✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎



(み、見えない……っ)

 ブーゲンビリアの髪にフォレストグリーンの瞳を持ち、二つの鹿の(つの)を持った少女ーーフィノエルーラは現在進行形で困っていた。
 剣術大会の予選が終わり、本戦も後半となってきた今、会場は大勢の魔族で混んでいた。
 フィノエルーラは今、行われている試合を見たいのだが、身長の問題故、周りに視界を塞がれている状態である。

(オリバー様の試合、見たいのに……)

 獣人族とは言えど、性格や体格は獣人族の中でも大きく分かれる。

(でも……!)
「し、失礼しまぁす……」

 フィノエルーラは小さい体格を生かして、魔族たちの足の間を通り、競技場の方へと進む。
 上を通ることができなかったら下を通ればいいだけのことだ。

(小さくてもいいことあるもん)

 昔は小さいせいで、よく同年代の魔族に馬鹿にされたものだ。
 だが小さいからこそできることも多い。
 隠密行動や狭いところに入るのはフィノエルーラの得意とすることである。
 魔族の間を抜けると、競技場がよく見えた。

「すごい……あっ、オリバー様だ!」

 フィノエルーラがオリバーと出会ったのは数年前。
 フィノエルーラの故郷である獣人族が住む村でのことだった。
 フィノエルーラはユームを取るため木に登っていたのだが、降りられなくて困っていた。
 幼かった故、身長の倍以上の高さの木から降りるのは恐怖を感じたものだ。
 何故登ってしまったのだろうと後悔してもいた。

[どうすればいいのかしら……っ]

 村からは少し離れている場所にあったため、フィノエルーラが呼んでも気づくものはいないだろう。
 そのくらいは当時のフィノエルーラもわかった。
 そんな時だった。

『何やってるの?』
『! あっ、あのっ! たすけてくださいっ……!』

 オリバーと初めて会ったのは、そんな時だった。
 誰かもわからない魔族に、フィノエルーラは助けを求めた。
 それがもし、同じ獣人族だったらと思うと、もっと恥ずかしい思いをしたことだろう。

『魔法、使えば良くない?』
『え!? えと、まだ、その……』
『……あっ、もしかして使えないの?』
『〜〜っ!!』

 魔族が魔法を使えない。
 虐めの対象になるのはもちろんのこと、魔族とは到底認められない。
 魔力を発見したのは魔族だ。
 魔力を使って魔法を生み出したのも魔族だ。
 人間は魔族の真似をしなければ生きられなかった弱者。
 よって、魔法を使えないものは魔族ではない。
 そういう決まりのようなものがあった。
 フィノエルーラはまだマシだった。
 魔法を使えない者を虐める風潮はよくあったことだ。
 酷いところでは5歳までに魔法を使えなければ処刑されるところもあった。
 フィノエルーラがその日、ユームを取るために木に登ったのは、いじめっ子たちに言われたからだ。
 逆らえば暴力を振るわれる。
 痛いのは嫌だったので、当然フィノエルーラは従った。
 だがその結果、降りられなくなった。
 このまま帰ることができなければ、最悪魔物に襲われて死ぬ。
 そのことをフィノエルーラはよくわかっていた。
 オリバーはフィノエルーラに手を伸ばす。

『っ、いや……っ!』
『!』
『……っあ、ご、ごめんなさ……っ』

 暴力を振るわれた映像と重なり、拒否反応を示してしまった。
 そしてこれを理由に暴力を振るわれると思ったフィノエルーラは、急いで謝る。

[けらないで……なぐらないで……いたいのは……いたいのはやだよ……っ]

 泣きそうになるフィノエルーラに、オリバーは言った。

『おいで』

 両手を広げて、オリバーはフィノエルーラを真っ直ぐ見つめた。
 優しくて、だけどはっきりとした声だった。

『大丈夫。僕が受け止めるから、絶対』
『……ほんとうに?』
『本当だよ。嘘じゃない。僕を信じて』

 フィノエルーラはオリバーが嘘をついているように見えなかった。
 声もその理由の一つだったが、それがあまりにも綺麗で、美しかったから。
 サンフラワーの金糸が夕陽に照らされていた。
 ネイビーブルーの瞳は雲ひとつない青空を思わせた。

『…………っ!』

 すごく怖くて、落ちたら死んでしまいそうだった。
 だけど、オリバーがいてくれるなら、と勇気を出してフィノエルーラは跳んだ。

『わっ……きゃああああっ!』

 そして幸いなことに、無事に降りることができたのだった。
 だが、オリバーに馬乗りする形で降りることができたことをフィノエルーラが知るのは数秒後。
 一瞬の悲鳴の後、フィノエルーラは急いでオリバーから降りた。

