虚構士ハロルは夢を見る

 商店街を抜けるとき、ハロルが気になっている店の前を通った。

「なあ師匠、あれだよ」

 くもりも傷もないガラス張りの店。壁には塗りたてのペンキが艶々と朝日を反射している。店内にしまわれた看板には、ふわふわのシュー生地に粉砂糖が掛かっているイラストが描かれていた。

「ほら、店構えからしてうまそーだろ?」
「そうですね。でもまだ開店前のようですし、仕事が先ですよ」
「ぐう……あ、そう言えばその仕事って?」

 答える代わりに、スーは封書を渡した。

「いつもの夢見子(ゆめみご)探しだけじゃあねーんだな」

 封書の中身の手紙を読みながら歩く。

「なんでも不可解な事件が起きているようでしてね。その調査も兼ねているのです」

 しばらく手紙を読んでいたハロルだったが、急にバッと手を広げた。

「だあ! なんでこんな回りくどい書き方するん——」

 ——ドンッ!

 ハロルの腕がなにかに当たって鈍い音を立てた。視線を向けると少女が倒れていた。ふんわりとした白いブラウスが土に汚れている。恐らく後ろから走って来たのだろう。まったく気付かなかった。

「あ、わりい!」

 膝まであるはずのジャンパースカートの裾はめくれ上がっていたが、彼女はパンツが見えるのもお構いなしにそのまま片膝を抱えた。

「痛むのか?」

 少女は答えずに不安げな視線をハロルへ向けた。半開きの瞼の奥では宝石を思わせる緑色が揺れ、垂れたまなじりにはうっすらと涙が溜まっている。淡く薄い唇が歪に曲がって、その先は微かに震えている。小動物のように庇護欲を掻き立てられる可憐な少女だった。
 ハロルは手紙をスーに返して、封筒を彼女の膝に宛てがった。太ももまで隠すほど丈の長いポンチョを翻し、腰のベルトから大きな万年筆——(そう)(ひつ)を取り出した。親指の第二関節の上に胴軸(どうじく)を載せてくるりと回すと、ペン先を封筒に向ける。筆はサラサラと流麗に舞い始めた。

【痛みを持つ者。膝に根差した痛み。これは痛みを取り除く。代償として破られる。散り散りに破られる。痛みによって破られる。痛みを持つ者に安息を】

 創筆が舞をやめると、封筒はビリビリに破れ、ハロルの掌の上に落ちた。

「悪かったな。もう大丈夫だろ?」
「……本当だ。痛くない! でもどうして?」

 ハロルはふふんと鼻を鳴らした。親指を自分の顔に向けて言い放つ。

「オレが天才虚構士のハロル様だからだぜ!」

 キメ顔のハロルの瞳を見つめたまま彼女はゆっくりと首を傾げた。肩まで伸びたオリーブ色の髪がたらりと落ちる。なにを言っているのかわかっていないようだ。
 そんなボヤッとした彼女の表情が突然切り替わる。

「ああ! 学校遅れちゃう!」
「え? ああ、そうか」
「じゃあね! 綺麗なお姉ちゃん!」

 膝丈のジャンパースカートをひらひらと風になびかせて、学校へ向かって走っていった。
 見送る頭にポンッと掌が置かれた。

「周りを見ずに腕を振り回すのはいけないことですが、彼女のケガを治したのは偉いですよ」

 ハロルは「へへ」と言う言葉と共に笑みを零した。

「ただ、重複が多かったですねえ」
「うえ!? ダメ出しすんのかよ」
「当り前です。弟子の虚構術の良し悪しは常に気にしていますから。もしも重複させて効果を高めたいのなら他の言語を入れ——」
「あーもう、はいはい。わかってるよ。同じ言葉を何度入れても効果は変わんないんだろ? 時間が限られた状況だと致命的になるってさ。あ! そうだ! それより早く学校行かねえと!」

 ハロルはスーの手を取って走り出す。スーはやれやれと言った顔で肩を竦めつつも、歩調を早めた。
「なあ師匠。前から気になってたんだけど、オレなんか悪いことしたか?」

 ハロルは腕を後ろで組んでため息交じりに呟いた。
 校舎へ続く道を歩いていた。ただそれだけだ。しかし生徒らはハロルたちを避けるように大きく道を空けている。お辞儀でもされるのなら譲ってくれているのかと思うが、皆一様に怪訝な顔つきで声を潜めてなにやら話している。目が合ったと思ったら逸らされる。レンガ造りの校門をくぐるなり、ずっとこの調子なのだ。

「彼らは僕たちが虚構士(きょこうし)だと言うことを知っていますから。怖いのですよ」
「なんで? なんにもしてねえじゃんか」
「僕たちのすることは常に彼らの予想を超えるものですからねえ。人は既知以外のすべてが怖いのです」
「きち?」
「既に知っていること」
「でもオレは知らない言葉を使う師匠のことを別に怖いと思ったことはないぜ?」
「それは君が僕を理解しようとしているからなのですよ」
「ふーん。そんなもんかねー」

 片眉を上げて呆れたように言葉を吐いた。
 すると突然怒鳴り声が聞こえる。

「お前だろ! 父ちゃんと母ちゃんの畑を荒らしたのは!」

 声がした方に視線を向けると、小太りの少年がこちらを睨んでいた。他の生徒とは違い、ハロルと目が合っても視線を逸らすことはなかった。その瞳には憎悪の色が見て取れた。明らかな敵意と怒声を向けられ、ハロルは眉間に皺を寄せる。

「なんだテメェ。やんのか?」

 ハロルは腕をぐるぐる回しながらそちらに向かおうとしたが、スーの手が頭を掴んでそれを許さない。

「やめなさい」
「師匠は悔しくねえのかよ! いきなり怒鳴られて。しかも荒らすだのなんだのって」
「今は仕方のないこ——」
「俺は見たんだよ! バケモノが畑を荒らすところを! そんで、お前がバケモノと一緒に居るところをな!」

