「ライ、ゼン……?」

 メイジスの口にしたベアトリーチェの旧姓に、ローズは驚きを隠せなかった。

「……まさか。彼の血の繋がった本当の弟は、アルフレッド・ライゼンなのですか?」

 なぜリヒトから指輪を奪った人間が、指輪を鍵だと知っていたのか――その理由が、ずっと誰もわからなかった。
 でも、魔王討伐の際アカリの話をする時に、アルフレッドはこう言っていた。
『盗み聞きならお任せください!』
 そしてローズがベアトリーチェによる招集を受け、会議に参加することになった時、アルフレッドはとても驚いていたのだ。

『なんでローズ様が……』

 不自然な彼の言葉。
 そして今回、二度目の侵入は、ローズが彼にベアトリーチェの負傷を伝えてすぐのことだ。
 いつもにこやかに笑う彼の影。
 ローズは知っている。彼の魔法属性が、彼の印象とは全く異なるものだということを。

「まさか……」
 ローズは顔を顰めた。
 でも犯人が彼だなんて信じられない。大体あの日、彼は他の騎士たちとずっと一緒に居た筈だ。

「ユーリ。ライゼンはあの日、ずっと貴方たちと一緒に居たのですよね?」
 ローズはユーリに尋ねた。

「……あの日。ローズ様のお帰りが思ったより遅かったので、アルフレッドを迎えにやらせたのです」
 ユーリは静かに答えた。

「何故青い薔薇を狙ったかはわかりませんが、彼なら犯行は可能です」
「……ッ!」

 ローズは息を飲んだ。
 それは、その場に居なかったローズやベアトリーチェが知り得なかった情報だ。

 灯台下暗し。
 架空の敵《はんにん》を追いかけても見つからない筈だ。
 その人物はずっと、自分たちのすぐ近くに居たのだから。

「それでは、犯人、は……」

 ローズは、ベアトリーチェを思う二人の大人たちの顔を見た。
 彼らは否定しなかった。ベアトリーチェを見守ってきた彼らには、彼が庇う人物というだけで、対象が絞られていたのかもしれない。
 彼の実の両親が指輪を鍵だと知る筈はない。

 だとするなら。
 答えは、ただ一つだ。

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 その後公爵家に寄ったローズとユーリは、城下の警備をしていた騎士たちを、騎士団へと呼び戻した。

 「ローズ様?」
 先に騎士団に戻っていたアルフレッドは、ユーリと共に自分の前に現れたローズに、いつものように笑みを浮かべた。

「どうかされたのですか?」
 アルフレッドに反省の色は見えなかった。
 ローズは、そんな彼に聖剣を向けて言い放った。
 ――貴方の命は、こちらの手中にあるという意味も込めて。

「アルフレッド・ライゼン。王族への暴行及び指輪の強奪、並びに国の研究施設への侵入及び第一級指定薬『青い薔薇』の窃盗容疑により、貴方を捕縛します」

 アルフレッドは動かない。
 ローズは冷たく彼を見下ろしていた。真っ赤な薔薇の様な瞳は、圧倒的な強者であることを彼に理解させるには十分だった。
 アルフレッドの額にジワリと冷や汗が滲む。

 ――反論が無い。やはり、彼が犯人か。
 ローズが溜息を吐いて、彼に向けた剣をその喉元に向けた時。

「待ってください!」

 響き渡った声に、騎士たちは目を丸くして声の方を見た。
 クリスタロス王国騎士団副団長。
 ベアトリーチェ・ロッドは、見ない間に少し痩せたようだった。

「違います。……その子は、この子は何もやっていません!」

 彼はそう言うと、ローズたちの元へ走った。
 その様子はいつも冷静だった、これまでの彼とはどこか異なる。

「花は。……花は、私が自ら持ち出したのです。リヒト様がお持ちの指輪の危険性をみなに知らしめるために、全て私がやったことです」

 彼はそう言うと、ローズの剣の前に立ち、ゆっくりと首を垂れた。

「責任は私が全部私にあります。どうか、罰するなら私を」
 頭を下げる彼の、その表情は読み取れない。
「なん、で……」

 ユーリは、彼の行動が信じられなかった。
 ローズから、ベアトリーチェがアルフレッドを庇う可能性について前もって話はされていたものの、まさかそれが現実になるなんて。

「ビーチェ! 何を言っているんだ。お前が犯人なわけがないだろう。あの時、あれほど取り乱したお前が!」
「私が、犯人だと言っているんです!」

 ベアトリーチェは下を向いたまま、ユーリの声に被せるように叫んだ。
 普段の彼とは違う強い声音に、ユーリはびくっと体を震わせる。

「……ユーリ。お願いです。責任は、どうか私に」
「ビーチェ。お前は間違ってる」
 懇願するように呟かれた彼の言葉に、ユーリは唇を噛みしめた。

「これが、お前の決断だというのか?」
 こんなのは、自分が知る『ビーチェ』ではない。

「……本当に、それでよろしいのですか?」
 剣をベアトリーチェに向けたまま、ローズは静かに彼に尋ねた。
 それは騎士というより、公爵令嬢として。
 この国の民の上に立つ、貴族としての問いだ。

「貴方がそれを認めるならば、貴方はすべてを剥奪されることになる。貴方がこれまで積み上げてきたものを、全て失うことになるのですよ?」
「構いません」
 ローズの問いに、ベアトリーチェは頷いた。

「伯爵家での地位も、騎士団副団長の地位も、植物園の管理も。本来この身には過ぎたもの。全てお返しいたします」
 その声は、ユーリが知るいつもの彼の声。
 真面目で、努力家で、それを顔には出さず、人を導く。優しく厳しい、いつもの『ビーチェ』の声だ。

「え……? 嘘、でしょう……?」

 ベアトリーチェは、今回の事件の罰をきちんと理解していた。
 驚いたのは、彼が背に庇ったアルフレッドだった。
 平民出身で、自らの行い対しに下る罰を理解していなかったアルフレッドに、ローズは厳しい口調で、アルフレッドのせいでベアトリーチェが被る罪の重さを語った。

「当然です。王族を手にかけ、連日騎士団を動かし、王都を騒がせた。そんな人間を、同じ立場にとどめておくことは出来ません」

 アルフレッドには、積み上げてきたもの全てを失ってでも、弟を守ろうとしているベアトリーチェの行動の重さを理解してもらわねばならない。

「すべて、受け入れます。どうか私に処分を」
 そのローズの意図を理解してか、ベアトリーチェは早急な処断を求めた。
 ベアトリーチェは真っ直ぐにローズを見上げていた。
 新緑の瞳は、全ての罪を背負うことを望んでいた。

