病院につくと喜一はたくさんの器具に繋がれた。
「喜一は……色川君は大丈夫なんですか!?」
「薬は打ったから一晩寝れば当面は大丈夫だよ。それにしても遊園地ね。無茶をする」
「無茶……?」
「そう。安静にしないとだめなのに」
「……難聴じゃないんですか?」
私は喜一に、ずっと難聴だと聞いていた。そのせいで大きな衝撃とかがあれば平衡感覚がおかしくなることがあるって。
「難聴? ……聞いてないなら俺からは言えないや。守秘義務があるからね。えっと、色川さんが起きたら直接聞いて」
主治医は少しだけ困惑げに私を見た。困惑? そうすると難聴じゃない?
違和感はあった。朦朧とする喜一の指定で運ばれたのが大学病院で、倒れた状況を詳しく聞かれて検査に随分時間をかけていたから。傍らで穏やかに眠る喜一は何も答えない。
「喜一、元気にならないとどこにもいけないよ?」
そう呟いても、何の反応もなかった。そうしていつの間にか寝てしまったらしい。
「由花、起きて。朝だ」
体がゆすられ、ぼんやりと顔を上げれば喜一が私の方を見ていた。
「……喜一、大丈夫なの?」
「すっかりね。もう帰らないと」
けれどもその焦点は、世界がずれているように合っていなかった。
「喜一、まだ目がよく見えてないよね? 全然大丈夫じゃない」
「そのうち治るよ」
「嘘。良くなったことなんてない。本当はなんの病気なの」
付き合い始めた時、それから一年の時より喜一は耳が随分悪くなっていた。付き合っている間も喜一の聴覚は悪化の一途を辿っていた。その上、目にも異常があるなんて。けれども喜一は目が見えなくても全く動揺していない。そうすると元々ほとんど見えていないか、見えなくなる事を知ってるってこと。
「俺たちは昨日別れたんだ。だから帰れよ」
「本気で言ってるの?」
そういえば思い当たるところがある。それで、そんな状態で。
「留学も嘘でしょう? それで行けるはずがない」
「別れたんだ。早く帰って……本当に」
喜一を思わず抱きしめた。その表情はいつものため息みたいな微笑みじゃなかった。いつもと違って、初めて見る泣き出しそうな顔だったから。
トントンと病室をノックする音がした。
「色川さん、回診だよ」
「先生、一回り後にしてくれませんか。今は彼女がいるから」
「この後もあるから今じゃないと」
「由花、もう診察だから、出ていって本当に」
その喜一の拒絶は昨日と同じで、でもホッとしているようにも思えた。
診察は多岐に渡った。目は照らされたペンライトで明るさが僅かにわかる程度。耳は補聴器でなんとか。それから多分嗅覚と味覚は既にない。
珍しい神経の病気で、じわじわと感覚を失っていくものらしい。
「悪化してるね。無茶するからだ」
「どうせ同じでしょう?」
「遅かれ早かれだけどね。早くなるよりは遅い方がいい」
主治医は心配そうに喜一を見つめる。
「それなら思い出が欲しかったから。でもこんなに苦しいと思わなかった」
「後悔?」
「後悔はしていない。でも結局由花を苦しめただけだ。後悔はしていないけれど、声をかけるべきじゃなかったのかもしれない。謝りたいけど謝れない。きっとよけい苦しめるから」
「それ、彼女さんに直接言ったら? 帰ったふりしてそこで聞いてるよ?」
喜一は弾かれるように顔を上げて、やっぱり困ったように微笑んだ。
「由花。……帰れと言ったのに」
「何で言ってくれなかったの」
「俺はもうすぐ耳が聞こえなくなる。目も見えなくなる。触覚も無くなって歩けなくなる。会っても由花を認識できない。自分の頭の中に閉じこめられる。カタツムリが家に閉じこもるみたいに。付き合えない」
そんなの、知らなかった。でも。
「喜一が一方的に決めることじゃないでしょう?」
「だから最初に3か月だけと言ったじゃないか!」
いつも穏やかな喜一が初めて上げた強い語調は、まるで悲鳴に聞こえた。それでやっぱりため息をついて、微笑んだ。
気づいてしまった。思わず涙が一筋たれた。いつも見るこの微笑みはその度に何かを諦めて、今を次々と今を思い出に変換させるものだったんだと気がついた。でもこれじゃそもそもカタツムリに詰める思い出を作るために付き合ったようなものじゃないか。
「喜一にとって私は何なの」
喜一はそれに何も答えず、ちょっとだけ微笑みを困ったように曲げた。直感した。これも思い出にするつもりだ。それが無性に許せなかった。
「喜一は私が好きなんじゃないの?」
別れるとか会えないとか。喜一の主観的には同じことなのかもしれない。けれどもそれじゃ、私の気持ちがその中に最初から入ってない。私が笑ったって悲しんだって、固めて思い出にしてしまうつもりなら、私自身に価値なんて全然ないじゃない。今のが本当の喜一だとしたら、私が喜一と向き合ったのは告白にオッケーした時と今だけで、一度もリアルタイムに本当の喜一と付き合ってなんかない。
それはただの、全部が全部、最初の告白と一緒で一方的な通告。
「嘘つき。留学って私を騙したでしょう?」
「……いなくなるなら同じだ」
「全然同じじゃない。喜一が会えなくても私は会える」
抱き締めると喜一の拍動が聞こえた。少し驚いたように抱き返された。まだ確かにここにいる。
「私と付き合って。期間は私が許すまで」
額と額をくっつけた。私はここにいる。喜一も。
「許すまで?」
「そう、ずっと騙してたこと。断られても喜一がわかんなくなっても会いに来るから。だからちゃんと私と付き合って」
了
「喜一は……色川君は大丈夫なんですか!?」
「薬は打ったから一晩寝れば当面は大丈夫だよ。それにしても遊園地ね。無茶をする」
「無茶……?」
「そう。安静にしないとだめなのに」
「……難聴じゃないんですか?」
私は喜一に、ずっと難聴だと聞いていた。そのせいで大きな衝撃とかがあれば平衡感覚がおかしくなることがあるって。
「難聴? ……聞いてないなら俺からは言えないや。守秘義務があるからね。えっと、色川さんが起きたら直接聞いて」
主治医は少しだけ困惑げに私を見た。困惑? そうすると難聴じゃない?