 二人のやり取りの間に小太りの少年が声を割り入れた。

「バケモノ?」
「凄いでっかいトカゲに羽が生えたようなやつだよ! しらばっくれるなよ!」

 しかしハロルには思い当たるふしがない。なにかの間違いだ。片眉と顎を吊り上げてそちらに向かおうとするが、スーにポンチョの首元を掴まれてしまいそれは叶わなかった。

「放してくれよ。オレは濡れ衣掛けられたんだぜ師匠。あいつを黙らせてやるんだ」

 憤るハロルの腹に、そっと手が回される。「ん?」とスーを見上げたときにはもう既に体が浮いていた。そのまま小脇に抱えられる。

「ああ!? なにすんだよ!」

 ハロルはジタバタと暴れた。が、スーは一瞥もくれないでスタスタと歩きだす。校舎へ向かう足に淀みはない。

「君が無実なのは知っています。濡れ衣を着せられて憤るのももっともです。しかしここで虚構術を使って彼を黙らせたら、周りの人はどう思うでしょう?」
「虚構士ってカッコイイな! いやん素敵! 見直したわ!」
「本当にそう思っていますか?」

 語調は変わらないが、少しだけ重い。

「やっぱり虚構士は怖いって……思われるかなあ」

 ハロルの言葉にスーのまなじりが少しだけ下がった。

 ハロルは抱えられたまま、学校の裏側へ回った。教員たちがいる部屋を抜けて、学長室へ向かう。
 室内に入る手前、ハロルは外で待っているように言われた。なぜ仕事に来たのに外で待たされるのかと内心憤慨したが、中で長話を聞いていられる自信もなかったので素直に待つことにした。

 壁に背を預け、なんとなく窓の外を見ると、鮮やかな色彩を放つ花々が目に飛び込んできた。赤色や黄色の小さな花々は、白いレンガで出来た花壇の中で空を仰いで気持ちよさそうに日向ぼっこをしている。その花の向こうに、見知った人影があった。

「あ、さっきの」
 学長室には学長が一人いるだけだった。皺のないシャツとスーツに身を包んだ痩身の男だ。

「そちらへどうぞ」

 スーは促されるままにソファに腰掛けた。

「手紙は読んで頂けましたかな?」
「ええ。それで不可解な事件と言うのは、羽の生えたオオトカゲのことですか?」
「おや。なぜそれを知っておいでで?」
「先ほど生徒から聞きました」
「うーむ。生徒には言わないようにとあれほど」
「どうしてですか? 表沙汰になってはいけないのですか?」
「いいえ、ただあまりそのようなことを言ってばかりいると騙言症(へんげんしょう)を疑われてしまうでしょう?」

 スーは視線を逸らして小さくため息を吐いた。

「居もしない架空の生物を居ると偽っていると、学長は御思いなのですね」
「かも知れないと思っておるのです。断言はできませんから。それにもし、本当にそんな生物が居るのだとすれば、虚構士のあなたを疑わずにはいられない。と言うより、王は既にあなたを御疑いになっておられる」
「なるほど。調査と言うより、取り調べをしたかったわけですね」
「取り調べとは人聞きの悪い。そのようなことをする気はありませんよ。ただ、やってないのであればそれに越したことはないとは思いますので、ついでと言うことで質問させて頂きます。レフォストさんのお弟子さんは、そう言うことをする人ではないですか?」

 する気はないと言っておきながら、さっそく取り調べ染みたことをしている。スーは首を振った。

「身内贔屓を差し引いても、彼女はそんなことをするような人間ではないですし、僕の下でそのようなことはさせませんよ。ところで……」

 学長は首を捻る。

「この調子だと、夢見子(ゆめみご)探しは、させて頂けないのでしょうね」

 学長は目をぱちくりさせてから、ゆったりと笑う。

「そんなことはありません。どうぞご自由に」 
「いえ、学長が子供たちに夢を見たことを言わないよう指導しているのなら、子供たちは言わないでしょうから意味がないと言っているのです」

 逸らされた視線は帰って来ない。

「それと、騙言症と言うのも差別意識を高める言い方ですから、せめて人の上に立つ学長はおやめになってください。夢見子たちは、自分は人とは違うと思って悩んでいるのです。病気ではなく個性なのですから、それを理解してあげてください」

 学長はその言葉を聞いてもなお、ゆったりと笑うだけだった。
 ハロルは花壇で水やりをしている少女に近づいた。距離が近くなるにつれ、鈴の音のような澄んだ声が聞こえる。なにを言っているのかは聞き取れないが、話し相手は花のようだった。

「よう!」
「うひゃああ!」

 ハロルの声に思いのほか驚いた彼女は手に持っていたジョウロの水をぶちまけてしまう。ハロルの服にも盛大に掛かる。

「ああ! ごめんなさい!」
「いいっていいって。どうせすぐ乾くし。驚かせてごめんな」

 ハンカチで頬を拭われながら言葉を返した。少女もハロルが怒っていないことに気付き、徐々に落ち着きを取り戻す。

「あ、うん……うん? あ! 今朝の美人なお姉ちゃん!」

 パッと顔を明るくした少女に対して、気まずげに視線を逸らして後頭部を掻く。

「よせよその言い方」
「どうして?」
「その、なんつーのか、こう、うがああってなるからだ! それよりお前、花と会話できるのか?」
「え?」
「さっき話してただろ? すげえな」
「は……話せないよ! そんなことできるわけないよ!」

 いきなり声量を上げて、突き放すような物言いになった。これにはハロルも驚いた。
 息を荒くした少女の肩に、やさしく掌を乗せた。

「お前、名前なんて言うんだ?」
「ミーン」

 良い名前だなと思った。彼女の可憐さにそのままピタッと当てはまる名前だと。

「なあミーン。お前、夢を見たことはあるか?」

 ミーンは首を縦にも横にも振らずに、俯いた。

「オレは見るぜ。最近同じ夢ばっかり見るんだ。どこだかよくわかんねえ村が焼かれている夢。こんだけ同じ夢を見るんだから、なんか多分意味が有るんだろうなとは思うんだけどさ、まったく思い当たらねえんだよ」

 ミーンは半分までしか開いていなかった瞼をぱっちりと見開いて、エメラルドグリーンを震わせた。口をパクパクと動かしている。

「ん?」

 しかしすぐに半開きのタレ目に戻った。

「あ、いや、その……ハロルって、なんでそんなしゃべり方なの?」
「変か?」
「うん。男の子みたいだよ。せっかく美人だし眼だってバラみたいに真っ赤で綺麗で、スタイルもいいのに」

 ミーンの目線は、スカートの下から伸びる太ももに向けられる。膝から下はロングブーツに包まれているので唯一の露出部分だ。普段は露出など気にしないハロルだが、改めて言われると気恥ずかしさを覚える。スカートの裾をぎゅっと掴んでほんの少しだけ下へ動かした。