「わかりました」
 ローズは静かに言った。

「……ユーリ。彼を、捕縛してください」
「……っ!」
 ローズは直接手を下さない。それは自分の役目ではないと、彼女が考えていたためだ。

 ベアトリーチェがここに来ることを、ローズは予想してはいた。
 再度侵入があったにもかかわらずそれを報告しないのは、犯人が彼に親しい人物で、庇う理由のある人間しか考えられない。
 ベアトリーチェがアルフレッドを庇う可能性は高い。
 そしてもし、ベアトリーチェが自分が責任を取ると言うのなら――ローズは彼の捕縛は、ユーリがすべきだと考えていた。
 自分は相応しくない。
 この十年、彼の傍に居たユーリでなくては、きっとベアトリーチェの心は動かない。
 ユーリに捕縛されるというのなら、ベアトリーチェの決意は揺らぐかもしれない――ローズはそう考えていた。

 けれどユーリは動けなかった。
 そしてベアトリーチェも、ユーリの捕縛を受け入れてしまいそうな様子にローズには見えた。
 わざわざ悪役を買って出たというのに、これでは何にもならない。ローズは眉間に薄く皺が刻んだ。
 その時だった。
 大きく溜息を吐いたローズが、冷たい瞳でベアトリーチェを見下ろし、捕縛の為に魔法を発動させようとした時――ベアトリーチェに庇われていたアルフレッドが叫んだ。

「……違う!」
 彼の声に、場は再び静まり返る。

「違う。違うんです。ローズ様。兄上を責めないで。兄上を捕まえないで。兄上は何も悪くない。悪いのは、悪いのは全部僕なんです!」
 アルフレッドはそう言うと、ぼろぼろと涙をこぼしながら、兄の前に立って精一杯手を広げた。

「……アルフレッド」
 ローズは静かに剣を下ろした。

「それは、一体どういうことなのですか?」
 幼い子どもに尋ねるように、ローズはアルフレッドに尋ねた。

「……幼い頃、僕には兄が居ました。その兄は、兄上は本当に優しくて、僕の家はとても裕福とは言えなかったけれど、家族四人でいつも楽しかったのを覚えています。でもある日兄上は、僕たち家族をおいて家を出ていってしまった。兄上の魔力が強いから、『貴族様』が、兄上を欲しがったから」

 アルフレッドはもしかしたら、自分の病気の治療費の対価に兄が伯爵家に入ったのを知らないのかもしれない。ローズは話を聞きながらそう思った。
 彼の実の両親が、アルフレッドに責任を感じさせないために、告げなかった可能性は高い。
 そしてそれを、ベアトリーチェ自身が望んだ可能性もある。

「僕は。僕は、もういちど兄上に会いたくて騎士を志しました。でも、兄上には新しい弟がずっと傍に居て。僕は近寄れない。そして兄上は、僕が騎士団に入っても、一度も声を掛けてくれることは無くて。代わりに、いつも新しい弟を、貴族様の子どもを傍に置いていた」

 自分と同い年の、新しい兄の『弟』。
 騎士団の人間は、そこまで身分の違いで壁を作るようなものは少ないが、会議に参加するような人間と、若い騎士の間には隔たりがある。
 騎士団副団長の彼の地位は、アルフレッドからベアトリーチェに接触するのを躊躇わせるのには十分だったはずだ。
 その彼の隣に、いつもジュテファーやユーリが居たなら尚更。

「あの日、会議にローズ様が呼ばれたとき……どうして自分じゃないんだろうと思った」

 ローズから聖剣を奪うのが目的だったが、ベアトリーチェは魔王討伐の会議にローズを呼んだ。
 自分と同じ、一騎士に過ぎない。けれど、公爵令嬢という地位を持つ彼女を。
 特別な人間しか参加出来ないそれに、自分は呼ばれないのにジュテファーやローズは呼ばれる度に、アルフレッドの心は傷付いた。
 自分と兄はもう違う人間だと、思い知らされるようで。

「近くにいるはずなのに、前よりもずっと遠く感じる。だから、兄上が大事にしているものを盗んだんです。そうしたら、少しは困るかなって思って。こんな大事になるなんて思ってなくて。僕が。僕が全部悪いんです。だから、兄上から奪わないで。兄上は、兄上は何も悪くないんだ!」

「違います!」
 涙をこぼすアルフレッドを、ベアトリーチェは再び庇った。

「この子は、嘘を吐いています。この子は何も知らない。何も、何も……!」
 でもその声は、さっきよりずっと弱い。
 そんなベアトリーチェに、ユーリは尋ねた。

「本当にそれでいいのか?」
 ベアトリーチェは答えない。

「言ってたじゃないか。魔王討伐の時、ローズ様を心配する俺に。『弟がいるから安心だ』って。その弟は、ジュテファーではなく、アルフレッド。――彼のことだろう?」
「…………」
「お前が、本当に彼を思うなら。信じているなら。今すべきことは背に庇うことじゃない。彼に自分の行いの誤りを認めさせる。それが、本当の兄としての行動じゃないのか?」

 ベアトリーチェは、今はユーリの目をまっすぐに見据えていた。
 自分が以前彼に告げた言葉を、今持ち出されるなんて思ってもみなかった。
 ユーリの言葉は正しい。
 あの時のユーリはローズのことで頭がいっぱいで聞き流していたが、ローズと一緒に居たのはアルフレッドの方だった。

「え?」
 騎士団に入ってから一度も自分に声を掛けることのなかった兄が、ユーリ相手に漏らした言葉を知って、アルフレッドは目を丸くしていた。

「兄上……?」
 彼は、自分の方を見ようとしない兄を呼んだ。
 アルフレッドは、闇属性と雷属性だ。
 対してジュテファーは、ベアトリーチェと同じ地属性。
 兄に捨てられたと思っていた彼は、ジュテファーとは違い、ベアトリーチェと同じ属性を得られなかった。
 閉ざされた心と強い怒り。
 それが、彼の魔法《こころ》。

「……全部、私の責任なのです。私が彼にこんなことをさせてしまった」

 ベアトリーチェは、静かに言う。そして漸く弟の方に向き直ると、自分とそう体格の違わない年の離れた弟を、ぎゅっと優しく抱きしめた。

「アルフレッド」
 『正解です』――その声は、ローズにそう言った時の彼の声と似ている。
 たぶんそれはきっと、この世界で最初にアルフレッドに与えられたはずの優しい声。
 弟を呼ぶ兄の声。

