「あ」
 とある夏の、海の見える街。
 長く見える坂道を、自転車を押しながら歩いていると、道路にペンギンが落ちていた。
 キキッという音を立て、自転車を止めて僕はその物体を観察する。
 ぴくぴく、ぴくぴくく。
 ペンギンは、今にもじゅううッと音を立てそうな地面に横たわり、丸くて大きな白い目に、ぎょろっとした黒目をくるりと回転させて、僕の目をまっすぐ見つめた。
 沈黙。
 ペンギンは、目で僕に訴える。僕もペンギンに訴える。
 答えは「NO」だ。
 ペンギンの感情は、何故か僕にはわかるような気がした。助けろと言われても困る。
 僕は売れない画家をしている。絵が一枚も売れたことが無いのに画家を名乗るのは微妙かもしれないが、観察眼にはそれなりに自信があった。とりあえず、ネットで検索しようと思って、僕はスマホを取り出した。
【ペンギン 飼い方】
 検索ボタンを押そうとして、やめる。こんなところに落ちているペンギンが、普通のペンギンの訳がない。
 面倒ごとに巻き込まれてたまるかとは思うものの、目の前で死にそうな命を見過ごせず、僕は結局家に連れ帰って、ござの上にバスタオルを敷いて、ペンギンを横たえた。
 とりあえず、観葉植物の水やりに使う霧吹きでペンギンに水を吹きかけて、扇風機を回すことにした。ペンギンは、僕が霧吹きを向けるとびくう! と体を震わせたが、中から吹き出してきたのが水だとわかると、おとなしく水を吹きかけられていた。それから僕は、扇風機のボタンを入れる。首振りモードで放置しつつ、僕は冷蔵庫を開けた。
「……何も無いな」
 あるのはそうめんとめんつゆくらいだ。高校三年生――三年前の夏に両親が死んでから食欲がない僕は、毎年夏はこれで食いつないでいる。おかげで少し体重が落ち、食べているのかと周りに心配されるが、自分一人だと食生活にはなかなか気を使えない。
「……買い物に行くか」
 僕はぐったりして眠るペンギンを見て呟いた。

「おや、珍しい」
 僕が買い物に行くと、昔から僕をよく知るおばさんやおじさんたちが話しかけてきた。
「元気? ちゃんと食べてる? 坂の上に住んでるし、顔を見ないから心配してたのよ?」
「ほら、これ持ってって食え!」
 魚を買い、氷を買って、肉も買う。おせっかいな人たちが食べ物をくれたせいで、家に戻る頃には、僕はもうヘロヘロだった。重い。額に汗が滲んで、なんだかひどく疲れた。
 けれどその時、びゅうと僕の後ろから吹いた風が、一枚の葉を空に飛ばしたのを見て、体の中に溜まっていた何か重いものが、すとんと落ちるような感覚を覚えた。海の見えるこの街。僕の家は坂の上にある。舞い上げられた葉はふわっと舞い上がり、そして緩やかに海に落ちたようだった。
 ゆらゆら、きらきら。焦燥と希望。そして、微かな絶望。言葉に出来ない感情が、僕の中に浮かんで消える。僕はその胸騒ぎを隠すために、再び自転車を押して家へと辿り着いた。
 家に帰ると、ペンギンはよく寝ていた。皮膚が乾くのは良くないだろうかと思ってもう一度霧吹きで水を吹きかけると、「クゥワ」と鳴いた。
「さて、と」
 僕は息を吐いて腕まくりすると、早速昔使っていたかき氷機を取り出した。ハンドルを回して削る仕様の古いやつ。一応綺麗に洗ってから、僕は買ってきた氷をセットした。両親が存命の頃は、よく作ってもらったかき氷。まさか道端に落ちているペンギンのために作る日がこようなんて、僕は思いもしなかった。そう考えると不思議というか、ちょっとワクワクする。
「出来たぞ」
 かき氷をガラスの器に盛り付けて、僕はペンギンを起こした。ペンギンは僕の声にかっと目を見開くと、なんの支えもなく体を起こした。どう考えても普通のペンギンの動きではない。
