<旅立>
 三月二十七日、夜明けの空が白々としてきて、月の光も弱まり、富士山が微かに見えて、上野・谷中の花の梢を、次はいつ見ることができるのかと心細くなった。
 親しい人たちは昨夜から集まり、船に乗って見送ってくれた。千住という所で船を降りると、これから長い道のりがつづくのだという思いで胸が一杯になり、人生とは、別れが多く儚いものだと感じて、涙が出てきた。

 行く春や鳥啼魚の目は泪

 俳句ができるまでの旅立ちの様子を、松尾芭蕉はこのように旅日記に書き留めました。その後も、芭蕉は、旅立ちの時と同じような形で、旅の途中の出来事を旅日記に書いていきました。その旅日記は、後に「おくのほそ道」という本になりました。

 弟子の曾良を連れて、東北地方に向けて旅立った時、芭蕉は四十六歳。徳川家光が江戸幕府の三代目の将軍を務めていた頃のことでした。
 芭蕉は江戸から北上して東北各地を回った後、日本海側を南下しました。現在の新潟県にあった市振の宿に着いたのは八月二十六日のことでした。
 その日は、とてもきつい上り下りが続いたので、芭蕉も曾良もとても疲れていました。宿の女中の後につき、庭に面した外廊下を歩き、自分たちの部屋の前まで来た時でした。反対側から、十六歳ぐらいに見える女が歩いてくるのが芭蕉の目に入りました。女が近づき、その顔を間近で見た時、芭蕉はひどく驚きました。女の顔が初恋の人にそっくりだったからです。女は軽く会釈をして通り過ぎると、障子を開け、芭蕉たちの隣の部屋に入って行きました。
 芭蕉は思わず廊下に立ち尽くしてしまいました。世の中には似ている人がいても不思議はありませんでしたが、余りにも似すぎていたからでした。
 芭蕉の初恋の人は幸という名前でした。二人は同い年の幼馴染で、思春期を迎えた頃には相思相愛の仲になっていました。しかし、芭蕉が生きた時代は、誰もが自由に好きな人と結婚できるわけではありませんでした。結局、幸は親の決めた相手の許に泣く泣く嫁いでいきました。十六歳の時に別れたきり、芭蕉は一度も幸に会った頃がありませんでした。
 それから、三十年も時が経たち、芭蕉は四十六歳になっていましたが、それまで一度も結婚をしたことがありませんでした。付き合った相手がいなかったわけではありませんでしたが、いつも長続きしませんでした。
 今と違って、当時の遊郭は男性にとってもっと身近な場所でした。芭蕉も足を踏み入れたことはありましたが、一人の遊女に夢中になるということはありませんでした。
 三十年もの時が流れても、芭蕉は、まだ幸の面影を振り切ることができていなかったのです。そんな芭蕉の前に、十六歳で別れた時の幸にそっくりな女が現れたのですから、芭蕉が呆然とするのも無理のないことでした。
 芭蕉の胸には、遠い昔の切ない思いが鮮やかに蘇りました。とうはいえ、隣の部屋の女は、芭蕉よりも三十は年下の赤の他人でした。男の欲を向けるべき相手ではないと思う分別が芭蕉にはありました。たぶん言葉を交わすことすらないだろうと芭蕉は思い、苦笑いを浮かべて部屋に入りました。

 その夜、芭蕉は深夜に目が覚めました。曾良はぐっすりと眠っていました。小用に立ち、便所から部屋の近くまで戻ってくると、隣の女が部屋の外の廊下に腰を下して庭を眺めているのが目につきました。庭には、薄紅色の萩の花が月の光を浴びて美しく咲き誇っていました。
 女は芭蕉に気づくと声を掛けてきました。
「美しい眺めですね」
「そうですね」
「せっかくの月夜です。お座りになって眺めたらいかがですか」
「はい、そうさせてもらいます」
 芭蕉は、自分も廊下に腰を下すことにしました。とはいっても、女のすぐ隣に腰を下すのは気が引けたので、少し距離をあけて、自分の部屋の前に座りました。
 それからしばらく、二人は黙ったまま月下の萩の庭を見つめていました。