「名前が変わっても、どんなに遠く離れても、年をとって姿が変わり、いつか貴方が、私の背を超えてしまっても。私にとって貴方は、かけがえのない弟です」

 彼の腕に力が籠る。兄に抱きしめられたアルフレッドは、手を下ろしたまま動けなかった。

「貴方の痛みに、気付けなかった自分が不甲斐ない。離れて、また出会って、傍にいる時間が増えて。私はいつからか、貴方が傍にいるのが当たり前なように思えていた。このかけがえのない時間の幸せを、尊さを、忘れてしまっていたのです。時間が私を置いていく。みなが私を置いていく。それでも貴方だけは、私を追いかけてきてくれる。繋がっていてくれる。家族なのだから――それが、当然だと思ってしまっていた。遠くで駆ける貴方を見るたびに、私とは違う誰かと笑い合う貴方を見るたびに、私はそれを眺めるだけで一人満足して、貴方に手を差し出そうとはしなかった。それが貴方の心をどんなに傷付けていたかを考えずに、貴方に背を向けて、自分のことだけを考えて過ごしてきました」

 ベアトリーチェはそう言うと、弟から体を離し、その瞳を見て優しく笑った。
 新緑の瞳は涙にきらめく。

「許してください。アルフレッド。……私を。愚かな貴方の兄を」
「あに、うえ……」
 その時、アルフレッドの頬を、静かに涙が伝った。

「ごめんなさい。兄上、僕、僕は……!」
「わっ!」

 久々に成長した弟に遠慮なく抱きしめられて、小さな体のベアトリーチェは、勢いに押されて地面に手をついた。
 自分を抱きしめたままわんわんなく弟の頭を苦笑いしながら優しく撫でて、ベアトリーチェは兄としてユーリに願った。

「ユーリ。お願いします。全て私の責任です。ここまで騒動が大きくなってしまった以上、誰かが責任を取らねばならない」

 過去の因縁を断ち切った。すれ違っていた弟と漸く和解できたはずなのに、事件はそれだけでは収束出来ない。
 今のベアトリーチェは、ユーリの知るいつもの彼に見えた。
 そんな彼に、自分のところに戻ってきてほしいと言いたいのに言葉が出ない。

「ビーチェ……」
 ユーリは、微笑みを浮かべる相手の名を呼んだ。
 出会ってから十年間、ずっと呼び続けた呼び方で。
 初めて出会った時は入団試験。
 今より少し小さかったベアトリーチェを、ユーリは年下だと思って話しかけ、周りの大人たちに叱られた。
 けれどベアトリーチェはそれを許して、自分を『ビーチェ』と呼んでほしいと言った。だからユーリも、自分のことを『ユーリ』と呼んでいいと言ったのだ。
 出会ってからずっと、何故かベアトリーチェはユーリの傍に居続けた。

 『地剣』と『天剣』。
 『天剣』の名を与えたのはベアトリーチェだ。自分とは真逆の二つ名を、彼は自分を負かしたユーリに与えた。
 ずっと傍で見守って、いつだって導べのように居てくれたのに――ユーリは、こんなふうに彼が自分から離れていくなんて思いもしなかった。
 どんなに失敗しても、ベアトリーチェがいたからユーリは、騎士団長でいられたのだ。ユーリにはそう思った。
 自分は未熟だ。未熟な自分はまだ、彼無しではいられない。

「嫌だ。こんな……こんなふうに、お前と」
 失いたくない。でも、自分じゃ守れない。

「……ユーリ」
 ローズは泣きそうになっている幼馴染の名を呼んだ。
 ベアトリーチェを守ってほしいと告げられた二人だが、結局のところ二人に、今の彼の願いの全てを叶えてやることは難しかった。
 二人が出来るのは、どんなにそれが厳しい結末だとしても、ベアトリーチェに自分は無実だと言わせることだけだ。でもその場合、彼が守りたいと願うアルフレッドの罪は免れない。
 彼が家族との繋がりを断ってまで助けた弟を、彼自身が手を離すことで失う結末にしか、今のローズやユーリでは導けないのだ。

 ――どうしたらいいの……?
 ローズは悔しくてたまらなかった。魔王を倒しても、『聖剣の守護者』なんて大層な名で呼ばれても、目の前の仲間一人すら助けられない。
 確かに彼は悪いことをした。許されないことをした。
 でもその心は、決して悪人というわけではない筈なのに。
 すれ違った時間と思いが生んだ今回のことを、帳消しにすることは無理だ。
 たった一人を除いては。

「責任は俺が取る」

「リヒト様!?」
 ローズは振り返り、慌ててリヒトに駆け寄った。
 まさか彼がここに来るなんて彼女は思ってもみなかった。
「どうしてこちらへ……」

「城下にいたはずの騎士たちがほとんどいなくなったから、指輪が見つかったのかと思って」
「それは……そうですが……」
 
 彼にしては珍しく正しい判断だ。相変わらずガラクタを抱えてはいるが。

「元々、俺が指輪をなくしたのは王都の全員が知っているんだ。俺が落として、騎士団に迷惑をかけただけだと思わせていればいい」
「でも、それでは……」

 リヒトの評価が、更に落ちてしまうだけだ。
 ローズは苦い顔をした。

「どうせ低い評価だからな。今更下がっても、そう変わらないだろ」
 そんなローズに、リヒトははあと溜息一つ吐いて言う。

「俺がドジを踏んで落とした指輪を拾った子どもがいて、偶然同じ時に鍵の開いていた施設に入ってしまった人間が居た。そこで見つけた綺麗な花をついつい持ち帰ってしまった。どうだ? これなら、文句はないだろ?」
「…………」

 リヒトの提案に、騎士団は静まり返る。
 指輪が鍵ということは明かせない以上、多少強引だが説明するならそうするしかないのは確かだ。
 ――でも。

「よろしいのですか?」
「国民を守るのが王族の務めだ」

 彼の言葉はあっているようで、今使うのは多分間違っている。罪を代わりにかぶるのが王族の務めだなんて、ローズは聞いたことがなかった。

「でもまあ」
「いたっ!」
 リヒトは、謎の物体で泣いていたアルフレッドの頭を叩いた。

「何するんですか!!」
「身体強化の魔法道具、意外と使えたな」
 彼の発明品らしき謎の物体は、ハンマーの先が拳のようになっていた。
 半泣きだ。アルフレッドは頭を押さえつつ、リヒトを睨みつけた。
 
「拾ったものはすぐに届け出るべきだ。悪いことをした子どもには反省が必要だろ」
 リヒトはふふんといたずらっ子っぽく笑う。

「お前、俺のこと本気で殴っただろ。俺は数時間目を覚ませなかったんだから、これでおあいこだ」

 リヒトは自分の決断を、微塵も後悔していないようだった。
 ただ、この騒動のすべての責任を一人で背負い、かつ犯人に対してこれだけの処罰というのはあまりに軽い。
 ローズはじっとリヒトを見つめた。