 かき氷は、僕のはいちご練乳味、ペンギンのはプレーンだ。つまり何もかかっていない。流石にこの妙な生物が何であろうと、見た目ペンギンにシロップをかけたかき氷を渡そうとは思えなかった。ペンギンは、僕と自分の器を交互に見比べ、目で訴える。
 答えは「NO」だ。
 お前ペンギンだろ。氷で我慢しとけよと思いつつ、僕がスプーンをかき氷を差し込もうとすると。
 べしゃっ! 僕の顔に、何かがぶつかった。
 甘ったるい匂いが顔面を満たしている。原因はすぐにわかった。勿論犯人はペンギンだった。ペンギンは、どうやら自分のかき氷が不満だったらしく、僕のかき氷に顔面を突っ込んでいた。
 しゃくしゃくしゃく。すごい勢いで食べると同時、辺りに赤い液体が飛び散る。机の上は大惨事だ。
「クエ!」
「……もう一杯よこせって?」
 いちご練乳を完食したペンギンは、僕に向かってそう鳴いた。何という図々しさ。流石、炎天下の中道端で干からびていたくせに、目で訴えてきただけある。
 結局その日は十杯のかき氷を作った。ペンギンはただの氷より、味付きの方が好みらしい。こうなると、より生態が気になってくる。イチゴにブルーハワイ、キウイにマンゴー。気の迷いで買ってきた沢山のシロップは、全てペンギン様用になった。
 でもこの時、実は一つだけ事件が発生した。ペンギンは宇治金時の餅を詰まらせて、一瞬上を向いてフルフルしてから倒れたのだ。これには流石の僕も焦った。僕はペンギンの体を掴むと、思いっきり身体を振った。
 すると、ペンギンの口からころころと餅が落ちた。ほっと一安心。僕の手に抱きかかえられたペンギン。ちょっとだけファンタジーだ。ペンギンが、呪いをかけられた姫という裏設定があれば恋愛モノになるところだが、
「クワ~~!! クワッ! ワッ! ワッ!」
 そんなうまい話あるはずもなく。ペンギンは、目覚め次第僕の頬を平手打ちした。
「いってえ……」
 ペンギンは明らかに僕に怒っていた。夕時になるとペンギンはだいぶ元気を取り戻し、何故かリモコンでテレビのチャンネルを変えていた。
 お前のようなペンギンがこの世にいてたまるか。どう考えてもおかしいだろ。ナポレオンの辞書に不可能の文字がないというみたいに、仮にこの生き物が皇帝ペンギンだとしても確実におかしい。
 ピッピッピッ。
 ペンギンはチャンネルを変える。僕はそんなペンギンを眺めながら、今日の夕食を作っていた。ペンギンは生魚、僕は豪勢にステーキだ。夏は食欲がないと思っていたけれど、今日は不思議と食べられるような気がした。
 ペンギンはとある番組を見て動きを止めた。
『宇宙人がやってきて、地球を侵略しようとしているのです!』
 馬鹿馬鹿しい。昔からよくある与太話だ。どう考えても偽物か嘘八百。こんなバラエティーに参加する芸能人も楽じゃないなと僕が思っていると、今日の話は割と最近のことのようだった。
『ご覧ください! これが、UFOが落ちた証拠です!』
「ん?」 
 僕は首を傾げた。UFOが落ちた地点。そう紹介されていたのは、ここからほど近い海辺の街だった。
『その生き物は白くて黒くて、ぎょろっとした目を水中から出し、沖の方へと行ってしまいました』
 インタビューを受けた近隣住民たちは、それぞれに目撃した謎の生物について語る。専門家たちは、飛来した謎の飛行物体を検査した結果、『大変驚くべきことですが、この世界には存在しないもので作られています』などと言い、もっともらしく飛行船にあったという鉱石を取り出して『この鉱石の成分を調査した結果うんたらかんたら』と語りだす。
 僕は手を止めてスマホを見た。ネットでは、『嘘くせえ』『いや、これマジかもよ?』なんて賛否両論もあれば、『僕家近いんだけど!? もしかして宇宙人に会える?』なんて個人情報を全国に暴露している奴もいた。
 僕がため息をついてテレビの方を見ると、ペンギンは番組の特集は見ずに、僕の方をじっと見つめて立ち上がっていた。
