「アカリ。貴方は……。貴方は、何か知っているのですか……?」
「――私、は……」

 ローズの問いに、アカリは答えることが出来なかった。
 だがその行動こそ、彼女が何かを隠している証拠だった。
 ローズがアカリに触れようと手を伸ばした時、扉が勢いよく開いて、二人の間にミリアが割って入った。

「お嬢様に触れないでください!」
「――ミリア?」

 ローズは思わず目を丸くした。
 ユーリは呼んだが、ミリアにはアカリが居ることは伝えなかったのに――ユーリがやって来たことで、ミリアはアカリに気付いたのだろうか?

「ミリア!」
「……ユーリ」
 ミリアに遅れて、ユーリが部屋の中へと入って来る。
 焦っている彼の様子を見ると、自分の予想はやはり正しかったらしいとローズは思った。

「お嬢様! この女を信用してはいけません。彼女がお嬢様のことを、どう呼んでいたかご存知ですか? 彼女は――……お嬢様のことを『悪役令嬢』などと!」

 『悪役令嬢』? 
 ローズは首を傾げた。
 そんな言い方――まるで物語の中の登場人物《キャラクター》の呼び方のようではないか。
 ミリアの言葉に、アカリは動揺の色を強くした。
 やはり彼女は、何か自分たちに伝えていないことを知っている。
 ローズはミリアの言葉を聞いて改めてそう思った。
 だからこそ。

「そんなこと、今は関係ありません」

 ローズは冷静に言った。

「重要なのは状況を打開する策があるなら、それを試すことです。彼女が鍵となる情報を知っているならば、私はそれを知りたい」

 『お嬢様』の口調のローズに、ミリアはぎゅっと拳を握りしめた。
 男のような言葉遣いは、ミリアとローズの距離を近づけていた筈だったのに、今は公爵家の人間として、明確な線引きをされたようで。

「アカリ」
 ローズはアカリの手を握った。

「二人とも、部屋を出なさい」
 そして静かな声で、ローズは二人に命令した。

「お嬢様!」
「ミリア」
 興奮していたミリアは、ローズの言葉を納得できずにいた。
 今にもアカリに襲い掛かりそうなミリアを、ユーリが抑えこむ。

「どうして私のことではなく、彼女を信じようとなさるのですか!」
 その言葉は、彼女の心の叫びそのものだった。

「どう、して……ッ!」
 ミリアは顔を顰めて唇を噛みしめる。
 自分を傷付ける相手を、どうしてローズが庇うのかミリアには理解出来なかった。幼い頃からずっと彼女のことは、自分が守って来たはずなのに。
 それが、苦しくてたまらない。

「ミリア」
 ミリアの感情に気付いていたユーリは、冷静に彼女を諭した。
 ユーリは騎士だ。優しすぎる面はあるものの、上下関係への意識はミリアよりも強い。

「気持ちはわかるが、今は抑えろ。ローズ様も、何かお考えのことがあってだろう」
「……貴方に」
 冷静なユーリの言葉に、ミリアは反論した。
 三人は幼馴染で、二人は従妹だ。ミリアとユーリはよく似ている。しかし、過ごした時間の立場の違いは、今の二人の間に壁を作っていた。

「貴方に私の気持ちの何がわかると!? 私はずっと、ローズ様を見守って来たんです。私は、私は……!」
「わかってる。――でも」
 ユーリは静かに言う。
 騎士として、彼は自分を見出し育ててくれた公爵家の令嬢であるローズには逆らえない。

「ローズ様が、決められたことだ。俺たちが口を出していいことじゃない」
「……!」
 人には必ず立場がある。
 ローズは公爵令嬢。過去に何があったとしても、ミリアとユーリは所詮、彼女の家である公爵家の庇護下の人間でしかない。
 ミリアは結局、ユーリに引きずられるようにして部屋を出て行った。



 ローズは扉が閉まるのを確認して、指輪に触れ魔法を発動させた。
 それは闇魔法。
 あらゆるものを拒絶する。閉ざされた心は、いかなる言葉も受け付けない。
 部屋を煙水晶《スモーキークォーツ》のような色をした丸いドームは、アカリとローズを二人だけの世界に閉じ込める。

