花精が花を咲かすには、恋が必要だ。
 だから、惟や僧都が動揺したのは当然だろう。
 初対面の術者と花精が病を癒やせることはほぼない。恋には時間が必要だ。そこに一瞬で、滑り落ちれるというのなら、それは――

(一目惚れ? それとも、運命……かな?)

 そんな劇的な始まりが、相応しいのだろう。

(だけどこれは――そうじゃない)

 分かっているから、光の淡い紫の双眸は、どこか寂しげに微苦笑に細められた。
 歩み寄ってきた気配に、幼い顔が光を振り仰ぐ。

(……似てる――)

 胸が騒いだのは、似ていたから。
 けれど、それは、誰に? 藤色の花精に? それとも――自分の境遇に?

 涙に濡れない瞳をなお悲しげに揺らして。土気色した女性の乾いた頬に、小さな手のひらが触れている。
 どこか、覚えのある姿だ。失えば、孤独になると分かる程度には物心がついていた頃。病床の己が祖母の傍らにいた少年。泣きすがればよかったのに、それをすれば困らせるだけだと、涙を飲んで、じっと耐えるしかできなかった幼子。
 ――そうして、寄る辺となる大人を失った子。

(……泣いて、悲しめばよかったんだ……。自分だけでも、憐れんでやればよかったのに……)

 泣けない花精の少女に、重なる面影。それにいまさらにそんなことを思っても、もう遅い。

 本家に引き取られてから、不自由はなかった。でも、居場所もなかった。誰もが本妻の逆鱗に触れるのを恐れ、丁寧に接しながらも距離を置いた。父は優しかったが――そのせいで余計に、心を折られた。
 どれほど優しかろうと、光を満たそうと物を買い与えようと――父は、己の隣に、光の居場所をつくろうとはしてくれなかった。本当に欲しかったのは、それだけだったのに――。

(俺は、本家にいらない子だった……)

 愛した人が残したせいで、扱いに困ることになった子ども。だから最後には、手元で愛おしむことを放棄して、本家の外に捨てられた。

 光を見上げるこの花精の少女も同じだ。愛し合った人と花精の間に生まれ落ちたというのなら、そのふたりの間で、その隣で、慈しまれてしかるべきだったというのに。本家の手により、こんな山の奥に封じられた。

 身勝手なものだ。術で恋を弄ぶのに、育んだ愛は、手に余らせて捨ててしまう。そうすることで、今日も、術者を統べる皇の家は、その権威と力を安泰と保っているというわけだ。
 その過程で振り捨てた愛の成れの果ては、振り返りもせずに。

「――君、その方を治したいんだろう?」

 安堵させるように微笑んで、光は花精の少女の隣に膝をついた。あわせた目線の先、紫色の大きな瞳が、驚いたようにぱちりと瞬き、すぐさま力強く頷く。いくども首を縦に振る、その勢いに肩口までの髪がばさばさと乱れて、光は笑みを漏らした。
 確かに、仕草はまるで子どもだ。父の元にいた藤色の花精の楚々とした落ち着きとは似ても似つかない。

「うん、うん、分かった。それで、物は試しなんだけどね?」
 乱れた髪を、優しく撫でて直してやりながら光は微笑む。
「俺は、君たち花精に力を貸せる人間なんだ。どうだろう? この病を、俺と一緒に治してみるというのは? 難しくは、ないよ。少しだけでいい。君が俺のことを、わずかでも好ましく思ってくれるなら……きっと、うまくいくよ」

 そう笑みにほどける、蕩けるように甘いかんばせ。その美しさに、ぽっと少女の白い頬へかすか薄紅がさした。

 人も花精も狂わせる、見目形。それのせいで呪詛まで受けることになったわけだが、こんな形で、それが役に立つとは皮肉なものだ。
 初めて会った相手であっても、彼の容姿は心をくすぐり、感覚を甘く痺れさせる。まるで、恋をしたかのように。

 差し出していた光の手に、少女の花精はおずおずと己が手のひらを重ねた。冷たくもなく、けれど血の通ったぬくもりとも違う。それは、花精がもつ、まがいものの体温だ。麗しい人型と同じ。ぬくもりに安らぎを覚える人間へ、寄り添うための武器のひとつ。

(……うわべと偽りで恋心をくすぐるのは、術者も花精も同じだね)

