犬神――強力な呪詛の力を持つ神。
犬神を祀る家は必ず栄える。
犬神に捧げる贄が尽きるまで。
それはただの言い伝えではない。
犬神家には今も尚、神が宿り一族を見守り続けている。
一度栄華を極めた者たちはその失墜を恐れ贄を捧げ続けた。
贄となるのはいずれも年若き乙女たち。
それ故、犬神に捧げられた乙女たちは贄嫁と呼ばれた。
贄嫁は犬神から決して逃げられない。
もし恐れをなして逃げ出したなら――骨も残さず喰われるのだから。
*
「ちょっと、沙夜!」
「……美和さん」
背後から金切り声が聞こえ、包丁を動かしていた手を止めた。
振り返ると気の強そうな女の子が私を睨んでいる。
彼女の名前は犬神美和――この犬神家の長女だ。
「お腹空いた! まだご飯できないの!?」
「すみません。あと少しでできるのでもう少し待って――」
ちらりと台所を覗き見た美和さんがうげっと顔をしかめる。
「味噌汁に卵焼き!? なんで朝からこんなしょっぼいもの食べないといけないのよ! もー……ルミがいてくれたときはよかったのに!」
犬神家――私でも聞いたことがある名家だ。
なんでも江戸時代よりも前から続いている家系らしく、特にこの十数年は経営・政治・芸能――全ての分野でこの一族の人たちが活躍している。
そんな名家に私が引き取られてからひと月が経った。
田園調布の高級住宅街。その隅にひっそりと建つ年季の入った豪邸。
そこに父は後妻の美埜里さんと、その娘で十五歳の美和さんと暮らしていた。
今はここが私の家――といえば聞こえはいいが、実際には私は「住まわせてもらっているだけ」の居候の身。
「沙夜さん。今日は本家の人が来るからきちんと掃除をしてってお願いしたでしょう? 階段の隅に埃が溜まっていたわよ」
「申し訳ありません、美埜里さん。食事ができ次第やり直しますので……」
「まったくもう……しっかりやってちょうだい」
「……はい」
「なんであの人も、こんな子引き取ったのかしら……」
深々と頭を下げていると、後からきた義母が呆れ混じりにため息をつかれた。
キッチンから二人が去っていけば、私はほっと息を吐きながら頭を上げた。
「さあ、美和。食事が終わったら今日はとびっきりのお洒落をするわよ!」
「本家のご当主様が私に会いに来てくれるのよね!」
「ええ、そうよ。きっと貴女を迎えに来てくれたに違いないわ!」
「私、ご当主様のお嫁さんになれるのかな!?」
リビングのほうから浮き足だった二人の話が聞こえてくる。
許嫁とか婚約者とかまるでドラマの中の話を聞いているようで現実味はない。
この立派な屋敷、そして裕福そうな家族――でも私には関係のない話だ。
たとえ娘だとしても私はあの家族の輪には入れないのだから。
私はただの居候。ただの使用人だ。
朝早く起きて、この広い家の掃除をして食事に洗濯――全てのことを任されていた。
美和さん曰く、ふた月前まで「ルミ」というお手伝いさんが来ていたらしいが、今はいなくなってしまったらしい。
そのため、新しいお手伝いさんが決まるまで私が家事を一任することになったのだ。
私を無理矢理ここに連れてきた父はなにもいわない。
私の存在なんてないように、あの日以来一言も目を合わせるどころか、一切口を聞いてくれなかった。
(――……お母さん)
煮立たせてしまった味噌汁の火を止めて、私はその場に崩れ落ちた。
しゃがみ込んで、滲む涙を押し殺す。
まるで地獄だ。
お母さんがいた頃は幸せだった。
狭い家で、二人で肩を寄せ合いながら、決して裕福じゃなかったけれど笑って生きていた。
あの日常はもう戻ってこない。お母さんが死んだあの瞬間から。
これなら施設で暮らしたほうがよほど幸せだっただろう。
《逃げられない》
母も、父もそういっていた。
それが本当だとするのなら、私は一生こんな日々を過ごすんだろうか――。
