年末年始から、日常へと戻ったばかりの街は、平常を取り戻しつつあり、閑散としていた。


「……」

 私は、男――ハル様の父親が運転する車の、助手席に、黙って座っていた。
 彼もまた、黙って車を運転していた。
 そして、高速道路を通って、三時間以上はかかって。
 ついた先は、男の家――ハル様の実家だった。

「……三枝博士。最初に言いましたが、私はあなたの物にはなりませんからね。そういう約束で付いてきているんですから」

 ハル様の実家の、応接間で、私は男に向き合っていた。
 自分の一存で、ここまで付いてきたものの、柾たちの家から遠く引き離されることに不安を感じた私は、念を押すために、彼に言った。

「分かっている。柾君に返却を求めた時から、お前が、私の所へ来るのは、嫌がるだろうことは承知していた。お前がいつも、ハルと一緒に私を睨んでいたのは、知っていたから」

 嫌がることを、分かっていて、わざわざ返却を求めた?

 私は思う。やはり、体――金目当てで、あの社長(おとこ)の命令で、迎えに来たのでは……?
 そんな不安に駆られる私に、彼は首を横に振った。

「私が、お前が柾君と一緒にいるのを知って、返却を求めたのは、柾君たちに迷惑が掛からないようにするためだったからだ」
「迷惑? ……私が、迷惑?」

 私は、決してうぬぼれている訳ではない。だが、柾たちが私のことを、迷惑だと思っている訳はないと確信していた。
 そんな私の思考を、見透かしたかのように、彼は首を横に振る。

「違う。そういうことではなくて。お前がいることで、あの社長(おとこ)がお前を手に入れるために、柾君たちに何かをしでかすかもしれないと思ったからだ。あの社長(おとこ)は、金と名声の為なら、何でもするからな……」
「……」
「だが、その心配は杞憂だったようだ。ハルは、お前がいた痕跡を消し去っていた。なら、私はもう、お前の返却など求めはしない」

 柾たちと、もう二度と一緒にいられなくなる可能性。そんな可能性があったことに気づいて、私は背筋が冷える心地がした。本当に彼女に感謝したくなって――しかし、その時、あることに気づいた。

「……元はと言えば、私はあなたの研究成果でしょう? ハル様はともかく、あなたの所に、何か残っていて、あの社長(おとこ)が私の存在に気づく可能性があります……」

 私は暗い心地で、言った。もしかして、もう二度と、柾たちの元へと帰れない、絶望の心地を込めて。
 しかし、「そのことだが……」と、男はどこかばつが悪そうに言った。

「二年程前、研究室から、お前に関しての書類がなくなって、データも全部消されていてな。ハルが何かしらの器械でピッキングして入った所が、防犯カメラに写っていた」
「……あれ、真似して作ったんですか」
「……まあな、同じものが作れないかと、やってみたらできた」

 似たもの親子か、と突っ込みたくなったが、ハル様が知ったらキレそうなので、やめた。
 ただ、ハル様の周到さには、本当に感謝した。

「じゃあ、なんでそこまでして会いに来たんですか? 私を返してもらう必要がなくなったら、もう用は済んだでしょう?」

 すると、男は、黙った。しかし、私の視線に耐え切れなくなったのか、諦めたかのように話し始めた。

「……お前から、ハルを奪ってしまって、悪かったと謝りたかった。お前とハルが、まるで兄弟か……恋人のように仲が良かった事は、使用人たちからよく聞いていた。お前が、ハルを病院で看取って……泣き叫んでいたことも聞いた。

……悪いことをしたと、許されなくても、謝りたかった」
「……」
「そして、お礼を言いたかった」

 男は、まっすぐに私を見ると、頭を下げた。

「あの子の傍にずっといてくれて、ありがとう。あの子を支えてくれて、本当にありがとう。お前がいたことで、あの子はとても幸せだったと思う」
「……」

 私は、自分勝手な男の言い分に、湧き上がる心の怒りを抑えきれなかった。

「今更何ですか……?」

 私は唸るように声を上げた。しかし、次の瞬間には、その唸り声は爆発して、怒声となっていた。

「本当なら、あの子の傍にいるのは、父親のあんたの仕事でしょうが!
あの子を支えてやるのは、父親のあんたの役目でしょうが! 違いますか?!
あの子が幸せだった? 笑わせんな、ふざけんな!
何にも知らないくせに!
あんたの自分勝手な杓子定規で、あの子の幸せを判断してんじゃねえよ!」