「しゃべり方が男の子みたいだったら嫌われちゃわない?」
「そうなのか? 気にしたことねえなあ」
「お母さんから言われなかったの?」
「お母さんもお父さんもわかんねーんだ」

 ミーンは口を開けたまま固まった。

「さっき一緒に歩いてた背の高いのがオレの師匠なんだけど、師匠に会うまでの記憶がまったくなくてな」
「そうだったんだ。ごめんなさい」

 ミーンは項垂れて泣きそうな声になった。

「大丈夫だって。確かに記憶はないけどオレには師匠が居るし。たまに、どっかに大切な約束を置いて来ちまった感じがしてモヤモヤするときはあるんだけど、でもなにか思い出せなくてモヤモヤするのは別にオレに限ったことでもないだろうしさ。本当に気にすることはないぜ」

 ハロルはミーンの頭を撫ぜた。艶やかなオリーブ色の上に掌を何度も滑らせると、彼女は徐々に顔を上げて、やがて微笑を湛えた。つられてハロルも笑う。

「ハロルは凄いね。さっきは膝を治してくれたし、今は心を治してくれた。ごめんなさいって思ったときのくしゃくしゃした気持ちが、どっか行っちゃった。凄く安心するし落ち着く」

 ガラガラと扉が開く音がした。スーが出てきた。学長との仕事の話は終わったようだ。

「帰りますよ」

 ハロルはミーンに別れを告げた。
 彼女と充分離れてからスーを見上げる。

「師匠、ミーンが花と話せるっぽかったんだけど、虚構士になれるかな?」
「断言はできませんが、その可能性はあるでしょう。夢は見ると言っていましたか?」
「いや、見るとも見ないとも言わなかった。花としゃべってんのも隠してたし」
「そうですか」

 スーは雲一つない空を見上げ、それからハロルに向き直った。

「ミーン嬢は悩んでいるのかも知れません」
「悩む?」
「もしも自分が夢見子だとわかれば、当然虚構士にならないかと言う話になる。ただ、この学校は虚構士に対してのイメージが良くない。それに虚構士になると言うことは、僕の下で修業すると言うことですから、家族とも離れることにもなります。簡単には首を振れないでしょう」
「そっか」
「最終的には本人が決めることですが、せめて夢見子であることはただの個性だと言うことは伝えてあげたいですねえ。彼女がもしも自分は人と違うと言って悩んでいるのなら、それを打ち明ける友達は必要でしょうから」
「友達……」

 ハロルはぎゅっと拳を握って校舎を振り返った。

「師匠」

 スーの瞳を見つめる。アーモンド型の中心には、小麦畑を想像させるやわらかな黄色が穏やかに揺れている。

「オレ、もう一度確かめてきていいかな」
「君が気になるのならそうしなさい。ただし、無理強いはしないように。ミーン嬢にその気があるのなら、親御さんには僕が話をしますから」

 ハロルはニッと笑みを向けて、踵を返した。
 この壁を回れば先の花壇が見える。だが彼女の姿より先に叫び声が聞こえる。

「やめて!」

 ミーンだ。ハロルは慌てて走り出す。
 花壇の横にはミーンが居た。それを見下ろすような形で、小太りの少年が腕を組んでいた。先ほどハロルを睨み、濡れ衣を掛けてきた少年だ。彼は花壇の上に立っている。周りには少年の仲間と思しき少年が二人居た。

「なんでだよ」

 小太りの少年は花を踏みにじりながらニヤニヤと笑っている。

「お花がかわいそうだから」

 ミーンは土の上でぐちゃぐちゃになった花を手で撫ぜる。

「はあ? なんだよそれ。花は人間じゃあないんだぞ? さっきも花としゃべってたし、お前騙言症(へんげんしょう)なんじゃあねえの?」

 なにがどうしてこうなったか、だいたいのことは察しがついた。ハロルは腰にぶら下げた創筆(そうひつ)に手を掛けた。

『君がここで虚構術を使って彼を黙らせたら、周りの人はどう思うでしょう?』

(くっ……そぉ!)

 虚構術で捻じ伏せることは容易い。正直、こんなやつらにどれだけ嫌われ怖がられようが関係ないとは思うのだが、師匠の教えは絶対である。

 ミーンは震えている。それが夢見子(ゆめみご)であることを見抜かれたことによる恐怖心からなのか、怒りからなのか、或いは花を思う悲しみからなのかはわからない。
 ハロルが近づいていくが、誰もこちらには気付いていないようだ。

「おい、なんとか言えよ!」

 小太りの少年はミーンの指に靴底を押し付けてぐりっと捩じった。

「痛っ——!」
「おいテメェ!!」

 ハロルは瞳を見開いて怒号を発していた。

「ああ? お前はさっきの虚構士じゃねえか! やっぱりお前ら仲間だったんだな」
「え! あ、う……」

 ミーンはおどおどしながらハロルから目を逸らして俯いた。

「ミーンは虚構士じゃあねえよ。だからその足をどけろよ」
「嫌だね。虚構士の言うことなんか信じられるか。さっきお前と話してたからこいつも虚構士なんだよ!」

 少年はミーンの頭に向かって唾を吐きかけた。それを感じたはずのミーンだが、身じろぎもせず、俯いたまま震えている。

 ブチブチと頭の中でなにかが切れていくのを感じた。その瞬間にはもう体が動いていた。ハロルは勢いよく跳び上がり、蹴りを放った。こめかみを正確に捉えた足は、弧を描くように振り抜かれる。少年はそのまま地面にひれ伏した。「ひっ」周りの少年の息を呑む音。着地の直後に地面を蹴り詰め寄る。踵を振り上げ、眼下に彼の顔を捉える。ブーツの重みが加われば体重の軽いハロルでも充分なダメージを期待できる。まして狙いを定めたのは顎。このまま骨を砕く。

「ダメッ!」

 しかしミーンに後ろから抱き着かれて、ハロルの強襲は止められた。

「こんなことやられて悔しくないのかよ!」
「わたしはいいの! でも、ハロルがブロン君みたいになっちゃうのは嫌なの!」

 その言葉を聞いて、ようやく頭に上っていた血が降りてきた。焼けるように熱かった背中にミーンの涙がじわじわと染みて、温度が奪われていく。

 周りの二人が倒れたブロンの傍に立ち、こちらを見ている。彼を心配しているから近くに寄って来たのだろうが、それ以上にハロルへの恐怖が勝《まさ》ってか、膝を突いて彼の介抱にあたる様子はない。