「……なにか言いたいことがあるのか?」
「リヒト様……」

 ローズはリヒトにどう言葉をかけるべきか迷った。
 すぐに「ありがとう」が出てこないのは、今回の発端が彼のせいというのもあるけれど――彼が持つ荷物が、相変わらずガラクタすぎるように見えるせいだ。
 そして理由はもう一つ。

「たまには役に立つのですね」
「ローズ。……お前、やっぱり俺のこと馬鹿にしてるだろ」
「リヒト様が頓珍漢なのは、本当のことではありませんか」
「う……っ」

 言い返せない。
 一応自分としては、王族として民である子どもを守ったつもりのリヒトは、そりゃないだろと一人思った。

 ローズは傷付いた様子のリヒトをじっと見つめていた。
 リヒトは自分の言葉で落ち込んでいるようだった。ここ数カ月、彼の言葉に傷付いてばかりのローズは、小さな復讐は叶ったように思った。まあ蛙事件でも、軽く報復はしていたが……。
 気分が晴れた。だからローズは、今度はリヒトに向かって礼を言うことにした。

 今回のこと、彼でなければこの結末には導けなかった。
 そのことに、心からの感謝を込めて。

「でも。……友人を、助けてくださってありがとうございました」

 ローズの心からの笑みに、リヒトは思わず胸をおさえて視線をそらした。
 リヒトは自分の気持ちが分からなかった。
 自分が好きなのはアカリのはずなのに――どうして自分は、こんなにもドキドキしているんだろう?
 ローズがリヒトに対してこういうふうに笑ったのは、彼が彼女に指輪を渡したとき以来だった。
 困惑するリヒトを置いて、ローズはアルフレッドに駆け寄った。

「ローズ、様……」
 騎士団の騎士たちを、ローズは基本姓で呼ぶ。この国で、公爵令嬢が平民相手に名で呼ぶことは珍しい。
 ただ、今の彼女は――。
 リヒトに殴られて頭を押さえる彼のことを、前よりも親しい呼び方で呼びたいと思った。
 この騎士団で出会った、新しい自分の『友人』として。

「ライゼン。……いえ。これからは、私も『アルフレッド』とよんでも良い?」
「……はい! ローズ様!」

 ローズのその提案に、アルフレッドは目を輝かせた。
 そんな彼に、ローズは優しく微笑んだ。
 ローズに弟はいない。けれどもし弟ができるなら、彼のように真っ直ぐに、自分に好意を向けてくれる子がいいとローズは思った。



「リヒト様」
 ローズとアルフレッドが友好を深めている間、ベアトリーチェはリヒトに声をかけた。
 以前騎士団で自分を蔑み、再三指輪の返還を求めた相手を前に、リヒトは少し顔を曇らせた。
 怒られるのではと一歩退くリヒトを前に、ベアトリーチェは深く頭を下げた。

「寛大なご配慮、感謝いたします」

 まさか彼に頭を下げられる日が来ようとは――リヒトは自分より小さいベアトリーチェを、少しびくつきながらその光景を眺めていた。
 リヒトはベアトリーチェに対して苦手意識があった。
 ベアトリーチェは、どことなくローズに似ている。
 そして案の定、顔を上げたベアトリーチェは、リヒトに厳しい現実を告げた。

「リヒト様。指輪はもうお返しできません。同じようなことがあれば困りますから」
「わかってる」
 国を守る騎士として、そして次期伯爵として言葉。リヒトは、ベアトリーチェの諫言を聞き入れた。

「今回のことには俺に責任があるのは確かだし、俺のことは俺でなんとかする。……まだ、どうしていいかはわからないが……」

 リヒトはそう言うと頭を掻いた。
 そんな彼の言葉に、ベアトリーチェは微かに笑う。
 ――この方は、私の言葉をきちんと聞いて下さる。
 そう、思って。
 人は自分の行動の誤りを指摘された時、それを受け入れることは難しい。そしてそれは地位が高い人間ほど難しくなり、諫言を聞き入れない王の周りには彼を褒め称える者ばかりが集まり、やがて国家は腐敗する。
 だからこそ今回のリヒトのように人の意見を聞けることは、人の上に立つ者にとって重要な資質だとベアトリーチェは考えていた。

「リヒト様」
 ベアトリーチェは静かにその名を呼んだ。

「どうかこれからの私の言葉は、貴方に助けていただいたことを感謝したうえでの言葉と思ってお聞きください。今回のこと、貴方にも責任はある。ただ、私が貴方の作ったもので真実を知ったように、貴方がこれまで培ってきたことは、決して無駄ではないと思う人間もいることは確かです」

 努力で埋まらない才能の差は確かにある。
 でもこれまでの彼が培ってきたことはきっと、その心にだってあらわれているはずなのだ。
 他人の咎を背負うことを選んだ彼がもし王になったなら、きっとレオンとは違う王になれる。

「それはきっと、レオン様に対抗する貴方の武器になる」

 一〇年間のこの差が、どう影響するのか。
 ベアトリーチェはもう少しだけ、この愚かな少年の成長を、見守りたいと思った。

「私は、貴方がたのどちらが王に相応しいかと聞かれたら。今はやはりレオン様だと思っています」

 国を守る王は、魔法を使えるものが相応しい。
 今のリヒトを、民は王にとは望まない。

「ただ。もし貴方がこの国の王になられたらその時は」
 ベアトリーチェはそう言うと、リヒトの前に膝をついて頭を垂れた。
 それはレオンが目覚めた日、彼がレオンにしたように。

「――私は、貴方の為に戦いましょう」



「ビーチェ」
 リヒトとの話を終えたベアトリーチェに、ユーリは声を掛けた。

「すまない。お前がその姿なのを、そこまで気にしているとは思わなかった」
「……アンクロットに聞いたわけですか」
「あとはさっきの言葉から」

 ユーリは申し訳なさそうに言った。
 頭を下げる年下の上司に、ベアトリーチェは苦笑いした。

「いいです。私は、薔薇を生かし続けるためには長く生きていかなければならない。この命は、そう簡単に失っていいものではないんですよ」

 今回のこと、彼がアルフレッドの身代わりになろうとした理由は実はそこにもある。
 少なくとも自分であれば死罪にはならない。薔薇を生かすために生かされ続ける。ベアトリーチェはそう判断していた。

