真之介(しんのすけ)が居間のソファーでまどろんでいると、威勢のいい足音と甲高い声が静かな空間を引き裂いた。

「聞いてよ真ちゃん! 今日学校でさあ、瞬太(しゅんた)がマンガ没収されたの! ただでさえ成績悪いんだから真面目に授業受けなきゃダメって言ったばっかなのに、ホントバカ!」

 中学校から帰って来た陽菜(ひな)は開口一番、幼馴染への愚痴を爆発させた。

「……真ちゃんって呼ぶなって、何度も言ってるだろ?」

 陽菜には「お兄ちゃん」と呼んでもらいたい真之介としては複雑な心境ではあるのだが、年頃の妹に未だに慕われているというのも、悪い気はしない。

「瞬太、あんなんでこれから大丈夫かなあ? あんまり素行が悪いとサッカー部のレギュラーからも外されちゃうんだよ? なんにも考えてないからああいうことするんだよね! 何度言っても聞かないし!」

 そう言って唇を尖らせていても、身内贔屓の色眼鏡かもしれないが、陽菜の可愛らしさは相当のものだと思う。

 透明感のある大きな瞳は笑うと目尻が下がり、口角がきゅっと上がる笑顔はとても愛嬌がある。目鼻立ちはすっきりと整っていて、肩まで伸ばした艶やかな黒髪は誰もが一度は触ってみたいと心をざわつかせるだろう。

 ゆえに、そんな少女を盛りのついた男どもが放っておくはずもなく、陽菜は中学校に入ってからはよく告白されたと報告をしてくる。それを聞かされる度に真之介は相手の男を八つ裂きにしてやりたい気持ちにかられるが、兄としての威厳が損なわれることを防ぐために必死に堪えているのだった。

「大丈夫だ。瞬太はバカだが、クズじゃない。陽菜を心から心配させるようなことはしないはずだ」

 瞬太とは隣に住んでいる少年で、真之介も小さい頃からよく知っている。幼い頃から活発だった瞬太は、中学校に進学してからはヤンチャという表現が相応しい男に成長していた。

 瞬太はテストの点が悪く放課後居残りさせられているだの、授業をサボって親御さんが呼び出しされているだの、陽菜を心配させる素行が多かった。

「最近顔を見ていないとはいえ……瞬太に会うたびに説教をかましているのに、まるで響いていないみたいだな。次に会ったらもっと厳しく言っておく」

 出来の悪い弟を持った兄の心境である。陽菜は真之介の顔をじっと見つめ、ニマ~という擬態語がふさわしい笑顔を貼りつけながら、

「あー、もう! 真ちゃんは本当に格好いいなー! こんなイケメン、外じゃなかなかお目にかかれないよー!」

 そう言って力強く真之介を抱きしめた。嫌ではないが、少し痛い。

「……わかったから。早く着替えて手を洗ってきなさい。今日は水曜日だし、母さんが早く帰ってくる日だろう?」

 言っても聞かずにしばらく真之介に甘えていた陽菜だったが、やがて満足したのか鼻歌を歌いながら階段を昇っていった。ふう、と伸びをして窓の外を見ると、庭先に撒かれていた米粒を食べに来ていた雀が、気温の低下に羽を震わせていた。

          ◇

「ん、美味しい! 陽菜の麻婆豆腐、どんどん上達してるね!」

 スプーンを持ったまま陽菜の母・奈央(なお)は、くねくねと体を動かしてその美味しさを全身で表現した。

「でしょー? でもママが作った筑前煮も最高!」

「あんたまだ十四歳のくせに、舌が若くないわねー」

「美味しいものは美味しいのー」

 テーブルの上には和・洋・中と統一性のない料理が乗せられた皿が並べられている。毎週水曜日と日曜日は母娘で一緒に夕食を作る習慣があり、真之介は仲良さそうに台所に立つふたりを見るのが好きだった。

