「昨日は、本当にありがとうございました。ローズ様が守ってくれなかったら、私は死んでいました」
 訓練場にやって来たアカリは、そう言うと深々と頭を下げた。

「頭を上げてください。昨日のことはこれまでなかった事態だったということですし、もともと私ではなくユーリがお守りするべきでしたから」
「……申し訳ございません。反省しております」
 さらりとローズに失態を指摘されたユーリは、少し落ち込みつつ頭を下げた。

「アカリ様。こちらこそ、申し訳ございませんでした。ユーリの幼馴染として私からも謝罪いたします」
 続いてローズも謝罪する。
 これではどちらが立場が上かわからない。
 ローズにとってユーリは、ミリアの従妹であり自分の幼馴染。そして公爵家の庇護下の人間という意識は、ローズの中に少なからず存在していた。

「いっいえ! か、顔を上げてください!」
 思いがけずローズに頭を下げられ、アカリは動揺した。

「――それに。そもそも、私が力を使いこなせないのが原因なので……。沢山騎士団の方にも迷惑をかけてしまって、訓練させてもらってるのに。……全然、上手くならなくて」

 しょんぼりと顔を曇らせるアカリは、昨日自分の手を振り払った少女とは、ローズはとても思えなかった。
 ローズはそんな彼女を見て、複雑な気分になった。
 ――『彼女』という人間がわからない。

「ローズ様は本当に強いんですね」
「そんなことはありませんよ」
 一生懸命笑顔を作って自分に話しかけるアカリに、ローズは笑顔を浮かべて謙遜した。
 けれどそんなローズもーーアカリの『お願い』には、流石に顔を強張らせた。

「あ、あの! もし、よければ。私に、魔法を教えてくださいませんか?」
「……え?」
 ローズは唾を飲み込んだ。

「――……私が貴方に、ですか?」
「は、はい! 出来れば、お願いしたいなって。私、聞いたんです。魔法の属性は、その人間の心に由来する。この国で光属性に適性があり、強い魔力をお持ちなのはローズ様のみと話を聞きました。だから……」

「……そう、ですね……」
 アカリが魔法の使い方を覚えれば、魔王を討伐できる確率は格段に上がる。
 しかし、それは――……。
 自分から婚約者を奪った相手に、助力することに等しい。
 ローズは目を伏せた。国の為には、どう行動することが最善なのかを考える。

「……わかりました。私でよければ」
 思考の結果、ローズは彼女に歩み寄ることにした。
 自分の心の痛みなんて、彼女が与えてくれる力の可能性の前には、些細なことに過ぎない。

「本当ですか! ありがとうございます!」
 表情を明るくするアカリを見て、ユーリはローズに耳打ちした。

「ローズ様、いいんですか? 相手はあの『光の聖女』なのですよ?」
「教える相手が私の他に居ないのであれば、私が教えるほかないでしょう」
 ――それはそうだが。
 しかしだからといって、自分が原因で婚約破棄された相手にわざわざ頼むなんて、何か罠があるとしかユーリは思えなかった。
 やはり光の聖女は、ローズを傷付ける人間らしい。
 無邪気なアカリの笑顔が、ユーリの勘に障った。

「ユーリ」
「……はい」
「怖い顔をしないでください。私は大丈夫ですから」
「はい……」
 ユーリは自分に微笑みかけるローズが無理をしているように見えたが、大丈夫といわれてはそれ以上何も言えず、ユーリは唇を引き結んだ。



 ローズによるアカリへの集中講義は、場所を移して行われた。
 青空教室よろしく地面に座る生徒のアカリと、立って講師を務めるローズ。
 二人の関係を考えれば、誰がどう見ても修羅場だったが、ローズの口調は穏やかだった。