 チリン、と風鈴の音がする。
 ペンギンの背景からは、『いやあ居るかもしれませんねえこれは!』なんて、脳天気なコメントを吐く男が顔をキメていてちょっと目障りだった。
 包丁を持つ僕と、そんな僕を虚ろな瞳で見つめるペンギン。夏の日差しに頼った室内は電気がついておらず、どことなく冷えた空気が室内を満たしている。軽いホラーだ。
「お前、何マジな顔してんだよ」
 僕はとりあえず包丁を置いて、ペンギンに突き出すつもりはないとアピールした。ペンギンはじっとこちらを見ている。僕の気のせいかもしれないが、ペンギンのチャームポイントであるはずの手が、ギラッとまるで黒光りする包丁のように見えて、僕は縮こまった。
 オーケーオーケー。こっちはあんたに危害を加えるつもりはない。和解しようぜと手を上げると、ペンギンはとてとてとタオルの上に戻り、今度は親父のように食卓に肘を起き、手で頭を支えテレビ鑑賞を続行した。
 ペンギンは皇帝の上にヤクザの風格を備えていた。この皇帝ヤクザペンギンめ! 僕は心の中でペンギンをdisる。
 ペンギンは、それからもずっとチャンネルを変えながらテレビを見ていた。まるで情報収集している諜報員みたいに、あらゆるニュースに目を通す。やはりコイツ、宇宙からやってきたのでは。僕の中にそんな考えが浮かぶ。かといって、今更突き出せるわけもなく、坂の上にぽつんとたった僕の家は、もはや僕の命を人質に占拠されているようなものだった。
 不思議と不快感はない。僕は焼き上がった肉をある程度の大きさに切り分け、こふきいもとサラダ、ご飯を器に盛り付ける。生魚は、大きな器に五匹ほど盛ってみた。さっき十杯食べた奴である。
流石にあの体格だし、五匹が限度だろう。僕は料理を運ぶと、箸を持って手を合わせた。
「いただきます」
 けれど悲しきかな。今度は横から強い衝撃を受け、僕は床に頭を打ち付けた。痛い。
「……いいキックかますじゃないか」
 ペンギンは、僕が本来いた位置にふんぞりかえり、手にナイフとフォークをもちカンカンと音を鳴らしていた。
 蹴りであの威力である。ペンギンは最早武装しているに等しかった。
「はいはい。わかったわかった。食べろよ、それ」
 人間である僕は、ペンギン様に降伏した。仕方ないので、僕は生魚をグリルで焼きつつ、ペンギンを観察することにした。
 ペンギンは野菜、ご飯、肉と何でも食べる。マナーもバッチリだ。僕よりも行儀がいいペンギンは、口に付いたソースを取るために、ティッシュを一枚とって口を拭った。理解の限度を超えている。
 というか。どうやってナイフとフォーク持ってるんだ!?
 疑問点を解決するために、僕はペンギンに近づいて、そーっと頭上から手を観察した。
 数ミリ浮いてる。驚くことに、ペンギンの手にナイフとフォークは接していなかった。
 いやいや、そんな馬鹿な話があるか。僕は驚きのあまり思わず思っていたことを口に出してしまった。
「やっぱりお前も地球を侵略しに来たのか?」
 すると、
「うおっ!?」
 僕の目めがけて、肉の刺さったナイフが飛んできた。すんでのところでギリギリ避ける。
「な、な、なにすんだよ!」
 どくどくと、心臓が早鐘を打つ。尻もちをついて震える声で叫ぶ僕を、ペンギンは無表情で見つめていた。腹立つ。
 ペンギンのこの不可解な行動により、僕の予感は確信に変わった。
 間違いない。このペンギンは宇宙からやってきた侵略者――地球外生命体なのだ。これは情報を売ればそれなりの金になるのでは?一瞬そんな考えが頭に浮かぶ。けれど、リアリストの僕が納得出来るわけがない。そんな馬鹿な話があるもんか。道端に落ちている見た目ペンギンでしかない生き物が地球を侵略? エイプリルフールはまだ遠いぞ。