 それでも、彼らは恋をする。
 病を癒すために。たぶんきっと、誰かのために。

「触れてみて」
 ぎゅっと優しく、少女の手のひらを握り返して、光は柔らかに囁いた。
「君の花が――咲くかもしれないから」

 土気色の肌に、細く白い指先が伸ばされ、そっと触れる。瞬間。

 指先に柔らかな日差し色の光が灯り、緑が芽吹き、茎がつたい、見る間に紫の花が老女を包んで咲きこぼれた。
 あふれるように咲いた花は、ともに吹き上がる風に散り、舞い、部屋を満たして踊る。土気色の肌が見る間に血色を取り戻し、苦しげに上下していた胸が、落ち着いた呼吸を取り戻した。

 目覚めないながらも穏やかさの戻った老女の顔に、花精の少女が歓喜の表情をたたえ、光の首筋に抱きついた。
 それに、いささか面食らって瞳を見開き――しかしすぐに苦笑して、光は喜びはしゃぐその背を撫でてやる。
 背後では、花咲きほこる光景に、声もなく驚愕している惟と僧都の気配がした。

(まあ、それはそうだよね)

 実際、光もなかば驚いている。花は開いた。病は癒えた。でもこれは――彼女へ抱いたこの気持ちは、恋ではない。

(たぶん、これは、憐憫だ……)

 彼女の中に、幼い頃の自分を見た。その姿に、愛しさを注いでみただけのこと。

 光に縋りつき、全身で喜びを表す彼女だって、恋を理解しているとは思えない。本当に光の言葉通り、少し彼をその見た目で好ましく思っただけだろう。よくて、憧れ程度だ。

 けれど――なにかが光と彼女の間で通い合った。それは確かだ。そしてそれは間違いなく、互いへ抱いた好意ではあった。だから、ふたりの間で花が咲き誇ったのだ。

(――本物の恋でなくても、いいんだな……)

 恋をしろ、数をこなせと言った深山の助言を理解する。恋心なんて、そう簡単に、おまけに複数に、抱けるものではないと思っていた。
 けれど、まがい物でいいのだ。相手へ抱いた感情。その片端が、恋とたばかれるものであったなら。好いた惚れたと、自分も相手も誤魔化して、恋のままごとに興じられるなら――形代の恋でも、花は咲く。

(確かにこれじゃあ、愛してしまったら、馬鹿を見る……)

 恋という感情の上で、じゃれあっているだけの方が効率がいい。多くの花精を使って病を癒せるし、花精は、多くのタネを残していけるから。

(だから……愛は切り捨てたんだな……)

 己が境遇を、不満に思ったことはいままではなかった。父が優しいのは確かであったし、一条家に引き取られ、深山や惟をはじめ、気にかけてくれる者もいた。だから困ることはなにもない。寂しいこともなにもないと――思っていた。

(でも――捨てられたんだよな……)

 あの幼い日、確かに自分は悲しかったのだ。いらないものと、烙印を押された。その憐れさを、独り、抱えていた。
 そんな疼きを、少女の姿を見て、いまさらに自覚してしまった。

(……ざまぁ、ねぇ……)

 光はかすか、ほの暗く微笑んだ。
 それを見咎めて、少女の花精が首をかしげる。けれどその不思議そうにのぞき上げた瞳は、意味までは到底、理解できていないようだった。

 光は翳りをはらって、優しく少女へ微笑みかけた。つないだままの手を、うやうやしく掲げて、甘やかに言う。

「ねえ、俺の花精にならない?」

 恋をしよう。まがい物でも。ままごとでも。
 そうして恋と戯れた想いによって、花が開き咲き、病を癒しゆくことで、術者としての力を示せるのなら。そうしてゆくゆく、本家を脅かすまでに、その力を世に轟かせられたのなら――。

 示せるのかもしれない。お前たちの捨てたものは、居場所を与えなかったものは、それでも確かに、ここにある――と。

「俺は君と、恋をしたい」

 誘いかけるは蠱惑の笑み。
 恍惚とそれに見惚れ、操られたかのように、少女の花精が、ゆっくりと頷いた。

「ありがとう――紫の君」

 いとけない淡い紫の瞳に、そう呼びかける。己の瞳と同じ色。ただ違うのは、彼女のそれはまだ無垢で――けれど光の瞳には、暗く揺らめく決意が宿ってしまったということだ。

(この恋をするなら、似通っている――君がいい)

 同じように皇から見捨てられた彼女が、きっとこの恋の相手にはふさわしい。

 形代(ニセモノ)の感情を、本物なのだと偽って――さあ、反逆の恋をはじめよう。