*****

夏休みの初日だけは絶対に何もしないぞと決めたのは、小学校一年生のときだった。

現に僕は昼ごろまで眠り続けて、寝過ぎて逆に気怠い体に鞭を打ちながら遅すぎる朝ごはんを食べている。

お父さんと姉は仕事へ赴き、お母さんは友達と一緒にピラティスへ行っている。

なんでもない平日に、家で一人だけの空間にいられるというのは幸せそのものだった。

無情にも玄関のチャイムが鳴るまで、は。

「(また姉ちゃんのネット通販の品物じゃないだろうな)」

ひどい寝癖を気持ち程度に整えて、玄関を開けたそのとき。

「──え?」
「こんにちは、慎也くん」
「は、え?えっと、なんで……っ」

僕は驚きのあまり、大きく目を見開きながら一歩後ずさった。
夏の暑さとはまた違った、まったく別物の汗が頬を伝う。

なぜなら僕の目の前に、睦月ちひろがいるからだ。

「ふふっ、驚いたって顔してるね」
「そ、そりゃ驚くよ。だって君は……」

「「入院してるって聞いたから」」

「え?」
「だよね?へへっ」

なんの前触れもなく、突如家の前に現れた睦月さん。
パニック寸前の僕とは違って、彼女はとびっきりの明るい笑顔を見せた。

「(なんで、彼女が僕の家に?)」

まだ稼働しきっていない頭で一生懸命にこの状況を理解しようと努めたけれど、まるで意味が分からない。
二日前に事故に遭って入院していると聞いたばかりだった。

それに、どうして僕の家を彼女が知っているのか。

なぜ家に来たのか。

だけど何より──。

「あ、あの……体、平気なの?」
「うん?あぁ、事故のこと?うん、"私"は平気だよ!」
「そ、そっか」
「あのさ、今ちょっとだけ時間ある?もしよかったら一緒に外に出ない?」
「え、今から?」
「うん。あ、何か用事あった?」

彼女のいう“用事”はなにもない。
けれど、僕の中の“一日中なにもしない”という用事なら、現在進行形で遂行中だ。

「あー、えっと。……ううん、何も。でもちょっと待っていてくれない?準備するから」
「分かった。ふふっ、ありがとう慎也くん」

とはいえ、彼女の誘いを断るほど僕はまだ素っ気ない人間ではなかったらしい。

睦月さんを玄関の中にあげて、食べかけの朝ごはんを猛スピードで片付けたあと、自分の部屋へ駆け込んで服を着替えた。

彼女を待たせてはいけないという一心で、準備は手際よくできているのに、それでも頭の中は未だに多くの疑問符が飛び交っている。

そしてその疑問は、より一層深まるばかりだった。


「慎也くんのこの夏休みを、私にくれない?」
「──はい?」

近所にある小さなカフェの店内で、注文したばかりのアイスラテをかき混ぜながら彼女はそう言った。

カランッと氷同士がぶつかる音が、まるで鈴の音のように響き渡る。

「む、睦月さん……あの、意味がよく分からないん、だけど」
「一ヶ月間だけでいいの。慎也くんの夏休み、時間が許す限り私と一緒にいてくれないかな?」

こんなオシャレなカフェに入るということ自体、不慣れな僕はどうしようもないくらい緊張しているというのに、睦月さんは追い打ちをかけるようにそんなことを堂々と言い放った。

「えっと、あの、要するに……睦月さんは夏休みの間、ぼ、僕と一緒にいたいってこと?」
「うん、そうだよ」
「なんで?」

我ながら、世界一真っ当な『なんで?』だと思う。

僕の心臓は今にも壊れてしまいそうなほど心拍数をあげ、ドクリ、ドクリと不穏な音を奏でている。

そんな僕の様子を見て、睦月さんは口元を押さえながら『ふふっ』と笑った。

「そんなに真剣に考えないで?」
「で、でも……」
「それとも私と一緒にいるの、嫌?」

意地悪な質問だな、と思った。

彼女に一緒にいたいと言われて、喜ばない男なんているのだろうか。

嫌なはずなんてない。
ただ、その理由が知りたかった。

「ふふっ、でも“夏休みの最初の日は絶対何もしない”って決めてたのに、こうして今、私と一緒にカフェに来てくれてるじゃない?」
「な、ちょっ、え!?どうしてそれを……?」
「そういうところを見ると、まんざら嫌じゃないって捉えてもいい?」

──ちょっと待ってくれ。
どうして睦月さんが、そのことを?

この夏休み初日の習慣は、家族以外の人には誰にも言っていないはずだ。そんなくだらないこと、家族以外に言えないからだ。

「アッハハ!慎也くん、顔、顔!強張っちゃってるから!」
「……」

睦月さんが僕の家のチャイムを鳴らしてから、今こうしている間の時間は、すべて三十分足らずで起こったことだ。

それなのに、すでに僕のキャパシティをはるかに超える量の疑問が蓄積されていて、言葉を発することすらできなくなった。

「そんな怖い顔で見ないで、慎也くん?」
「あ、ご、ごめん」
「じゃあ、こうしよっか。慎也くんの夏休みを私にくれたら、最後はちゃんと説明するってこと」
「……いいの?」
「うん、もちろん。だから──……」

アイスラテのコップに付着した雫をそっと指で拭い取ったあと、彼女は僕の目を見て言った。

「それまでは、できるだけ普通に接してほしいな」と。

その瞳がまるで懇願するように訴えかけてくるものだから、僕は積もりに積もった疑問に全部蓋をして、代わりに大きく二度頷いたんだ。