無事、職員室に日誌を届けることができた。

 先生からは「小野にしては珍しいな」とひょんな顔で言われたが、そんなこと自分が1番分かっている。

 普段の自分であれば、絶対にミスをすることがないものなのだから。

「これでやっと図書室に・・・あれ、ノートがない」

 リュックの中を探してみても、『僕と私の古典ノート』がどこにも見当たらない。

 あれがなければ、意味がない上に、誰かに見られてしまっては絶対にいけない。

 焦る想いを胸に、記憶を辿る。確か教室にいたときには...

「あ、机の上だ!!」

 額から汗がこぼれ落ちる。この汗が走ったことによってかいた汗なのか、冷や汗なのか私にはわからない。

 ただ一刻も早くあのノートを回収しなければいけない気がした。

 そのことばかりが脳内を這いずり回る。

 職員室に向かうために走った廊下を再び戻り、教室へと急ぐ。廊下を歩く生徒はほぼいなくなっていた。

 走るたびに廊下に取り付けられた窓に映る自分の姿。

 いつ見ても決して可愛いとは言い難い。仮に平安時代に私が生きていたら、可愛いと呼ばれたかもしれないが、現世では絶対にそんなことはあり得ない。

 時代と共に可愛いと呼ばれる女性の基準は常々変わり続ける。きめ細かい白い肌やサラサラした艶のある黒い髪は、私だって負けてなどいない。

 だが、切れ長の細い目やふっくらした頬などは、現在の日本では可愛い部類ではないだろう。

 どちらかといえば、すらっとした顔立ちにくっきり二重のぱっちりした目の方が、女の私からしても可愛いと思ってしまう。

 私の顔立ちは完全に現在の男性に好まれる顔ではなく、平安時代に人気のあった顔立ちなのだ。

 だから、自分が平安時代の書物に興味があるのかもしれない。

 自分と似た女性たちが何を思い、どんな日々を過ごしたのか気にならずにはいられなかった。

 もしや自分は、平安時代に生きていた誰かの生まれ変わりなのではと度々思うことだってあった。

 妄想にすぎないが、もしそうだとしたらそれはそれで古典好きには嬉しいことだ。

 確かめる方法など存在しないのに。

 次第に窓からは私の顔は夕日によって消えかけ、窓には反対側に建つ校舎が見える。種類のわからない鳥が、夕焼けに向かって飛んでゆく。

 この情景だけでも、昔の人は和歌を綴ることができたのだろうか。もし、そうだとするとやはりすごいなと感心してしまう。

 訳を作ることはできるが、和歌自体を私は作ることができない。一層凄さが身に沁みる。

「はぁ・・・はぁ・・・やっと着いた」

 教室の前に到着し、扉に手をかけようとした時だった。

 扉は閉まっているが、中に誰かがいる気配が感じ取れた。私が教室を出たときには誰もいなかったのに、どうして...

 古びた扉のため、少し開けただけでも音が響いてしまう。覗こうとなれば、絶対にバレてしまう。

 ガタンっと中にいる誰かが、机か椅子にぶつかる音が聞こえてくる。

「やっぱりいるんだ・・・」

 口を抑えながら、言葉を漏らす。一枚の扉越しにいる誰か。姿形はわからない。でも、どうかどうか私のノートだけは見つけないでほしい。

「こんなところに呼び出してどうしたの?」

 突如、教室から聞こえてくる声に思わず心臓が驚く。単純に声が聞こえた驚きと、声だけで中にいる人が誰なのか分かってしまった驚きが混ざり合う。

 私が大好きでやまない先輩の声だった。

在原(ありはら)先輩。あ、あの私先輩のことがずっと前から好きなんです。もし、よければ私と付き合ってくれませんか?」

「ごめん」

 1秒と間があっただろうか。彼女の告白に間髪を容れず振られてしまった女の子。第三者として盗み聞きしている私でさえ、あまりの脈のなさに泣いてしまいそうになる。

「どうしてですか?」

「僕ね、好きな人がいるんだ。だから・・・ごめん」

 ガラッと開かれたもう一方の扉から廊下を走り去っていく女の子。履いていた上履きの色からして私と同じ学年の人だった。

 どんな顔して教室に入ればいいのかわからなかった。私だって、一歩間違えた選択をすれば、彼女のように泣く未来など容易に想像できてしまう。

 このまま立ち去ってしまいたい。先輩には申し訳ないが、今は顔を合わせるべきではない。

 今にも泣いてしまいそうになっている顔を見せたくはなかった。

「そこにいるんでしょ、小野さん」

「えっ」

 声が出てしまった。まさか気付かれていたなんて思ってもいなかった。

「僕が気付かないわけないでしょ。ここに僕らのノートもあることだし、絶対に取りに戻ってくると思ったからね」

 恐る恐る教室に足を踏み入れると、背後から夜に消え入りそうな夕日に照らされた先輩が窓際に立っていた。

 手には『僕と私の古典ノート』が握られて...

「せ、先輩」

「ん?」

 何事もなかったかのように飄々としている先輩。

 きっと数ある告白のうちの一つに違いないのだろう。

「どうして断ったんですか?」

「聞いてたでしょ? 僕には好きな人がいるって」

「じゃあ、どうして先輩は辛そうなんですか」

 後ろから迫り来る夜に溶けてしまうくらい先輩の表情は切なそうに見えた。

 何か大切なものを傷つけられたかのように...

「これを・・・馬鹿にしてきたんだ」

 古典ノートを握りしめた手を差し出す彼。

「そうだったんですね・・・」

「うん。小野さんが図書室に来るのが遅かったから、迎えに行こうと思ってここにきたら彼女がいて、これを笑いながら僕に見せてきたんだ。『ウケる。何これ』って馬鹿にしながら。それから、彼女は急に告白してきたんだ。きっと2人きりになれる機会が今しかないと思ったんだろうね」

 語る先輩はどこか悲しげな様子で、どこかを見ていた。私ではないどこかを。

「仕方ないです」

「ごめんね」

 ボソッとつぶやかれた謝罪の言葉を私は聞き逃さなかった。どうして先輩が謝るのか理解できなかったから。

「なんで先輩が謝るんです?」

「守ることができなかった。小野さんの大切なこのノートを。だから、ごめん」

 やっぱり私が好きな人は優しい人だった。私の大切なものを否定されたことを気にしてしまうくらい優しく、そして不器用な人。

 そんな彼だったから私は恋をしたのだろう。

 闇に溶けかける先輩の姿は、和歌で描かれる秋夜を彷彿させるほど儚げで愛しいものに見えた。