「魔法をかけました。これで外には何も聞こえません。だから安心してください」
 下を向いて一言も喋らないアカリに、ローズは優しく語りかける。

「アカリ」
 ローズはアカリの手を握って、懇願するように言った。
「教えてください。貴方の知ることを、私も知りたい」

「……私、都合がいいですよね」
 温かな熱を感じさせるローズの声とは違い、下を向いていたアカリが発した声は、どこまでも冷えていた。

「私の言うことなんて、誰も信じられるはずがない」
 彼女は涙を流さない。まるで泣くことを、自分に禁じているように。
 自分を否定する言葉を、彼女は並べる。

「アカリ。私は、貴方の言葉を信じます」
 そんなアカリに、ローズはもう一度言った。

「……ローズさんは」
 するとアカリはゆっくりと顔を上げて、信じられないという目でローズを見つめた。

「どうして私を、信じようとするんですか」
「それは……」

「私、やっぱり駄目なんです。ずっと誰とも関わってこなかったから、どう接していいかわからない。沢山ローズさんを傷付けたのに、いざ自分の味方かもしれないって思ったら頼ってしまう。縋ってしまう。……怒られて、当然です。でも、どう自分を変えたらいいかわからないんです。それに今の自分を変えようと思っても、過去を責められたら何も出来ない。変われない。私は、私は……。――私は、ここに居たいのに」
 
 ローズは、アカリの手を強く握った。
 ローズが握るアカリの手は小さく震える。

「アカリ。……私は、貴方を信じます」
 ローズはもう一度、アカリにそう告げた。
 そして少し声の調子を変えて、まるで悪戯っ子のような明るい声で、こんなことを言った。

「アカリ。この世界には、目を見たら相手が嘘を吐いているかどうか、わかる目があるんです」
「え?」
 ローズの言葉の意味が分からず、アカリは思わず声を漏らしていた。
 潤んだアカリの瞳と、ローズの視線が重なる。

「ああ、私にはありませんよ?」
 ローズは、そう言うとふっと笑った。
 少しだけ、遠い目をして。

「真実を見極める瞳を持つ――その人が、言っていたんです。信じなきゃなにも始まらない。だからお前は、信じて選べって」

『この世界には、特別な力なんて持っていない人間のほうがずっと多い。だからぶつかりもする。喧嘩もする。すれ違うことだってあるだろう。でも、それでいい。同じ世界を生きているんだ。だから選ばなきゃいけない。時には裏切られて、傷つくこともあるかもしれないけれど。信じなきゃ、何も始まらない。ローズ。信じるかどうかは、お前が決めろ。大丈夫。お前ならできる』

 ローズにそう言ったその人は、当時まだ幼い子どもだった。
 それでもその特殊な瞳故に世界を知りすぎた彼は、ローズには誰よりも大人に見えて、尊敬すべき相手だった。

「貴方の言葉は、確かに信じがたいかもしれない。でも私は、貴方を信じましょう。この国を好きだといった。守りたいのだと言ってくれた。あの時の貴方は、その言葉は、本物だったと思うから」
 ローズはアカリの手を両手で包み、それから彼女に微笑みかけた。

「――信じています。貴方はきっとこの国を守ってくれる、『光の聖女』なのだと」

 ローズの言葉に、アカリの頬を涙が伝った。

「……私は」
 涙はとめどなく流れ、地面に滴り落ちる。

「私、は……っ」
「大丈夫。不安、だったのでしょう? 気付かなくてごめんなさい。私は貴方がこの国に、この世界に来たことを、後悔なんてさせない。貴方は一人じゃない」

 ローズはアカリを優しく抱きしめた。暫く泣き止みそうにないアカリの頭を、ローズは優しく撫でてやる。

「辛い時は、泣いたっていいんです」

 アカリはその後泣きながら、自分が知る情報をローズに伝えた。
 『誓約の指輪』は、魔力を貯蔵させる力を持つ。
 指輪で結ばれた二人は魔力を分かち合い、コントロールすることが可能になる。

 それは『光の聖女』が、力の弱い王子リヒトのルートの際に、お互い支え合い結ばれるというストーリー展開で必要となるキーアイテムだ。
 またこの指輪と同じ魔力を貯蔵する力を持つのが、聖剣に嵌る石。
 魔力の弱い王子は聖剣を用い、聖女と共に魔王を倒す。
 聖剣で魔王の力を奪いつつ、指輪の魔力で攻撃するのだ。

 アカリの話はどれも、ローズにとって信じがたい話ばかりだった。
 何より――彼女が知るこの世界が『ゲーム』だということも、アカリがローズを恐れていた理由が、ローズという存在がアカリを脅かす存在だと考えていたという彼女の言葉を聞いたときは、ローズは動揺を隠すのに必死になった。