「ビーチェ……」
 遠くを眺める相棒の名を、ユーリは静かに呼んだ。
 今のベアトリーチェを見ていると、ユーリは彼のために何も出来ない自分が腹立たしく思えた。

「そのことなのですが、アカリが解決してくれるかもしれません」

「……え??」
「どういう……ことですか?」
 ローズはよく似た反応をする二人にふわりと笑って、自分の後ろに居たアカリの方を見た。

「魔王の核を砕いた欠片は、闇の魔法により汚染されていました。それを浄化することは、私では出来なかった」

 騎士団に来る前、ローズはアカリに手紙を出していた。頼んでいた物を持ってきてほしいと。

「ええと。ローズさんに頼まれて、ずっと浄化の訓練をしていたんです。それで今日、やっと浄化が出来て。この欠片は、式を書き込むことは出来ません。でも――魔力の保存は、可能です」

 アカリの手には、布一杯にきらきらと輝く石の欠片が握られていた。
 ベアトリーチェは目を見開いた。
 『光の聖女』は碌に光魔法が使えない。だから彼女が石を浄化することは、不可能だと思っていたのに。

「ベアトリーチェ様」
 ローズは優しく彼に微笑む。

「貴方の魔力が傍にあれば花は咲くというのなら、これで代用は出来ませんか?」
 それは、ベアトリーチェが薔薇の守護者として許されなかった死が、今後許される可能性を与えるものだった。
 長い終わりのない時を一人生き続ける。
 そんな彼に、人生の終幕を。

「ベアトリーチェさん。私、自分の選択が、自分の勇気が、運命《みらい》を変えることが出来るって、そう信じたいと思うんです。私はまだ、上手く魔法を使えない。でもだからこの欠片が、貴方の未来を切り開く力になるなら、私はとても嬉しい」

 アカリはそう言うと、ベアトリーチェに微笑んだ。

「……アカリ様、ローズ様……」
 ベアトリーチェはアカリからそれを受け取ると、震える手で布を握りしめた。
「……ありがとう……ありがとうございます……!」
 泣きそうになるベアトリーチェにつられて、見守っていた騎士たちは泣いていた。

「……あと、もう一つ」
 そんな中、ローズは子どものように笑って、ベアトリーチェが握りしめていた布を結んで、ユーリに手渡した。
 ベアトリーチェもユーリも目を丸くした。
 実はローズにはベアトリーチェのために、用意していたものがもう一つあったのだ。
 そしてそれこそが、本来ローズが考えていた、ベアトリーチェ説得のための最終手段。

「以前貴方に頂いた四枚の葉の答えを、私は今貴方に返したいと思います」

 ローズはそう言うと、自分の手にあった四枚の葉のうち一枚を、ベアトリーチェの手に置いた。
 そして、赤い石の指輪も。

「ローズ、様……?」
 ベアトリーチェはローズの行動の意味がわからず首を傾げた。
 
「指輪は、貴方の溢れる魔力を抑えてくれる。おそらくその指輪を嵌めていれば、貴方は年相応の成長が出来る。でもこれだけでは、貴方が本来の姿を得ることは出来ない。そして私だけの幸運では、貴方の時は動かせない。だから」

 悪戯っ子っぽくローズは笑った。

「私は、貴方を思う人の力を借りようと思います」

 ローズはそう言うと、自身の指輪に触れて右手を高く上げた。
 それと同時に、四つ葉をくわえた白い紙の鳥が、一斉に空へと飛び立っていく。

「これ、は……?」

 ベアトリーチェは驚いて、その光景を見上げていた。
 自分がローズに渡した葉は一つだけのはずなのに。

 鳥は何百、何千にも見えた。その鳥が咥えるだけの四つ葉を、ローズがなぜ手にしているのか。ベアトリーチェはただ茫然とするしかなかった。
 そもそも紙の鳥はユーリも使うが、それはこの世界における一般的な連絡の手段ではない。
 沢山飛び立ったうちの一羽。
 白い紙の鳥は、ベアトリーチェの手の上に降りると、その身を崩して手紙へと早変わりした。
 そこに書かれていたのは。

【これは幸福(ハピネス)とよばれる植物です。
 四枚の葉のうち一枚を与えられた人間は、貴方が持つ幸運の一部を受け取ることができます。
 貴方がもし、ベアトリーチェ・ロッドの幸運を、幸福を願うなら。どうか彼に、この葉を渡してあげてください。
          ローズ・クロサイト】

「ローズ様……?」
 ローズは地属性にも適性を持っている。
 たった一つしかないものを、人に分け与えるのは難しい。
 だったら答えは簡単だ。育てる力があるならば、それを自分で増やせばいい。
 ベアトリーチェがローズに渡したのも、たくさんある一つに過ぎない。
 本当に人を思いやれる人間は、与えて枯渇するものを人に与えるわけではない。与えてもまた育つ、また増える、そんなものでなければ、与え続けることは難しい。

「植物は――種は、育てることで増やすことが出来ます」

 それはきっと、人が誰かに与える愛情《やさしさ》も同じように。種のように育つと、ローズはそう信じていた。
 ベアトリーチェは動けなかった。
 ただ自分に微笑みかける彼女から目を離せず、僅かに高鳴る胸を、彼は小さな手で押さえた。

「ベアトリーチェ様!」
「貴方に渡したいものがあるのです!」
「騎士団の門に人が集まっています!」

 鳥が飛び立ってそう時間も経たぬうちに、騎士団の門の前には人だかりが出来ていた。彼らの手には、白い紙と葉が握られている。
 ローズはアカリに手紙を出すときにも、紙の鳥を放っていたのだ。
 彼らは第一陣。その後第二陣と人は続く。

 ローズはどんな理由があろうとも、ベアトリーチェが罪を被るのはおかしいと考えていた。
 だからこそ彼女は、ここにくるより前に手紙《たね》をまいていた。
 ベアトリーチェがアルフレッドを庇い立場を捨てることは、彼を信じる者たちへの裏切りだと、そう彼にわかってもらうために。
 リヒトがアルフレッドを庇ってくれたおかげで説得の必要はなくなったが、蒔いた種はどうやら、無事花を咲かせたようである。

「これ、は……」
 十年という月日が、彼に与えてくれたもの。
 彼が願った幸福は、誰かの心で育って増える。
 そこには、メイジス・アンクロットや、レイゼル・ロッドもいる。そして彼の、生みの親である実の両親も。
 騎士団の門は開かれる。
 先頭に立つのは、ベアトリーチェがかつて、自身の未熟さのせいで剣を奪った相手。

「……アンクロット」
「言ったでしょう? 貴方は、愛し愛される人だ」
 メイジスは、そう言うとベアトリーチェに微笑んだ。

「地属性の適性は、水属性とは違う適性を必要とする。植物を育てる肥沃な大地は、決して自分だけの力だけでは作れない。地属性の適性者の多くは、愛情をかけられて生まれ育った子どもであるとされる。……貴方は。貴方が与えられた属性の意味を、もっと受け止めなければならない」