 僕はドッキリカメラを探した。
『もしもペンギンが道端に落ちていたら?』
 なんて企画で、監視されている可能性がないとは言えない。僕は家の外に出て、キョロキョロと辺りを見渡した。何もない。テレビも、テレビクルーも。
 ペンギンは、相変わらずテレビを眺めていた。そんなことをしているうちに、焦げ臭い匂いがしてきた。
「あっ。やべ!」
 厚切りステーキのペンギンに対し、僕の夕飯は焦げた魚に落ち着いた。

 ペンギンは、それからも僕の家に滞在し続けた。もてなさなければどんな目に合うかわからないので、僕はペンギンのためにビニールプールを出したこともある。
 小学生の頃使ったっきりのそれは、結構埃を被っていたが、幸い穴が空いていなかったおかげで使えるようだった。
 僕がビニールプールを膨らます間、ペンギンは寿司桶に張られた水の中で、おとなしく待機していた。高みの見物である。冷蔵庫に食べ物があることを知っている奴は、とてとてと家の中に入ると、冷蔵庫から二本のジュースを持って帰ってきた。一本を僕に差し出す。
「……ありがとう」
 まあ、買ってきたのは僕だが。
 ペンギンは、そんな僕を見て表情を変えず、桶の中に戻ってペットボトルの蓋を開けた。まるで魚を丸呑みするみたいにペットボトルの先を嘴の中に入れ、ごくごくと飲んでいる。ちょっと気持ち悪い。ペンギンは一息で五百MLのジュースを飲み干してから、ぽいとペットボトルを庭に放って、桶の中でばちゃばちゃ水遊びを始めた。僕はちょっとげんなりしながらペットボトルを拾い、家の中を見て声を上げた。
「水浸しじゃないか!」
 こっちはペンギンのためにビニールプールを膨らましてるっていうのに! 僕は一度家の中に戻ると、タオルを一枚ペンギンに手渡した。
「働かざる者食うべからず。働かざる者遊ぶべからず。……ご飯とプールが欲しいなら働け」
 ペンギンは、珍しく怒っている僕に気付いたのか、渡された雑巾と数秒睨めっこして、いつものスピードの五分の一くらいの、のっそりのっそりした動きで部屋に戻ると、まるで人間が床掃除をするみたいにきゅっきゅと水浸しにした場所を拭き始めた。僕はそれを見て、ビニールプールに空気を入れるのを再開した。ペンギンはその日きちんと掃除を終え、ご褒美に水を張ったプールに案内してやったら、何故か背後からドロップキックをかましてきて、僕までプールに浸かる羽目になった。
 夏の日差しの中、水浸しになって遊ぶ。それは昔の僕ならあり得ることだけれど、ずっと塞ぎこもっていた僕からしたら、久々のことのように思えた。

 僕の変化は、誰の目にも明らかだったらしい。買い物に行くと、いろんな人に安心したと言われるようになった。人質に買い物にいかせるなんて、随分馬鹿なヤクザもいたものである。ましてや安心だなんて。
「前より明るくなって良かった。ずっと心配してたのよ。何かいいことでもあったの?」
「いいえ。特に何も」
 僕は嘘をつく。だって、もし本当のことを周りの人間が知ってしまったら、あのペンギンはどこかに連れて行かれるかもしれない。
 ペンギンが来て二週間が経つ頃には、僕は家にペンギンが居ることが、当たり前のように思えていた。

 僕とペンギンは一緒に眠るようになった。ペンギンと一緒だと、何故かとてもよく眠れた。
 ある日不思議な夢を見た。それは、どこまでもどこまでも続く砂漠の星の夢だった。
