会社を休むことにした。

 具合が悪くて、としどろもどろに伝えた電話の向こう側で、早番出社の上司は苛立ちを隠そうともしなかった。吐き捨てるような『お大事に』という声の後、ガチャンと受話器を叩きつける音がして通話は切れた。

 溜息は出なかった。
 ただ、息が詰まった。

 具合が悪いのは本当だったけれど、そのまま部屋にこもっている気にはなれなかった。
 ゆっくりと着替え、歯を磨き、顔を洗って化粧をする。朝食は取らなかった。作る気どころか食べる気さえ起きなかった。

 スーツではなく普段着に身を包んで、アパートの鍵と財布だけを入れたトートバッグを片手に、なんとなく駅へ向かう。そして、やはりなんとなく、地元に続く電車に乗り込んだ。
 乗り換えを経た後、ガラ空きの座席を見て初めて時間が気に懸かる。スマートフォンで確認すると、午前十時手前だった。納得した。ガラ空きで当然だ。

 各駅停車でのろのろ走る電車に揺られながら、私は向かいの窓越しに覗く景色を見ていた。
 覗く景色が、少しずつ、田んぼと畑が中心ののどかな風景に移り変わっていく。大きめの駅で街らしい景色になり、けれどすぐにまた、黄金色に輝く田んぼと土色の畑のオンパレードに戻る。
 私の実家は農家ではないけれど、田んぼいっぱいに実る稲穂の姿は、ことさら私を懐かしい気持ちにさせる。早いところはすでに刈り取りが始まっているらしく、遠目にトラクターが覗いたり、裸になった土色の田んぼが覗いたり……地元へ近づいているという実感が湧いてくる。心が躍るほどではなかったけれど、安堵は確かにあった。

 無人駅でたったひとり下車した私を、どんよりと濁る曇り空が面倒そうに迎え入れる。
 砂利の簡易駐車場には、数台の車がまばらに停まっていた。そのまばら加減が、片田舎の侘しさを一層際立たせている。
 軽トラック、ワゴンタイプの軽自動車、軽トラック。右端のそれは幌つきだ。幌つきの軽トラックなんて、私が暮らす街ではあまり見かけない。本当に帰ってきちゃったんだな、と諦めに近い気持ちを抱いた。

 ……なにをしようか。
 気を取り直して考えてみる。

 地元の友達は、今では数える程度しか連絡がつかなくなっている。しかもこんな時間だ。貴重なその数人も今頃きっと仕事中だろう。
 家庭を持って久しい友人も多い。実際、三十歳にもなれば、田舎町では独り身のほうが珍しくなってくる。

「……ふう」

 溜息が零れた。今日という日に、私だけ置いてきぼりにされてしまった気分だ。
 そもそも、どうして私は今日の仕事を休んだのだったか。出社が憂鬱なのはいつものことで、もっと気分が悪いときに出社することも多々あった。だから、今日の休暇が私にとってなんなのか、私自身もよく分かっていないままだ。

 無人駅の小屋と軽自動車を背に、ゆっくりと砂利の上を進みながら、またも零れそうになった溜息を噛み殺した。
 持ち合わせも心許ない。給料日までまだ一週間もある。呑気に遊んでいる余裕はなかった。外に出ないと息苦しくて駄目になってしまいそうだったから出かけたけれど、自室に引きこもっていたほうが気楽だったかもしれない。
 目的のない外出なんて、別に珍しくもない。ふらりと出かけることは結構あるし、好きでそうすることもある。それなのに、なにをしたらいいのか、なにをしたいのか、今日はひとつも思いつかない。途方に暮れてしまう。

 とぼとぼと歩きながら駅の敷地を出ると、ほどなくして公園が見えてきた。足を引きずるようにしてそこへ向かい、出入り口に設置された黄色の柵を横切る。
 ブランコ、鉄棒、滑り台、それから地面に半分埋まったタイヤ。遊具はそれだけの、小さな公園だ。子供の目にはもう少し広く映るのかもしれないけれど。
 出入り口から一番近いベンチに腰を下ろす。木製の古びたベンチは少し湿っぽかったものの、これ以上目的もなく歩き続ける気にはなれなかった。