「アカリ様にまずお伝えしたいことがあります。貴方に身に着けてほしい魔法についてですが――光魔法は、そもそも『祈り』です」
「祈り?」

 ローズはアカリの前に手を差し出すと、もう片方の手で石に触れ、静かに目を閉じた。
 すると彼女の手からきらきらとした粒子が現れ、やがて大きな光となった。
 アカリはローズに促され、光に手を伸ばした。

「温かい?」

 アカリは驚いた。
 自分の不完全な魔法では意識したことが無かったが、ローズによる完成された魔法は、人肌程度の熱を帯びていたのだ。

「……光魔法は、熱を持つ魔法なのです。光魔法は温かく、闇の魔法は冷たい」
「そうなんですね……。魔王の近くに行くと寒く感じるのは、もしかしてそれが原因ですか……?」

 アカリは昨日の出来事を思い出し、体を震わせた。
 ローズはそんなアカリを見て、やはりと思った。
 彼女が『加護』の力が使えず、魔法のコントロールが苦手なのは、彼女の心に問題があるらしい。

「そうとも言えますし、違うとも言えます。確かに普通の人間であっても、闇魔法に冷たさを感じます。ただ魔王を前に強く寒さを感じるのは、自分に影響を及ぼす存在に過剰に反応してしまう性質を持つ人間だけです。そしてこの繊細さこそが、光属性の人間の特徴でもあります」

「繊細、さ……?」
 アカリは首を傾げた。ローズは話を続けた。

「そもそも光属性は、他の魔法とは全く異なるところに適性が求められます。光魔法は、本質的な意味では直接的な攻撃を与えることはできず、ただ祈ることしか出来ない」
「……それじゃあ、何も出来ない、ということですか?」
「まあ、そうですね。目の前で仲間が必死に戦い死んだとしても、光属性は祈りを捧げることしか出来ません」
 淡々と話すローズに、アカリはぎゅっと拳を握りしめる。

「ただそれは、決して不幸なことではないのです」
 アカリの変化に気付き、ローズは口調を和らげた。

「光属性の適性を持つ人間には、その人間にだけにしか出来ないことがある。誰かの痛みを自分の痛みのように感じる心、その繊細さ。それが、光属性の適性者に求められるものなのです。故に相手を守りたいと思うこと。相手を思い、慈しむ。その心が、誰かを守る力になるなら、その時祈りは自分だけのものではなく、誰かに影響を与える力になる。それは、共に戦うことと等しい。そのことを理解することが、私は光魔法を使う人間にとって、なによりも大切なことだと思っています」

「相手を思う……」
 アカリは、ぽつり呟く。
 そして自分の手を彼女は見つめた。アカリの手には、僅かに光の粒子が纏っていた。けれどそれは纏まることなく、空中で霧散する。
 アカリは肩を落とした。そんなアカリに、ローズは尋ねた。

「アカリ様は、この国は――世界はお好きですか?」
「はい」
 アカリの返事は、ローズが思っていたよりずっとはやかった。

「――私は、この国が好きです」
「それは何故ですか?」
「……それは」
 アカリは光の失われた手を握りしめ、下を向いた。
 何か言いにくい理由でもあるんだろうか。ローズはそう思い、僅かに顔を曇らせる。
 その時二人の上空を飛ぶ鳥が地面に影を作って、顔を上げたアカリは目を細め、泣きそうな顔をして語り出した。

「私、ここにくるまでずっと――窓の向こう側に見える世界を、病室から眺めていました」

 アカリはそう言うと、上空を飛ぶ鳥に手を伸ばした。
 風属性を持たない彼女では、決して手の届かない空に向かって。

「私、昔から体が弱くて……母は私に沢山お話を聞かせてくれたんですが、その中に『青い鳥』という話があったんです」
 ローズは、アカリの話がよく分からなかった。
 架空の物語と彼女の過去に、一体何の繋がりがあるというのだろうか。

