「帰るぞ、月城(つきしろ)
「――はっ」

 私は朔人さんという人に抱きかかえられたまま、養父の家を後にした。
 玄関前には灰色の髪の温厚そうな青年が立っていて、私はそのまま見るからに高級そうな黒塗りの車に乗せられる。

「あ、あの……どこに向かって……」

 後部座席。朔人さんの隣で縮こまりながら、私は恐る恐る尋ねた。
 車は養父の家を離れ、都心の方へと向かっていた。

「屋敷に帰る。これ以上、お前をあんな穢れた場所に置いておくわけにはいかないからな」
「さっきのは一体なんだったんですか。イケニエとか、イヌガミとか……」

 先程の光景が脳裏に過る。
 あまりにも非現実的な体験に、私は夢でも見ていたのかと錯覚してしまう。
 だけど左腕の痛みは現実で。彼が助けに来てくれなかったら今頃死んでいたのかと思うと、体が震えだした。

「あれはイヌガミ。犬神家に伝わる式神だ。きちんと飼い慣らせば有益なものだが、あの様に穢れに満ちてしまうと()()()となり暴走してしまう」

 あの家はもうだめだな、と朔人さんは窓の外をみながらぽつりと呟く。
 運転している月城さんが同意するようにこくりと頷いたのが、ミラー越しに見えた。

「その話は追々するとして……だ、沙夜」
「は、はいっ」

 いきなり顔を近づけられて身じろぐ。

「お前はいつからあの家にいた」
「ひと月前に母が亡くなって、その葬儀の後に――」

 経緯をかいつまんで話すと、朔人さんの眉間にみるみる皺が寄っていく。
 額に手を乗せ深いため息をついた。

「抜かった……分家外れと侮っていたが、アイツも一応筆頭五家の出だったな」
「……すみません」
「何故お前が謝る。謝るべきは俺のほうだ。このひと月の間、本家を留守にしていてな。迎えが遅くなってしまって申し訳なかった」
「い、いえ……貴方が謝ることでは……」

 真っ直ぐな眼差しを向けながら、朔人さんは謝罪を述べた。
 朔人さんは私を助けてくれた。むしろ私は感謝すべきだというのに、どうして謝るのだろう。
 申し訳なくて両手を振っていると――ぐらりと視界が歪んだ。

「あ、れ――」

 急に体の力が抜ける。
 前のめりに倒れかけた体を朔人さんが受け止めてくれた。

「すみま――っ」

 謝ろうとして左腕に激痛が走った。
 熱された鉄でも押しつけられているかのように、焼けるような痛みが走る。

「お前……あのイヌガミに傷を負わされたのか」

 その視線は私の左腕に向けられる。
 返事をする気力がなくて、こくりと頷くと朔人さんは小さく舌打ちをした。

「――話より手当が先だな。月城、急げ」
「畏まりました」

 ぐん、と車の速度が上がる。
 私はなんとか体を起こそうとするが、そのまま朔人さんは私の頭を自分の膝に乗せた。

「目を閉じて、深く呼吸をしろ。少しは痛みがマシになるはずだ。心配するな。俺が必ず助ける」

 朔人さんは上着を掛けてくれて、ゆっくり背中を摩ってくれた。
 その動きにあわせて呼吸をすると幾分か痛みが和らいだ気がした。

(――いい、匂い)

 柔軟剤?香水?ううん、お香のような優しくてほんのり甘い香りがする。
 それでも左腕の痛みは凄まじくて、いつの間にか私は意識を手放していた。



 意識がぼんやりとしている。
 誰かに抱き上げられて動いているかのような。
 目を開けようと思っても、開けられない。
 指一本も動かせない。ただ、左腕が熱い。

「――急ぎ、薬湯――……」
「月――筆頭……招集――」
「彼女は俺の――――――」

 聴覚だけは生きていて、途切れ途切れに色々な話が聞こえる。
 忙しそうに動き回る足音。水の音が聞こえる。
 状況が変わっていく中で、私を抱く腕の力とあの香りだけは変わらずずっと傍にいてくれた。

(あたたかい……)

 ふと、体が温かくなった。
 お風呂でも入っているかのような心地よさ。つんと、薬草のような香りが鼻をつく。

「――――」

 少しだけ左腕の痛みが和らいだ気がして、ゆっくりと瞼を開けた。

「――――え」

 そして私は目を疑う。
 私はお風呂に入っていた。正確にいうととても大きな檜風呂のような浴槽。
 そこには白濁としたお湯と、薬草が浮かんでいて。そこに私は肌襦袢を着せられて浸かっている。
 それにも驚いたけれど、今驚くべきはそこじゃなくて――。

「なんだ、目覚めたのか」

 そこには朔人さんも一緒にいたのだから。