 ハロルは忌々しげに舌打ちをした。

「お前ら仲間なんだったらよ、その食うことにしか意味を見出せなくなった家畜を連れて帰れよ。……早く失せろ、ゴミども」

 ミーンに止められたものの、ハロルの怒りは収まったわけではない。十分な迫力を持って放たれた言葉に、二人は息を呑んでブロンを担いで逃げて行った。

 ミーンの髪を水道で洗ってから、ハロルはハンカチと創筆を取り出した。
 ハンカチの上で創筆が躍る。

【熱と風を持つ。糸の内側から溢れ出る。すべての物を素早く乾かす。乾かしたとき。役目は終わる】

 ハンカチを広げてミーンの頭を撫ぜると温かな風が巻き上がり、肩まである髪も見る見るうちに乾いて行った。トゥルンとした潤いを残したところで、ハンカチから熱と風が消えた。

「ハロル、凄いね!」

 笑顔のミーンを見て複雑な気持ちになる。確かに虚構術は凄いが、その虚構士の自分と話していたせいで彼女は酷い目にあったのだから。

「ミーンは怖がらないんだな」
「ハロルだって、お花とお話していても怖がらなかったでしょ? さっきは嘘吐いちゃったけど、わたし、お花とお話してたんだ。ブロン君はそれを見て気持ち悪いって言ってきたんだよ」
「それであんな酷いことをしてきたのか」
「うん。お花は確かに人間じゃあないかも知れないけれど、それでも痛いって言えないだけで思っているかも知れないんだよ。わたしもお野菜を食べたりお肉を食べたりするけれど、意味もなく踏んだりしちゃあいけないって、そう思うの」
「ミーンは花の声が聞こえるのか?」
「聞こえないよ」
「じゃあどうして花は痛がっていると思ったんだ?」

 ミーンは残念そうな顔をしてハロルからゆっくりと視線を外す。

「あ! 違う違う! ミーンが嘘吐いてるとか変なこと言ってるなんて思ってないぜ? オレはただ純粋にどうしてそう思うのか知りたいだけなんだ」

 それを聞いた彼女は一瞬だけキョトンとして、すぐに顔を綻ばせた。花壇に目を向け、根が出てしまった花を植え直し始める。ハロルもそれに倣った。

「痛がっているって思うのはね、わたしがそこにお花の命があると思うからだよ。ある日思ったの。お花とわたしの違いってなんだろうって。動けないことやしゃべれないことがそうかなって。でも、水を上げたら元気になるし、太陽があるときはにっこり微笑んでいる。それなら、みんなが勝手に命はないって思い込んでいるだけで本当はみんなと同じように生きてるんじゃあないかなって思ったの。でもみんなはそんな風に思ってない。じゃあもしもわたしがしゃべれなくなって動けなくなったら、命がないんだって思われるってことだよね。それって凄く怖いことだと思うの。でも誰か一人でもわたしのことを生きていると思ってくれたら、きっとわたしは悲しくないし、生きていける。だから、わたしが生きているって思ったらお花も悲しくないし生きていけると思ったんだぁ」

 屈託なく笑った彼女は、花よりも綺麗で、太陽よりも眩しい。ハロルはその温かな笑顔に心をふんわりと包まれた。
 ハロルは充分に得心して頷いた。それから本来話したかったことを切り出す。

「ミーン。お前は嫌がるかも知れないけど、虚構士にならないか? 才能あるよ。力を手に入れれば、あんなやつらにデカい態度取られなくなるし、虚構士の仲間ができれば、今まで言えなかったことが言えるようになる。悪いことばかりじゃあない」

 彼女は、頬は緩ませたまま眉毛だけを困らせて、視線を花とハロルの間で彷徨わせた。

「あと、その、単純にオレは……ミーンと友達になりたい」

 頬を掻いて視線を合わせずに言った。ミーンは驚いたあとに表情を輝かせた。

「ありがとう!」

 だがすぐにまた、眉毛を困らせてしまう。

「……でも、お花が心配。また荒らされてしまうかも知れない。それに、お母さんとお父さんに相談しないと。わたしが妄想出来ることとか夢を見ることとか、誰にも言わないようにって二人とも言っていたの。これって、虚構士にはならないで欲しいってことなんじゃないかな」

 ハロルはストンと肩を落として、ため息を吐いた。
 白いシャツに太ももまでのスカート。そのスカートの先と同じところまで裾があるポンチョを羽織り、ハロルは家を出た。膝を覆い隠すほど長いロングブーツを履いて。

 朝早いので、学校にはまだ人がまばらだ。花壇に行くと、ミーンが居た。弱っている花にちょろちょろと水をあげている。こちらに気付いた彼女が手を振って「おはよう」と言う。ハロルは微笑んで挨拶を返した。
 ハロルは隣に立って、創筆(そうひつ)を取り出した。

「なあミーン。もしもミーンが見守ってなくても花が大丈夫になったとしたら、お母さんとお父さんに話してくれるか?」

 ハロルの表情は硬かった。断られるかもしれないという気持ちは当然ある。それに、ミーンは虚構士になった方がいいというのは、その方が幸せになれる公算が高いというのが第一にあるものの、単純に自分の友達が欲しいという個人的な願望も含まれている。そんなものに彼女の人生を巻き込むのは気が引ける。しかしハロルは、願望を放つ心のそのもっと奥の方で、彼女を望んでいた。宝石のように煌めく緑色の瞳。それをしまい込んだ瞼は半開きで。まなじりはやさしく垂れていて。キメの細かい白い肌と淡い唇。それが痛みに歪めば自分の心もきゅうきゅうと苦しそうな音を立て、それが幸せな笑みを零せば心がふわりと軽くなり自分の顔を綻ばせる。この気持ちがなんなのか、さっぱり想像がつかないが、彼女が傍に居ない未来を考えると心がざわつくのだ。

「もしも虚構士が花を守れるなら、わたしも虚構士になりたい」

 想像外の返答だった。断られるか、或いは頷かれるにしても両親に話してみるという類の曖昧なものだと思っていた。これほどまでハッキリと自分の意思を表明するとは。
 ハロルは拳を固く握ってコクッと頷いた。