 話を整理すると、あの時の魔法はローズとリヒトを繋ぐ石に貯蔵されていた魔力を使い発動されたものであり、そのためにリヒトは魔法が使えなくなったということだった。
 ただこの保護魔法については、アカリは詳しく知らないとのことだった。
 自分の部屋にアカリを寝かせて、ローズは魔法を解いて部屋を出た。

「ミリア、ユーリ。私は彼女を信じます。異論はありませんね?」
「――はい」
「……はい」
 ミリアは、ユーリに遅れて返事をした。

「私は、彼女を信じます。彼女は、私の味方だと。……ユーリ。今日のことについては、明日までに報告します。すべてを話すことはできないけれど、今後必要なことは貴方にも伝えます」
「かしこまりました」
 ユーリはローズに首を垂れる。

「ミリア。こんな夜更けに申し訳ないけれど、行きたい場所があるんだ。ついて来てくれる?」
 ローズは、そんなミリアに対してわざと言葉を崩した。

「……かしこまりました。すぐ、用意いたします」
 ミリアはそう言うと、ローズに背を向けて廊下を歩いて行った。

「ローズ様……」
 ユーリは幼馴染の背を見送ってから、ローズの名前を呼んだ。
 アカリが眠ってしまった今、ユーリは手持無沙汰だった。

「ユーリ」
 ローズは、そんな彼に苦笑いした。
 彼は自分の立場を守る人だ。そんな彼だから、ローズは彼を信じて頼みごとが出来る。

「貴方はここで、彼女を守ってあげてください」
「……」
「リヒト様の言う通りです。違う世界から、たった一人この世界にやってきて、不安じゃない筈がなかった。……だから今は、せめて」
 ローズは自分の部屋の扉を眺めた。
 ――その部屋で眠る、少女のことを想って。

「出会いを――最初からやり直すことは出来ないけれど。私は、彼女に償いがしたい」

 ローズはユーリに向き直る。彼の瞳をまっすぐに見て、ローズは彼に言う。

「彼女を、守ってあげてください」
「かしこまりました」
 ユーリは静かに頭を下げた。
 そうしているうちに、準備が出来たミリアがローズを呼ぶ声が聞こえた。

「では、そろそろ私は行きます。後は頼みましたよ」
「ローズ様」
 自分に背を向けたローズに、ユーリは伝えたかった言葉をつげた。

「……ローズ様は、『悪役』令嬢なんかではありませんよ」

 ローズは立ち止まって、少し間をとってから、彼の方を振り返って苦笑いした。

「――貴方から見た私は、確かにそうでないのかもしれない。でも人というのは、立場や関係によって見え方が違うものです。だからせめてこれからは、私は彼女にとって、そうならないよう努力したいと思います」

 ローズは、アカリの涙を思い出す。
 泣いていた。泣かせてしまった。その原因は、まぎれもなく自分自身にある。だというなら、彼女にとってのこれまでの自分は、いい人間であったとはとても言えない。

「それに私は、『狡い人間』には違いないですから」

 ユーリに再び背を向ける。 
 自分一人にだけ聞こえるように、ローズは小さな声で呟いた。

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 馬車の馭者はミリアが務めた。
 夜の暗い道は凍てつくように寒い。
 馬を走らせるミリアの息は白く染まり、馬車の中のローズは、自身の息で曇るガラスの向こう側の景色を見つめていた。
 目的の地まで、ガラガラという静寂の中に響く音を聞きながら、ローズは静かに目を瞑っていた。

「お嬢様、到着しました」
 ミリアは馬車をとめると、扉を開いてローズの手を引いた。

「ありがとう。ミリア」
 ミリアに礼を言い、馬車から降りる。

「ローズ・クロサイトです」

 ローズはそれから神殿の扉の前まで歩き、自分の名前を口にした。
 すると扉がゆっくりと開き、中から明かりを持った真っ白な服の女性が、ローズに頭を下げた。

「ローズ様。どうぞこちらへ」
「ありがとうございます」

 ローズはそう言うと会釈した。
 ローズはいつもどおり、ミリアに聖剣を預けた。ここより先は、武器の持ち込みが禁止されている。

「私は、こちらでお待ちしております」
 聖剣を受け取ったミリアは、静かにローズに頭を下げた。

「ありがとう」
 ローズはミリアに微笑みかけた。

 暗い道を照らすのは、小さな蝋燭の燈火だけ。
 その灯は二人が階段を歩く度に揺らめき、心許ない。
 階段を歩く音は一定で、一歩進むたびに、まるで異界に迷い込んだような畏怖を人に与える。
 静寂。
 ローズはいつになっても、この時間が慣れなかった。
 その時間はまるで、ローズにとって一日のようにも長く感じられた。