 ちっぽけな遊具を再び順に眺め、またも溜息が出そうになった、そのときだった。

「あれ? 美砂(みさ)か?」

 背後から低い声が聞こえ、肩が派手に震えた。
 たまたま帰ってきた私に、平日のこの時間から声をかけてくる人物がいるとは想定していなかった。しかも名指し……知り合いだろうか。できれば、気心の知れた友人以外とは顔を合わせたくない。でも。

 おそるおそる振り返った先には、ひとりの男性が立っていた。

 姿を見てもピンとこなかったけれど、面影になんとなく見覚えがあった。深く考えを巡らせるよりも先、あ、と思う。
 懐かしい姿が脳裏を掠めたからだ。短く刈られた髪、周囲から頭ひとつ分抜き出た長身、野球部のユニフォーム姿――そうか。

 この人は、中学校時代の同級生だ。

「あ……ええ、と」

 下の名前で呼ばれるなんて相当に久々で、返事をするまで無駄に時間がかかる。
 小学校時代や中学校時代には、私も皆を名前で呼ぶことがほとんどだったし、私だって皆にそうやって呼ばれていた。目の前の彼は当時の同級生だ、おかしな言動を取られているわけではない。とはいえ、困惑は顔を出てしまっていたと思う。
 一方の相手は、特に気にする様子も見せず、小首を傾げつつ尋ねてくる。

「どうしたんだ、こんなところで。こっちに帰ってきてたのか?」

 言いながら、相手はのんびりとした歩調で歩み寄ってくる。
 あ、と零したきり、今度こそ返事に窮してしまう。

 ……困った。名前を思い出せない。思い出そうとすればするほど記憶に靄がかかる。
 次第に焦りを覚え始め、泳ぐ両目の動きを意識的に止めた私は、傍に立つ彼の姿をちらりと盗み見た。

 背が高く、がっしりとした身体つきだ。そう、この人は中学校時代から背が高かった。野球部のユニフォーム姿が、もう一度脳裏を過ぎる。
 服装は、くたびれたジーンズに袖の長いTシャツ、履き潰されたスニーカー。ごく普通の、少しだらしない印象さえ受ける格好だ。極めつけは、整っていないでもないのにどうにも垢抜けない顔立ち……全体的に、昔とあまり変わっていない気はする。

「う、ううん。今日だけ、たまたま」

 無理やり声を絞り出すと、相手は「そうか」と呟き、私の隣に腰を下ろした。
 ぎょっとした。座った、ということは話が続いてしまうのか。どうしよう、まだ名前を思い出せていないのに――にわかに焦りを覚え、私は膝上で拳を握り締める。

 そのまま足元に視線を落とすと、自然と彼のつま先も視界に入ってきた。
 おそらくは土だろう、つま先が派手に汚れた大きなスニーカーを見つめながら、私は罪悪感に襲われていた。明らかに知り合いのはずの人の名前を、こうまで思い出せないなんて。

 相手はなにも喋らない。私もなにも喋れない。居心地の悪い、気詰まりな沈黙だった。
 無人駅を出てすぐ傍の公園のベンチ、大した晴れ間も覗いていない中で黙って座り込むアラサーの男女。その構図に耐えきれなくなり、とうとう私は相手より先に口を開いた。

「あの……仕事は?」
「ああ、今日は休みなんだ。田んぼ、そろそろ見ねえといけねえから」
「そ、そっか」

 田んぼ。そうか、稲刈りの季節か。
 電車の窓から覗いていた黄金色の稲穂を不意に思い出した。地元は兼業農家が多いから、この子もそうなのかもしれない。いわれてみれば、確かに農家の息子だった気もする。

「お前は? 実家に顔出しか?」
「えっ……ま、まぁそんなとこ」

 今度は逆に訊かれて、私は曖昧に濁した。
 どうして今日この街に戻ってきたのか、自分でもよく分かっていない。他人に理解してもらえるとは思えないし、してもらう必要もない。どうせ、相手は向こうに帰ったらまた忘れてしまう人だ。

