◇

 テスト週間で陽菜の帰りがいつもより早い、十一月の最終週。

 玄関先が騒がしいと思っていたら、陽菜が人を連れてきたようだ。

「お邪魔しまーす! お、真之介! 元気だったか?」

 いつの間にか声変わりしていた瞬太が現れた。

「瞬太、なんだその細い眉毛は。男なら中身で勝負しろ」

 真之介の小言など意にも介さず、瞬太は満面の笑みを浮かべている。体ばかり大きくなって、笑顔は小さい頃となんら変わらないから憎み切れない。

「この家に来るのも久しぶりだなー! 陽菜、俺牛乳飲みたい! おやつはー?」

「もう! 遊びに来たんじゃないってわかってる!?」

「へいへい、わかってますよー」

「なにその言い方! もう教えてあげないからね!」

「ははー、申し訳ございません陽菜様、どうかご慈悲をー」

 陽菜はテーブルの上に牛乳の入ったコップを置いて勉強道具を並べ始めた。その後交わされたふたりのやりとりから推測すると、今日瞬太がここに来たのは、テストで赤点を取ると強制参加となる補習を逃れるためらしい。

「どこがわからないの?」という陽菜の問いに、瞬太は「全部!」と白い歯を見せて答えた。こいつ、こんなにアホだったか?

「もう! 準備してくるから! ちょっと待ってて!」

 陽菜が居間を出ていった瞬間、瞬太はここぞとばかりに寝転がった。

「なあ真之介。ここだけの話、俺陽菜に告白しようと思ってるんだよね」

「……はあ!? 待て待て、俺は許さんぞ!」

 思わず声を荒らげてしまった。何をさらっと爆弾発言をしているのだ、この小僧は。

 ただでさえ陽菜に迷惑をかけている瞬太が陽菜を幸せにできるなんて、到底思えない。認められるわけがない。「そこに直れ!」と再度説教を食らわそうとしていると、陽菜が戻ってきてしまった。

「どうしたの真ちゃん大きな声出して?」

 陽菜に抗議しようとしたが、不毛な時間を消費し瞬太を長居させるのは得策ではないと判断した真之介は、一旦引き下がってふたりを監視することに決めた。

 勉強を再開した瞬太は時折唸り声を上げながらも、それなりに頑張っているようだった。勉強にかこつけて陽菜に手を出そうものならたたっ斬ってやる、と真之介は睨みを効かせてはいたものの、シャープペンシルがノートの上をなぞる音を聞いていたら、段々瞼が重くなってきた。

 真之介がうっかりうとうとしていると、

「ご、ごめん瞬太! 大丈夫!?」

 陽菜の大きな声に驚き、閉じていた瞼を見開いた。何が起きたのかと見てみると、瞬太のノートと彼の洋服が液体でびしゃりと濡れていた。どうやら、テーブルの上に置いてあった牛乳を陽菜が零してしまったらしい。

「おー、平気平気。すぐ乾くだろうし気にすんなよ」

 陽菜は脱衣所から持ってきたタオルで、瞬太の制服を懸命に拭いていた。ふたりの距離が急速に接近していることに、牛乳を拭くことに集中している陽菜は気づいていない。

 想いを寄せる少女に触れられている瞬太の表情が、軽い笑みから真面目なものに変わるその瞬間を、真之介はその目でしっかりと捉えていた。

「……陽菜、俺さ……」

 陽菜が顔を上げると、ふたりは見つめ合う形になった。瞬太は凛々しい瞳で陽菜を見つめ、陽菜は瞬太の真面目な表情を笑うことなく、むしろ少しだけ頬を染めて反応している。

「……おい。俺の目が黒いうちは断じて許さんからな?」

 危機を感じた真之介が陽菜に近づいて瞬太を軽く威嚇すると、瞬太は目を瞬かせて、ふっと笑みを零した。

「真之介の前じゃ、なんもできねえなー」

「当然だ。さっさと勉強に戻れ。勉強しないなら帰れ」

「……ノ、ノートはシワシワになっちゃったけど、乾かせばまた使えそうだね」

 陽菜は瞬太に顔を背けてノートを拭いていたが、真之介から見える陽菜の顔は真っ赤になっていて、決して嫌そうには見えなかった。

「……参ったぞ。この流れは完全に想定外だった」

 真之介からすれば頭の痛い問題である。瞬太が陽菜に好意を抱いていることを知ってしまった。さらに一連の反応を見る限り、悔しいが陽菜にその気がないわけでもないと察してしまった。

 だが、だからと言って瞬太の背中を押すつもりなどない。彼が陽菜のことを本当に大切に思うなら、真之介の手など借りなくとも陽菜を幸せにしてみせるはずだ。

 青臭い空気を漂わせるふたりを交互に見やり、真之介は祐司と語りたくて仕方のない気分になった。

          ◇

 奈央の再婚の準備は着々と進められていった。

 年が明け、三学期が始まるタイミングで婚姻届を提出する方向で話が決まり、新しい家も用意された。引越しの準備が進むにつれ、この家で育ってきた真之介は哀愁を覚えた。


 その日、帰宅した陽菜は明らかにいつもと様子が違っていた。

 無言のまま居間に入ってきた陽菜に、できるだけ優しく声をかけた。

「おかえり、陽菜」

「ただいま……」

 うつむいた陽菜の側に近づくと、強く抱きしめられた。

「……どうした? 何かあったのか?」

「……瞬太にね、好きだって言われたの……逃げてきちゃったけど」

 瞬太の気持ちを知っていた真之介ではあったが驚いた。陽菜は瞬太の好意に今まで気づかなかったわけではないだろうし、認めたくないが陽菜自身も悪い気はしていないことも知っていた。それなのに浮かれる様子もなく、こんなに暗い顔をするなんて意外だったのだ。