 階段をおりきると、ローズの前を歩いていた女性は、ゆっくりと扉を開いた。
 部屋の中に並べられた二つの棺。
 夜だというのに、その棺は白く光る粒子によって、明るく照らされていた。
 この国の中心にある、水晶の神殿。
 そこにはごく一部の人間だけが、立ち入りを許される場所がある。

 光魔法。
 アカリの体調が良くなったという話のように、この世界の光魔法には、力を循環させ、生命を維持させる力がある。

 この国の第一王子は、原因不明の病で十年間眠り続けている。
 食事をとらずとも眠り続ける人間を活かすには、強い光魔法が必要だった。
 リヒトには明かされていない、神殿の中の部屋。
 これこそがローズが、失敗したアカリの魔法を無理やり引き継いだ理由だ。
 生命を維持するための光魔法を、力の制御が出来ないアカリが破壊しかけた。
 だから、代わるしかなかった。でも何も知らない彼女を、ローズは責めることは出来なかった。

「……この場所だけは、ずっとあの日から変わりませんね」

 自分の口から零れた言葉に、泣きそうになって唇を噛む。
 十年前から、ローズはこの場所の管理を任されてきた。
 それはアカリが来るまでは、強力な光属性の魔法を使える人間が、この国にはローズしか居なかったせいだ。
 この世界には決まって不思議と、それぞれの属性に特化した人間が必ず国に一人は生まれる。
 彼らはそれぞれ属性に相応しい地位を与えられ、その力を国のために使うことを義務化されて生涯を終える。

 けれどクリスタロスにはずっと、光属性を持つ人間だけが不在だった。
 まるでアカリがくることを、世界が待っていたかのように。
 その席だけが、すっぽりと空いていた。
 だからこそ、十年前――全ての属性に適性を持つローズに、責任が降りかかった。

『君だけが頼りだ。お願いだ。レオンを、息子を守ってくれ。この国の、次の王を』

 国王は幼いローズに頼るほかなかった。
 あれからもう十年。
 未だに、彼らが目覚める様子はない。

『君が居なければこの国は立ち行かなくなる!』

 ローズはパーティーの日の、王の言葉を思い出した。
 『リヒト王子』は、王には相応しくないのかもしれない。
 いいや、本当はきっとそんなこと――誰だって、最初から分かっていた。

 リヒト王子はレオン王子が目覚めるまでの、代わりの存在でしかないと。
 国王がリヒトとの婚約を認めたのはリヒトの為でなく、レオンを生かし続けるためにローズが必要だったからだということも。
 今はもう、過去の話だ。

 失ったものがある。
 大切な人、大切な人と過ごす時間、そして約束。
 失ってから、気付くことがある。
 当たり前の一日が、何よりも大切な、宝物であったことを。
 もう二度と、愛しいものを失わない。そのために努力することをやめない。
 たとえこの命が潰えても。自分の道は、自分で切り開く。

「大丈夫。私は強い」
 ローズは自分に言い聞かせるように呟く。
 しかし力の強さと心の強さは、イコールとは限らない。
 ローズは目を細めて自嘲する。
 ――くだらない子どもの口約束を、忘れられない自分は愚かだろうか。


『僕がこの国の王となって国を守ろう。僕は優秀だからね。僕以上に相応しい人間は居ないだろう?』
 ローズの記憶の中で、金髪の少年は紫の瞳を輝かせる。

『俺はこの目をこの国の為に使う。それが俺の役目だ』
 どことなくローズに似た、黒髪に赤に近い茶色の瞳をした少年は、大人びた声で言う。

『私も公爵令嬢として、お兄様と一緒にこの国の為に力を使います!』
 兄に後れをとらないよう、幼いローズが宣言する。

『私は、騎士になって、この国を守ります』
 三人の言葉のあとに、ユーリが剣を手に誓う。
 紫の瞳の少年は涼し気な笑みを浮かべ、自分と彼らの未来を語る。
 四人だけの、完成された未来の国を。