「『青い鳥』の――物語の主人公たちは、幸せの青い鳥を探して旅をします。苦労して青い鳥は捕まえたと思っても、結局失われてしまう。二人は青い鳥を捕まえることは出来ない。でも二人が旅を終えて目を覚ますと、家の中の鳥籠に青い鳥は居たという結末で話は幕を閉じるんです。『本当の幸せは近くにあったのだ』――それが、このお話のハッピーエンド。でも私は、その終わりが、苦しくてたまりませんでした」

 アカリは胸を押さえた。大きなはちみつ色の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。

「だって私はどこにもいけない。誰とも関われず、いつ死ぬかもわからない自分の人生に、一体なんの幸福があるっていうんだろうって。いつもどこかで、その気持ちが消えなくて。病室の外から聞こえる笑い声や、陽の光に、胸が苦しくなって仕方ありませんでした。私の青い鳥は、どこにもいない。私を想ってくれる家族が居ること。それがきっと、私の『近くの幸せ』。そのことを理解出来るのに、気持ちが消えなくて苦しかった。……私、ずっと、『普通の女の子』になりたかった。だから、本を読みました。違う世界に生きたいと、どこかでそう望んでしまっていた。でもそう思う自分に気付く度に、この想いは、私を想う家族への裏切りのように思えて、ずっと苦しくてたまらなかった」

 空を見上げるアカリの頬を、涙が伝う。

「ここに来て、前より体が強くなって。夢だった、普通の女の子のような生活が出来るようになりました。私が『光の聖女』だから。その力のおかげなんだそうです」

 アカリは手を下げると、服の袖で涙を拭った。

「元の世界に未練がないと言ったら嘘になります。家族は私を思ってくれていたでしょうし、そんな家族と会えないことは寂しいと思うのは確かです。でも今、こうやって過ごせることが、私は心から嬉しくて。そう思うと――この世界が、この国が、私はとても好きだなって思うんです。それに私、実は元の世界では火事で死んでしまって。もう私の戻る場所は、あの世界にはないから」

 アカリはローズに向かって、精一杯笑顔を作った。

「私、この世界が好きです。だから今の私は、せめてこの国のために、この世界の為に……『光の聖女』として、精一杯生きていきたい」

 まだ濡れた瞳。
 そこには確かに、希望や幸福を願う意思が宿っている。
 ローズはそんなアカリの瞳を見て、胸が痛むのを感じた。
 『この少女はきっと、自分の周りが言うような『悪女』ではないとローズには思えた。

「……貴方が光の聖女に選ばれたのは、貴方の過去があったからかもしれませんね」
「え?」

 リヒトのこともあって、自分は彼女のことを誤解していたのかもしれない――彼女の本質を見抜けなかったのは、ローズは自分の落ち度のようにも思えた。
 そしてそんな彼女に対して、これまでの自分は厳しすぎたかもしれないとも。

「魔法の属性は心の性質に、魔力の強さは心そのものに多く影響を受けるのです。痛みを感じ、それと戦いながら、必死に生きたいと思いながらも家族を思う心こそ、貴方が『光の聖女』として選ばれた理由なのかもしれません。他者に『加護』を与えるほどの祈りは、生きることに対して強い意思が無い限り不可能ですし……」

 『光の聖女』――そんな重要な存在が、何の理由もなく選ばれるはずが無かったのだ。
『この世界を守る『光の聖女』です。あっ貴方に言われなくても、私がこの国を守ります!』
 彼女の話の整合性は取れている。ローズはそう思った。
 確かに病弱な人間が、健康体として生きることが出来る世界を守りたいと思うのは、『光の聖女』として責任を果たしたいと思う理由足りうる。

 でもローズには、やはりアカリの考えがわからなかった。
 彼女もし、この世界に何の知識もなくある日突然異世界に招かれた少女で、かつこの世界を守りたいと思うならば、自分と敵対する理由が見当たらないからだ。
 けれど『なぜこれまで貴方は私を嫌っていたのですか』だなんて、ローズは直接聞くことは出来なかった。
 そこまでローズは強くない。