 人生五十年と言われた時代に、すでに四十六の男と、まだ十六、七の若い女、何もかもが違う二人が、たまたま同じ宿に泊まり、共に月の光を浴びて萩の花を眺めているのが、芭蕉には少し不思議に思えました。その女は初恋の人にそっくりなので、なお更でした。
 しかし、それは所詮、束の間の旅の出会い。短い一幕に過ぎないことも芭蕉にはよく分かっていました。朝が来れば、二人はそれぞれ別の道を歩き出す定めでした。芭蕉は女と深く関わったわけではありませんでしたが、そんなことを考えると少し切ない気分になりました。

 少し時が経つと、女が遠慮がちに話しかけてきました。
「すみません、こうしてここで一緒に庭を眺めたのも何かの縁だと思い、私の頼みを聞いてくれないでしょうか?」
「何でしょうか?私にできることであればお力になりますが」
 芭蕉がそう答えても、女にはまだ遠慮があるようで、続きを話すまで、わずかながら間がありました。
「実は、明日で私の旅は終わるのですが、旅のためのお金がないのです。お風呂に入っているうちに、財布からお金を抜き取られたようです。ですから、今晩、私を買って頂けませんでしょうか?」
 芭蕉は驚いて隣の女の顔をまじまじと見ました。ほんのわずかなお金のために体を売ろうという女が哀れに思え、その程度のお金ならば恵んであげようという気持ちになりました。
「ああ、そんなにお困りでしたら、私には多少の余裕がありますから・・・」
「気にしなくて結構です」
 言いかけた芭蕉の言葉を女は遮りました。そして、すぐにその理由を明かしました。
「私は新潟の遊郭で働く遊女です。男の方のおもてなしをするのが仕事ですから」
 初恋の相手にそっくりな女が遊女に身を落としていると聞いて、芭蕉は少し悲しい気分になりました。しかし、それとは裏腹に、初恋の人に瓜二つの女と一夜を過ごしてみたいという男の欲がじわじわと湧き上がってきました。誘ったのは女の方でしたし、相手が遊女ならば罪悪感を覚える必要もありませんでした。
 しかし、芭蕉は、妙だなとも思いました。初恋の人にそっくりな女が目の前に現れて、相手から誘いをかけてくるというのは、あまりにもでき過ぎていると思えたのです。もしかしたら、自分は妖に惑わされているのかもしれないという考えも頭をよぎりました。そうして、芭蕉はどうすれば良いのかまるで分らなくなりました。
 芭蕉が戸惑って言葉も出せないでいるうちに、女は立ち上がり、芭蕉のすぐ隣に一度腰を下しました。
「さあ、私の部屋に行きましょう」
 女は芭蕉の手を取って立ち上がり、芭蕉もつられて立ち上がりました。女は、そのまま芭蕉を自分の部屋へと導いて行きました。芭蕉は、決していそいそと女について行った訳ではありませんでした。しかし、かと言って、その手を振りほどくこともできませんでした。
 障子を開けて部屋に入ると、女は早速、芭蕉の首に両手を回し、唇を寄せてきました。そして、とろけるような甘い舌が入ってきました。それからは、もう女のなすがままでした。
 最初の交わりで抱かれたのは、むしろ芭蕉の方でした。遊女であるにも関わらず、交わりをより楽しんでいたのも、また、女の方でした。
 最初のことが済むと、女は芭蕉の隣に身を横たえました。それからしばらく、二人は天井を見つめたままでした。
 少しして、芭蕉が横を見ると女の横顔越しに庭の様子が見てとれました。障子は開け放たれたままでした。萩の花は相変わらず月の光をいっぱいに浴びて妖しくきらめいていました。その光景は、もはや、この世のものとは思えませんでした。
 女の横顔は見れば見るほど、芭蕉の初恋の人にそっくりでした。芭蕉はこの段になっても、自分がまだ女の名前も知らなかったことに気づきました。
「そういえば、まだ、君の名前も聞いていなかったね。君の名前をおしえてくれないか?」
 問いかけられて、女は芭蕉の方に体を向けると、悪戯っぽく笑いました。
「私の名前なんて、どうでもいいじゃありませんか。どうかご主人様の好きなように呼んでください。奥様の名前でも、初恋の人の名前でも構いません」
 芭蕉は迷うことなく女の呼び名を選びました。
「それならば、『幸』と呼んでもいいかな?」
「はい、では私は今から明日の朝まで幸になります」
 女は妙に真剣な眼差しで芭蕉を見つめた後、逆に問いかけてきました。
「幸はご主人様を何とお呼びすればよろしいでしょう?」
「俳句の師匠をしているので芭蕉と名乗っているけど、本当の名前は忠兵衛だから、忠さんと呼んでくれ」
「はい、分かりました。では、忠さん。後はどうぞ、朝まで忠さんのお好きなようにしてください」
 女は芭蕉の手を取ると、それを自分の胸に当てました。