 構えた創筆が花壇の上で舞い始める。

【花は生きている。言葉を許された存在。踏まれれば痛い。その気持ちを口にする。痛い痛いと口にする。やめて欲しいと主張する。お前は生きている。人間だけがわからずに。それでもお前は生きている】

 ハロルは創筆を腰のベルトにぶら下がっている小さなホルスターにしまった。

「もういいの?」
「ああ。これでブロンの野郎もミーンが言っていたことを信じるぜ」

 虚構術の発動は間違いなくする。ブロンの驚く顔が目に浮かび、クックックと笑いを零した。

 学校の始業を知らせる鐘が鳴ったのでミーンは教室へ向かい、ハロルはしばらくそこで待つことにした。校庭の木の陰に隠れて、腰を下ろした。

 鳥のさえずりが渡り、雲が流れる。青々とした空はどこまでも体を軽くしてくれる。もたれかかった木の湿り気。風に葉がサラサラと涼やかな音を奏でる。
 植物は確かに生きているかも知れない。そこに意思がないと、なぜ言えるのか。あの雲にも空にも、生命がないとどうして言えるのか。ここまで人々に活力を与えているというのに。もしかしたら彼らは、この世界の生きとし生けるすべてのものに生命を分け与えているのかも知れないのに。
 ミーンが言っていたのは妄想だ。だがそれもあながち間違いではないのかも知れない。

 虚構士は妄想する。夢見子は妄想する。妄想が眠っている間にも発現すれば、虚構士としての能力が高いと言うことだ。
 ハロルは自らを天才と称するだけあり、毎晩夢を見る。最近決まって同じ夢だと言うのが気になってはいたが、それでも夢を見ないよりはマシに思えた。ハロルは虚構士のスーに育てられたから、虚構士と言うものになんの疑念も羞恥心もない。あるのは誇り。スー・レフォストと言う大虚構士に対する畏敬の念のみだ。
 ミーンも虚構術を学び、スーの下で修業すれば虚構士であること、夢見子であること、妄想することを恥じ入ることもなくなるだろう。

 ハロルはゆっくりと息を吐いた。頭の中の熱が外に吐き出されるような心地よさを覚えた。それを何度か続けたら、いつの間にか意識が空に吸い込まれて行った……。

「ぎゃあああああ!」

 意識が劈《つんざ》かれた。

 ハロルは跳び起きて声のした方を向いた。そこには小太りの少年が蒼い顔で口をパクパクさせて寝そべっていた。腰を抜かしたのか、その状態から起き上がれないでいた。

「は、はははは、花が、しゃ、しゃべった!」

 ブロンは取り巻きの二人を交互に見た。

「お前らも見たよな!?」
「ああ!」
「見た!」

 二人はブロンを支えて、花壇から急いで離れて行った。
 それを見ていたハロルは跳びあがってガッツポーズを決めた。

「さっすが天才虚構士! このハロル様にやれないことはないぜ!」

 腰に手を当てて、ワハハハッ! と豪快に笑う。

「これであいつらも二度と花壇には近づかないだろ」

 しばらく悦に入っていたらミーンがやって来た。花壇の花を一つ一つ確かめて、ホッと一息ついた。ブロンがこちらに歩いていくのを見ていたのだろう。ことの顛末《てんまつ》を教えてやろう。そして改めて虚構士にならないか聞いてみよう。
 そう思い、木の陰から出たところで、騒々しい足音が花壇に向かってくるのに気付いた。その足音の群れはブロンが先頭だ。後ろには大人たちが3人ほど居る。今ここで出て行ったら自分の虚構術によるものだとバレてしまう。
 大人が居る前で、ブロンが乱暴を働くとは思えない。ハロルはこのまま傍観することを選んだ。

「本当だ。本当にしゃべったんだ! 痛い、痛いって! まるで人間みたいに!」

 大人の一人が花壇の上に立つ。
 それをミーンが心配そうに見ている。

「あ、あの……」

 大人は掌を彼女に向け、花を靴底で踏んだ。

「痛い、痛い! やめて、やめて!」

 花から声が響いて、大人は仰け反りながら花壇から離れた。

「こ、これは、病気か? 新種の病気なのか?」
「いずれにせよこの花をこのままにしておくわけにはいかん」
「もしかしたら他の植物に伝染するかも」
「なら切ったり抜いたりするのも危ないな」
「このままでは子供たちが怪我をするかも知れん」

 大人二人が話し合っている中、もう一人の大人が缶を片手にぶら下げて帰って来た。それを花壇にかけている。

 すぐにミーンの顔が青ざめた。

「これ、え、……これって!」
「灯油だよ。危ないから離れていなさい」
「ダメ! 先生ダメです!」
「子供たちのためなんだ」

 言うが早いかマッチを擦ってそれを投げ入れる。土に染み渡った灯油から炎が上がり、花壇が炎に包まれた。

 ハロルは叫びながら駆け出す。

「やめろおお!」

 走りながら自分の行いを悔いる。

(オレのせいで花が燃やされちまう……! オレのせいで……また……! ……また?)

 ないはずの記憶。既視感が足を止める。直後、鋭い激痛が頭の内側に走った。自分の頭を両手で抱える。

 ミーンはハロルに気付いて走ってくる。

「ハロル! 助けて! お花が全部燃やされちゃうよお!」

 その声が耳に入ったかどうかも曖昧になるほどの痛みがハロルを襲っていた。
 ただその中でも、ミーンが困り果てていることだけはわかっていて、それをどうにかして救わなければいけないことを自覚していた。だがそれ以外は、考えられない。なにかを考えようとすると、頭の中を稲妻が駆け巡り、思考そのものが霧散してしまう。考えられない。なにも。そうするうちにいつしか、自分の思考が酷く曖昧なものになっていくのも感じていた。もはや立っているのか座っているのかもわからない。ふわふわと宙に浮くような感覚だった。
 ハロルはミーンの名を呼ぼうとするが舌が回らない。焦点の合わない目でミーンを見るので精一杯だ。ハロルにはもう彼女の声すら聞こえていない。
 完全に力が抜けて倒れそうになるところを、ミーンが支えた。

「大丈夫!? ハロル!」

 ミーンが支える中で、ハロルの髪の右半分が銀色から金色に変色した。彼女は驚きを露わにしつつも、必死にハロルを支えた。だらりと垂れていた手に力が戻り、足は大地をしっかりと踏みしめ直した。
 ハロルが意識を取り戻したことで、ミーンは体からそっと離れた。そしてハロルの顔を見て、口元を押さえた。

