「――これはどういうことだ」
「え……?」

 私は今、朔人さんに壁際に寄せられ睨まれている。
 眉はつり上がり、怒っているのは明らかだ。

(私……なにかした……?)

 怒られる理由がさっぱりわからない。
 ここに至るまでの経緯を少し振り返ってみることにしよう。



「…………ぐっすり眠れちゃった」

 部屋に差し込む朝日で目が覚めた。
 怒濤の一日で、これまでの生活が全て変わったというのに私は安眠できてしまった。

「あの人たちの家にいたときは全然眠れなかったのに」

 体が休息を求めていたのだろう。
 解けかけた包帯を外してみると、あのイヌガミにつけられた傷は既に塞がりかけていた。

「あの薬湯のおかげなのかな」

 こんなに傷の治りが早いなんて。
 そこでスマホのアラームが聞こえて、私は目を見開いた。

「もうこんな時間!?」

 時刻は六時。いつも五時に設定していたアラームがスヌーズになっていたのだ。

「まずい……掃除して、早くご飯を作らなきゃ……!」

 大慌てで身支度を調える。
 あの人たちが起きる前に家中をピカピカにしてしっかり朝食を作っておかないと大変なことに――。

「…………そうか」

 そして部屋を出てふと気付く。
 目の前に広がる見慣れない中庭。長すぎる渡り廊下。見知らぬ屋敷。

「あの家から出られたんだ」

 もうあの人たちに理不尽に怒られることも、殴られることもない。
 そう思ってようやく肩の力が抜けた。

『ここはお前の家だ。好きにするといい』

 昨晩、朔人さんがいってくれた言葉を思い出す。

「好きにしろ……っていわれても」

 目は冴えてしまったし、部屋にじっとしているのも落ち着かない。
 頼りにしろといわれた月城さんという人もどこにいるかわからないし――。

「あ――」

 そこで廊下を掃除していた女性が目に留まる。
 この屋敷に勤める家政婦さんだろうか。彼女は私と目が合うとぺこりと会釈をしてくれた。

「――よし」

 私は頬をぱちんと叩いて、彼女の方へ向かうのだった。



「――で? その結果がこれか?」

 そして話は現在に戻る。
 今は朝食時。朔人さんの前には和食のお膳が並んでいる。
 それに対峙する私は割烹着を身につけていた。

「……い、居候の身でなにもしないわけにはいかないので」

 ようやく声を絞り出すと、朔人さんがちいっと大きく舌打ちをする。

「それで怪我人が朝っぱらから屋敷の掃除に励み、食事の用意までしていたと?」

 朔人さんが私の腕を掴む力がだんだん強くなっていく。
 顔が引きつり、怒気がますます強くなっていく。

「月城とお前の様子を見にいったら部屋はもぬけの殻だ。それで探して見れば、あろうことかあの長い廊下で雑巾掛けをしているお前が通り過ぎていった……それを見た俺の気持ちがわかるか?」
「か、勝手に部屋を抜け出してしまって申し訳ありません……」

 朔人さんのいうとおり、私はあれから使用人さんたちのお手伝いに励んでいた。
 朝食作りに、屋敷の掃除。少しでも役に立ちたかったから。
 そして雑巾掛けをしている最中に朔人さんと鉢合わせ、ここに連れ込まれた……ということだ。

(やっぱり、あの部屋に閉じこもっていたほうがよかったのか)

 俯き唇を噛む。勝手をして怒らせてしまった。

「……ごめんなさい。次からはきちんということをきくので――」
「違う」

 顔をあげると、朔人さんは呆れ混じりにがしがしと頭を掻いていた。

「怪我人が無理をするな。俺はそれに怒っているんだ」

 そっと朔人さんは私の腕に触れた。

「……そんなに不安にならなくていい。ここにはお前を脅かす人間はいないのだから」

 優しく囁いてくれる。そして朔人さんの視線は朝食に移った。

「これは、お前が作ったのか?」
「あ、はい……卵焼きは私が……」
「ほぉ……」

 そういうと、朔人さんは座るなり卵焼きを一切れぱくりと頬張った。

「ん……美味い」
「ありがとうございます…」

 正直に感想を言ってくれた朔人さんに嬉しくなる。

「ほら、お前も一緒に」
「……いいんですか?」
「当然だ」

 そうして隣に並んで一緒に朝食を摂った。
 誰かと食べるご飯は久々で、とても穏やかな時間が流れていく

『――! わたし、あなたのことが……!」

 突然頭の中に響いた声にはっと声を上げる。

「どうした?」
「今、子供の声が聞こえたような……なんだかとても懐かしくて……もしかして、私の記憶……?」

 私の言葉を聞いた朔人さんは一瞬目を丸くして、ゆっくりと茶碗を置いた。

「母が亡くなったことで、お前の封じていた記憶が綻びはじめたのだろう」
「じゃあ時が経てば全部思い出せるんですか?」
「おそらく、な。だが……」

 含みがあるように朔人さんは視線を逸らす。

「俺とお前は婚約者だといったな」
「はい」
「……だが、俺は強制するつもりはない」

 その言葉に、私は目を丸くする。

「お前が全てを思い出したとき、どうするか決めればいい」

 恐ろしいと思ったけれど、朔人さんはとても優しい人だった。

「……ありがとうございます」

 私はその優しさが嬉しくて、思わず微笑んだ。
 すると朔人さんも頬を綻ばす。

「……ようやく笑ったな。やはり沙夜は笑っているほうがいい」

 穏やかな顔に私も思わず目が釘付けになった。 

「さて、沙夜。この後出掛けるぞ」
「どちらに……?」
「お前を五家の当主達に会わせるんだ」
「えっ……だって今、記憶が戻るまで好きにしろって……」
「それは最終判断だ。お前が判断を下すまでは、俺はお前を花嫁として扱う。拒否権は、ない」
「な――」

 前言撤回。朔人さんはやっぱり少し意地悪だ。

「それに……その場にはお前の叔母もいるからな」
「え――」

 一難去ってまた一難。
 穏やかな朝の時間から一変、あらたな騒動の幕開けに私はごくりと息を飲むのだった。