『僕としては、ローズが僕の王妃になってくれたら助かるなあ。僕が王様でギルが宰相で、ユーリが騎士団長。名案だとは思わない?』
『あっ。あの、兄上。ぼ、僕は……』

 同じように木の下で昼食をとっていたというのに、自分は何も言えないまま話を進められてしまったリヒトは、精一杯自らの存在を主張した。

『リヒトは才能がないんだから、どこかの令嬢と結婚でもすべきなんじゃないかな? 良かったね。王族に生まれたおかげで選り取り見取り』
 けれど彼の思いはすぐに、彼の兄によって否定される。

『そんな!』
 リヒトは立ち上がって、懸命に自らの心の叫びを訴えた。

『嫌です。僕だって、兄上たちと一緒がいいです!』
『――リヒト』
 そんな彼に、聞き分けのない子どもをなだめるように、彼の兄――レオンは言った。

『人にはね、向き不向きというものがあるんだよ。君は国王には向いていない。でも大丈夫。僕たち四人がいれば、この国は安泰だ』

 誰もが王に相応しいと疑わなかった第一王子のレオン、真実を見極める瞳を持つ公爵子息のギルバート、全ての魔法属性に適性を持つ公爵令嬢のローズ。そして、『剣聖』に才能を認められたユーリ。

 ローズは瞳を閉じる。
 あの日々の中でローズは、四人が揃っていれば、何もかもが上手くいくような気がしていた。

『君は、僕が守ってあげる』
『そうだな。お前は何も心配しなくていい。弟みたいなもんだしな』
『リヒト様、大丈夫ですよ』
『リヒト様は、この剣でお守りします』
『――……僕。僕、だって……』

 幼い頃――彼らが眠りにつく前のリヒトは、まだ自分のことを『僕』と言っていた。
 リヒトが『俺』といいだしたのは、彼らが眠りについた後。

『レオン様! ギルバート様!!』
『お兄様!! レオン様!!』
 まるで彼を弟のように可愛がっていたローズの兄、ギルバートの真似をするように、彼は自らを『俺』と言い始めた。

 幸せだった。『薔薇《ロード》色《クロス》の人生』。そんなものは要らないけれど、ただただ彼らと共にあることだけを、幼いローズは望んでいた。

『騎士団に入ります。いままで、お世話になりました』

 けれど子どもの願いは、ある日を境に打ち砕かれる。
 大切なものは全部、手のひらから滑り落ちる。
 指輪はもう無い。
 交わした約束の証は、どこにも残っていない。
 残された自分に出来るのは、大切な彼らと、ともに守ると誓ったこの愛しい国を、守るために努力することだけ。

『俺はアカリを選ぶ』

 指輪を受け取った――あの日高鳴ったこの胸が、今少しだけ痛むのは、きっと気のせいだから。
 子どもみたいに、泣いたりしない。

「私は、この国を愛しています。貴方が目覚めるその日まで、私がこの国を守ります」

 いつかまたあの日のように、笑い合える日が来ることを願い続ける。
 眺めるだけだった剣も、今なら自分だって扱える。
 血の滲むような努力した。いくら魔法に適性があったといっても、剣に才能があったと言われても、訓練しなくては完璧には使いこなせない。

 自分は公爵家の令嬢で、王子の婚約者なのだから――誰よりも、正しく在らねばならない。
 ずっと、そう思っていた。
 しかし婚約が破棄されたことで、ローズは自分の居場所を失った。だから騎士になると誓った。
 騎士になって――この国を、ユーリと共に守るのだ。

 交わした約束を覚えている。消えない心の痛みを知っている。かつて泣きたいときはいつだって、そばにいてくれた人はもういない。それがたまらなく苦しくても、今のこの状況は十年前から変わらない。

 あの日から、何度願ったことだろう。
 お願い、神様。もし貴方が本当に、この世界にいるのなら。

「レオン様。……お兄様」
 私を助けて。――どうか、二人を目覚めさせて。

 でもその度に、神などいないと知って、自分の力で前に進むしかないのだと知った。
 試せることは何でもやった。
 薬の研究もその為だ。欠片でもいい。状況を打開できる僅かな可能性があれば、ローズはあらゆるものに目を向けてきた。

 強くならねばならない。
 二人がいなくても、この国を守れるほど完璧に、自分を磨かなければ。

『真実を、見極めろ。お前ならできるよ。――だってお前は』
 頭を撫でる優しい手。
 『彼』がいた頃は、ローズはまだ子どもでいられた。
 でも今、『彼』はローズの頭を撫でてはくれない。
『この世界にたった一人の、俺の妹なんだから』

