――数時間後、私は部屋に篭もっていた。
 部屋といっても屋根裏部屋のような、小さな窓がつけられただけの狭い場所。
 とってつけられたような小さな机と、薄い布団だけが私に与えられたものだった。
 家に来客がきたときは私は部屋から出てはいけない約束だ。
 まるで私の存在を知られたくないかのように、私はじっと息を潜めていた。

「――ご当主様がわざわざ足をお運びになるなんて。こちらから伺いましたのに」
「いいや。どうしても一度顔を出したくてね」

 一階から微かに父と客人の会話が聞こえてくる。
 声音からして男性――それも若く聞こえる

「――が亡くなった――……その娘は――……」
「ご当主様、花嫁を探すために美和に会いにきてくださったのでしょう!? 私の娘は優秀なんです! 器量も良く、そしてご当主様とも年が近く――」

 美埜里さんのよく通り声だけがはっきりと聞こえた。

(……気持ち悪い)

 甲高い猫なで声がやけに耳障りで、私は耳を塞いでその場に蹲った。
 この家から出ていっても、私に行く当てもない。
 助けて。助けて。こんな日々、辛すぎる。
 こんなことなら私もお母さんと一緒に消えてしまいたかった――。
 そんなことを考えているうちに、眠ってしまっていたらしい。
 うるさく聞こえていた話し声はいつの間にかやんでいて、窓の外の日は少しだけ傾き始めていた。

(お客さんは帰ったんだろうか)

 ちらりと窓の外を覗いてみると、門の外には立派な黒塗りの車が止まっていた。
 それに向かって一人の男性が歩いていくのが見える。
 なにやら父と義母が必死に呼び止めているようにもみえるけれど。

(……綺麗な人)

 少し長めの黒髪に、すらりと通った鼻筋。
 遠目から見ても顔立ちの美しさがはっきりわかる。下手な芸能人よりもよっぽど綺麗な人だ。

「――っ!」

 すると、その人は何かに気づいたようにはっとこちらを見た。
 少し驚いたような赤い瞳と目があった。
 何故か目をそらせなかった。
 そして彼は確かに私を見て微笑んだような気がした。

(まずい!)

 そこで我に返った私は慌てて口を塞ぎ、窓の下に身を隠す。
 どきどきと心臓が脈打つ。

(どうしよう。気づかれていたらどうしよう)

 ここは二階だ。おまけに窓は小さい。声も立てていないから気づかれることなんてまずない。
 でも、もし気づかれていたら――後からあの人たちになにをされるかわからない。
 ガタガタと震えて縮こまっていると、車の音が遠ざかっていくのが聞こえた。

(……よかった)

 窓の外を確認してみると、そこにあった車は消えていた。
 ほっと息をついていると、後ろから扉が開く鈍い音が聞こえた。

「――なに、してんのよ」
「……美和、さん?」

 そこには美和さんと美埜里さんが立っていた。
 美和さんの目は泣き腫らしたかのように真っ赤で、美埜里さんは恨みがましく私を睨んでいる。

「姿を見せるなっていったでしょ!?」
「ちがっ……私はずっとここに……!」

 美和さんに首根っこを掴まれて、美埜里さんには有無をいわさず殴られた。

「なんでご当主様はアンタなんかを! 犬神家から逃げた卑怯者のくせに!」
「っ!」

 二人の目は血走っていた。
 まるでなにかに取り憑かれたように、私に馬乗りになって執拗に殴ってくる。

「なんであの人もお前やあの女に執着するの!? 妻は私だけなのに! あの人の娘は美和だけなのにっ!」
「――え?」

 驚いた。
 殴られた痛みも忘れるほどの衝撃だった。

(――……私はあの人の娘じゃない?)

 それならなんで私はここに? 私の父親は――?

「二人とも、そこでなにをしている」

 冷酷な声が部屋に響いた。
 父が獣のような形相で私たちを見つめていた。あまりの圧に美和さんたちは戦いて、私の上から後ずさる。

「私が娘じゃないってどういうことですか」

 私は起き上がり、鼻血を拭いながらその男を睨む。

「あなたは、誰?」
「それを知る必要はない。儀式の準備は整った」

 ずんずんと進んできたその人は私の腕を無理矢理引いた。

「痛いっ! 離して!」
「当主がお前の存在に気付いた。だが、私の勝ちだ――」

 抵抗もむなしく私は階段を引きずり下ろされる。

「今からお前を嫁がせる」
「嫁ぐ!? 私はまだ十六ですよ!?」

 この年で本人の意思とは関係なしに結婚だなんて、時代錯誤にもほどがある。

「案ずるな。なにも実際に婚姻するわけではない、これはただの名称。ただの契約だ」 
「……は?」

 理解不能だった。
 私は階段を転がるように引きずられ、立ち入ることを禁じられていた地下室まで連れてこられた。

「なにが本家当主だ! 分家とて……私だって、自分の力で栄華を築く! そのために私は――」

 地下の長い廊下を歩くと一番奥の部屋に投げ入れられ、扉を閉じられる。
 そこは洋風な家とは異質な和室だった。
 全面障子で囲まれた窓のない部屋。四隅に蝋燭の灯りがちらついており、障子に私の影がうつるなんとも不気味な空間が広がっている。

「お前が嫁ぐのはイヌガミ様だ。お前は贄嫁(にえよめ)となるんだよ――沙夜」
「だから一体なんの話――」

 扉を開けようとしていると、背後から異質な気配がして息を吞んだ。
 畳を引っ掻く音がする。真後ろで生暖かい呼吸音が聞こえる。
 はっはっはっ――その呼吸の速さはまるで犬のような。
 暗闇の中にぎらりと光る赤い瞳。
 障子に移る大きな影がゆらりとその姿を現した。

「…………ひっ」

 そこにいたのは、巨大で不気味な黒い犬の化け物だった。