 その後、芭蕉は繰り返し激しく女を求めました。その最中、「幸、幸」と何度も女に声を掛けました。女はその度に「忠さん、忠さん」と答えてきました。芭蕉は、もうすっかり、結ばれなかった幸と交わっている気分になっていました。
 女は何をされても決して拒みませんでした。そして何度も嬉しそうな声を上げました。やがて芭蕉は心地良い疲れと共に眠りに落ちました。

「ご主人様、ご主人様」
 女に声を掛けられ、肩を揺すられて芭蕉は目を覚ましました。すでに庭に月の光はなく、うっすらと夜が明け始めていました。女は、もうすっかり身支度を整え、すぐにでも旅立てそうに見えました。
「ああ、もう朝なのか?」
「起こしてしまってすみません、ご主人様、私はもう、行かなくてはなりません。ですから、すぐにお金を頂きたいのです」
 そう言われて、芭蕉はとても寂しい気分になりました。しかし、芭蕉は、女も少し寂しそうな顔をしているような気がしました。
「急がせてすみませんが、よろしくお願いします」
「分かった。ちょっと待ってくれ」
 芭蕉は起き上がると自分の部屋に戻りました。弟子の曾良は前夜のできごとを一切知らないまま眠り続けていました。芭蕉は荷物から財布を取り出しました。そして、遊女に払うのに適当な額にかなり上乗せをした額のお金をそこから出しました。
 芭蕉は女の部屋に戻り、女の前に腰を下すとお金を女に差し出しました。
「ありがとうございます」
 お金を受け取ると女は嬉しそうに笑いました。
「それでは失礼します」
 立ち上がりかけた女を芭蕉は止めに入りました。
「幸、待ってくれ、自分たちもすぐに出発の支度をするから、少しだけでも一緒に歩けないだろうか?」
 芭蕉の言葉に女は冷たい返事を返してきました。
「ご主人様、すでにお金を頂いたので、私はもう幸ではありません。ご主人様と私は、もはや、たまたま同じ宿に泊まった旅人同士に過ぎません。朝が来れば、それぞれ別々の道を歩かなければならないが定めでしょう」
 芭蕉は確かに言われた通りだと思い、少し落ち込みました。その様子に気づいたのか、女は声を和らげて聞いてきました。
「ところで、ご主人様、昨夜はお楽しみ頂けましたでしょうか?」
「ああ、もちろんだ」
「私は、幸さんの代わりになれましたでしょうか?」
「ああ、なれたよ。昨夜の君は、私にとって幸そのものだったよ。昨夜は今までの人生の中で一番良い夜だった」
「そうですか。遊女冥利につきます。それでは、これで失礼いたします」
 女は改めて深々と頭を下げました。そして、立ち上がると、部屋から出てゆく素振りを見せましたが、不意に思い出したように芭蕉に語り掛けました。
「ご主人様、正直に言いますと、私は昨夜、仕事だということを忘れていました。私にとっても昨夜は、今までで一番良い夜でした。遊女としては、それではいけないのですが・・・」
 芭蕉は女に返す言葉が見つかりませんでした。
 やがて、女は芭蕉に背を向けました。そのまま、部屋を出て行くのだろと芭蕉は思っていました。しかし、女は廊下には出ず、なぜか敷居の手前に腰を下しました。
「ご主人様、代金のお釣りをお返しいたします。金額をお確かめください」
 そう言って女は敷居の所にお金を置きました。
 おかしなことを言ったなと芭蕉は思いました。遊女が一度貰ったお金を、たとえ少しでも返すなど、普通ありえないことだったからです。女はあらかじめ金額を口にしていたわけでもないのに、お釣りの額を確かめろとは、どういうことなのだろうと芭蕉は思いました。しかし、女の背中には、それを問うことを許さないような気配が感じられました。だから、芭蕉はとりあえず黙って見送ることにしました。
 やがて女は立ち上がりましたが、すぐには歩き出さず、芭蕉に背中を向けたまま最後の挨拶をしました。
「じゃあ、失礼します。さよなら、忠さん」
 そう言うと女は出口の方に歩いて行きました。「もう幸ではない」と言い放った女が、どうして最後に自分のことを「忠さん」と呼んだのか、芭蕉は不思議に思いました。それを尋ねたい思いはありましたが、芭蕉は女が望んだように後を追うことはしませんでした。
 