 私は、机の上に立つと、男を指さし、怒鳴った。

「あんたは知ってんのか? 毎日、隠れて、あの子が母親の写真の前で、謝ってたのを!
私が殺したんだって! お母さんごめんって謝ってたの、知ってんのか?!
私は、ロボットだから、人間のことを分かった気になって、とやかく言う資格はねえよ。だけどな、母親が、自分の子供を守って、死ぬ気持ちは、分かっているつもりだ。

自分の命を引き換えにしてでも、守りたい、大切なものだったからだ。

そこまでして守られた子供を、責める父親のお前は、いったいなんだ? なにが、お前のせいで、母親が死んだだって?
愛した女が、命がけで守った子供に!
あんたは何を言ってんだよ! あんたは自分の女の、何を見ていたんだよ!

あんたが、一言でも! あの子に、お前のせいじゃないって言ってくれていたら!
あんたが、一度でも! あの子を、生きていてくれてありがとうって抱きしめてくれていたら!

あの子は、私と一緒にいる必要なんてなくって、
あの子は、自分をもっと大切に、人生を歩めていたんだよ!」

 言い切ってから、人口声帯が、異常加熱を起こした。私の体は自動的に、冷やすために、はあはあと肩で呼吸をした。
 しかし、そんなこともかまっていられないぐらい、私は目の前の男に、心の底から、怒りと憎しみを覚えていた。

「……」
 男は、黙ってうつむいた。何も言わない。言えなくて当然だと私は思う。きっと全部図星だからだ。
 そうやって、もっと傷つけばいい。
 それがせめてもの、ハル様への、償いになる。
 今や私には、この男を傷つけることぐらいしか、ハル様への手向けをすることができない。

「……」
 男は、しばらくの間、ただただ、黙っていた。
 しかし、ふと顔を上げると、言った。

「……庭に、出ようか」
「はあ……?」

 私は、あきれ交じりの声を上げた。

「ちょっと、外の空気を吸いたくてな」
「あんた……何言ってんですか?」

 この場の状況で、急に何を言い出すかと思ったら。耳が聞こえていなかったのか、と思う私にかまわず、男は立ち上がると、部屋を出ていく。

「ちょっと……!」
 私は、この男は何も反省していないのか、と、怒りのままに追いかけた。



 男に追いついた時、男は、庭でライラックを見上げていた。
 まだ、春を待つ木は、寒々しい裸の幹をさらしていて。
 守ってあげなければならない程、頼りない枝を風に揺らして。
 なのに、男はその木を、その木の幹を、愛おしむかのような手つきで撫でた。

 その木は、彼女の母の木だ。
 私と、彼女が二人で守り続けてきた。
 だから、私は、その男の行動が、とても癪に触って――。

「……その手で、その木に触らないでもらえますか?」
「……」
「聞こえていませんでしたか?
あんたに! その木に! そのきったねえ手で! 触る資格なんてねえって言ってんですよ!」

 私は怒鳴る。
 すると、男は、少し寂しそうな顔をして、「そうだな」と手を離した。
 そして、寒空を、寂しい笑みで見上げて言った。

「……陽菜(ひな)とは、大学の時に出会ってな。俺は、それまで、ずっと。自分の研究――機械にしか興味のない、寂しい人間だったんだ。だけど、彼女に出会って――初めて私は人間らしい感情を持てた」
「……」

 陽菜とは、彼女の母の名前である。
 急に何を話し出すのか。私は、冷めた心地になった。しかし、なぜか耳を離せなかった。

「二人で、色々な場所に行って、色々な人間に会って、色々なことを知って……。

誰かと一緒に食べることの、なんでもなさと、けれど、そのありきたりな楽しさを知った。
誰かと一緒に、泣くことの悲しさと、隣に誰かがいる事の心強さを覚えた。
誰かと一緒に、同じことを喜ぶ嬉しさと、そうすれば幸せな心地が増える事を知った。

