翌日から私の楽しみは、放課後の図書室になっていた。

 いつも通り朝1番に教室に入り、自分の座席で古典文学を読み漁るのが私の日課。

 今手にしているのは、昨日の万葉集ではなく、鎌倉時代初期に編纂された『新古今和歌集』

 古典が苦手な人でも現代語訳付きなので、比較的簡単に昔の人々たちの感性を知ることができるのは素晴らしい。

 現代の人にはない感情や描写が詰め込まれている。でも、ひとつだけ今も昔も変わらぬことが...

 それは、恋をする乙女の気持ちはいつの時代も変わることはない。恋に時代は関係ないのだ。

 途中まで読みかけていたページから栞を抜き取り、机の上に広げる。

 『小野小町(おののこまち)』と書かれた平安時代前期の女流歌人。世界三大美女のクレオパトラ・楊貴妃に並ぶ1人と称された美人だったらしい。

 今の時代だったら、誰だろうと思ってしまうが、あまりにも綺麗な人が多すぎて的を絞りきれない。

 日本だけに絞っても、思い浮かぶだけでざっと10人は超えてくる。それを世界規模だなんて...

 彼女らの凄さが、まじまじと実感できた気がする。

「あ、この和歌いいな」

 小野小町と書かれた隣に黒く太い字で綴られた和歌。

 『思いつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせばさめざらましを』

 この文章だけを見たら、いくら古典の好きな私でも和歌の本質を理解することはできない。

 勉強を重ねれば、いつかは全てを理解できるのかもしれない。でも、まだ授業で少しだけ齧っただけの私には、まだまだ奥深い世界に辿り着くことは不可能。

 隣に細い黒字で書かれた現代語訳に目を通す。見えざる彼女の想いが現代の言葉として浮き上がって、私の脳を潤す。

 『恋しい方を思いながら寝たので、夢にあの方が現れたのであろうか。夢だとわかっていたらそのまま目覚めなかっただろうに』

「なるほどね〜」

 現代語訳の文章を読むと理解できる。彼女の片想いの乙女心が。だって、まさに今の私がそうだから。

 机の脇にかけられたリュックサックの中から一冊のノートを取り出す。

 日焼けしているのか、表紙がほんのりと茶色っぽくなってしまったキャンパスノート。

 ノートの真ん中には、雑な字で『古典ノート』と書かれている。私が自分で書いたものだ。

 細いマッキーで書いた後に、太いマッキーで塗りつぶされたように書かれた文字。よく見ると、何重にも重ね書きされていて綺麗とは言え難い。

 それでも、私にとっては思い入れのある一冊。この中には、気に入った和歌の和訳を自分の言葉で、思い思いに詰め込まれている。

 私なりの勝手な解釈かもしれないが、それでいいんだ。自分が彼女らの和歌を読んで、どう感じ、どう共感を寄せたのかが大事なのだから。

 サッとノートを開いて、先ほどの小野小町の和歌をノートへと写す。

 書いている途中に彼女が何を思い、この和歌を残したのか頭の中で考えを巡らす。私はこの時間が1番好きだ。

 時を超えて、彼女らの思いを想像しながら、共感しようとするこの瞬間が。

 黒いボールペンで『思いつつ寝れば人の見えつらむ夢と知りせばさめざらましを』と書かれた隣にシャーペンで私なりの訳を綴る。

 『きゃー! 夢に好きな人が出てきた! え〜、まじ最悪。もう少しだけ夢見させてよ! あ〜あ、起きたくないな〜』

「よし! いい感じ。きっと全国の恋する乙女はこんな感じだよね」

 現代の女子高校生なら、好きな人に対してはこんなテンションが日常茶飯事だろう。容易に想像できてしまうことが、ちょっとだけ面白くもある。

 これまでに私なりの訳の数はかれこれ、数百にも渡るだろう。どれもが、自分が和歌を読んで感じた想いを自分の言葉にして書いているものばかり。

 どれも自己満足にしかならないが、書いてみると意外と楽しいものだ。

 もっと多くの人に和歌を知ってもらいたい。その上で、読んで感じた和歌を自分の言葉で表現してみてほしい。

 きっとたくさんの個性溢れる訳が生まれ、絶対に楽しいに決まっている。同じ和歌を読んで、違った訳し方になるのも人らしくて、私は好きだ。

 背景には、自分の生い立ちや今の状況が生きてくるだろうから。

 ちょうど書き終えたところで、廊下から話し声がいくつか聞こえてくる。急いで古典ノートをリュックサックの中にしまう。

 徐々に近づいてくる喧騒。古典ノートと引き換えに、英語の単語帳を取り出し、あたかも勉強をしてました風を作り出す。

 趣味の一つではあるが、まだ他人に誇れるほどのものではない。むしろ、人に見られるのは恥ずかしい。

 今はまだ見せられないけれど、いつか誰かに見てもらえたらいいなと思う。

 私たちの恋の文章を今を生きる若者たちへと届けたいから。