 女が宿を出た頃合いを見計らって、芭蕉は女が置いていったお釣りを取りに行きました。そして芭蕉はとても驚きました。そこには、渡したお金のほとんどが残されていました。確かめてみると女が持っていったお金はわずか六文でした。
 その金額を知った時、芭蕉は一夜のできごとの全てに納得がいきました。おそらくは破ってはいけない決まりが有り、自分の素性を語れなかった女が、六文という金額で伝えたかった思いが痛いほど分かりました。女は前夜、旅のためのお金がないと言っていました。女が持って行った金額の六文、それは三途の川の渡し賃でした。芭蕉は、初恋の人である幸が、死の間際に自分に会いに来てくれたのだと悟りました。
 それが分かった途端、芭蕉の目から一気に涙が溢れてきました。「幸、ありがとう、ありがとう」、芭蕉は心の中で何度も何度も幸に対する感謝の言葉を口にしました。

 少し気持ちが落ち着くと、芭蕉は、江戸を出てからずっとつけてきた旅日記の中に、前夜のできごとを書き留めたいと思い始めました。
 しかし、幸が最後まで自分の素性を明かさなかったのは、破ってはならない決まりがあってのことでした。だから、芭蕉は、その物語を書くことを諦めました。でも、せめて、幸との一夜の欠片ぐらいはどうにか残したいと思い、一つの俳句を詠みました。
 その俳句は、それだけ読むと、何が言いたいのかよく分からないようなものでした。しかし、そこには、三十年もの時を経て、再び巡り会えた喜びと、一夜で別れなければならなかった悲しみが隠されていました。
 とは言うものの、幸との一夜を詠んだ俳句を旅日記に載せるためには、それまでと同様に、俳句を詠むに至った成り行きも書かなければなりませんでした。でも、本当のことを語ることはできないので、俳句にうまくつながるような作り話をでっちあげるしかありませんでした。芭蕉が思いついたあらすじはこうでした。
 
 遊女と俳句の師匠という境遇が異なる者同士が、たまたま同じ宿に泊まった。境遇は違っても、二人は共に、月の光を浴びて美しく萩が咲く庭を眺めた。しかし、それは、束の間の旅の出会いの一幕に過ぎず、朝が来たら、それぞれ別の道を歩き始めるしかなかった。
 
 芭蕉は自分の部屋に戻ると、旅日記を取り出し、考えたあらすじに沿って、俳句に至る嘘の成り行きを考えました。しかし、芭蕉が本当に書きたかったのは、最後の俳句だけでした。そのせいで、芭蕉は、俳句ができるまでの成り行きと、俳句のつながりがあまり良くないことを気にせずに、旅日記に話を書きつけてしまいました。旅日記に書かれた話はこうでした。

<市振>
 今日は、親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなどの、歩くのが辛い場所を歩いた。疲れて宿で横になっていると、襖越しに隣の部屋の客の声が聞こえてきた。
 隣に泊っていたのは二人の遊女と連れの年配の男だった。遊女二人は、明日、男と別れ、女二人で伊勢神宮にお参りに行くのが分かった。
 翌朝、私たちが出発しようとすると、遊女二人が頼みごとをしてきた。「女だけの旅は心細いので、せめて、しばらく私たちの後ろをついて行かせてほしい」と言うのだ。
 「私たちは、色々と寄る所があるのでそうはいかない、他の人の後をついてきなさい」と冷たく言って出発したものの、女二人を哀れに思う気持ちはしばらく消えなかった。

 一家に遊女もねたり萩と月

 「萩と月」、それは生涯でたった一夜結ばれたきり、二度と会えなくなった二人のことでした。
 俳句の中で、芭蕉は、地に残された自分を萩の花に例えました。そうして、遊女を装って現れ、やがて天に昇っていった幸を月に例えたのでした。

おしまい