「ハロル、目……」

 ミーンにバラのように赤いと褒められたハロルの右目には青い石ころが挟まっていた。その形容がピタリと当てはまるほどに、無機質的な瞳だった。
 ハロルは花壇に向かって右手を向けた。すると炎の中から絶叫が聞こえる。

「熱いぃぃぃいいいい!!」

 ハロル以外全員が耳を塞いだ。

 そしてその中に、炎以外のものがのたうち回り始めた。それは蔓のようなものだった。やがて小さかった花が一気に膨れ上がり、大人たちの身長を越えた。その巨大花から蔓が伸びて灯油をかけた大人の足に絡まる。

「ぎゃっ!」

 足を取られた大人は仰向けに倒れ、そのままずるずると引っ張られる。燃え盛る炎の中に引きずり込まれそうになっている。

「た、たたた、たあすけてえええ!」

 情けない声が上がる。大人たちが彼の両サイドに立ってそれぞれ腕を引いた。

「ハロル! やめてあげて!」

 ミーンがハロルの腕を引っ張るが、固定されたように動かない。一瞥もやらない。表情もない。石のようにただ、目の前で行うべきことを断行しているに過ぎないと言ったような雰囲気である。

 ミーンはあたふたしながらも、深呼吸を一度だけした。すると、その直後には彼女の瞳は落ち着いていた。今できることを必死に考えている、そんな瞳に変じていた。
 瞼から半分だけ覗いたエメラルドが鋭く光る。

「ブロン君! 先生のベルトを外して!」

 言われるままにブロンは足を取られている教員のベルトを外した。その瞬間、ベロンとズボンは脱がされ、炎の壁の中に入っていった。

「あぶなかっ——」

 しかし蔓はまたしても炎を突き破り出て、鞭のようにしなりながら足に絡みついた。今度はもう、脱がす服はない。

「うああああ!」

 絶叫が響き渡った。

 不意に、暗雲が立ち込めた。ちょうど花壇の真上辺りにだけだ。そこから大量の雨が、文字通り滝のように降り注いだ。その滝は火を消し止め、周りの人々に花壇の泥を被せた。これで教師が丸焼きになることは免れた。しかし絡んだ蔓がまだ取れていない。先の雨は花壇の花の力を衰えさせたわけではない。
 ハロルの隣を影がすり抜けた。ウェーヴの掛かった茶髪が揺れている。ゆったりとしたローブに身を包んで現れたのはスーだった。彼は創筆を手にしている。その尻軸《しりじく》からはフィガロチェーンが伸びており、ローブの上から締められたベルトに取り付けられた創筆のキャップリングにまで続いていた。

 スーは彫金が施された創筆を花に向けて躍らせ始めた。距離はあるが、それでも効果が有ると確信しているのだろう。ペン先が動く度、フィガロチェーンが艶やかに踊る。なにかを書いているが、それがなにを示しているのかを知ることが出来る者はこの場には居ないだろう。
 書き終えると、花から伸びていた蔓は萎《しお》れ、花は元の大きさに戻って空を仰いだ。

 スーは振り返ってすぐにぎょっとした。
 しかしすぐさまハロルの額の上で創筆を躍らせた。書き終えるとハロルは、意識を失い、項垂れた。

 バランスを崩してハロルが前のめりに倒れるのをスーが抱きかかえたとき、立ち込めていた暗雲が消えて行った。

「あ! あれ!」

 一人の少年が空を指さして叫んだ。
 暗雲を切り裂き現れたのは黒龍。すべての鱗は漆黒だが、その所々が太陽を反射していて輝いているようにも見えた。夜空を纏《まと》ったようなドラゴンだった。
 しかしそれはここに降りてくるわけではなく、南の空へ向かって飛んで行った。

 その先はイアルグ。七年前全焼した村。
 ハロルが目を覚ましたのは自室のベッドの上だった。起き上がろうとすると、隣で呻き声が聞こえた。それはミーンのものだった。ベッドの横に椅子を置いて、そのまま寝てしまったようだ。
 看病してくれていたのか。ハロルは穏やかなまなざしを向けた。その両方にはバラの赤。

 カーテンが揺れる。この季節の風は、森から草の匂いを運んでくれる。ハロルは深呼吸をして、それからミーンのオリーブ色の髪を撫ぜた。心の中を泡が満たしていくような感覚。

 不意にノックの音が響き、スーが部屋に入ってくる。目が合った瞬間、スーは足早に近づいてきてベッドに腰掛けた。恭しい手つきでハロルのおでこに掌をピタリと付ける。やわらかくて冷ややかな指先が心地良い。

「師匠」

 ハロルが気まずげに言葉を零すと、スーはなにも言わずそっと抱き寄せてくれた。ゆったりとしたローブに包まれ、ハロルは安心した気持ちになる。銀色の髪を梳《と》かすように、スーの指が数回通った。

「良かった。本当に良かった」

 ぎゅうぅっと力を籠められ、ハロルは呻き声をあげた。慌ててハロルから離れる。

「だあ! 殺す気かよ!」
「すみません。つい、嬉しくて」

 スクウェアタイプの眼鏡の奥の瞼を細めて、眉をハの字に曲げた。

「いいけど……でも」

 ハロルは項垂れて、言葉を探した。記憶の片鱗を拾って集めている最中だ。情景が断片的で、上手く整理できない。

「オレ、……オレの虚構術のせいで、花壇が燃えちまった。ミーンを助けるためにと思ったのに、そのせいで、勘違いされて」
「そのあとのこと、覚えていませんか?」
「あと? そういやそこですげぇ頭痛がして、声が遠くなって、気付いたらここに居た。あのあとなにかあったのか? ……あ、花は?」

 スーは表情を変えずに、緩やかに息を吐いた。

「花なら大丈夫。覚えてないようですけれど、君は虚構術を使って花を巨大化させたのですよ」
「オレが?」
「ええ。そして、その花が暴れて、周りの人たちを襲い始めました」