 長命とされる地属性の適性者。
 彼らの進む道には愛する人の亡骸が横たわる。愛された分だけ傷を負い、それを背負って生きることを義務づけられる。
 ベアトリーチェは十年前、そのことを理解していたつもりだった。
 けれど流れる時の中で変わることのない自分という孤独が、彼の中に再び翳りを生んでしまっていた。

「私は貴方にこの葉を贈る。不可能を可能に変えた。貴方の幸福を私は願う」

 かつてこの世界に、青い薔薇は存在しなかった。
 だからこそ、屍花『青い薔薇』が病の特効薬として認められた時、花言葉は『不可能』から『可能性』へと言葉を変えた。
 アンクロットはそう言うと、ベアトリーチェの手に葉を置いた。彼の行動に続いて、誰もが彼に葉を贈る。彼の幸運を、幸福を願って。
 気付けば彼の小さな手にそれは収まりきらず、手から溢れて落ちるほど積み重なってた。

「ベアトリーチェ様」
 全ての人が彼に葉を贈り終えたのを見て、ローズは彼にもう一度歩み寄った。

「貴方に、沢山の幸せが訪れますように」

 ローズはそう言うと、彼の指に指輪を嵌めた。
 幸福の葉は光り輝く。
 それはベアトリーチェを包み込み、ローズたちは眩しさに目を瞑った。
 長い睫毛の下で輝く新緑の瞳は宝石のよう。
 魔力を帯びる長い髪は、まるで森の木漏れ日のようにきらきらと光り輝く。
 身長はユーリよりもやや高い。長身の美男子は、ゆっくりと瞼を上げる。
 それはユーリの騎士としての高潔さや、レオンの王族として高貴さとは全く違う美しさだ。
 神の祝福を受けた彼は、人とは異なる清らかさをその身に宿す。
 ローズはベアトリーチェを見て、ぽつりこう呟いた。

「まるで、森の精霊みたいですね」 
「………っ!」

『貴方、まるで森の精霊みたいね』

 その言葉は、かつて彼が愛した一人の少女が、初めて出会った日に彼に向けた言葉と似ていた。
 病に侵されながら彼に四枚の葉を贈り、この世を去った最愛の少女の言葉に。
 ベアトリーチェは目を伏せる。
 同じ言葉を自分にくれる。それでも彼女は、彼女じゃない。
 自分が愛した彼女なら剣はとらない。
 でも自分に葉をくれた。自分の心を理解して、手を差し伸べてくれた。
 そのことが、たまらなく嬉しい。
 暗い月の光の世界に、温かな光が差し込んでくる。

「ローズ様……」

 ベアトリーチェは、震える手をローズに伸ばした。
 触れる。
 触れられる。触れられるのだ。ローズの手は温かい。
 彼女は今、ここに生きている。
 ベアトリーチェは零れそうになる涙をこらえ、下を向いて小さく笑った。
 決めていた。とある申し出を受けた時に、その少女が自分の渡した四枚の葉を、誰かに渡せる人間であれば、その申し出を受けることを考えてみようと。
 かつて愛した少女のように、誰かの幸福を願える相手なら、自分も愛せるかもしれないと。
 でもそれは、自分でなくてもよいと思っていた。
 自分はずっと彼女に対して酷い態度をとっていて、彼女が自分に葉をくれることまでは望んではいなかった。
 しかし、実際はどうだろう?
 彼女は葉を増やし、それを使って自分の時間まで動かしてくれた。
 ――きっと。同じことを自分に与えてくれる女性は、この先二度と現れない。

「ユーリ」
 ベアトリーチェは、魔王の残骸を手に自分を眺めていた相棒に声を掛けた。

「貴方のことを応援するつもりでしたが、気が変わりました」
 少しだけ、楽し気な声音で。

「は!? ……び、ビーチェ、まさか」
 十年間の付き合いだ。相手が言いたいことを察して、ユーリは慌てた。
 彼が自分を応援と言えば、それは一つしか考えられない。
 ベアトリーチェは心からの笑みを浮かべた。
 ――決めた。この心を、貴方に捧げる。

「ローズ様。どうか私のことはビーチェとお呼びください。困った時は、何でも私に言ってください。私は必ず――貴方の力になりましょう」

 ベアトリーチェはそう言うと、ローズの手の甲に口づけを落とした。
 ローズは少しだけ目を見開いた。でも、それだけだ。
 手にキスされるくらいなら、ローズは割と慣れている。

「な、な、ななななな」
 ただ、貴族ではないユーリの場合違う。
 ユーリは思わず近くに居た騎士に袋を渡して、ローズとベアトリーチェの元に駆け寄った。

「ローズ様に対して失礼だぞ!」
「そんなことはありませんよ。私はローズ様の婚約者候補ですから」
 ベアトリーチェはにっこり笑って言った。

「は?」
「婚約者?」

 ローズは自分の婚約者の話を忘れていた。
 そういえば父から忠告をされていたような。
 ――思いっきり大立ち回りをしてしまいました……。
 ローズは少し反省した。どうやら父が選んだ婚約者候補を、自分は捕縛しようとしていたらしい。

「公爵様から、ローズ様の婚約者に指名されたのは私です」

 ベアトリーチェはローズと一〇歳差だ。
 彼であれば、ローズの無鉄砲さも受け入れて守ることが出来るだろう。次期伯爵であり騎士団副団長、医学・薬学における知識は特出しており、国家研究施設の管理を任されている。地位による築かれた財産を、彼は自らの為より民のために利用する。
 ノブリスオブリージュを心得ている。
 平民の出である彼は、どんな立場の人間からも高い信頼を得る。
 彼から信じられることが、そのまま信頼へとつながる程に。
 そして特別な立場である彼ならば、魔法におけるローズの孤独を理解することも可能だ。
 通常、魔力の高い人間から魔力の高い人間は生まれやすく、ベアトリーチェもローズ同様多くの縁談を持ちかけられている。
 初恋の相手(ティア)のことがありずっと断ってきた彼だが、ローズとなら身を固めてもいいかもしれないと、今の彼は考えていた。

「ですから彼女に愛を囁いても、別に問題は無いでしょう?」
「な、な……」
「申し訳ありません」
 ベアトリーチェはユーリから目線を逸らした。

「貴方のことは好きですが、友愛と恋愛は別物です。ユーリ」
 申し訳ありませんと言いつつ、ユーリを窘めるような声の響きは、大人の余裕を感じさせるものだった。
 ユーリは唇を噛んだ。
 ――ここで怒ったら負けだ。耐えろ、ユーリ・セルジェスカ……!