違和感はあった。朦朧とする喜一の指定で運ばれたのが大学病院で、倒れた状況を詳しく聞かれて検査に随分時間をかけていたから。傍らで穏やかに眠る喜一は何も答えない。
「喜一、元気にならないとどこにもいけないよ?」
そう呟いても、何の反応もなかった。そうしていつの間にか寝てしまったらしい。
「由花、起きて。朝だ」
体がゆすられ、ぼんやりと顔を上げれば喜一が私の方を見ていた。
「……喜一、大丈夫なの?」
「すっかりね。もう帰らないと」
けれどもその焦点は、世界がずれているように合っていなかった。
「喜一、まだ目がよく見えてないよね? 全然大丈夫じゃない」
「そのうち治るよ」
「嘘。良くなったことなんてない。本当はなんの病気なの」
付き合い始めた時、それから一年の時より喜一は耳が随分悪くなっていた。付き合っている間も喜一の聴覚は悪化の一途を辿っていた。その上、目にも異常があるなんて。けれども喜一は目が見えなくても全く動揺していない。そうすると元々ほとんど見えていないか、見えなくなる事を知ってるってこと。
「俺たちは昨日別れたんだ。だから帰れよ」
「本気で言ってるの?」
そういえば思い当たるところがある。それで、そんな状態で。
「留学も嘘でしょう? それで行けるはずがない」
「別れたんだ。早く帰って……本当に」
喜一を思わず抱きしめた。その表情はいつものため息みたいな微笑みじゃなかった。いつもと違って、初めて見る泣き出しそうな顔だったから。
トントンと病室をノックする音がした。
「色川さん、回診だよ」
「先生、一回り後にしてくれませんか。今は彼女がいるから」
「この後もあるから今じゃないと」
「由花、もう診察だから、出ていって本当に」
その喜一の拒絶は昨日と同じで、でもホッとしているようにも思えた。
診察は多岐に渡った。目は照らされたペンライトで明るさが僅かにわかる程度。耳は補聴器でなんとか。それから多分嗅覚と味覚は既にない。
珍しい神経の病気で、じわじわと感覚を失っていくものらしい。
「悪化してるね。無茶するからだ」
「どうせ同じでしょう?」
「遅かれ早かれだけどね。早くなるよりは遅い方がいい」
主治医は心配そうに喜一を見つめる。
「それなら思い出が欲しかったから。でもこんなに苦しいと思わなかった」
「後悔?」
「後悔はしていない。でも結局由花を苦しめただけだ。後悔はしていないけれど、声をかけるべきじゃなかったのかもしれない。謝りたいけど謝れない。きっとよけい苦しめるから」
「それ、彼女さんに直接言ったら? 帰ったふりしてそこで聞いてるよ?」
喜一は弾かれるように顔を上げて、やっぱり困ったように微笑んだ。
「由花。……帰れと言ったのに」
「何で言ってくれなかったの」
「俺はもうすぐ耳が聞こえなくなる。目も見えなくなる。触覚も無くなって歩けなくなる。会っても由花を認識できない。自分の頭の中に閉じこめられる。カタツムリが家に閉じこもるみたいに。付き合えない」
そんなの、知らなかった。でも。
「喜一が一方的に決めることじゃないでしょう?」
「だから最初に3か月だけと言ったじゃないか!」
いつも穏やかな喜一が初めて上げた強い語調は、まるで悲鳴に聞こえた。それでやっぱりため息をついて、微笑んだ。
気づいてしまった。思わず涙が一筋たれた。いつも見るこの微笑みはその度に何かを諦めて、今を次々と今を思い出に変換させるものだったんだと気がついた。でもこれじゃそもそもカタツムリに詰める思い出を作るために付き合ったようなものじゃないか。
「喜一にとって私は何なの」
喜一はそれに何も答えず、ちょっとだけ微笑みを困ったように曲げた。直感した。これも思い出にするつもりだ。それが無性に許せなかった。
「喜一は私が好きなんじゃないの?」
別れるとか会えないとか。喜一の主観的には同じことなのかもしれない。けれどもそれじゃ、私の気持ちがその中に最初から入ってない。私が笑ったって悲しんだって、固めて思い出にしてしまうつもりなら、私自身に価値なんて全然ないじゃない。今のが本当の喜一だとしたら、私が喜一と向き合ったのは告白にオッケーした時と今だけで、一度もリアルタイムに本当の喜一と付き合ってなんかない。
それはただの、全部が全部、最初の告白と一緒で一方的な通告。
「嘘つき。留学って私を騙したでしょう?」
「……いなくなるなら同じだ」
「全然同じじゃない。喜一が会えなくても私は会える」
抱き締めると喜一の拍動が聞こえた。少し驚いたように抱き返された。まだ確かにここにいる。
「私と付き合って。期間は私が許すまで」
額と額をくっつけた。私はここにいる。喜一も。
「許すまで?」
「そう、ずっと騙してたこと。断られても喜一がわかんなくなっても会いに来るから。だからちゃんと私と付き合って」
了