 ――忘れてしまう人。

 そう思った瞬間、じり、と灼けるように胸の奥が痛んだ。
 ほんの一瞬の痛みに気を取られ、思わず額を押さえる。胸が痛いと思ったのに、頭を押さえたのはどうしてか……的外れな疑問が思い浮かんでは、からからに渇いた喉が張りついて、とにかく不快で堪らなくなる。

 喉を潤すためのなにかがほしいと確かに思うのに、私の手元にはなにもない。近くに自動販売機があるわけでもない。対処の手段を探しながらも、渇きはひどくなっていく一方だ。
 なんだろう、喉の渇きなんてさっきまで全然感じていなかったのに……違和感に似たその疑問符を、私は少々強引に掻き消した。

 それから、私たちはぽつぽつと話をした。
 思い出話にはさほど花が咲かなくて、天気のこととか、田んぼのこととか、他愛もない話を続けただけだ。ただ、相手は私の詳細について一切踏み込んでこなくて、そのことをありがたく思った。

 結局、最後まで彼の名前を思い出せないまま、私はおずおずとベンチから腰を浮かせた。

「ええと、私、そろそろ行くね」
「ああ、そうか。悪ィな、急に捕まえちまって」
「ううん。大丈夫」

 予定はなにもなかったけれど、名前を覚えていないことを相手に悟られるよりも先にという思いが強かった。
 正面から顔を突き合わせてしまわないよう、手にしたトートバッグの紐に視線を定め、じゃあね、と告げるために口を開きかけて……けれど。

「美砂」

 背の側から呼びかけられ、つい振り返ってしまう。
 ベンチに座ったきりの相手と目が合った。見上げられていることを妙に新鮮に感じて、同時に、名前を思い出せないことを責められるのではという不安も覚えた。

 相手の顔をまじまじと見つめたのはこのときが初めてで、なんだか妙な感じがした。
 若く見える気がしたのだ。ラフな服装、風に揺れる無造作な毛先、あるいは先ほどまでとは逆の、自分が相手を見下ろしている状況――そういうちょっとした要素がそう思わせるだけなのかもしれないけれど、それにしても、今年三十歳になる男性にしてはどこかあどけない。

 違和感に違和感が重なり、勢いに乗って増殖していく。

 なんだ、これ。大切な……いや、重大なことを忘れている気がする。忘れて良いようなことでは決してないことを。
 息が詰まるほどの困惑が、瞬く間に私をまるごと絡め取る。
 目を逸らすことも忘れて呆然と立ち竦む私を、彼は真正面からまっすぐに見つめ返し、そして。

「お前、戻ったらすぐ医者に行けよ」
「え?」
「同じ顔してる。昔の俺と」

 医者。同じ顔。昔の俺。
 言われた言葉を反芻しながら、私は呆然と相手を見下ろした。

 身体はちっとも動かない。
 相手の名前がどうとか、自分の記憶がどうとか、そういうことに対して覚えていた焦燥が瞬時に掻き消える。

「うっし、じゃあ俺もそろそろ戻るかぁ」

 私の疑問符を、相手は拾わなかった。
 勢い良く立ち上がり、すれ違いざまに「じゃあな」と笑った彼の声は、すっかり元の呑気な調子に戻っていた。
 どくどくと唐突に高鳴り出した胸を咄嗟に押さえ、それとは反対側の手を、相手の腕に大きく伸ばす。

「っ、待って! 今の……」

 どういう意味なの。
 叫びに近い声でそう続けようとした矢先、相手がゆっくりと私を振り返る。その姿が徐々に霞み出し、私は眉を寄せた。
 振り向き方も、私が焦っているわりには思わせぶりなほどのんびりしている。

 おかしいと感じたのと、相手が私に焦点を合わせたのは、おそらく同時だった――瞬間、ぱちりと目が開いた。