 今にも爆発してしまいそうなユーリを見てくすくす笑いながら、ベアトリーチェは指輪を外すとローズの手の上に置いた。

「戻られてしまうのですか?」
「ええ。この姿でなくては戦えないなら、私は今の姿のままでいい」

 そもそも、ベアトリーチェの強さは溢れる魔力なのだ。
 確かに指輪を嵌めていれば成長は出来ても、それで戦えなくては、騎士として意味がない。
 結局は今の自分を受け入れるしか、前に進めないことを、ベアトリーチェは知っている。
 ベアトリーチェは微笑んだ。

「指輪は、ローズ様が守ってくださいますか?」
「はい」

 元々、国王が定めた聖剣の守護者はローズなのだ。恐らく指輪の守護者も彼女が選ばれるに違いない。
 ベアトリーチェの言葉に、ローズは静かに頷いた。
 ローズは指輪を自分の指に嵌めた。どういう造りになっているかは謎だが、指輪は嵌めた瞬間ローズの指に合わせてサイズを変えた。
 謎アイテム……。
 微妙な顔をするローズを、ベアトリーチェは眺めてふふと笑った。
 剣を握って戦う時、自分に剣を向けた時、そして今の彼女。
 そのどれもが、今の彼には愛しく思えた。

「ローズ様。いつかこの指に、私とお揃いの指輪を贈らせてくださいませんか?」
 ベアトリーチェは、ローズの左手を軽く持ちあげて微笑んだ。

「はい?」 
 ――お父様の選んだ相手から、これは求婚されているのでしょうか…?
 ベアトリーチェは少しギルバートと似ている。お兄ちゃん子のローズの胸は僅かに高鳴った。
 手の甲へのキスの意味は敬愛。
 愛情深い彼とならば、ローズはお互いを敬い合える、国を支える夫婦となれることだろう。
 それはきっと穏やかな時間の流れる、幸せな関係だ。

「ビーチェ!!!」
 ユーリは思わずローズの耳をふさいだ。無礼は理解しているが、これ以上は見ていられない。

「……ユーリ。随分と子どもっぽい真似をしますね? ずっと思っていたのですが、貴方は外見の割に中身が幼すぎますよ。それではローズ様の心を守るなんて到底無理です。その点私なら、貴方と違って彼女に相応しいとは思いませんか?」
「……!!!」

 確かに、ユーリはベアトリーチェを心から信頼している。彼なら何を任せてもうまくやってくれる気がする。
 でも自分の初恋の相手を、そうやすやすとは渡せない。

「ビーチェ、お前性格悪いぞ」
「私は昔からずっとこうですよ」

 にこり。
 ベアトリーチェは爽やかに笑った。ユーリはその笑顔が、少し黒いと思ってしまった。
 恋は人をも変えるということだろうか。ユーリはそう思い、あることに気が付いた。
 ――もしかして自分たちは、最大のダークホースを助けてしまったのでは……?

「まあ、ローズ様は恋愛に対して相当疎い方のようですし、私も一〇も下の方との結婚を無理に進めようとは思っていません」
 相手の感情を重んじるベアトリーチェは、ローズに無理強いはしない。ただ彼女を自分の妻に迎える、その地盤は盤石だ。

「だからこれから少しずつ、距離を縮めさせていただこうかと」
「ビーチェ!!!」
 自分の名前を起こって叫ぶユーリを見て、ベアトリーチェは心からの笑みを浮かべた。 
 それは昔の彼のように。
 彼が最初に愛した少女が生きていたあの頃の。

 ベアトリーチェを眺めていたメイジスは、その光景を見て眩しそうに目を細めた。

「以前より、自然に笑うようになったな」
「それはきっと、彼や彼女のおかげでしょうね。……私では、引き出せなかった」

 ベアトリーチェは自分を『アンクロット』と呼び、ユーリのことを『ユーリ』と呼ぶ。そのことが、メイジスはほんの少しだけ苦しかった。

「違う。きっとこの世界は、誰が欠けても「今」にはならない。私は、そう信じて生きている」
 それは、メイジスを肯定する優しい言葉。

「レイゼル様……」
「これからも――あの子を宜しく頼む」
「はい」
 年下の上司の養父に微笑まれ、メイジスは下を向いたまま笑みを作った。



「……あいつが、ローズの新しい婚約者……?」

 自分が庇った相手の正体に、リヒトは目を丸くしていた。
 助けたことは後悔しないが、ローズに近付かれると何故かもやもやしてしまう。
 ユーリがローズに直接触れることは珍しい。
 風属性に適性のある人間は、本来風のように相手を守る。その彼がここまで行動しているということは、それほど彼がベアトリーチェを危険視しているということだ。
 ローズは全ての魔法属性に適性は持つものの、最も得意なのは水魔法だ。
 地属性と水属性は相性がいいと言われている。ベアトリーチェとローズの属性の相性は、風属性のユーリよりもずっといい。

 ――というか、ユーリはローズから離れろ。
 ふと、そんな言葉が頭に浮かんで、リヒトはぶんぶん頭を振った。
 自分が振った元婚約者が誰と触れ合おうが、どうでもいいことのはずなのに。心が乱される理由が、彼には分からなかった。

「……そういえば。指輪はあったとして、薔薇はどうしたんだ?」
 リヒトはふと、疑問だったことを近くに居たアルフレッドに尋ねた。

「実はその……返そうと思ったけど兄上に剣を向けられて驚いて落としてしまって」
「落としたあ!?」
「朝一で見回ったけどなかったんです。大きな黒い鳥の羽が一つ落ちていたというだけで」
 ということは、夜のうちに誰かが回収した……?

