僕が世界で一番尊敬する人は誰かと聞かれたら、僕は何の迷いもなくその人の名前をあげる。
 ベアトリーチェ・ロッド。
 血の繋がらない僕の兄様の名を。

◇◆◇

「ジュテファー。おはようございます」
「おはようございます。兄様」

 クリスタロス王国騎士団副団長。二六歳の兄様は、年齢の割に随分小さい。
 別に食が細いというわけでなく、毎朝食事を共にとっている時の量は僕と変わらない筈だけど、兄様は食べても太らないというか、食べても成長しない体質のようだった。
 僕の記憶の中の昔の兄様に比べたら、成長はしている気がするけれど、それはかなり遅かった。
 千年生きると言われている兄様の時間は、とてもゆったりとしていて、兄様が傍にいてくださるだけで、僕の心はいつも安らぐ。

 兄様は小さい。
 でも、誰よりも大人っぽくてかっこいい。
 ハーブティー片手に本を読んでいる姿なんかは、外見は僕とそう変わらない瀬格好だけど、やっぱり大人なんだなあと思う。
 僕は兄様が好きだ。世界で一番尊敬している。

 けれど昔の僕は、ある時期兄様を心の底から嫌っていた。
 僕が昔、世界で一番嫌いだった人間は、ベアトリーチェ・ロッドその人だった。
 兄様は僕が幼い頃、伯爵家の養子になった。
 僕は生まれたころ魔法が使えず、役立たずな僕の代わりに自分の後継として、父様は兄様を選んだのだと考えていた。

 何も知らない頃はよかった。
 僕は兄様が大好きだった。でも、だんだん物事がわかってくると、僕は兄様を嫌いになった。

 ―――この人は、自分にとって邪魔な相手だ。
 兄様は、僕を否定する存在にしか思えなかったから。
 僕は兄様を避けるようになった。
 昔の僕は、兄様と同じ屋敷の中に住んで、挨拶をされても返さないことだってあった。
 兄様はそんな僕に接するたびに、傷付いた顔をしていた。ざまあみろ、と少し思った。でも少し時間が経つと、兄様を選んだのは父様で、何の罪もない大好きだった人に酷いことをする自分が僕は嫌になった。

 そして一度生まれた隔たりはなかなか修復できず、兄様は僕に挨拶をしてくれなくなった。
 兄様は、まるで僕の目に自分が映らないよう行動しているようだった。
 そんな兄様に僕は少し苛立って、やっぱり後から自分が嫌になった。自分は何てわがままで、駄目な子なんだろう。

 そして僕は、僕が九歳のころ兄様の研究していた『精霊病』という病にかかり、急遽病院に入院することになった。

 罰が当たったんだと思った。
 兄様は病院にお見舞いに来てくれなかった。
 あんなにひどいことをしてきたのは自分だったのに、兄様、本当に僕のことを嫌いになったんだと思ったら、なんだか涙がこぼれた。

 もう一度兄様に会いたい。会って謝りたいのに、それは許されないことが悲しくてたまらなかった。
 病は進行し、日々僕は動くことが苦しくなった。
 少し歩いただけで息が切れた。食事ものどを通らない。体はどんどんやせ衰える。
 僕は自分の死を悟った。
 そんなある日。

「ジュテファー!」

 久々に会ったその人は、手に小さな瓶を抱えていた。
 父の言いつけで、いつも貴族らしく身嗜みを整えていた筈の兄様は、髪も長く、なんだかひどくやつれて見えた。

「これを。これを早く飲んでください!」

 兄様はそう言うと、僕に小瓶を渡してきた。
 中身は空の色をした液体だった。
 僕は兄様の圧に押されて、それをぐっと飲みこんだ。
 飲んだ瞬間、ずきりと胸が痛んだ。
 もしかして兄様は僕に毒を飲ませたのだろうか? 
 一瞬そう思ったけれど、僕は自分の手首を見て自分の誤りに気が付いた。
 『精霊病』末期患者の印。
 手首に巻き付く茨が、その姿を消していたのだ。

