ハロルは花壇で水やりをしている少女に近づいた。距離が近くなるにつれ、鈴の音のような澄んだ声が聞こえる。なにを言っているのかは聞き取れないが、話し相手は花のようだった。

「よう!」
「うひゃああ!」

 ハロルの声に思いのほか驚いた彼女は手に持っていたジョウロの水をぶちまけてしまう。ハロルの服にも盛大に掛かる。

「ああ! ごめんなさい!」
「いいっていいって。どうせすぐ乾くし。驚かせてごめんな」

 ハンカチで頬を拭われながら言葉を返した。少女もハロルが怒っていないことに気付き、徐々に落ち着きを取り戻す。

「あ、うん……うん? あ! 今朝の美人なお姉ちゃん!」

 パッと顔を明るくした少女に対して、気まずげに視線を逸らして後頭部を掻く。

「よせよその言い方」
「どうして?」
「その、なんつーのか、こう、うがああってなるからだ! それよりお前、花と会話できるのか?」
「え?」
「さっき話してただろ? すげえな」
「は……話せないよ! そんなことできるわけないよ!」

 いきなり声量を上げて、突き放すような物言いになった。これにはハロルも驚いた。
 息を荒くした少女の肩に、やさしく掌を乗せた。

「お前、名前なんて言うんだ?」
「ミーン」

 良い名前だなと思った。彼女の可憐さにそのままピタッと当てはまる名前だと。

「なあミーン。お前、夢を見たことはあるか?」

 ミーンは首を縦にも横にも振らずに、俯いた。

「オレは見るぜ。最近同じ夢ばっかり見るんだ。どこだかよくわかんねえ村が焼かれている夢。こんだけ同じ夢を見るんだから、なんか多分意味が有るんだろうなとは思うんだけどさ、まったく思い当たらねえんだよ」

 ミーンは半分までしか開いていなかった瞼をぱっちりと見開いて、エメラルドグリーンを震わせた。口をパクパクと動かしている。

「ん?」

 しかしすぐに半開きのタレ目に戻った。

「あ、いや、その……ハロルって、なんでそんなしゃべり方なの?」
「変か?」
「うん。男の子みたいだよ。せっかく美人だし眼だってバラみたいに真っ赤で綺麗で、スタイルもいいのに」

 ミーンの目線は、スカートの下から伸びる太ももに向けられる。膝から下はロングブーツに包まれているので唯一の露出部分だ。普段は露出など気にしないハロルだが、改めて言われると気恥ずかしさを覚える。スカートの裾をぎゅっと掴んでほんの少しだけ下へ動かした。

「しゃべり方が男の子みたいだったら嫌われちゃわない?」
「そうなのか? 気にしたことねえなあ」
「お母さんから言われなかったの?」
「お母さんもお父さんもわかんねーんだ」

 ミーンは口を開けたまま固まった。

「さっき一緒に歩いてた背の高いのがオレの師匠なんだけど、師匠に会うまでの記憶がまったくなくてな」
「そうだったんだ。ごめんなさい」

 ミーンは項垂れて泣きそうな声になった。

「大丈夫だって。確かに記憶はないけどオレには師匠が居るし。たまに、どっかに大切な約束を置いて来ちまった感じがしてモヤモヤするときはあるんだけど、でもなにか思い出せなくてモヤモヤするのは別にオレに限ったことでもないだろうしさ。本当に気にすることはないぜ」

 ハロルはミーンの頭を撫ぜた。艶やかなオリーブ色の上に掌を何度も滑らせると、彼女は徐々に顔を上げて、やがて微笑を湛えた。つられてハロルも笑う。

「ハロルは凄いね。さっきは膝を治してくれたし、今は心を治してくれた。ごめんなさいって思ったときのくしゃくしゃした気持ちが、どっか行っちゃった。凄く安心するし落ち着く」

 ガラガラと扉が開く音がした。スーが出てきた。学長との仕事の話は終わったようだ。

「帰りますよ」

 ハロルはミーンに別れを告げた。
 彼女と充分離れてからスーを見上げる。

「師匠、ミーンが花と話せるっぽかったんだけど、虚構士になれるかな?」
「断言はできませんが、その可能性はあるでしょう。夢は見ると言っていましたか?」
「いや、見るとも見ないとも言わなかった。花としゃべってんのも隠してたし」
「そうですか」

 スーは雲一つない空を見上げ、それからハロルに向き直った。

「ミーン嬢は悩んでいるのかも知れません」
「悩む?」
「もしも自分が夢見子だとわかれば、当然虚構士にならないかと言う話になる。ただ、この学校は虚構士に対してのイメージが良くない。それに虚構士になると言うことは、僕の下で修業すると言うことですから、家族とも離れることにもなります。簡単には首を振れないでしょう」
「そっか」
「最終的には本人が決めることですが、せめて夢見子であることはただの個性だと言うことは伝えてあげたいですねえ。彼女がもしも自分は人と違うと言って悩んでいるのなら、それを打ち明ける友達は必要でしょうから」
「友達……」

 ハロルはぎゅっと拳を握って校舎を振り返った。

「師匠」

 スーの瞳を見つめる。アーモンド型の中心には、小麦畑を想像させるやわらかな黄色が穏やかに揺れている。

「オレ、もう一度確かめてきていいかな」
「君が気になるのならそうしなさい。ただし、無理強いはしないように。ミーン嬢にその気があるのなら、親御さんには僕が話をしますから」

 ハロルはニッと笑みを向けて、踵を返した。