 その星の文明は、地球よりも発達していた。しかしある日大事故が起き、それを発端に急速に砂漠化が進み始める。住人たちは、僕の見たことのない地図を広げて何かを話していた。世界地図ならぬ宇宙地図だ。そこには、無数の星々が描かれていた。「どこに行けば我々は、生きて行けるのか。どうすれば、宇宙を渡ることができるのか」幸い彼らには技術があった。彼らは船を作っていた。彼らはそれぞれに自らの新しい星を選び、母星から脱出することにした。「この星はもうすぐ滅びる」誰かが言った。場面は移り変わる。誰かが言う。「船が足りない」「こんな、こんなところで死にたくない!」僕の視点の人物(?)は、女性らしき手を握る。「俺はここに残る。だから君は生きてくれ」船の数が足らない。どうやらどちらかは、星に残る必要があるらしい。女性は返事をしない。そしてごん! という音がして、僕の視界の誰かは床に崩れ落ちた。「貴方は生きて。どうか、どうか……」泣きそうな女性の声だけが耳に残った。
 エマージェンシーエマージェンシーエマージェンシー! 出発します。出発します。シートベルトをお締めください。船の内部は赤く点滅し、誰かは震える声で言う。「どうして……? 俺は、君に。君に、生きて……」言葉の最後はわからない。暗転。
 視界は、今度は明るくなる。誰かの名前を呼びたいのに、声が声にならない。この体は? この手は? 自分の体が、自分の体のそれではない。「ここです! ここにさっき空から――」知らない声と大量の足音が聞こえてきて、海の中に身を隠す。青い空、広い海。ここはどうやら、自分の星ではないらしい。どうにかして逃げなければ。慣れない体で距離を泳いで、陸に上がって人の居なさそうな道を歩く。早く、身を隠す場所を見つけねば。そうは思うが、体が思うように動かない。そしてついに力尽き、パタリと地面に倒れた。暑さで視界が薄れ、体の力が抜けていく。自分は死ぬのだろうか。この命は、彼女に貰った命だというのに。泣きたいのに、この体では泣けやしない。それがたまらなく苦しかった。その時、キキッという甲高い音がして、縋る思いで『誰か』を見つめた。霞む視界と逆光で顔が見えない。心の中で叫ぶ。苦しい。苦しくてたまらない。この体も、心も。だから。
 ――助けて、くれ。
「クゥワ!」
 目が覚めると、僕の上にペンギンが乗っていた。苦しかった理由が漸くわかる。不思議なことに、目覚めた僕は泣いていた。

 あの夢は何だったのか。
 僕は不思議に思いながら、ペンギンと昼食をとってアトリエへと向かった。
 僕は売れない画家だ。僕はずっと空を描いている。飛んでいけそうな空の絵を。どこまでも続くような空だけれど、そこには誰もいやしない。それが僕の世界。
 ペンギンは黙って、僕の絵を見つめていた。
「クゥワ」
 ペンギンは僕のキャンバスをぺしぺし叩く。ペンギンはどこか不満そうだった。何か足りないとでも言いたげだ。
「ん? お前も描けって?」
 ペンギンは頷いたように見えた。
「駄目だ。ペンギンは、空を飛べない」
 僕は苦笑いして言うと、ペンギンは動きを止めた。
「お前も、僕と同じだな。どこにもいけない」
 ペンギンは、僕の手をとった。
 するとペンギンの体は、キャンバスの青へと溶けていった。
「えっ。えっ?」
 そして、ペンギンに触れる僕の体も、また。
 空に溶ける。――透明に、変わる。
「おい。ちょっ。ま、待てって!」
 ペンギンは、僕と手を繋いだまま駆け出した。坂の上にある家の前の、白いガードレールを飛び越える。僕は目を瞑った。頭の中に悪い想像が浮かぶ。僕は墜落し、死ぬのだろうか?
 予想に反し、僕が風を感じて目を開けると、そこは遥か彼方の上空だった。驚くべきことに僕たちは、まるであの日の葉っぱのように、空へと舞い上がっていたのだ。
 自分が育った街の風景を、空から見るのは生まれて初めてだった。それはきっともう、この先もないであろう経験。
「わっ。うわ――! うわ――! す、すごい!」
 僕は思わず感嘆の声を漏らす。ペンギンは、そんな僕をチラチラっと見ながら、空中を旋回する。透明になっても、お互いのことは不思議と見えた。ペンギンは、空を我が物顔ですいすいと泳ぎ回る。
 ばちゃん!