犬神を祀る家は必ず栄える。
犬神に捧げる贄が尽きるまで。
それはただの言い伝えではない。
犬神家には今も尚、神が宿り一族を見守り続けている。
一度栄華を極めた者たちはその失墜を恐れ贄を捧げ続けた。
贄となるのはいずれも年若き乙女たち。
それ故、犬神に捧げられた乙女たちは贄嫁と呼ばれた。
贄嫁は犬神から決して逃げられない。
もし恐れをなして逃げ出したなら――骨も残さず喰われるのだから。
*
「ちょっと、沙夜!」
「……美和さん」
背後から金切り声が聞こえ、包丁を動かしていた手を止めた。
振り返ると気の強そうな女の子が私を睨んでいる。
彼女の名前は犬神美和――この犬神家の長女だ。
「お腹空いた! まだご飯できないの!?」
「すみません。あと少しでできるのでもう少し待って――」
ちらりと台所を覗き見た美和さんがうげっと顔をしかめる。
「味噌汁に卵焼き!? なんで朝からこんなしょっぼいもの食べないといけないのよ! もー……ルミがいてくれたときはよかったのに!」
犬神家――私でも聞いたことがある名家だ。
なんでも江戸時代よりも前から続いている家系らしく、特にこの十数年は経営・政治・芸能――全ての分野でこの一族の人たちが活躍している。
そんな名家に私が引き取られてからひと月が経った。
田園調布の高級住宅街。その隅にひっそりと建つ年季の入った豪邸。
そこに父は後妻の美埜里さんと、その娘で十五歳の美和さんと暮らしていた。
今はここが私の家――といえば聞こえはいいが、実際には私は「住まわせてもらっているだけ」の居候の身。
「沙夜さん。今日は本家の人が来るからきちんと掃除をしてってお願いしたでしょう? 階段の隅に埃が溜まっていたわよ」
「申し訳ありません、美埜里さん。食事ができ次第やり直しますので……」
「まったくもう……しっかりやってちょうだい」
「……はい」
「なんであの人も、こんな子引き取ったのかしら……」
深々と頭を下げていると、後からきた義母が呆れ混じりにため息をつかれた。
キッチンから二人が去っていけば、私はほっと息を吐きながら頭を上げた。
「さあ、美和。食事が終わったら今日はとびっきりのお洒落をするわよ!」
「本家のご当主様が私に会いに来てくれるのよね!」
「ええ、そうよ。きっと貴女を迎えに来てくれたに違いないわ!」
「私、ご当主様のお嫁さんになれるのかな!?」
リビングのほうから浮き足だった二人の話が聞こえてくる。
許嫁とか婚約者とかまるでドラマの中の話を聞いているようで現実味はない。
この立派な屋敷、そして裕福そうな家族――でも私には関係のない話だ。
たとえ娘だとしても私はあの家族の輪には入れないのだから。
私はただの居候。ただの使用人だ。
朝早く起きて、この広い家の掃除をして食事に洗濯――全てのことを任されていた。
美和さん曰く、ふた月前まで「ルミ」というお手伝いさんが来ていたらしいが、今はいなくなってしまったらしい。
そのため、新しいお手伝いさんが決まるまで私が家事を一任することになったのだ。
私を無理矢理ここに連れてきた父はなにもいわない。
私の存在なんてないように、あの日以来一言も目を合わせるどころか、一切口を聞いてくれなかった。
(――……お母さん)
煮立たせてしまった味噌汁の火を止めて、私はその場に崩れ落ちた。
しゃがみ込んで、滲む涙を押し殺す。
まるで地獄だ。
お母さんがいた頃は幸せだった。
狭い家で、二人で肩を寄せ合いながら、決して裕福じゃなかったけれど笑って生きていた。
あの日常はもう戻ってこない。お母さんが死んだあの瞬間から。
これなら施設で暮らしたほうがよほど幸せだっただろう。
《逃げられない》
母も、父もそういっていた。
それが本当だとするのなら、私は一生こんな日々を過ごすんだろうか――。