「あなた……は」

 突然現れた青年を私は呆然と見上げる。

「俺を本家から遠ざけ、地下に大層な結界まで張り、随分周到に隠していたようだが……」

 彼は私の肩を強く抱き寄せながら、養父をぎろりと睨む。

「これはどういうことだ。申し開きがあるなら聞いてやろう、聡」
「――っ!」

 放たれた殺気に、養父がびくりとたじろいだ。

「わ、私は犬神家のさらなる繁栄のためにと!」
「現在は筆頭五家以外のイヌガミの使役は禁じられているはずだ。おまけに勝手に贄まで喰らわせ、イヌガミを堕としただけでなく――」

 足元に転がる亡骸を一瞥し、彼は私を見つめる。
 肩を抱く手にぐっと力が込められた。

「あろうことか沙夜を贄に捧げようなど」

 静かな声音。だけどそこには確かに怒りと殺気が込められていた。

「……っ! おのれ……!」

 養父はぎりぎりと唇を噛み、私たちを睨む。その怒りに呼応するようにイヌガミが低く唸る。

『――ふーーーーっ』

 前足を床にこすりつけながら、青年を威嚇している。
 牙を見せ、口元を震わせ、今にも襲いかかろうとしているけれど――。

「……泣いてる」

 ぽつりと呟いた私の言葉に青年が目を丸くしてこちらを見た。
 どうして自分でもそんなことを口走ったのかわからない。でも、自分の頬に涙が伝っていることに気付く。

「苦しんでる。助けて……って」
「お前――」

 先程は恐怖でなにも感じなかった。
 だけど、今ははっきり聞こえてくる。
 あの化物――ううん、イヌガミの感情が。心の声が。
 彼は苦しんでいるだけだ。
 苦しくて、痛くて、お腹が空いて……でも自分ではどうしようもできなくて。
 今すぐこの苦しみから解放されたいと、救いを求めて藻掻いている。

『ぐるるるるるるるるるっ』

 うなり声を上げるイヌガミの目から血の涙が零れ出す。

「……助けて。お願い、あの子を助けて」

 私は涙を流しながら、思わず青年の袖を掴んだ。

「目を、閉じていろ――沙夜」

 名前を呼ばれた気がすると、彼は静かに私の目を手で覆った。
 暗くなる視界。次の瞬間、イヌガミが地面を蹴って襲いかかってくる。

「今、楽にしてやろう」
「――やめろおおおおおおっ!」

 聞こえたのは、青年の冷静な声と養父の叫び声。
 そして何かがぶつかり合う激しい音が何度か聞こえて、部屋を漂っていた禍々しい空気が消えた気がした。

「――もう、目を開けていいぞ」

 そう言われて目を開けると、目の前にあのイヌガミが倒れていた。
 それは眠るように目を閉じて、足先から灰のようにほろほろと崩れて消えてしまった。

「何故……何故だ! 私のイヌガミが――!」

 イヌガミが消え、養父は膝から崩れ落ちきっと私を睨み付けた。

「貴様のせいだ沙夜! お前がいなければこんなことには!! 本来なら弟ではなく兄である私が――」

 彼の慟哭の意図はわからない。
 でも、私を恨んでいることだけは伝わった。

「耳を傾けるな。不安なら俺を見ていろ」

 そういわれて視線をあげると、綺麗な顔が近くに見え、私はどこを見ていいかわからず目を泳がせる。

「犬神聡、お前の沙汰は追って伝える。二度目はないと思え」
「ぐううううっ……覚えていろ……」

 殺気に怯んだ養父は顔を青ざめさせその場に崩れ落ちたのだった。
 そして青年は私を抱いたまま屋敷の外に向かう。
 まぶしい日差し。外の空気を吸うのはとても久しぶりに思えた。

「お前、名前は?」
「清水沙夜……」

 そう告げると、彼は突然顔を近づけて私の匂いをくんくんと嗅いだ。
 突然のことに私は思わず顔を赤らめる。

「お前、やはりいい香りがするな。俺の鼻に狂いはなかった」
「……え、えっ?」

 そして青年はにっと笑い、こういったのだ。

「俺は犬神朔人。お前は今日から俺の花嫁だ」

 こうして私は彼――朔人さんと出会ったのだった。