「……大きな、黒い鳥の羽……?」

 リヒトがそう聞いて、思い浮かぶのは一人だけだ。
 でももしその人が自分たちより先に真相を掴んでいたのなら、手を出してこない理由がリヒトにはわからなかった。
 リヒトが珍しくまじめな顔をして考えていると、アルフレッドがリヒトの発明品であるあの眼鏡を、彼が抱えた袋の中からとって笑った。
 ぐるぐる眼鏡(効果半日)。

「それにしても、この眼鏡ださすぎませんか。王子センス悪すぎ」

 リヒトの人柄のせいだろう。
 ローズの前ではそれなりにかしこまるアルフレッドだったが、リヒトに対しては遠慮が無かった。

「う、五月蝿い! 異世界では、このぐるぐる眼鏡は賢さの象徴だって本に書いてあったんだ!!」

 リヒトは読書家だ。
 異世界では魔法ではなく『科学』と呼ばれるものが生活を支えているという記述を見てからは、特に傾倒して研究している。
 今回の眼鏡は、異世界には『科学捜査』と呼ばれるものがあると知り、この世界でも似たようなことが出来ないかと発明したものだ。
 因みにローズが使う手紙の鳥は、異世界の職業である『マジシャン』の鳩の『マジック』と呼ばれるものを面白いと思い幼い頃リヒトが作った魔法で、当初はローズを驚かすためだけに作っており、手紙としての使用は考えてはいなかった。

 それを手紙として使用できるよう、彼に改良をすすめたのはローズだ。
 リヒトは発想が少し人とずれているため、彼の発明品は使い道が不明なものも多い。
 そして彼の作るものは、強い魔力を必要とする国の戦力や土木事業などには応用できず、彼の評価は上がらない。
 魔力の低い第二王子というレッテルは、彼の発明の評価を下げる要因にもなり得てしまう。
 結果、手紙の鳥の魔法でさえも、現在人には信用されてはおらず、使っているのは彼の幼馴染たちだけだ。

 通常手紙のやり取りは、ベアトリーチェの白い鳥のように、輝石鳥と呼ばれる生き物と契約して行われている。
 この世界において、魔力の強さは発言権と信頼に置き換わる。王族でありながら魔力の低いリヒトが、周囲の信頼を得ることは難しい。
 強者と弱者の関係は、魔法を使えるものと使えないものではっきりと分かれている。
 それは変えることの出来ない世界の構造そのもので、だからこそリヒトの父は、ろくに魔法を使えない息子を認めない。
 そして魔法を使えない多くの国民も、強者である王を戴くことを望む。

「ん?」
 眼鏡を掛けて遊んでいたアルフレッドは、ふと上空に魔力の反応を見てピタリ動きを止めた。

「どうかしたのか?」
「いえ……」
 上空に見える大きな影。
 それはアルフレッドが気付いたことに感づいたように、遠くへと飛んで行ってしまった。



 闇属性のその鳥は、人の視界を遮断する。

「麗しき兄弟愛、か。……まあ、くだらない茶番だね」

 夜に回収をしておいた薔薇を凍らせて、彼はそれに火をつけた。
 青い薔薇は彼の手の中で灰になる。
 巨大な黒鳥レイザール。
 その上に居たのはレオンと、もう一人。
 城の塔の上に降り立ったレオンは、今はその高台から、自らの国を見下ろしていた。

「……お前は、本当にこれでいいのか」
「僕がこの国の王になる。やっぱりあの子は甘すぎる。あの子にまかせていては、国が崩壊しかねない。協力してくれるよね?」

 当然のようにレオンは笑った。彼が笑みを向けられた相手の表情は少し暗い。

「俺は、お前たちが一番いい未来に辿り着けるよう動くだけだ」
「そう」

 彼の答えにレオンは静かに目を伏せた。

「なら君は、僕の味方のはずだ。そうだろう? この国の為には、僕が王になるのが『正解』だ」
 その言葉は、ベアトリーチェが使う言葉と同じなのに、全く違う意味を持つ言葉のようだった。
 レオンは彼に手を差し出した。

「僕のために、その瞳の力を使ってくれ」
 レオンが協力を求めるその相手は、ローズと同じ黒髪だ。

「ギルバート。――いや、『先見の神子』」

 ローズが感じていた違和感は正しい。
 遠い未来を見通す者。
 ギルバート・クロサイトは、『真実を見極める瞳』を持つだけの人間ではない。

『先見の神子』
 この世界の歴史に、転生を繰り返し稀に現れては予言を残し続ける人間は、歴史書においてその名で呼ばれる。

 ただその『先見の神子』は、結末は見えても原因となる過程は見通せない。彼が自分とレオンの未来を回避できなかったのもそのせいだ。
 ギルバートは、この力をずっと隠して生きてきた。
 ローズの兄の正体を、知っているのはレオンのみだ。

「俺はこの目をこの国の為に使う。それが俺の役目だ」
 自分に差し出された手を取らず、ギルバートは静かに呟いた。
 十年前の彼と同じ言葉を。

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「うう……。ローズさんを狙う方がまた増えて……あれ」

 アカリは、ローズを巡って火花を散らせる騎士団の双璧を見て溜息を吐いた。
 『Happiness』において、初期から解放されている攻略キャラは五人だ。

 リヒト、レオン、ギルバート、ユーリ、そしてベアトリーチェ。
 ギルバートは彼女の実の兄だから攻略対象から外されるにしても、残りの四人の反応からいって、ローズは攻略対象を着実に落としているようだ。
 本人はそのつもりはまるでなさそうで、相変わらず国一筋といった様子ではあるが――……。

 アカリは頭を押さえた。ローズの『trueend』への明日はどっちだ……??
 そして、ふと思いだす。そういえばこの世界には、まだもう一人彼女が出逢っていない『攻略者』が居ることを。

「そういえば、彼はまだここには来ていないんですね」
 それはアカリが知るゲームでは、魔王討伐後に開放される、最後の攻略対象。

「大陸の王――ロイ・グラナトゥム」

◇◆◇

「――鍵、ねえ……」

 赤い瞳に髪。
 まるで炎そのものを体現したかのようなその男は、王に相応しい勇猛さ、豪傑さをその身に宿していた。

「もしそんなものがあるならば、是非お目にかかってみたいものだな」
 男はそう言うと薄く笑った。
 手のひらに炎が灯る。それは高く燃え上がり、生き物のように揺らめいていた。
 絶対的な自信。
 炎属性の適性は王に相応しいとされ、最も重視される素養だ。

「この世のあらゆる宝物を、手にすることもできる魔法の鍵は、かの国ごときが手にしていいものではないな」

 彼の傍には、仮面を被った小さな少女が、膝をつき彼に頭を垂れていた。
 王の座すその場所は、長く続く赤い絨毯が敷かれており、玉座から立ち上がった彼は、一人階段を下りていく。

「行くぞ。あれは俺にこそ相応しい」
 王の背を、小さな少女はとてとてと追いかける。傷付いた裸足で。

「……どこへ、行かれるのですか……?」

 少女は小さな声で尋ねた。
 赤い髪のその男は、くるりと振り返るとにやりと笑った。

 『大陸の王』
 この名で呼ばれる青年は、今は二十三歳。若干十八歳で王座を継いだ若き王だ。
 既に国を統べる者。しかもその領土は、世界で最も広大だ。
 彼の浮かべるその笑みは、レオンを上回る妖しさを宿していた。

「決まっている。さあ、行くぞ。水晶の王国――クリスタロス王国へ」