 空中遊泳を終えたペンギンは、海の方へと降りてゆき、ぱっと繋いでいた手を離した。僕は海へと落ちる。
「ぷはっ!」
 よくも上げて落としやがったな! 僕はなんだかもうおかしくって嬉しくって、ペンギンについ話しかけていた。
「……お前すげーよ。何者だよ。なあ、今の……」
 けれど。
 ペンギンは、もうどこにもいなかった。
 そして二度と帰って来なかった。これには流石の僕もちょっと落ち込んだ。あの日々は幻だったようにも思われた。でも、僕の周りの日常は確かに変化していて。買い物に行くと沢山の人に声をかけられた。家の中にはアイツがいた痕跡が山ほど残っている。僕はビニールプールで遊ぶ子どもじゃないし、一人暮らしなのにかき氷のために、わざわざ氷を買っては作らない。
「居たんです! 本当に見たんです!」
 あの怪しげな番組に、アイツを探すために連絡しようと思ってやめた。
 人は不思議な話を信じる素振りをする一方で、本当に信じる人間をせせら笑う。そんな馬鹿な人間として世間に顔を晒すのは、生き恥を晒すのに等しい。それにもし、アイツが見つかったとしても、世界中がパニックになるだけで、誰も幸福にならない。僕はその時、僕たちの交流が、そういう類のものだったと漸く思い知った。
 助けた鶴が恩返しをするように。本当の姿がバレてしまったら、人間から離れるのが物語のセオリーだ。
 
 ――お前も、僕と同じだな。
 今は思う。ペンギンと僕の境遇は、もしかしたら少しだけ似ていたのかもしれない。朧気な記憶。夢の中で叫ぶ声。アイツは過去に、多分大切な誰かを失った。僕の両親は、僕を生かすために亡くなった。僕たち家族は火事に巻き込まれ、僕だけが二人に助けられて生き残った。
 僕たちは違う星に生まれて、たまたま出会った。僕は一人で、アイツも一人で。僕は心の隙間を埋めるためにアイツを拾い、アイツはそんな僕を試した。もしかしたら僕が夢を見たように、アイツも僕の夢を見たのかもしれない。だからこそ、アイツは僕の手を引いた。罪悪感で塞ぎこもって、空を見上げることを諦めていた僕に、目が覚めるような世界を見せてくれた。
 ペンギンはもう、僕のところには帰ってこない。そうさせたのは僕自身だ。
 僕はキャンバスの前の椅子に座り、深く息を吸い込んだ。
「僕も、お前のところに飛んでいく」
 決意する。飛べなければ、同じにはなれない。アイツに合わせる顔が無い。空色のペンギンは、空を飛んでいたのだ。
 ――確かに、人間である限り空は飛べない。それでもきっと、飛んでいける。お前とならどこまでも。
 僕はパレットに指を入れ、汚れた筆を手に取った。背景はもう描けている。あとは足らないものを付け足すだけだ。
 ――そうだ。飛んでいける。この心はきっと、どこへだって。だって僕とお前の辞書に、不可能という文字はない。
「待ってろ。皇帝ヤクザペンギン」

 久々に締めたネクタイは、窮屈で仕方なかった。
「久しぶりだな。ペンギン画家なんて呼ばれてるらしいじゃないか」
「からかうなよ」
 画商になっていた旧友に話しかけられて、僕は苦笑いした。彼の言うことは嘘ではなかった。あれから空にペンギンを描き足した僕の絵は、注目を浴び画集は飛ぶように売れた。今回の美術館で行われた個展も、ぜひ絵を欲しいと言ってくれる人間は多く、僕はもう立派に画家として世間に認知されている。
「これからどこに行くんだ?」
「取材」
 けれどペンギンは、あれから二度と僕の前に現れることは無かった。
 でも、思う。案外アイツはドジそうだし、もしかしたらまた地球のどこかに落ちて、保護という名の捕獲に遭ってるんじゃないかなって。だからこそ僕は、いろんな水族館に行っては、アイツのことを探している。今日は百個目の水族館だ。百度参りではないけれど、これだけ周っているのだから、そろそろ願いが叶ってもいい頃のように思える。 
 僕は他の魚などには目もくれず、いつものようにまっすぐペンギンの展示エリアに向かった。
 ペンギンたちは、ガラスの向こうで元気に泳いだり生魚を食べたりしている。
 しかし一匹だけ、地面に落ちた魚をギョロっとした目で見下ろしていた。そのペンギンは、恐る恐る嘴で魚をつつくと、真ん中の身だけちょこっと食べて、微妙な顔をした。
 随分とグルメなペンギンもいたものだ。余程これまで良いものを食べていたに違いない。
 僕はガラスの向こう側のソイツに訊ねた。
「なあ。お前も地球を侵略しに来たのか?」
「クゥワ!」
 ペンギンは、僕に目で訴える。ペンギンは、僕には焦っているように見えた。ペンギンの足元にはビチャビチャと、水溜りが広がっていた。僕はペンギンに笑いかけた。
 やはり僕の友人は、少しドジなところがあるらしい。
 緊急信号SOS。
 僕はペンギンに、目で合図する。

 ――僕の、答えは?