誰かと一緒に、同じものを見て、触って、同じく笑い、同じく涙を流す。これほど、切なく、嬉しく、幸せな事はないと思った……」
「……」

 私は、なぜか、ハル様と過ごした日々を思い出して――だけど、この男の前だけでは絶対に涙をこぼすまいと、手を握り締めた。そんな私に気付くことなく、男は語り続ける。

「ハルが生まれた日も、二人して、それはもう喜んだ。この世には、こんなにも素晴らしい事があったのかと。
自身と愛した者の血を継いだ――私たちが確かにこの世に生きて、愛し合った事の証が――
この世に生まれ出て、これから先の世を生きていき、命をつないでいく。これほど素晴らしいことはないと喜んだ。

この世に生まれてくれてありがとう。

毎日、そう思って、ハルを愛した。甘やかしすぎて、陽菜に怒られてばっかりだった」

 男は苦笑した。

「……」

 私は、かつて、この男に、そんな時期――ハル様をちゃんと愛していた時期があったという事に、驚きを禁じえなかった。だって、私が知っているのは、ハル様を目の前にしても、目すら合わせない男の姿ばかりだったから。

 ふと、男の顔が、愁いを帯びて――静かに口を開いた。

「でも、結局、私には、陽菜だけだった。彼女だけがすべてで、世界だった。彼女を失った時、私は世界のすべてが失われた気がした。

彼女と見てきた、美しい世界が、
彼女と知った、切ない感情が、
彼女と積み上げてきた、温かな思い出が、
何もかも壊された気がした。

だから、心の底から泣いた。
だから、心の底から怒った。
だから、心の底から憎んだ。

そして、壊した原因の――ハルを責めてしまった」
「……」



『……人はな、最初から、一つのもの……一つの場所にとらわれていてはいけないんだ』
『そうなれば――いつかきっと、生きることに躓く日が来る』

――ああそうか。

 私は、柾の、かつての言葉を思い出していた。

――そうか、この男は――。



「彼女は、今際の際に、『ハルのことをよろしく頼むね』と言い残して逝った。そのことすら、忘れてしまうぐらいに、彼女の事しか目に入っていなかった私は、打ちのめされてしまっていた。彼女の言葉を思い出したのは、ハルにあんな言葉をかけてしまってからだ」
「……」
「結局私の、彼女への愛は……依存だった。私はいい歳して、一つのことしかできない、見えない、大切なものが他にもある事を、すぐには気づけない……子供だったのさ」


――私も、この男のようになっていた、可能性があったのだろうか。


 ふと、私はそう思った。
 彼女を失って、何もかも、どうでもよくなって。
 私にとって、あの日まで、目に映るのは彼女、ただ一人だった。
 私を大切に思ってくれている、柾も、もみ路さんも、桜さんの存在も、何もかも見えなくなって。
 まだ確かに残っている、大切なものを見落として、ないがしろにして、傷つけて、

 柾にあの日、吹っ飛ばされなければ、
 柾にあの日、目を覚まさせてもらえなければ、
 そんな可能性が私にもあったのではないだろうか。
 私には、柾がいて、
 この男には、そんな――吹っ飛ばしてくれる誰かが、妻以外に誰もいなかっただけで――。


「……」

 だけど、私は思う。この男には、そんな誰かがいなくても、彼女とやり直せる時間はたっぷりとあったはずである。それに、彼女を傷つけて、すぐに我に返っているのに、何故……。

「……その時に、何故すぐにやり直そうとは思わなかったのですか? 一体、猶予は、何年あったと思っているのですか? ……本当は反省など、まったくしていなかったのではありませんか……?」

 男は、「その通りだな」と自嘲気味に笑った。

「ハルとやり直そうと考えて、何度も声をかけようとして。だけど、そのたびにされる拒絶の顔が、恐ろしくて、怖くて。
いつしか逃げるようになった。

あの時、殴られてもいいから、抱きしめてやっていれば。
あの時、罵声を浴びてもいいから、『すまなかった、愛している』と言ってやれば。

……結局、私は、いつまでたっても、自分が傷つくのが怖い、自分が一番大事な糞野郎で。結局、いつの間にか、何もかもが、手遅れになっていくのが分かって……」

 だから、と男は言った。

「お前を作った……。

自分があの子の傍にいる自信がなくて、
自分があの子に責められるのが怖くて、身代わりとして、
そして、自分の代わりにあの子を愛してくれる者として、
お前を作った。結局私は」