 ハロルは目を見開き蒼褪めた。自分が無意識に使った虚構術で人を傷付けるなど、虚構士としてあってはならない。自分の指先を見つめる。

「それで、そのあとは……」

 ポンと頭の上に掌が置かれる。

「僕が豪雨を降らせて火を消し、花は元通りにしておきましたよ。君が正常ではなかったようなので、気を失うように虚構術を掛けましたが、存外長引いてひやひやしました」

 スーの声は穏やかだが、それゆえにハロルの胸は締め付けられた。いっそ叱って欲しかった。君はなにをやっているのだと、張り倒された方が良かった。ハロルは知らず震えだした手を握っていた。

「師匠、その、オレ、なんて言えばいいのか、その」
「ありがとうと、ごめんなさい」

 包み込むようなやわらかな声だった。ハロルは顔を上げてスーを見つめた。

「それだけでいいのですよ。君は未熟で、そのために僕は居る。さあ、言ってごらんなさい」

 ハロルは震える唇を開いた。

「ありがとう」

 スーは微笑を返す。

「ごめんなさい」

 ハロルの髪は何度も()かれた。その度に瞳から溢れ出した雫が、ぽとぽとと布団を濡らした。
 存外長引いて、とスーは言っていたが、まさか4日間も寝込んでいるとは想像していなかった。その間にミーンは弟子入りを果たしていた。スーが両親を説得するまでもなく、ミーンが納得させていた。もとより両親は、ミーンが夢見子であることを悩んでいるのは知っていたようで、彼女の意思が尊重されるような形になるのであれば、どうあれそれに越したことはないとのことだった。

 ハロルの意識が目覚めない間、スーは看病の合間に虚構術の勉強をしていたようだ。スーから貰った創筆で簡単な虚構術なら使えるようになっていたし、古代文字で書かれた書物もほんの少しだけなら読み解いて見せてくれた。
 ハロルは感覚で虚構術を使っていたので、勉強のために本を読んだことはなかった。彼女の、段階を踏んでしっかりと勉強をしている姿は、姉弟子としてのハロルの心を急かすものだった。
 とは言え、ミーンの虚構術は初歩中の初歩に留まっていたし、妄想力と言った部分での差がそのまま力の差になってしまう虚構士の世界では、二人の力の差は歴然としていた。

「さてハロル。出掛けますよ。準備をしなさい」
「また学校か?」
「いいえ、王宮に出向きます」


※  ※  ※  ※


 スーの家があるのはアシオンの端の森だ。王宮はアシオンの中心に在るため、馬車を使っての移動となった。

 王宮の門の前に着き、馬車を降りる。ハロルは門を見上げた。スーは同年代の男よりも身長が高いが、そのスーを縦に3人並べても届かない。と、師匠を勝手に定規に使っていた。
 しばらくすると門の横の小さな扉が開き、兵士が出てきた。こちらへと勧められるまま、兵士のあとに続いた。

 王宮へ続く石畳の横では、兵士たちが土煙を上げながら訓練に励んでいた。その中で一際目立つ兵士が一人。背中まで伸びた青い髪を一本に結んで、身の丈ほどある大剣を振り回している。その剣圧は凄まじく、10メートル以上離れたハロルに風が届くほどだった。肩と胸だけを守るタイプのブレストプレートを着ていて、腹から足まではボディタイツに覆われていた。防御力を犠牲に敏捷性を高める装備のようだった。しなやかなに動く筋肉が、戦士としての練度を窺わせる。しかしハロルがなにより気になったのは——

(女だ)

 ピンと張りつめた冷たく鋭い眼光に、美しい顔立ち。それは氷の花のよう。
 周りに居るのは男の兵士ばかり。その中で、当たり前のように凛と立っているだけで、胸が空いた。ミーンが見たらなんと言うだろう。綺麗なのにもったいないと言うだろうか。ハロルは自分を彼女に重ねずにはいられない。
 知らず、じっと見ていると剣士と目が合った。なんとなく目線を切れずにいたら、向こうからつかつかと歩み寄って来た。

「なにか用か」

 ハロルを見下ろして女剣士は冷静な表情を変えずに聞いた。

「あ、えっと、女が兵士って、珍しいなと思って」

 女剣士は鼻を鳴らす。

「ふん。奇異の目で見ていたというわけか」
「あ、いや、そうじゃなくて!」
「すみませんねえ、うちの弟子が不躾なことを」

 スーが前に出て謝罪を口にした。彼よりも女剣士の身長の方が高い。

(でけえ)

 身長だけではない。ハロルの位置から見上げると、ブレストプレートを蹴破らんばかりに主張する暴力的な乳房の膨らみに圧倒されてしまう。

「その腰にぶら下げているのは……なるほど虚構士か。私は、虚構士は好かんのでな」

 ガツンと頭を叩かれたような感覚に襲われた。怒りは感じない。寧ろ、束の間ではあるが憧れを抱いた女性に突き放された喪失感が大きかった。それから彼女が踵を返して元の位置に戻るまで、ハロルはなにも言えないで背中を見ていた。
 謁見の間で待っていると、王がどかどかと足音を鳴らしながらやって来た。スーとハロルはその場で跪く。王が立っている場所とは、人一人分ほどの高低差があった。
 玉座にどかりと座ると、肘掛けに肘を突いて拳の上に頬を乗せた。そのまま、目配せで隣の近衛兵に合図を送る。

「良いぞ」

 近衛兵の言葉に、二人は顔を上げた。

「大臣が出した手紙は読んだな?」
「はい」
「単刀直入に言うが、わしはお前たちを疑っている。なんでも羽の生えたトカゲのすぐそばに、銀髪赤目の女が居たという話だ。お前の弟子、まさにその容姿に当てはまるな」

 白髪交じりの前髪が、タラリと垂れた。前髪の間から覗く目がハロルを凄む。思わず息を呑み、ゴクリと咽喉を鳴らした。

「それに学校で虚構術を使い、人を襲ったとも聞いたぞ」

 スーは視線に割って入るように言葉を放つ。

「学校での件は弁明の余地もありません。ひとえに私の教育不足が招いたこと。しかし手紙に書いてありました事件に関しましては、我々は無実です」
「信じられんな。潔白を証明して見せよ。畑を荒らした羽の生えたトカゲは、南の空へ飛び立ったという。そこにはお前の家があるであろう」
「はい」
「お前と弟子ではないと言うのなら、その先にあるイアルグか、或いはエノスか。羽の生えたトカゲの正体を突き止めろ。もしもお前たちではない他の虚構士が後ろで手引きをしているのなら、そいつを捕まえて来い。虚構士ならば虚構士が相手をするのが良かろう?」
「仰せのままに。それでは、国境を超えるにあたって、許可証を戴けますでしょうか」
「無論だ」

