「ママ、行ってくるね!」

「あら、今日はやけに早いわね」

「うん! ちょっと楽しみなことがあって、早く学校に行きたいんだ!」

「それはいいことね。気を付けていってらっしゃいね」

「いってきます!」

 普段よりも20分早く家を出た。もちろん、理由は誰よりも早く図書室へ行くため。

 昨夜、先輩からラインが届いた。先輩から届いた初めてのラインの内容は、『明日の朝1番に図書室に来て』というもの。

 先輩とは入学したての頃、たまたま友人たちと図書室に来た先輩にラインを聞いていたのだ。

 今思えば、すごい行動力だったと思う。今までの私には考えられないくらい突発的なものだった。

 先輩は普段から連絡先をよく聞かれるのか、「あ、いいよ」と別に構わないようなサラッとした反応だった。

 さすがモテ男は違うなと思ったが、後々聞いた話によると先輩は滅多に女子とライン交換をしないらしい。

 運が良かったのか、それとも先輩の機嫌がよかったのかはわからないが、ラッキーだったことに変わりはない。

 交換して以来一度もメッセージのやり取りはしていないのだけれど。

 あの時の行動力がこうして実を結ぶなんて...

 昨日も見たはずの通学路が普段よりも色付いて見える気がする。

「世界ってこんなに色付いて見えるんだ・・・」

 誰か他の人が聞いていたら、痛いやつだと勘違いされそうなセリフ。

 自然に囲まれた住宅街。少し遠くには、日本の象徴のひとつとも言える富士山が見える。

 薄らと白くぼやけた視界の先には、聳え立つ山々が私たちを見守っているかのように。

 澄み渡った青空に、描かれる半透明の消えてしまいそうな月。

 手を伸ばせば届いてしまいそうだけれど、実際の距離は果てしなく遠い。

「綺麗・・・あっ! これってあれじゃない? なんだっけな〜」

 ポケットからスマホを取り出して、検索画面に文字を打ち込む。

 『万葉集 朝日』

 以前、万葉集を読んだ時に見た気がする。朝日をモチーフにした数少ない和歌の中でお気に入りだったやつが...

「あ、これだ」

 検索画面から出てきたのは、たった8つの和歌。月に関する和歌はたくさんあるのに、朝日に関する和歌は極端に少ない。

 私の予想だが、昔の人たちも朝日よりも夜に浮かぶ銀色の月を眺めていた方が、自分の気持ちに正直になれたのではないだろうか。

 1人眺める月に語りかけるように、想いを常々溢れさせていたに違いない。

 かの有名な近代文学の文豪の1人と称される夏目漱石が、「I love you」を『月が綺麗ですね』と訳したように、少なからず人は月を見ると何かしらの想いを馳せてしまうのだろう。

 私だって、そのうちの1人だ。月を眺めると自然と感傷的な気分に陥る。

 反対に朝日は目覚めのようなもの。だから、和歌の数も記録されているものが少ないのかもしれない。

 真実は私にはわからないが、今も昔も感性が変わっていなければ、きっとそうなのであろう。

「えっと、朝日影にほへる山に照る月の・・・」

 和歌の下に書かれた現代語訳には、『朝日がさして輝く山に照る月のように見飽きることのない君を山の向こうに置いてくることです』と書かれていた。

「これって、私が今見てる光景と同じだ!」

 リュックから古典ノートを取り出そうとするも、先輩に預けていたことをすっかり忘れていた。

 ノートにメモしておきたかったが、手元にないのでは仕方がない。

 できるなら、ノートに書いておきたかったが、仕方なく携帯のメモ機能を開く。

「んー、どう訳そうかな。難しいな・・・朝日がさして・・・よし!」

 タッタッタと軽快なフリック音が、静かな住宅街とは裏腹に携帯から鳴り始める。

 『私の古典訳』と書かれたメモ機能の欄に、埋まっていく文字の数々。 

 この文字ひとつひとつが違うだけで、意味合いも大きく変わってくる。

 例えば、『私が』と『私も』では全く後の文章が同じだとしても、異なった解釈をしてしまう。

 『私が歌った』と『私も歌った』の意味が違うように、和歌も言葉ひとつ違うだけで当然意味も変わってしまうのだ。

 それに、昔の言葉は解釈の仕方で大いにたくさんの発想を繰り広げることができる。

 言葉はいつの時代になっても消えることがなく、興味深い存在なのだ。

「あ、できた!」

 『薄らと輝く半透明の月と同じくらい君が綺麗だなぁ。まるで、今にも消えてしまいそうなほど尊い』

 普段よりも少しだけポエムのような堅苦しい訳になってしまったが、これはこれでいい。

 脳裏に浮かぶ、月と同じくらいの透明感を持つ先輩。思い出しただけで頬が火照りそう。

 実際に頬に手を当ててみるも、手が冷たいのか、頬が温かいのか絶妙にわからなかった。

 ただ、私の脳内はお花畑状態で今すぐにでも、脳みそが焼け焦げてしまうくらいオーバーヒートしそうだった。