんなことされても逆手にとって、自分のいとこ、しかも馬面の笑いものを上手くあてがって結婚させるんだよね。あそこは吉本新喜劇並みに面白いところだと思う」
 少将はところどころ何を言っているのかわからなかったけど、四の君はいい子なのになんだかかわいそうに思えてきた。
「だけど一番ハラハラしたのは、北の方が落窪の君に男がいることを知って怒って幽閉しちゃうところだわ。しかも典薬の助といういやらしい爺さんと結婚させようとしたでしょう。本当にあの北の方は酷いよね」
 阿漕が同意を求めてくる。まさにその通りだから私も感情が高ぶってきた。
「そうなのよ。一日目は阿漕が上手いこと具合が悪いと言ってくれて、寝なくてすんだんだけど、本当に怖くて震えたわ。その次の二日目もお腹が痛いと押し切ったけど生きた心地がしなかった。なんとかやり過ごせたんだけど、三日目はもう誤魔化せないかもしれない」
 ちょうど三日目の夜を迎えようとしている時にこっちにきてしまったから、あのままいたら私は……。そう考えると急に気が動転してしまって泣き出してしまった。
「やだ、姫ちゃん、そんな泣かなくても。感情移入しちゃう気持ちもわからないではないけど、その後は大爆笑になるオチじゃないの」
「えっ?」
 予期せぬ結果に思わず阿漕を見てしまった。
「あの場面はなんか下品で面白いから、おいらも結構好きかも」
「やだ、成君」
 阿漕が帯刀に軽く叩いている。
 一体三日目は何が起こるんだろう。その時少将が笑いながら話した。
「典薬の助って損な役回りだよな。阿漕が戸の溝につっかえ棒を入れ込んだために戸が開かず部屋に入れなくなって、寒い中外にいたから、腹下しちまって漏らすんだよな、ブリブリって」
「えっ、それは本当なの?」
 身を乗り出して聞き返してしまった。
「そうだよ。典薬の助は結局手を出せなかったけど、北の方は上手く行っていると思い込んで安心するんだ。そして祭り見物に行っている間に、少将は姫を救出に行く」
「本当ですか。助かるんですか、私!? あっ、いえ、その落窪の君が……」
 つい興奮してしまった。
「姫ちゃん、今日はずっと落窪の君になりきってしまってるんだね」
 私の事がかわいいと阿漕は頭をポンポンと愛情もって叩いてくれた。
 少将も帯刀も優しく私を見て笑っている。この世界でもこの人たちは本当に素敵だ。
 そんな時、誰かが入ってきた。
「おい、いつまでも教室に残ってないで早く帰りなさい。十一月は日がくれるのが早いぞ」
 その顔を見れば、典薬の助だった。うわぁっ! 思わず阿漕の後ろに隠れてしまった。
「すぐに帰ります。先生も寒いから腹壊さないようにね。その年で漏らしたらはずかしいですよ」
 少将がからかった。
「お前、調子に乗るなよ」と典薬の助はそう言うも、急にゴロゴロとお腹のなる音が聞こえてくる。
「変なこというから、早速催したじゃないか」
 典薬の助は慌てて去っていった。
 その後は部屋の中で笑い声が高鳴る。その時私も釣られて笑っていた。
「じゃあ、帰ろうか、姫子」
 少将が私に手を差し伸べると、私は少しためらうも、少将の笑顔に抗えなくてその手を取ってしまった。
 きっと、元の世界の私も少将に助けられて抱きしめられている絵が浮かんでくる。
「それじゃ、私、いえ、落窪の君が幸せになったところでこの物語は終わりなのね」
 これでいつ元に戻っても私はやっていけると思った時だった。
「それが、そこからは少将の復讐劇になるんだよ。彼はとんとん拍子に出世し、怖いものなしに、三の君と婿の蔵人を別れさせて、自分の妹と結婚させるわ、北の方の牛車に石を投げるわ、先回りして宿を横取りするなど、やることえげつなかったような」
 少将が言った。
「でも、最後は中納言家のみんなと和解するんだよね。落窪の君も男の子を産んで、それを父親に会わせたいんだよね。北の方も謝ってくると許すし、落窪の君はどこまでも心の澄んだ優しい人って感じがする」
 阿漕はにこっと微笑む。
 みんなの話が本当だとしたら、辛かった日々は報われ、少将の出世や子供にも恵まれる。そして北の方と和解して父上ともいい関係になる。胸の仕えが取れたように私は一息ついた。
「詳しいことは一度読むのがいいんだけど、原文は難しいからな」
 帯刀が面倒くさそうな顔をする。だけどそのような読み物があるのなら私は是非読んでみたい。
「現代訳されたものはいっぱいあるし、ちゃんと読めば面白いと思う。ある程度筋を知っていると、古典の授業で出てきたら楽しくなっちゃうし、テストもいい点とれちゃいそう」
 帯刀は阿漕と顔を合わせた。
 もっともっと詳しいことを知りたいと思った時だった。
 目の前のみんなが笑顔を残して遠ざかっていく。自分だけが後ろから何かに引っ張られていくような感覚だった。
 それが寂しくて、私は思い切り手を伸ばして掴もうとしていた。
「少将、阿漕、帯刀!」
 必死で名前を呼んでいた時、目が覚めた。
 ハッとして顔を上げれば、私は雑舎の部屋でうつぶせになっていた。
「あっ、元の世界に戻ってきてしまったのね」
 あれは夢だったのか、それともどこかに飛ばされた別の世界だったのか。不思議な感覚が体にしばらく残っていた。あまりにも生々しくて本当にあったことに思えてならなかった。
 もしあの夢の中の結末通りにこれからなるのなら、ここでの辛さはきっと乗り越えられるはずだわ。
 でも本当に大丈夫かしら。
 少し不安になるも、私は身を奮い起こす。
「そうよ、自分もやれることをやればいいのよ」
 周りを見渡せば唐櫃(からびつ)が目に入る。足が四本ついている四角い箱の衣装入れ。持っている衣装は少ないから中にはあまり入ってないけど、これ自体は重いはず。
 自分の身を護るため必死で動かしてそれを戸口に置いた。あとは阿漕がつっかえ棒で戸を塞いでくれているはず。そう信じて祈った。
 そしてその後は、まさにあの時みんなで話した通りの出来事が起こった。
「本当だったのね。それじゃあ、私はどこの世界に行ったのかしら。ここがもしあのような世界になるのだとしたら……」
 想像すると、それがとてもつなく先の未来の様子に私は感じられた。そこでも私は生まれ変わってみんなとまた出会い楽しい生活をしている。
 またそこに行ってみたい。もう一度行けないか床に突っ伏して試みていたその時、戸が激しく開いた。
「姫君!」
 名前を呼ばれ、顔を上げればそこには少将が立っていた。
「あっ、右近の少将様」
 少将は私の元に駆け寄り、私をぎゅっと抱きしめる。
 それはとても温かく、心がとろけるような感覚だった。
 未来の少将に手を差し伸べられた時も嬉しく感じたけど、まずはこの世界で私は幸せになりたいと強く感じた。そう思いながら私は少将に外へと連れて行かれた。
 お日さまのまぶしさに目を細めながら見た少将はとても素敵で、頼りがいがあった。
 そんなお姿に思わず「好き」と小さく声が漏れてしまっていた。

 了