 真実を見極める瞳を持っていた少年。ユーリやミリアが語るあの方とは、彼のことだ。
 公爵子息、ギルバート・クロサイト。
 ローズが誰より慕っていた、ただ一人の兄。
 そして彼もまた一〇年前から、レオンとともに眠り続けている。

『お前に、儂のすべてを与えよう』
 そんな彼女だったからこそ、女児だったローズに、剣聖グランは剣を与えた。
 いくら才能があると言っても、公爵令嬢である孫娘に、剣を教えようと思う祖父はいない。
 剣を与えることは、彼女に茨の道を歩かせるかもしれないのだから。

 ローズは大きく息を吸い込む。
 凍てついた夜の空気が、彼女の心を冷やしていく。
 ローズは今日の会議のことを想い出した。
 ユーリの隣にいた少年。彼があの時、自分に言おうとした言葉を、ローズはなんとなくだが予測していた。確証はない。でもこれだけは、きっと正しい。

 ――先手を打たねば、戦わせてもらえなくなる。
 ローズは自嘲した。
 ローズは天然だ。そう言われる。

 けれど彼女は、決して馬鹿ではない。
 人がどうすれば自分に従ってくれるのか――その経験は、知識として蓄積される。
 普段は意図的にその行動を取ることはないが、必要なときは知識を利用する。ローズはその度に、自分が少しだけ嫌になった。

 アカリの言葉を信じたいと思った。それは事実だ。
 でも彼女を逃さないために、わざと手に触れたのは間違いない。
 ユーリのときだってそうだ。ミリアとよく似たユーリならば、同じことをやればユーリが発言を止めることを、予測した上で行動した。

 ――人は狡猾だというだろうか。何かを得るために、時折心に嘘を吐く私を。

 ローズは胸を押さえた。自分を偽るたびに、胸は痛んで自分が嫌いになりそうになる。
 けれど願いを叶える為ならば、ローズは自分を傷つける事を厭わない。
 今のローズのすべては、喪失から始まる。

 大切なものを失った。
 でもここは、この国は。愛する人たちとの思い出と、約束が詰まった場所だから。
 誰にも壊させたりしない。たとえこの命が潰えても、私が守ってみせる。
 ――だから。
 眠り続ける二人を前に、目に見えない剣が存在しているかのように、彼女は膝をついて手を合わせた。
 大丈夫。自分は強い。
 祈りの様な願いがこもる。それは彼女の、たったひとつの決意。

「私がこの国を守る。私はこの国に、忠誠を誓う」

 祖父から託された、剣とともに。
 ――たとえ、命が潰えても。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 魔王を倒すための打開策。アカリから齎された情報は、ユーリからベアトリーチェに伝えられた。

「――と、いうことだ」
「やられましたね。あの方も、馬鹿ではなかったということですか」
「え?」
「概ね予想通りです。それを裏付ける証拠がなかっただけで」

 ベアトリーチェは淡々とそう述べた。

「ローズ様が初めて訓練場を訪れられた時、扉を開いたのはユーリ、貴方の魔力でした」
「え……?」
「解呪の式はおそらくグラン様のものでしょう。しかし魔力は貴方のものだった。あの日の貴方の行動を調べ、貴方が招いていないということは分かりました。しかし、貴方の魔力が利用されたということを口にするのは憚られた」

 それを口にすれば、少なからずユーリの評価が下がる可能性があった。

「ユーリ。試験より前に、聖剣に触れたことは?」
「十年前になら……」
「ならばあの剣は、十年分の人の魔力を吸っている可能性があるということですか。……厄介なことこの上ないですね」

 ベアトリーチェの表情は厳しかった。

「予測するための情報は、あの場にいた全員が得ていたはずです。その確認をとるために、ローズ様にあの時剣を借りて実験をしようとしていました。リヒト様に邪魔をされて今日改めて行おうと思っていただけで」

 ベアトリーチェは目を伏せた。珍しく本気で怒ったことが、こんな実害を齎すとは思わなかった。
 ローズのことを甘く見過ぎていた。そんな過去の自分に、少し苛立つ。

「やはり聖剣があったからこそ扉が開いたということですね。……そうなると、リヒト様の指輪は没収させていただいた方がいいでしょう」
「何故?」
「ユーリ。そもそも何故ローズ様が騎士団に入れたか、考えなかったのですか?」
「……」
「どこにでも出入りできるようなものです。ローズ様はまだ聖剣を守る力があるにしても、リヒト様には不安要素しかありません」