『ごっ、ごめんなさいっ、わたし……っ』
『ああ、いいよいいよ別に。それより君は怪我、してない?』
『〜〜っ! だ、大丈夫ですっ』
『そっか』

 その時の向日葵(ひまわり)のような笑顔にフィノエルーラは魅了された。

『なら、よかった』

 オリバーへの初恋はここから始まったのだった。

(はう……かっこいいですオリバー様……)

 昔の出来事と今、戦っている勇姿を見て見惚れるフィノエルーラ。

(オリバー様に惚れない女性などこの世にはおりません……〜〜っ)

 ますます恋心の詰まるひと時であった。
 だがそこで幸福な時間は終わった。

「ちょっ、押すなって……おわっ!」
「えっ? わ、わわっ!」

 後ろの観客が試合の見たさに押してきたのだ。
 フィノエルーラは最前列だったため、後ろからの強い力によって、座席と座席の間の通路に重心がずれた。
 その結果、前に倒れ込む形で転んだ。

(あっ……)

 そのはずみでフィノエルーラのブローチが外れた。

(だめっ!)

 エメラルドグリーンの輝きを放って落ちていくブローチ。
 フィノエルーラの宝物だった。
 オリバーに別れ際にもらった、二人を繋ぐ唯一の大切なものなのだ。
 今日のために仕立ててもらった服も、髪も、そのブローチには変えられない。
 忘れてはいけないことがある。
 ほぼ全てのことにおいて、判断が早いことに越したことはない。
 それは当然、反射的なものも含まれる。
 フィノエルーラは限界まで手を伸ばし、そしてーーほんの端に触れ、掴むことができた。

(やった……!)

 それも束の間、フィノエルーラが転倒することに変わりはない。
 掴み取ったブローチが割れないよう、フィノエルーラは自分の胸元に強く引き寄せ、無事を願う。
 フィノエルーラは深く武術を学んでいない。
 よって、簡単な受け身程度しか身体に刻み込まれていない。
 咄嗟のこと、且つ、ブローチを人質に取られていたようなこの場面において、フィノエルーラには受け身を取れるまでの時間がなかった。
 大事なことは再度復習、復唱する必要がある。
 何故必要なのか。
 答えは簡単だ。
 それは、何時(いつ)如何(いか)なる時も忘れてはいけないことだからだ。
 覚えているだろうか。
 ほぼ全てのことにおいて、判断が早いことに越したことはない。と言っていたことを。
 少し補足をしよう。
 その言葉に当てはまるのは、魔族であろうが人間であろうが、関係はない。
 それを、忘れてはいけないーー。

(……痛く、ない)
「あの……っ」

 フィノエルーラは自分に起きている状況を理解できていなかった。
 痛みが全くない。
 そう。全くないのだ。
 そして何やら、柔らかいものが首と膝の後ろに当たっている感覚がある。
 しかしこれは(みだ)らな少年漫画系の展開ではない。
 それ以前にフィノエルーラは女性であり、柔らかいと感じる箇所が二箇所、離れている場所なため、その可能性は極めて低い。
 ではこれは何なのか。
 フィノエルーラは声のした方を見る。
 少し上だった。

(わっ……)

 爽やかな風がフィノエルーラの頬を撫でる。

(綺麗な、人……)

 夜帷(とばり)が降りた冬の星空を閉じ込めた長い髪。
 ピーコックサファイアの二つの宝玉。
 それはまるで、夜空に光る一番星を連想させた。

「大丈夫ですか?」

 優しく、だが意思のはっきりした声だった。

(超絶美少女……)

 向けられた視線だけで心臓が波打つ。
 恋とは違うドキドキだ。
 ふっと笑えば、同性でさえ魅了することだろう。

「あの……大丈夫?」
「……っぁ、大丈夫、です」
「そう。ならよかった」
「〜〜っ!」

 淡々と話しているが、その時の言葉には安堵が含まれていた。

『なら、よかった』

 オリバーの台詞と似ている。
 だから頰が熱を帯びたのだろうか。
 いや、きっとそうだ。
 そういうことだとフィノエルーラは思うことにした。
 そしてフィノエルーラは気づく。

「……、……? ……〜〜っ!?」

 少女の両手の先にあるものを見た。
 少女の現在の体勢を見て知った。

(待って……これって……)

 今、フィノエルーラはお姫様抱っこをされていることを自覚した。
 8歳とは言え、体重はそこそこある。
 そんなフィノエルーラを(年上と思われる)美少女がお姫様抱っこしている。
 普通、この少女がフィノエルーラでなくとも立場は逆のはずだ。
 転倒して怪我をしなかったのは少女がお姫様抱っこをしたおかげだ。
 それは感謝している。
 だが複数の事柄が重なり、今、フィノエルーラは猛烈に恥ずかしかった。