 男はうつむいて、言った。

「逃げたんだ。自分が原因の――自分が作り上げた都合の悪さから、体よく逃げた。ほんっと、救いようのない糞野郎だよ……」
「……」


 日が陰り始め、夜の気配を含んだ風が私たちの間を吹き抜ける。
 それは暗く、寂しく、切ない風だった。



「……」
 自分からは、聞けなかった。けれど、話してくれた。

「……あなたは、ハル様を愛していた事があった。そして、ハル様を愛そうとしていた。
ということは、分かりました。」
「……」

 男は、黙ったまま私を見つめた。

「その事実を知ることができた。だから、私は今日、あなたみたいな糞野郎に、はるばるここまで付いてきたことを後悔はしません。ですが、」

 私は、男を、憎悪の意を込めた目で見た。

「いかなる事情があなたにあったとしても、私はあなたを許しません。他の誰かがあなたを許すと言ったとしても、私は、私だけは、一生。永遠にあなたを恨み続けます」
「……ああ」
「恨んで、恨んで、心の中で何度も殺して。そして、あんたは、恨まれ、恨まれ続けて」

 私はそこで息を継ぐと、言った。

「……そして、あんたは、自分で自分を恨み続けて、最期の一瞬まで生きてください」

 すると、男は少し驚いたように、私を見た。
 そんなことだろうと思った、と私は、男を睨んだ。

「どうせ、私と別れた後、あんたは死ぬつもりだったんでしょう。そんなの卑怯です。そんなのただの卑怯者がする、最低最悪のことです。こんなに苦しむ私や、柾を置いて、自分だけが楽になるんですか? あんたが蒔いた種で、苦しむ人間達を放置して、自分だけは『はい、さよなら』ですか?
死んで贖罪? ……ハッ、笑わせんな、そんなの違うだろうがよ。それはな、死んで勝ち逃げって言うんだ、この糞野郎が!
いつまでも逃げ続けてんじゃねえよ!」

 男は、ハッとした顔をした。それにかまわず、私は続けた。

「……あんたはな。自分の蒔いた種から生えたもんを全部刈り取るまで、
全部刈り取れねえんだったら、全部枯れるまで世話をして、面倒を見て、
たとえ、血を吐いても()めずに、地べたを這ってでも、最期まで生きなきゃなんねえんだよ!」

 私は、最後には叫ぶように言い切ると、男を指さし、言った。

「それがあんたにできる、あんたが苦しめた者たちへの、唯一の償いだろうが……」

 ハル様への、
 柾への、
 そして、私への。


「……」

 男は、黙っていた。しかし、ふと男が口を開こうとして――その刹那、その瘦せこけた頬に、流れるものがあった。

「はは……そうだな。そうだよな……。……すまなかったなあ……ハル、陽菜……。それは逃げだよなあ……ははは……そんなことを、まさか人間でもないこの子に、気づかされることになるなんてなあ……」
「……」

 男は、流れる涙をぬぐいせず、天を仰いで言った。

「ハル、陽菜、ごめん。まだ父さん、お前たちに謝りに行けなさそうだ。お前たちにぼこぼこに殴られるよりも、もっとつらい罰を受けなきゃいけなくなったから」
「……」
「だからな、ハル。母さんと一緒に空の上から。苦しんでぼろぼろになっていく俺を見て、嘲笑っていてくれ。その後でなら、いくらでも殴られてやるから。だから、その日まで、ずっと待っていてくれ」
「……」

 男は泣きながら、しかし笑いながら、天を見つめ両手を広げていた。
 しばらくそうして、ずっと泣き続けていて。
 ふと、男は、こちらを向いて言った。
 その顔は、何かが吹っ切れたような、笑顔であった。

「フユ……ありがとう」
「お礼を言われる筋合いなんて、まったくのこれっぽっちもありませんが」

 これまで思い続けていた、言いたいことをすべて言い切った私には、もうこの男に用はない。
 もう明日からは、きっと、永遠に関係のなくなる男である。

 だから、知らん顔をして、その場を後にするつもりだった。
 心はそう望んでいたはずだった。

 なのに、私は、その場から、一歩も動けなかった。

「――あの子を、愛してくれて」
「……」

――そんなことをお前に言われる筋合いはない。

 そう思いつつも、私は口をそう動かすことができなかった。