 ベアトリーチェはリヒトに冷たい。でもそれは、正しい評価の上での態度だと彼は考えていた。

「まあ、お二人とも解呪の式のない扉を無理に開こうとするような方ではないでしょうし、そのせいでリヒト様もローズ様もお気づきにならなかったのでしょう。ローズ様の周りには過保護な方が多いようですし、本人以外でも鍵が開くということに対して、疑問を抱かなかったのも頷けます。後からでも気づいたことで評価を多少修正するにしても、やはり考えは足りないとは思いますが」

 与えられた情報を鵜呑みにし、疑問を持たない人間は表面しか見えていない。
 公爵令嬢として教育を受けているローズは、知識はあってもそれだけだ。ベアトリーチェはローズのことを、そう評価していた。

「でもまあ……これなら、聖剣を使って王子たちの魔力の流出を止めることが出来るかもしれません。先日の会議でも話しましたが、調査によると、眠り続けた王子たちの魔力は、魔王巨大化の力になっているのは間違いないようですから」
「……ただ、そうなると……やはり」

 ユーリは小さな声で呟く。

「ローズ様から剣をお借りする必要があります」
 ベアトリーチェははっきりと宣言した。

「……」
「先手を取られてしまいました。リヒト様がやってこられたので、少しかっとなってしまって日を改めたのは失敗でした。やはりあの時言っておくべきだった。慣れない人間に囲まれていれば、あの方も委縮して引き下がってくださるかもしれないと思ったのですが」
「どういうことだ?」

「あのとき私は、彼女に剣を差し出して下がれと言うつもりだったということです。断りづらい状況なら、彼女も頷くかもしれないでしょう?」

 ベアトリーチェの言葉は、ローズの感情を無視したものだ。

「しかし、あちらから言ってきたとなると難しいですね。もともとローズ様の剣は『聖剣』とは呼ばれていますが、グラン様が魔王を倒した際にそう呼ばれ始めただけのこと。あれはもともとグラン様の――レイバルト家に伝わる家宝であると聞いています。ローズ様は公爵家のご令嬢で、剣聖様の孫。そして、今は騎士団に籍を置いている。貴方を倒したという実績がある手前、今更彼女から剣を借りて作戦を実行することは不可能です。元々そうなるのが面倒だったので、あの場にお呼びして聖剣だけ借りようかとも思っていたのですが……」

 ベアトリーチェは溜め息を吐いた。
 舐めてかかっていた相手に完全にしてやられた。

「状況は見ての通り、先にあちらが気づいたと報告がきました。これでは彼女が魔王を倒せようが倒せまいが、聖剣を魔王討伐に利用したいと思うなら、まずは彼女が魔王と戦うことを、彼女が望むなら止めることは出来ません」

 なによりローズは、この国のために戦うことを望むと婚約破棄の際大勢の前で宣言している。
 今更彼女から剣を奪うことは、騎士団としては難しい。

「魔王の討伐は、これ以上長引かせられない。前回のように傷をつけるだけで終わっては、被害が増えるだけです。それに今の聖女様がローズ様を信頼しているならば、加護は使い物にはなるかもしれない」

 ベアトリーチェはアカリの心理をも冷静に分析する。
 共に戦うためには信頼が必要だ。
 騎士は『光の聖女』を信じ命を託し、『光の聖女』は騎士を信じ命を託す。その信頼がなければ、『加護』は生まれない。
 今の彼女が少なからずローズに心を開いているなら――可能性は、ある。

「ただ、加護で守られていて侵食は防げたとしても、ローズ様が押し負ければ終わりです」
 ベアトリーチェの言葉は冷たく聞こえる。

「ユーリ」
 けれどベアトリーチェがユーリを呼ぶ声だけは、いつものように柔らかかった。

「本当によいのですね?」
「ああ。……俺は、ローズ様を信じる」

 ベアトリーチェは静かに尋ねる。ユーリは首肯した。
 ローズがアカリを信じると言うなら、ユーリは今、彼女を信じるほかない。

「……わかりました」
 まっすぐな目をした年下の上司を見て、ベアトリーチェは目を伏せた。

「聖剣を借りている手前、彼女の願いを無視するわけにもいきません。けれど、彼女がもしこの戦いで命を落としても、どうか貴方は自分を責めないでください」
「……」
「私は全力で貴方方を支援しましょう。ですが、出来るのはそこまでです」