「おっ、おろっ、降ろしてくだっ……さい」
「! あ、ごめん」

 少女はゆっくりとフィノエルーラを降ろす。
 その動作までもフィノエルーラを魅了する。
 これがオリバーだったらフィノエルーラは失神していたことだろう。
 相手が美少女なこともあり、容易に想像できた。

「あっありがとう……ございます……っ」
「ん、このぐらい平気だよ」

 やはり出たのは王子様台詞。
 当たり前のことのようにさらっと言うので威力も高い。

(……あれ、この子……)

 少女は黒をベースとした戦闘服を着ていた。
 一般人ならばフード付きのパーカーに半ズボンのラフな服装に見えるが、よく観察すると通気性の良い防水素材でできており、服の下には【防御】が付与されたインナーを着ている。
 アストライアの専属メイドとして今日まで働いてきた知識と経験が培われた証拠だ。
 フィノエルーラは服のシワや動き方で、どのようなものなのか理解できるようになっていた。

(あとは……あっ、ズボンの裏に短剣三本と針五つある。護身用? だとしてもすごいなぁ……)

 手首にはゴム製のブレスレットがある。
 戦闘時に髪を結ぶためだろうか。

(この子、何者……?)

 フィノエルーラは視線を上から下に移す。

(あっ……!)
「腕、怪我してる!」
「!」

 フィノエルーラは少女の右肘を指す。
 軽くだが血が出ていた。

「は、早く医務室に行かなきゃ……っ」
「いや、このぐらい【治癒】でなんとかな」
「専門の魔族にやってもらった方がいいです! 絶対!」
「…………」

 おそらくその傷はフィノエルーラを助けた時にできたものだろう。
 フィノエルーラは少女の手を掴んで走った。

「そこまでしなくていい」
「私がしたいからするんです!」
「……変なの」

 医務室に連れて行き、少女は【治癒】をしてもらう。
 医師からも大丈夫だと言われたため、【治癒】を終えると二人は医務室から出た。

「ほら、大丈夫だった」
「万が一を考えて行動することが大切なんです!」
「まあそうだけど」

 すると大きな歓声が上がる。
 試合が終わったのだろう。

「……ああああぁぁぁっ!!」
「っ! 急にどうしたの?」
「オリバー様の試合、結局全然見られなかった……」
「あぁ……」

 これでは来た意味がない。
 オリバーの試合を見ることができなければ、見知らぬ少女に怪我をさせてしまった。
 大失敗である。

「……どうしてオリバーに会いたいの?」
「え……?」

 初恋だから、とは初対面の少女に言えない。

「詳しくは言えないけど……」

 短く、誰でもわかるように言うならばーー

「ちゃんと『ありがとう』って言いたいの」

 あの日、助けてくれたことに対してお礼を言いたいのだ。
 ブローチをつけていれば、フィノエルーラが誰かはオリバーにもわかるとフィノエルーラは信じている。

「……君、名前は?」
「そう言えば言ってなかったよね。私はフィノエルーラ」
「フィノエルーラ……さん」
「エルって呼んでください!」
「……っ、エル……?」
「〜〜っ! はい! エルです!」

 フィノエルーラ、は長いので、いつもエルと呼んでもらうことにしていた。
 フィノエルーラと呼ばれるよりもエルと呼ぶ方が簡単だし、フィノエルーラのフィは聞き取りにくい音なのが理由だ。

「……わかった。じゃあエル。この後時間空いてる?」
「? 空いてるけど……それがどうかした?」
「絶対とは言えないけど……」

 そして少女は信じられないことを言った。

「エルをオリバーと会わせることができるかもしれない」
「……………………え、ええええぇっ!?」

 いったいこの少女は何者なのだろうか。

「会えるの?」
「オリバーが許可すれば、の話だけど」
「オリバー様が許可すれば会えるの? 会えるの!?」
「落ち着いてエル。会える可能性は百パーセントじゃないから、あんまり期待されると会えなかった時の反動が強くなっちゃう……っ」
「でも、でも……!」

 これまでフィノエルーラがオリバーに会える確率はゼロに等しかった。
 それに比べれば大きな進歩だ。

「だから落ち着いてって。深呼吸して、深呼吸」

 少女に促され、フィノエルーラは大きく深呼吸。
 そして少女にお礼を言った。

「ありがとう! 本当にありがとう!」
「いや、まだ叶えてあげてないから」
「……そう言えば、名前は?」
「名前?」
「そう! あなたの名前! すっかり聞くのを忘れてたよ」
「名前……」

 まるで初めて聞かれたかのような反応をする少女。
 そしてーー

「……シノ」
「シノ……シノって名前なの?」
「……そう、シノ。私は、シノ」

 初めて口にしたかのように少女、シノは答えるのだった。