「私が朔人さんの許嫁……?」
「……本当に覚えていないようだな」

 動揺する私に、朔人さんは名残惜しそうに手を離す。

「なんでお母さんは私の記憶を……ううん、お母さんは一体何者だったんですか!? 私ずっと一緒に暮らしてきたのになにもしらなくて――」
「落ち着け。順を追って説明する」

 次々浮かび上がる疑問を詰めると、朔人さんは困ったように両手を挙げた。

「まず、清水(きよみず)家とは代々稀有な力を持つ巫女が生まれる。邪を退け、清める。中でもお前の母はその才に恵まれていた。そしてお前の父だが――」

 父の話にごくりと息を吞む。

「お前の父、名は悟という。悟も分家筆頭として優れた才を秘めていた。清水の巫女と悟が婚姻を結べば犬神家は安泰だ、と。それ故、お前は生まれた時から俺の許嫁として添えられた」
「生まれた時から決まっていた? そ、そんな今の時代に……?」
「この家はそういう家なんだ。まあ、当然それをよく思わない人間もいたということだ」

 あの男のようにな、と朔人さんが囁く。
 それはきっと養父――叔父のことだろう。

「お前は生まれながらにしてその身を狙われた。時には命を、時には道具として。それでも両親はお前に愛情を注いでいた。だが……ある日突然悟が行方を眩ましたんだ」
「え……」
「どこに消えたのかわからない。俺でも探せなかった。その直後だ――清水がお前を連れて忽然と姿を消したのは」
「犬神家から逃げた……って」

 叔父たちがいっていた言葉を思い出す。

「清水は一切の痕跡を残さなかった。我々が血眼になって探しても見つけられない……清水の巫女の力というのは末恐ろしいものだ。いや、母の力――というものかもしれないな」

 そういう朔人さんの表情は尊敬の念を表していた。

「お母さんはどうしてそんなことを……」
「沙夜には平凡に生きてほしかったのだろう。『贄嫁』になんてならずに、な」

 贄嫁――養父がいっていた言葉だ。

「イヌガミに捧げられる花嫁……」

 あの場所での光景を思い出し、ぶるりと体が震えた。
 私が朔人さんの贄嫁となるということは――。

「朔人さんは私を食べるつもりなんですか?」

 怯えながら見ると、朔人さんと目が合った。
 赤い瞳が光っている。獰猛な狼に睨まれたように背筋が凍り、動けなくなる。

「そうだ。いつか、俺はお前を喰う。骨も残さず……お前の母のように」

 傷だらけの母の亡骸を。空っぽの骨壺を思い出す。
 あんな風に私も死ぬ。怖い。
 逃げなきゃいけないのに、体が動かない。
 それよりも、朔人さんの瞳から目がそらせない。
 朔人さんはゆっくりと私に近づいて、顎をくいと持ち上げた。

「清水沙夜。お前は俺の贄嫁だ。それは逃れることはできない。例えお前が俺の前から逃げたとしても、だ」
「……っ」

 ――殺される。
 でも、どうせ私は行き場所がなかった。家族だってもういない。
 それならここで死んで早く両親の元にいったほうが――。

「だが、いつ喰うかは俺が決める。少なくとも、今でない」
「――え」

 ぽん、と頭の上に手を乗せられた。

「――月城、入れ」
「はっ」

 音も立てずにふすまが開かれた。
 そこにはさっき車を運転していた男の人が跪いている。

「これは月城、俺の側近だ。なにかあればこの男に頼め」
「よろしくお願い致します。沙夜様」
「え……え……?」

 月城さんという人は深々と私に頭を下げる。
 一体なにが起きているかわからず、私は呆然と朔人さんを見上げる。

「私は……殺されるんじゃ?」
「そんなに死にたいのか?」
「……いえ」

 首を振ると、朔人さんはふっと口角を上げた。

「それなら大人しく俺の元にいるといい。俺はお前を悪いようにはしない」

 そういうと朔人さんは立ち上がり、部屋の外へと向かう。

「夜更けに悪かったな。とにかく今は休め。これから嫌がおうにも大変な日々が待っているだろうからな」

 そうして朔人さんは扉に手をかけ、こちらを向き変える。

「表向きはお前は俺の贄嫁だ。だからこそ、何人たりともお前に触れさせることは許さない。だから安心して眠るといい」

 ぱたん、そうして扉が閉じられる。

「安心しろ……っていわれても」

 いつか自分を喰おうとしている人物の前で、安心なんてできるものなのだろうか。
 部屋に一人残された私は、一抹の不安を抱えながらため息を零すのだった。