「その心を忘れなければ、きっと大丈夫です」
 ローズは本心を隠して、アカリに笑いかけた。
 ふわりと笑うローズに、アカリは目を見開く。
 公爵令嬢としての気品と知性。所作の美しさは、騎士というより絵本の中の王子に近い。

「……あ、あのっ!」
「はい?」
「あの……で、出来れば私のことは、アカリ、と呼んでくれませんか?」
 アカリは少し顔を赤くしてローズに言った。
「それは別に構いませんが……」
 ローズは少し動揺した。彼女の過去を知って考えを改めようとは思ったものの、距離がいきなり近すぎる。

「私、ずっと病院暮らしだったのであまり友達がいなくて……。よければ、名前の呼び方も変えたくて。私もローズ様のこと、ローズさんと呼んでもいいですか?」
「……構いませんが」
「あ、ありがとうございます!」
 ローズは完全にアカリの気迫に押されていた。

「私、ローズさんとお友達になりたいんです。これまでは、ちょっと怖かったんですけど、昨日守ってもらえて、今日相談にものってもらえて、もしかしたらローズさんは、私が思ってるよりずっと優しい人なんじゃないかって思って……」

 アカリの口調は早口だった。下を向くアカリの顔は真っ赤だった。
 怖かったと言われる理由は、やはり外見や言動のせいだろうかと、ローズは少し胸が痛んだ。
 本人を前に言うことではないともローズは思ったが、病院暮らしだったと言っていたし、そのせいで彼女は人と距離を図るのが苦手なのだろうかと思うと、強く責めることも出来ない。

 それにローズ自身、これまで心から友達と呼べる存在があまりいなかっただけに、アカリの語る友達という響きには惹かれるものがあった。
 けれど、心が痛むのは確かだった。

 朗らかに笑う彼女の瞳は少しタレ目がちで、人に優しい印象を与えることだろう。
 ――自分とは、違って。
 つい、そう思ってしまう。

 どんなにこれからのアカリが自分との距離を変えようと思っても、ローズがアカリのせいで婚約破棄された事実は消えない。
 ただ同時に、ローズは不思議と、今はアカリ自身を嫌いだとは思えなかった。
 自分とは全く違う少女。外見も、これまで生きた世界も違うけれど、もしこういう出会い方をしなかったら、彼女と自分は普通に友人になれたような気がした。

 ――あんなことさえなかったら……。
 そう思うと、やはり少し悲しくなる。
 出会い方が変わるだけで、関係性も変わってしまうなんて。神様の悪戯で、傷つけあうことは悲しい。
 ローズは唇を噛んだ。彼女と話をしてみたいとは思う。でも心を開く勇気が、今のローズにはなかった。
 そんな時、ふと彼女の髪に花の綿毛が付いているのに気づいて、ローズは彼女へ手を伸ばした。

「アカリ。髪に――」
「? はい?」

 アカリはきょとんとした表情でローズを見つめていた。
 驚いた表情は、野に咲く花のように可愛らしい。
 ローズが薔薇なら、アカリは野に咲く一輪の花の様な魅力がある。
 親しみやすく、優しく、柔らかい。そんなふうに思わせる。

 ――ああやっぱり、最初から出会いをやり直したい。
 そうすれば、もしかしたら自分と彼女は……。ローズは目を細めた。恋敵だといっても、自分にはない長所を持つと思う人間を、ローズは否定出来なかった。
 皮肉なことにその心こそが、ローズに光属性への適性がある証拠だった。
 けれどローズのこの行動は、思わぬ誤解を生んだらしかった。

「何をしている!」
 突然響き渡った怒鳴り声に、ローズは目を瞬かせた。
 何故彼がここに居るのか――ローズは動くことが出来なかった。
 ローズは微かに震える声で呼んだ。

「――……リヒト、様?」

 かつての自分の、婚約者の名を。