「ハンバーグはちょっと形崩れちゃったわ。でも、味はバッチリだから!」

 豪快に笑いつつもどことなく品のある顔が特徴的な奈央は、年齢を感じさせない美貌とスタイルの良さから職場でも異性人気があるらしく、よく声をかけられるのよと自慢気に口にする。陽菜の可愛さは母親譲りなのだなと、奈央とは似ても似つかない真之介は自嘲気味に笑った。

 食事が半分ほど進んだところで奈央は箸を置き、背筋を真っ直ぐに伸ばして、何かを決意したように口を開いた。

「……陽菜は、パパのこと大好きだよね?」

「うん、もちろん! 大好きだよ!」

 陽菜は九つのときに病気で亡くなった、優しくて家族思いだった父を今でも慕っている。

 父を亡くして以来、真之介は家族の中で唯一の男である自分が父親役を務めようと、心に決めていた。

「そうだよね、ママもパパのことは今でも大好きよ。……でもね、ママのことを大切にしてくれる男の人がママと一緒になりたいって、言ってくれたの。……それでね、陽菜が良ければ再婚したいなあって思ってるんだけど……どうかな?」

 陽菜の意思を問う奈央の声を聞いて、箸を持つ陽菜の手が一瞬止まった。

 陽菜にとっては青天の霹靂に違いない。父との思い出が脳裏を過ぎってそう簡単には受け入れられないはずだ。

 ゆっくり時間をかけて、奈央が再婚を考えている男を父として見ることができるかどうかを見極め、信頼関係を構築していく必要があるだろう。

 しかし真之介の予想に反して、陽菜はすぐに微笑みを作った。

「うん、いいんじゃない? 賛成賛成! ママ、意外とモテるもんねー?」

「陽菜……本当にいいの?」

「だってわたしもう十四だよ? ママの幸せを考えられるくらいには、大人ですから」

 大人びた言葉遣いをして麻婆豆腐を口に入れる陽菜は、いじらしくも強がっているようにも見える。一旦意地になってしまった陽菜にしつこく訊いても逆効果なことを奈央も真之介も知っているので、奈央はそれ以上追及しようとはしなかった。

「ありがとう、陽菜。相手は中嶋さんという方でね、再来週の日曜日に家に呼ぼうと思ってるから、陽菜も真之介もよろしくね」

「はーい」

「ああ、わかった」

 陽菜の意思が最重要視される問題で、娘の了承を得た奈央は安堵の表情を見せた。

 さて、陽菜は本当に大丈夫なのだろうか。ちらりと視線を送ってみると、彼女は元気よく皿を綺麗にしているところだった。

          ◇

 食後、真之介は仏壇の前で亡くなった父・祐司(ゆうじ)に今日の出来事を報告した。

 陽菜は奈央の再婚に反対すると思っていたが、「もう十四だよ?」と言っていた通り、本心はどうあれ、大人になってきたということなのだろう。

 陽菜の成長は嬉しいが、少しだけ寂しくもある。本当に父親になったかのような気持ちを抱いた真之介は、仏壇に向かって同意を求めてみた。

「陽菜が大人になっていくのは、父さんからしてみたら複雑だろう?」

 わかりきっていたことではあるが、遺影の祐司は優しげな微笑みを浮かべるだけで、返事をすることはなかった。

「……俺は母さんの再婚を応援するよ。それでいいだろ?」

 何も語らない祐司ではあるが、生前の性格から考えると愛した女が幸せになろうとしているのに反対するような男ではない。

 彼の意思を継いで、真之介は立ち上がった。今年で十八になった真之介は、来年の春にはもうこの家にはいないだろう。

 家を出る準備はできている。陽菜の顔を身近で見られるのも、あと少しだ。

 しかし自分がいなくなったら、陽菜はどうなる? 寂しさで泣いてしまわないだろうか。毎朝ひとりで起きられるだろうか。相談のできる相手はいるだろうか。

 弱さを人に見せない強さと脆さの両面を持っている子だ。どうしても心残りである。

 それまでに新しい父親と陽菜を本当の意味で家族にするために、出来る限りのサポートをしておくことが自分の役割だと思った。