「……いきなりそんなこと言われても、困るよ……今はママの再婚でそれどころじゃないし……」

 成程。瞬太の奴、なし崩し的に関係を結ぼうとせず陽菜にしっかりと言葉で伝えたのは評価してやってもいいが、告白のタイミングとしては最悪だったらしい。瞬太は目の前のことだけに真っ直ぐになりがちだから、陽菜の状況を考える余裕がなかったのだろう。

「そうだな、少し時期が悪かったかもな。でもその気持ちを瞬太に伝えないと、あいつバカだからわかってもらえないんじゃないか?」

 俺はどうして瞬太の肩を持つようなことを口走っているのだろう、と思った。これではふたりの恋を応援しているみたいではないか。

 そのとき、インターホンが鳴った。何かを察したのか陽菜の瞳に焦燥が見てとれた。助けを求める目を向けられたが、真之介はじっと見つめるだけで動かなかった。観念した陽菜が恐る恐る玄関に向かい「はい」と返事をすると、

「……陽菜、俺だけど」

 いつもより威勢のない聞き慣れた声が聞こえ、陽菜の体が強張った。

「俺がついてる。いいから開けてやれ」

 陽菜がゆっくりと鍵を開けて扉を開くと、そこには真剣な顔をした瞬太が立っていた。

 陽菜は真之介を信頼しているからか、瞬太を信用しているからか、彼を居間に上げた。ふたりの間の空気は重い。よく知らない人間が見たとしたら、彼らが幼馴染で気心知れた仲だということには微塵も気がつかないだろう。

 切り出したのは、瞬太だった。

「さっき言ったこと、本気だから。俺、ずっと前から陽菜のこと好きだった」

「……な、なんでいきなりそういうこと言うのかなあ? ずっと幼馴染で……楽しくやってきたのに!」

「いきなりじゃないだろ。俺、前からアピールしてきたつもりだったけど。陽菜が気づかないフリをしていただけだろ?」

 瞬太は瞬太で、陽菜に気持ちを伝えたくて必死になっているようだった。それが尚のこと陽菜を困惑させ、戸惑わせている。

「……瞬太の気持ちに、応えられないわけじゃないけど……でも……どうしてわかってくれないの!?」

「陽菜、俺は……」

 感情的になりつつある陽菜を宥めようと、瞬太が陽菜に触れようとした瞬間、

「バカ! 嫌い! ついてこないで!」

 陽菜はかけてあったコートを持って外に飛び出していった。

 伸ばした手をそのまま降ろし、瞬太は浮かせた腰を再びソファーに落とした。呆然としている瞬太の隣に座ると、彼は途端に泣きそうな顔を見せた。

「……青いな。気持ちを押しつけるだけなら、猫にだってできるぞ」
 
「……どうしよう真之介。陽菜に嫌われたかなあ……」

 陽菜の前では男気を見せようと頑張っていたようだが、張り詰めていた糸が切れたのだろう。瞬太は情けない声で弱音を吐いた。

「タイミングってものをもう少し考えろ。それじゃあ、上手くいくものもいかないだろうが」

 真之介の苦言に瞬太は肩を落として、天井を仰いだ。

「……おばさん、再婚すんだろ? 陽菜はなんでもないように話していたけど……一瞬、辛そうな顔をしたんだ。俺、いつも陽菜のこと見てるからわかんだよ。俺が支えになってあげたいと思ったんだけど……失敗したわー」

 こいつは、陽菜の強がりに気がついていたというのか。

 真之介は瞬太の瞳を見つめた。ただのバカではないのかもしれない。瞬太なら、自分がいなくなった後に陽菜を支えてやれるかもしれない。

「言葉にしなくてもわかってほしいってのは、女の我儘だ。だけどな、それをわかってやるのが男の甲斐性だ。打ちひしがれている暇なんてないぞ」

「……そんな目で見るなよ。ったく、真之介はいつもカッケエなあ!」

 瞬太に頭をぐりぐりと撫でられて抗議していると、奈央が仕事から帰ってきた。

「あら瞬ちゃん、いらっしゃい。あれ? 陽菜はまだ帰ってないの?」

「うん、委員会で遅くなるって言ってた。俺陽菜に頼まれてノート取りに来ただけだからもう行くよ。帰りはちゃんと俺が家まで送るから安心して」

「ありがとね。またゆっくり遊びに来てね」

 真之介の視線に気づいた瞬太は、小声で呟いた。

「……おばさんに勘づかれたら、あいつの今までの頑張りが無駄になっちゃうだろ?」

 瞬太の奴、なかなかわかっているじゃないか。

「陽菜を探しにいくぞ、瞬太」

 そう言うと、瞬太は男らしい横顔を見せた。