「よかった。本当に……貴方が、生きていてくれて。間にあった。間にあったんだ……!」

 兄様はそう言うと、子どものようにわんわん泣いて僕の体を抱きしめた。
 泣きじゃくる兄様の背に、僕はそっと手を伸ばした。
 後になってわかった。
 兄様が僕に会いに来なかったのは、兄様がずっと研究所に泊まって、僕の為に薬を調合していたためらしい。
 騎士団の仕事はいいのかと思ったけれど、何でも兄様はそもそも昔大切な人を『精霊病』で失って、そのために自殺しかけたことがあるらしく、そのことを知る騎士団長は、兄様にそれを許したらしい。

 騎士団はそもそも王国を守るために在る。
 『国の未来を変える者』出生の際そう予言された兄様は、『精霊病』の研究を優先することを国王様自身もから許されたらしい。
 普通ではありえないこと。でもそれを許されるのが、僕の兄様だった。
 『精霊病』が完治して、毎日病室にやって来る兄様が僕の手を握ってくれているのを見ると、これまで兄様を身勝手に責めていた自分が改めて恥ずかしくなった。

 血の繋がらない兄。
 自分から地位を奪う、父の後継。
 幼い頃はただ追いかけていたその人を、成長するにつれて嫌ってしまっていたけれど、この人以上に愛情深い優しい人に、僕はこれからもう出会えないような気がした。

 勿論、僕もいずれ結婚して奥さんが出来たら、考えを改める日が来るかもしれないけれど。
 その日から僕にとって、世界で一番尊敬する大好きな人は兄様になった。
 そして完治後、地属性の適性を得た僕は、兄様に魔法を教えてもらった。大嫌いだった魔法が、毎日少しずつ好きになった。
 地属性の適性。愛されるものに与えられる適性。
 この魔法を与えてくれたのは兄様だと、僕はそう確信している。

 でも、僕は知っている。
 兄様はたぶん、僕を通して本当の弟を見ている。
 兄様の部屋には子供の書いた古い絵がずっと飾ってあって、その絵には兄様の髪と目の色をした人間のような何かと、その隣には多分兄様の本当の弟らしい何かが描かれている。
 はじめは、幼い自分が書いたのかなとも思ったけれど、絵について兄様にきいた時に、兄様は曖昧に笑うだけで、問いには答えてくれなかった。

 ぐちゃぐちゃな下手な絵を、懐かしそうに、愛おしそうに見るその目は、僕とは違う誰かを、兄様が求めていると僕に理解させるには十分だった。
 僕は兄様の本当の弟が羨ましかった。
 兄様は伯爵家に入ってから本当の家族には会っていないようだったけれど、こんなふうに兄様に思ってもらえる彼は、とても幸福な人に思えた。



「兄様。今日はどうされるのですか?」
「そうですね。今日はユーリが非番ですし、騎士団の方に行きますよ。今日は午前中ローズ様もいらっしゃるそうですし、少し話をしたいので」

 その尊敬する兄様の話の中に、最近よくとある女性の名前が出てくる。 
 『剣神』ローズ・クロサイト。
 彼女は騎士だが、実は第二王子の元婚約者で公爵令嬢だ。
 兄様を倒した騎士団長を倒し入団を許されたその女性は、なんと魔王を倒して世界を救った英雄だ。
 はじめ、兄様は彼女をあまり好きではなかったように見えた。
 けれど魔王討伐後、兄様は彼女の名を出すとき、ほんの少しだけ嬉しそうな顔をすることに、僕は気が付いた。

 もしかして兄様は彼女が好きなんだろうか?
 相手は公爵令嬢。しかも魔王を討伐した相手。
 家柄としては彼女の方が上にはなるけれど、僕が思うに、兄様と彼女はお似合いだ。
 魔力の強い人間同士の間には、魔力の強い人間が生まれやすい。
 何でも、彼女の魔力は測定不能をはじき出したらしい。
 兄様は測定不能までとは言わないが、回復力がずば抜けている。
 周りの人間も、二人ならその結婚を祝福することだろう。

