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「……」
僕達が住んでいる街の中で、一番大きな大塚総合病院。

昨日、彼女から言われた病室の前までやっとの思いで来てみたはいいものの、どうしてもここから先に進むことができないまま、刻一刻と時間ばかりが過ぎていく。

約束の十時はもう過ぎているというのに、心の準備がまだできていない。

一体何を伝えられるのだろうか。
なぜ病院なのだろうか。

「……っ」
けれど、そんな不安よりもやっぱり僕は睦月さんのことがもっと知りたかったから。

恐る恐る病室の扉の取手を掴んで、ゆっくりと開け放った。

「──え?」
「あ、慎也くん!んもう、待ちくたびれちゃったよ」

一瞬、夢でも見ているのかと思った。
いや、それとも幻覚か?

人は本当に驚くと、言葉も出てこないのだと初めて知った日だった。

──今、僕の目の前には睦月ちひろが二人いる。

一人はたくさんの機械に繋がれて、目を瞑ったままベッドに横になっている彼女。
そしてもう一人は、パイプ椅子に腰をかけている、僕がよく知っている睦月さん。

僕の姿を見て、睦月さんは何事もないように優しく微笑んだ。

「驚かせちゃったよね」
「こ、これ……っ、あのどういうこと?」
「慎也くん、落ち着いて?」
「ふ、双子?双子だったの、睦月さん?」

それなら幾らかは納得できる。

同じクラスの睦月ちひろは事故で入院していて、僕が夏休み中一緒にいたのは双子の片割れだというのなら、たいぶおかしな話ではるけれど、納得はできるはずだ。

「──ううん、違うよ。どれも"私"だよ。この子も同じ……睦月ひちろ」

けれど、彼女は僕の唯一の救いの道でもあったそんな仮説を、いとも簡単に否定した。

「でも大丈夫、安心して?"こっちの世界"では、もうすぐ私は目を覚ますはずだから」
「あの、ちょっと待って?本当に意味が分からないよ」

思えば彼女が夏休み初日に僕の家に来たときから、睦月さんに対して分からないことだらけだった。

どうして僕の夏休み初日の習慣のことを知っていたのか。
これまであまり接点のなかった僕の家を訪ねてきたのか。
どうして、僕と一緒にいたがるのか。

「あの、ごめん。いくつか質問させてもらってもいい?」
「うん、いいよ。今日は最初からそのつもりだったから」

パイプ椅子に座っている睦月さんは、一切動揺する素振りもなく、ただ僕のことを潤んだ瞳で見つめながら微笑んでいる。

「僕達、そこまで仲良くなかった……よね?一年のとき、図書委員で何度か一緒になったことがあるくらいで。今だって同じクラスだけど、ほとんど喋ってこなかったはずだし」
「"私がいた世界"ではね?一年生のころ、図書委員の仕事を一緒にしていくうちに仲良くなったの」
「……私がいた、世界?」

聞き慣れない言葉が、僕に大きな違和感を落としていく。

睦月さんは今、僕になんの説明をしてくれようとしているのだろうか。

目の前に二人の睦月さんがいるという事実だけで、正直この場に立っていられないほど激しく混乱しているというのに。

それでも彼女があまりに冷静だから、僕はそれを真似してなんとか平静を保つことができている。

「慎也くん、私ね?……別の世界からやってきたの」
「……はい?」
「でも、私がいた世界で、私はもうすぐ……死んじゃうの」

睦月さんはいつもの優しい笑顔を浮かべたあと、「よく聞いてね」と添えて、ゆっくりと言葉を紡いだ。

"私は高校二年生の夏休みの二日前に、事故に遭って一ヶ月間昏睡状態に陥ったのち、夏休みの最終日に死ぬ運命の世界にいたの"

"命が消えてしまうまでの、昏睡状態の一ヶ月間、私にはどうしても会いたい人がいてね?"

"真っ暗な視界の中で何度もその人に会わせてくださいってお願いしていたら……いつの間にか私はこの世界に来てた"

まるでファンタジーを聞いているようだった。

だけど、違う世界から来たという睦月さんは実際に今、僕の目の前にいて、そしてこの世界の本人だという彼女はベッドの上で眠っている。

睦月さんの話をすべてをすぐに受け入れることは難しいけれど、彼女の妙に落ち着き払った言葉が余計に信ぴょう性を持たせた。

「でも、ここでは"私"と慎也くんは……赤の他人のままの世界だった」
「……」
「私がいた世界ではね?慎也くんと私、恋人だったんだよ」
「え!?こ、恋人!?」

予想以上に大きくなってしまった声は、病室中に響いた。

僕が、あの睦月さんと……恋人!?
一体どんな世界なんだ、と思わず心の中で異常なテンションのままつぶやいた。

目を大きくして驚いている僕に、睦月さんは「驚くところってそこなの?」と言ってふふっと笑った。

「高校一年生の冬に、慎也くんが真っ赤な顔で告白してくれたの」
「なっ、僕が!?睦月さんに!?」
「恋人だったから、夏休み初日の習慣のことも教えてもらってた」
「……!」
「私達、本当にいろんな話をしたんだよ?」

まるで一つずつ思い出に浸っているかのように目を瞑って、彼女は心底幸せそうに微笑んでいた。

でも、その笑顔はすぐに消えていった。

「……私はね、もう一人の私が目覚めると同時に消えちゃうの」
「そんなっ、なんで?」
「本来、同じ人間が同じ世界に二人いるのはダメなの」
「でも、だからって消えるなんて……っ」
「ドッペルゲンガーって言葉があるでしょ?あれは私みたいに、別の世界に同じ人間が迷い込んだからだって説もあるみたい」
「嫌だよ、消えないでよ睦月さん」

睦月さんが、消えてしまう。
僕が知っているあの彼女が、もうすぐいなくなってしまう。

僕が一番恐れていたことだった。

「私ね?自分の命があと少しだってことはもう理解しているからいいの」
「なにがいいの!?いいわけ、ないでしょ……」
「でも、どうしても最後に……慎也くんに会いたかった。会って、大好きだって言いたかった」

『ふふっ』と笑うのが、彼女の癖の一つだ。
睦月さんはまたそうやって笑いながら、音を立てずに泣いていた。

笑いながら、泣いていたんだ。

「ありがとう。私と一ヶ月間、一緒にいてくれて」
「やめて……っ。そんな、もうすぐ消えますみたいな言い方はやめてよ、睦月さん」
「きっとここに眠っている私は、慎也くんのこと……なんにも知らないままの私なんだと思う」
「そうだよ。だって本来、僕と睦月さんは……」
「もしよかったら、ここにいる私とも仲良くしてくれないかな」
「え?」
「大丈夫。いきなり声をかけられて、最初は驚くかもしれないけど、同じ私なんだもん。慎也くんの素直なところだとか、意外によく喋るところだとか、大人っぽいところとか、知っていけば絶対……好きになるはず。"私"がそうだったように」
「そんな、僕は……」
「だから、違う世界の私だけど……これからもっ、私のことを忘れないで、慎也くん」

大好きだよ、慎也くん。
ずっとこの言葉を伝えたかったのだと、睦月さんはそう言って笑った。

「僕も、睦月さんのことが好き」

僕の初恋は、別の世界からやってきたという睦月ちひろに芽吹かされたんだ。

この事実だけは、何があっても変わらない。
キミがここにいたという、世界でたった一つの証だ──。