 ベアトリーチェのユーリを見る目は優しい。
 ユーリが騎士団長に就任してから、いつだって彼はユーリの未来の、その成長の為に行動してきた。
 だからこそ、ベアトリーチェは彼に告げた。厳しい現実を、ユーリの為に。

「ユーリ。貴方は、はっきり言ってまだ未熟です。人の命を背負うことは、今の貴方には難しい。優しさは美徳です。信じることは美しい。ただひたすら一つの決意を信条に掲げ、強さを求めることを否定はしない。でも人は、それだけでは生きてはいけない」

 ベアトリーチェは、沈黙ののちに彼に告げる。

「――私は。ずっと、それを感じて生きてきました」

 ベアトリーチェはユーリの導べだ。
 いつもは揺らぐことのない彼の瞳の変化に、ユーリは息を飲む。
 ユーリの知らないベアトリーチェの過去が、彼にその言葉を紡がせる。

「ユーリ。だからもう一度、貴方にお尋ねします」
 何も言えずにいるユーリに、ベアトリーチェは再び尋ねた。

「貴方は、彼女が生きて自分のところに戻ってきてくれると、そう信じているのですか?」
「ローズ様は……」
 ユーリは、これまでのローズの姿を思い出した。
 ローズが魔王討伐に参加して以来、彼の髪はずっとローズから貰った赤い紐で結ばれている。

「――必ず、生きて戻られる!」
 ユーリは沈黙ののちベアトリーチェに答えた。
 本当は少しだけ、不安な所はある。けれど自分が否定すれば、ローズの願いは叶わない。

「そうですか」
 ベアトリーチェは静かに頷いた。
 本当は聞く前から、彼には答えがわかっていた。
 愛する人の願いを叶えたい。
 風魔法に適性のあるユーリの愛情は、風のようにローズの周りを揺蕩い、守る。
 でも、だからこそ――もしローズが打ち負けた時に、ユーリは深く傷つくのだ。

「貴方がそう信じて彼女が戻らないなら、やはりその時の責任は彼女にある」
「――?」
「ローズ様は、魔王に対抗しうる力をお持ちです。けれど彼女には、何よりも大切なことが欠けている」

 ユーリには、ベアトリーチェの言葉の意味が分からない。
 それが二人の差だ。六年という年月《としつき》。過去が違えば、見える世界は違う。

「それに彼女が気付くことさえできれば」

 ベアトリーチェは窓の外の空を見上げた。
 そうして彼は、自身の剣に彫り込まれた薔薇の細工を指でなぞって言った。

「道は自ずと開かれることでしょう」



 ローズの魔王討伐参加が正式に決まり、いよいよ当日となった朝。
 公爵家の家人たちは、ローズのために仕事の手を止めて彼女を見送った。
 ローズを囲むように人が立つ。
 父である公爵は彼女を無言で抱きしめ、他の者たちは祈るように彼女の手を握った。
 最後はミリアだった。
 彼女は前に足を踏み出したが、他の人間のようにローズに触れることはなかった。

「お嬢様は、人が良すぎます。私がどんなにお嬢様を傷つけるものを排除しようと思っても、一人先に進まれたら、お守りできないではないですか」

 ただ彼女は、いつものようにローズに言葉を向けた。

「ごめんなさい」
 ローズは思わず頭を下げた。
 だからミリアが――どんな顔をして自分を見ているか、ローズにはわからなかった。

「いいんです。もうわかっています。諦めました。だってそれが貴方なのですから。私の、私の大切な……」
「ミリア……?」

 ローズは顔を上げた。
 声が震えていたから泣いているのかと思ったが、そこにはいつも通りの顔をした彼女がいた。

「私は、ついていくことを許されません。だから、これを」

 ミリアはそう言うと、自分の手に嵌めていた腕輪をローズへと渡した。

「私のかわりに、連れて行ってください」
「……でも、ミリア。これは貴方の……」

 ローズは腕輪を受け取るのをためらった。
 魔法を使うための石は非常に高価で、ミリアはその給金の多くを、石の購入に当ててきたことを知っている。
 腕輪の中の石には、アルグノーベンで代々受け継がれてきたものだってある。
 けれどミリアは譲らない。なかなか受け取らないローズの腕に、彼女はそっと輪を通した。

「――私は」
 ミリアは、精一杯の笑顔をローズに向けた。

「私はここで、お嬢様をお待ちしています」

 立ち入ることの許されない、そんな線引きが確かにあっても。
 心だけはどうか、貴方のお傍に。