 救国の英雄。
 愛される人。それに不思議と僕には、二人がとてもよく似ているように思えた。
 『ローズ姉様』うん。なんだか素敵な響きだ。
 勿論兄様の子どもだったら、どんな子供だって愛せると思うけれど、美人な彼女との子なら、きっともっと可愛く思えるに違いない。

 ただ、自分は今まだ一三歳で。
 病気やら家柄のせいで少し子どもっぽくないのは自覚しているけれど、それでも今すぐ『おじちゃん』なんて生まれた子どもに呼ばれるのは少し複雑な気分だ。
 ただ、きっと僕の知らないところでいろんな悩みを抱えてきた兄様だから。
 誰よりも幸せになってほしいと、やっぱり僕は強く思うのだ。

 でも、一つ問題がある。
 それは兄様自身は、この恋に自覚していなさそうだということ。
 相棒である騎士団長が、彼女に好意を寄せているから、感情に蓋をしているのかもしれない。だとしたらそれは駄目だ。
 あの堅物な兄様が、せっかく女性に興味を持ってくださったのに、そんなことでは未来の姉様を他の男に取られてしまう。

 だから、ローズ様。
 僕、少しだけ、貴方にわざと話しかけてもいいですか?
 貴方に兄様のことを心配してほしい。
 貴方に兄様のことを好きになってほしい。
 そしたらきっと、兄様は幸せになれる気がするから。

 そう思った僕がローズ様に話しかけて、二度目の後。
 騎士団がずっと探していた事件の犯人がわかったらしい。

 犯人は、兄様の愛する実の弟だった。
 お互いを庇い合う。その姿はやっぱり兄弟で、そこには自分の知らない兄様の時間が見えて、僕は少し苦しくなって胸をおさえた。

 アルフレッド・ライゼン。
 彼は兄様の部屋に飾ってある絵に描かれた物体と、同じ髪と目の色をしていた。

 ああ、やっぱり。僕は駄目な子です。
 貴方の幸福を願うどこかで、貴方の一番の弟は、自分がいいなんて贅沢を、この心は抱いてしまう。
 額縁の中に飾られた時間は、自分のものではない。
 物の少ない兄様の部屋に飾られた絵は、いつだって目につく場所に飾られている。
 それでも。

「兄様。これを」

 事件は一人の王子が罪を庇うことによって収束し、兄様は彼に首を垂れた。
 その後ローズ様は何故か紙の鳥を飛ばして、幸福の葉を王都中に送ったらしい。
 騎士団の門の前には、兄様を思う人たちで溢れかえっていて、その中には父様の姿もあった。

 僕はローズ様がくださった四つ葉のうち一枚を、兄様の手の上に置いた。

 兄様の一番が僕ではなくても、僕の一番は変わらない。
 今僕が世界で一番尊敬する、昔の僕が、世界で一番嫌いだった人。
 貴方の幸福を、僕は願う。

「僕を、助けてくださってありがとうございました」

 自分に向けられた愛情が、一番でない他の誰かにも向けられるものと同じであったとしても、その心が僕の心を動かしたことは変わらない。
 兄様がくれた愛情が、僕に魔法を与えてくれた。
 この事実が変わらないなら、それ以上のことは望まない。

 ベアトリーチェ・ロッド。
 貴方は、世界で一番尊敬する僕の兄様です。
 この心は、いつだって貴方の幸福を願う。

 だから少しだけ、我が儘を言わせてください。
 貴方は優しい人だから。自分のことを許せないと思っているかもしれないけれど。
 そんな貴方を見る度に、傷付く人間が居ることに気付いて下さい。
 貴方の周りの人間は、誰もが貴方の幸福を願っている。
 貴方は自分を許して、ずっと笑っていてほしいのです。

「貴方に、沢山の幸福がありますように」

 大好きな兄様。
 だからどうかこの願いが、貴方に届きますように。