 王は視線をハロルの隣に居た兵士に向けた。
 兵士は王に向かって礼をすると、スーに証書を渡した。それに目を通したスーは、王へ進言する。

「通行許可証をくださり痛み入ります。しかし王。大変恐縮ではございますが、虚構術の使用許可証を頂かないことには、虚構士と相対したときに捕まえることが出来ません」
「はん」

 王は嘲りを交えたような短い笑い声を漏らした。

「言ったであろう。わしはお前らを信用していない。使用許可を出して他国で暴れられてはかなわぬ」
「しかし」
「しかし? さっきの今で忘れたのか? お前の弟子は一度しでかしているのだぞ」

 スーは拳を握った。ハロルも歯を食いしばる。

「なあ……、お前戦争を起こしたいのか?」

 ギロリと睨まれる。王の静かだが気迫がこもった視線に、スーは息を呑んで俯く。

「いえ」
「安心しろ。お前たちには護衛を付ける。腕利きの剣士だ。それで問題なかろう。もとよりわしがお前に依頼しているのは調査だ。虚構士の相手は虚構士。それはあくまで謀《たばか》りを見抜けというだけの話だ。戦えと言っているのではない。もしも戦うハメになるのなら、わしの兵が戦えば良い。兵士が戦わざるを得ない状況ならば、相手側に落ち度があると言える。国同士での問題になったときに、その方が話をまとめやすいのだ。わかれ」

 断定的な物言いに、スーは短く「承知いたしました」とだけ返した。


※  ※  ※  ※


 王が選定した兵は、スーの家に馬車を連れて直接来ると言うことらしく、その日はそのまま帰された。いつ来るとも言われなかったので、それが明日の朝なのか一週間後の夜なのかもわからない。

「ったくあのクソ王。偉そうにしやがって! 舐めてんのか! 舐めてんだな! あー、もうっ、イライラするっ! いつか虚構術でぎゃふんと言わせてやる!」
「情けない師匠で申し訳ないですねえ」

 おっとりとした笑みのスーは、暴言を咎めようとはしない。いつもの調子で叱ってくれると思っていたハロルは、面食らってしまい言葉をなくした。それからややあって、ため息交じりに言葉を返す。

「あ、いや、その……オレが学校でヘマしてなけりゃあ良かったんだよな。ごめん師匠」

 肩を落とす。するとそんなハロルの肩に、スーはポンと手を置いた。

「学校の件は残念でしたが、畑荒らしは君ではないのですよね」
「それはもちろんだぜ!」
「では無実を証明しなければなりませんね……しかし、危険を伴う旅になりますから、ハロルはうちで待っていてください」
「はっ、冗談キツイぜ。なんのための弟子なんだよ。それに、オレが居た方が師匠も心強いだろ?」
「それはなんとも言えませんねえ」
「はあ!? オレの強さは知ってんだろ? それに師匠より運動は得意なんだ。足手まといになるつもりはないぜ」
「君が頼もしいのは知っていますよ。それよりもミーンのことです。彼女のことを思うと、君が一緒に居てくれた方が安心かなと思いまして」
「ああ、そっか……」

 家に帰ってからやることはいくつかあるが、まずはミーンだ。二人で家を空けるとなると、彼女を一度家に帰さなければいけない。元々、週に何回かは家に帰ってはいたので、その期間が長くなるだけだと思えば、生活面での影響はさほどない。しかし虚構士としての鍛錬を積むのに期間が空いてしまうのは良いことではなかった。せっかく覚えた虚構術も、虚構士ライセンスを持っているハロルやスーが居ない場所では使えないのだ。カンコツを忘れてしまうかも知れない。であればせめて姉弟子のハロルが一緒に残って修行をしながら留守番をするのがベターな選択と言えた。が——

「わたしも行く。お師匠さま、行かせてください」

 そう思っていたのはハロルとスーだけだった。

「しかしね、遊びに行くわけではないのですよ」
「わたしは元々遊ぶために弟子入りしたわけじゃあないよ?」
「それはもっともですが、危険が伴うのです」
「修行って、そういうものなんじゃあないの?」
「それももっとも。しかし修行は、わたしが安全だと思える範囲内で行われるものです。厳しいですが、死なない保証があります。僕は死ぬかもしれない旅に出るのですよ」
「だったらわたしがお手伝いする。わたしが行けばハロルも行けるんでしょう? そうすれば——」
「わかんねえやつだな!」

 ハロルは声を荒げた。ミーンの肩がビクリと震える。

「師匠は、お前のことを思って言ってんだ! わかれよそれくらい!」

 勢いよく捲し立てられ、ミーンはしゅんと萎《しぼ》んでしまう。

「ハロルはどうしてわたしを虚構士に誘ったの?」

 突然の質問に、ハロルは間抜けな声を出す。

「え?」
「わたしは、ハロルみたいに成りたいって思ったの。カッコ良くなりたいって。虚構士になったら、ビクビクして生きなくていい。人とは違う自分にも自信を持って生きて行ける。それに、お花を守ることも出来るって。ここで家に帰ったら、わたしはなにに自信を持つの? なにに胸を張れるの? なにを守れるの?」

 エメラルドの瞳が、半開きの瞼の奥で輝きを放っている。ハロルは胸を締め付けられてしまい、言葉を返せない。彼女が虚構士になれば、彼女のためになると思っていた。しかしもっと端的な、私利私欲の部分では、友達が欲しかっただけだ。だと言うのに、彼女はとてつもない覚悟で弟子入りしたのだ。師匠の下で過ごさざるを得なく、弟子入りせざるを得なかったハロルとは違う。すべて自分で選んで覚悟を決めてここに来たのだ。

「ミーン」

 スーは包み込むような深くやさしい声を向けて、膝を曲げた。

「君の気持ちはよくわかりました。同行を許します。ただし、ご両親を納得させてください。今回の調査がとても危険であると言うこと、死ぬかもしれないと言うことを伝えたうえで」
「はい」
「そして今日のところはおうちに帰りなさい。早ければ明日、兵士が迎えに来るでしょうから」

 ミーンは落ち込むハロルの顔を上目遣いに見てきた。目が合って、微笑が零れる。つられてハロルも笑みを返したが、どこか白々しい、乾いたものだと自覚していた。