見上げた先に、巨大ネズミとは段違いの大きさの黒い獣がいた。
 翠がかった金色の瞳が、鋭くこちらを見下ろしている。
 目は一対。巨大ネズミのように、額に石はなかった。
「無理や……」
 パティが力なく声を震わせる。
「ユズオムならまだいけた。でもフェテランは……、絶望や」
「ふぇてらん?」
 その時、真っ赤な口が裂けるように開いたかと思うと、黒い影がぶわっと膨れた。
「アカン! アリス、避けぇ!!」
 パティに強く背中を突かれ、私は勢いよく藪に突っ込む。
「いたた……」
 ドッという音と共に、たった今まで私たちのいた場所へ黒い影が落ちてきた。
(うそ……)
 それは黒豹そっくりの生き物だった。
(黒豹……レオポルド!?)
 反射的に推しの名前が頭に浮かぶ。
 だが、サイズは私の知る豹のイメージの2倍以上もある。恐らくトラよりも大きい。
 ウルルルル……
 ペリドット色の目がパティを捕らえる。
 しなやかな足取りが威圧感を持って距離を詰める。
「や、やめぇや。こっち来んな……!」
 棍棒を振り回し、紙よりも白くなった顔を震わせながら、パティはあとずさりする。
「来んな。来たらアカン……!」
 ウルルルル……
 巨大黒豹が、グッと背を沈め腰を丸めた。
 そしてパティに躍りかからんとした瞬間、私の足は地面を蹴っていた
「ぇあぁああっ!」
 自分でもよく分からない声を上げ、黒豹の胴に向かって跳躍する。
 タックルしようとしたが、思いの外胴回りは太く、組みつこうにも腕が回りきらない。
 私は獣毛に指を絡め、しゃにむにしがみついた。
「アリス! アンタ何を!?」
「くううっ!」
 ウルルルルッ!
(あぁああ、目の前でスプラッタが展開されるかと思ったら、つい体が!)
 それで自分がスプラッタの標的にされていては世話がない。
 黒豹は思わぬ推参者に驚いたのか、パティに飛び掛かるのを止める。
 代わりに私を振り落とさんと、その場をぐるぐると回り始めた。
 私は巨大黒豹の獣毛を握りしめ、指に更なる力を籠める。
(いた、いたた)
 岩場を引きずられ、足に絶え間なく衝撃が加わる。
(でも、この手を離せば私は終わる!)
 私は両腕に力を籠め、グッと体を黒豹の腹部へ押し付ける。
 顔にチクチクとした獣毛が触れた。
(レオポルド……)
 推しの黒豹獣人の姿が頭に浮かぶ。
(彼の体に頬を摺り寄せたら、こんな感じなのかなぁ)
 ヤケクソか、脳が現実を受け入れきれず逃避に走ったのか、そんなことを思った時だった。
 唇に何か固いものが触れた。
(ん? ツルツルした、何?)
 目を凝らすと、艶やかな漆黒の獣毛の間から、瞳と同色の石が見えた。
(え? 石? なんでこんなところに……)
 その時だった。しがみついていた相手の胴回りが、急にスリムになった。
「えっ?」
 不意を突かれ、手を離してしまう。
(しまった!)
 岩場に背中からドッと落ちる。
 私は両手で顔を覆い、反射的に身を縮めた。
 一秒……二秒……三秒……
 黒豹の牙が私に届く気配はない。
(?)
 そっと顔から手をはずし、恐る恐る豹へ目を向ける。
(え……)
 巨大黒豹は謎の発光体になっていた。
 かすかに見えるフォルムは徐々に縮み、やがて人のような形へと変わる。
「な、なんや、これ……」
 少しずつ光が収まってゆく。
 やがて光が完全に落ち着いた時、そこに立っていたのは黒豹の頭部を持ち、艶やかな漆黒の獣毛に全身を覆われた、筋肉の作る陰影も美しい獣人の青年だった。
「レオポルド……!?」
 その姿や顔立ちは驚くほどゲームの推しにそっくりだった。
 異なるのは、額に瞳と同じ色の石が埋まっていることくらいだろうか。
 あと、全裸であることと。
「あ、あぁ……」
 状況が理解できないのと、突然の推しそっくりの存在(全裸)の顕現に私は言葉を失う。
 黒豹青年は不思議そうに自分の両手や体を眺めていたが、やがて鋭い眼差しをこちらへ向けた。
「ヒュッ!」
 獣人の姿になったとはいえ、先ほどまで私たちに牙をむいていた危険な存在だ。
 思わず息を飲み、身を固くする。その時、奇妙な音が聞こえて来た。
 チチチチ……
 不穏な気配を察し音の源へ目を向ける。
 巨大黒豹の登場に撤退しようとしていた巨大鼠が、再び私たちに殺意を向けながら迫りつつあるのが見えた。
「あいつら」
 憎々しげに睨みながら、パティは棍棒を持ち直す。
「さっきのうちにどっか消えとけや!」
「うん」
 私も先ほど使っていた枝を拾い上げようとした。
「アリス」
 耳に届いたのは、ゲームの推しのものと瓜二つのほんのり甘いビターボイス。
 声の主は予想過たず、黒豹青年だった。
「え? あ……」
「あいつらをせん滅すればいいのか?」
「……」
 言葉が出ない。彼は見た目や声だけでなく、口調や仕草までもレオポルドそのものだった。
(なんで? 一体どういう仕組み? なぜレオポルドが……)
 理想そのものの美しい顔に視線はくぎ付けとなる。
 だが次の瞬間、巨大鼠たちが殺意を漲らせ押し寄せてきた。
「きゃあ! レオポルド、あれ!」
(うけたまわ)った!」
 それだけの言葉で、黒豹青年は巨大鼠に飛び掛かる。
 四方八方から襲い来るそれを、彼は難なく撃ち落としていった。
 その際に、鋭い爪で額の石を砕くことも忘れず。
(うはぁ……)
 華麗で勇壮なその身のこなしに、私の目は吸いつけられる。
 跳躍し身をひねり、力強くもしなやかな腕が、害獣を退けていく。
「なぁ、アリス。あれ、何なん?」
「あれって?」
「あの、クバル・フェテランの頭した奴や!」
『くばるふぇてらん』とは?
「アンタが飛びついたら、クバル・フェテランが人みたいな形に変わったやん? アンタ、何やったん!?」
「え? 特に何も。そう言う生き物じゃないの?」
「んなわけあるかい! ほんで、なんであんたの言うこと聞くん?」
「さぁ?」
「味方と思てえぇんか?」
「……わからない」
 わからない、何もかも、さっぱりだ。
 やがて黒豹青年が最後の巨大鼠を消滅させる。
 そして軽く手を払うと、こちらへのしのしと歩いてきた。
「アリス、終わったぞ」
 とても誇らしげで。
 堂々たる振る舞いで。
 全裸で。
「ぎゃああ、かっこいいけどさすがに全裸はまずい! 何か服! 布!」
「おぉお、任せろ! ウチは旅の商人や!」