バルコニーに出ると気持ちの良い夜風が出迎えてくれた。
前世のうららかな春の夜を思い出す。
手すりに体を預け、ぼんやりと空を見上げる。
満天の星空に、丸い月。
そういえば、地球規模の惑星の衛星にしては、月はとてつもなくでかいらしい。異例中の異例で、地球から観測できる惑星の中に類を見ないとか。
それが当たり前の様に天にぶら下がっている。
不思議な巡りあわせだな。
まるで、ここと前世が繋がっているかのよう。
前世、か。
死んだんだな、俺。改めて。
しかも自殺で。
父さんも母さんも、落ち込んでいるだろうな。
「……ざまあみろ」
――え?
今の俺の声か?
口を突いて出た言葉に、自分自身で驚いてしまった。
両親を差し置いて先立ち、ざまあみろとは不徳の極み。
けれども。
そう思ったって、良いだろう。
バチを与える神様も、もう違う神だし、その神の命にも背いた。今更前世の薄っぺらな道徳に縋りついて、言葉を選ぶ義理も無い。
そういう人生だったんだ。
俺は特に夢も持たずに生きていた。
親が勧めた高校に入り、言われるままに大学に入学。
そのまま四年間単位を落とさないことと就職することだけを考えて生活していた。
色恋もない。
凪のような大学生活だった。
そうして無事に就職。
就職した先は大手の会社。いわゆる勝ち組と言う奴だった。
地元の友達には羨ましがられたものだが、正直自分が願って入った会社ではなかったから、自分自身はたいして嬉しくも無かった。
何より仕事の内容がハードだったから、羨ましいだろとは到底言えたもんじゃあなかった。
9時に出社して退社するのは22時過ぎ。仕事が圧せば日を跨ぐこともしばしば。
毎日疲れ果てて帰るのに、朝にはちゃんと起きてしまい、出社できてしまう。
遅刻できる奴。
不真面目に振舞える奴。
病気になれる奴。
彼らが羨ましかった。
週に一度の休みの日も、出張の前のりで潰れることもあった。
そんなある日、父さんは会社を辞めた。
まだ定年まで10年もあるのに。
これからは俺の稼ぎだけで、自分を含めた三人を養っていかなくてはならなくなった。
ますます辞められなくなった。
毎日辞めたいと思いながら、しかし辞められないのを繰り返していた。だが、これからは辞めたいと思うことすらできなくなってしまった。
ある種、辞めたいと思うことは、薬――鎮痛剤のようなものだった。
いざってときには辞めよう。
死にたくなったら辞めよう。
そう思えば、仕事に潰されそうになる毎日を耐え抜くこともできた。
だがその退路すら断たれてしまっては、自分がどうなってしまうのか分からなかった。
たまらず聞いた。
どうして父さんは辞めたのかと。
「お前が一人前になって働いているのに、お父さんが働き続ける必要もないだろう。お前が良い所に就職できるように、大学にだって行かせてやった。学費だって馬鹿にならなかったんだ。お前はこれから恩を返していくんだよ」
恩。
産んでくれた恩。
育ててくれた恩。
その恩義に報いたい。
それは子が親に感じる当たり前の感情だろう。
しかし堂々と、報われる対象者から「報え」と言われると、違和感を覚えてしまう。
「お前も老後に楽をしたいのなら子供を持つことだ。俺も早く孫の顔が見たいしな」
プライベートを犠牲にする生活をずっと続けている。
孫の顔とか、結婚とか、その前に相手を見つける時間すらない。
くれよ。
時間。
くれよ。
お金。
あんたらを養うために浪費される一日の内の数分、数十万の内の数円でいいから、くれよ。
そもそもなんだよ。
老後の暮らしを楽にするために、俺を産んだのかよ。
子供に恩を売って、返してもらう前提で育ててきたのかよ。
それで、俺が親の面倒など見ないと言えば、親不孝者、落伍者扱い。
ふざけるなよ……!
生活の為に働いているのか。
働く為に生活しているのか。
分からない。
子供の為に親が居るのか。
親の為に子供が居るのか。
分からない。
わからない。
明日の為の昨日だったのか。
昨日の為に明日が来るのか。
分からない。
わからない。
ワカラナイ。
帰宅途中だった。
俺はふらふらとコンビニに立ち寄って、ぼんやりと雑誌コーナーで適当に本を読んでから、何も特別なことをした感覚も無くカナヅチを買って家に帰った。
そして気が付いた時には自室で封を切ってカナヅチを手に持っていた。
後はもう、ビールのプルタブを開けるみたいな普通さで、それをこめかみに思いっきり叩き付けるだけだった。
別に自殺したかったわけじゃあない。
死にたいとか、生きたいとか、そういう感覚は特にない。
覚悟も諦観も無い。
疲れていた。
ただ疲れていた。
ただただ疲れていたんだ。
先が開いた歯ブラシを取り換えるみたいに、自分も取り換えるような。
野菜の端っこを切るしかないみたいに、日常もストンと切るような。
そんな感覚。
白濁していく意識の中で、俺は円盤の淵に立っていた。
円盤の中心からは激しい風が出ており、俺はこのまま行くと円盤の外に落ちるなと他人のことみたいに思っていた。
外は闇。
そのギリギリ。
落ちるその手前に思った。
みんな困ればいい。
――俺は、会社と両親に殺されたのだから。
「ざまあみろ」
前世のうららかな春の夜を思い出す。
手すりに体を預け、ぼんやりと空を見上げる。
満天の星空に、丸い月。
そういえば、地球規模の惑星の衛星にしては、月はとてつもなくでかいらしい。異例中の異例で、地球から観測できる惑星の中に類を見ないとか。
それが当たり前の様に天にぶら下がっている。
不思議な巡りあわせだな。
まるで、ここと前世が繋がっているかのよう。
前世、か。
死んだんだな、俺。改めて。
しかも自殺で。
父さんも母さんも、落ち込んでいるだろうな。
「……ざまあみろ」
――え?
今の俺の声か?
口を突いて出た言葉に、自分自身で驚いてしまった。
両親を差し置いて先立ち、ざまあみろとは不徳の極み。
けれども。
そう思ったって、良いだろう。
バチを与える神様も、もう違う神だし、その神の命にも背いた。今更前世の薄っぺらな道徳に縋りついて、言葉を選ぶ義理も無い。
そういう人生だったんだ。
俺は特に夢も持たずに生きていた。
親が勧めた高校に入り、言われるままに大学に入学。
そのまま四年間単位を落とさないことと就職することだけを考えて生活していた。
色恋もない。
凪のような大学生活だった。
そうして無事に就職。
就職した先は大手の会社。いわゆる勝ち組と言う奴だった。
地元の友達には羨ましがられたものだが、正直自分が願って入った会社ではなかったから、自分自身はたいして嬉しくも無かった。
何より仕事の内容がハードだったから、羨ましいだろとは到底言えたもんじゃあなかった。
9時に出社して退社するのは22時過ぎ。仕事が圧せば日を跨ぐこともしばしば。
毎日疲れ果てて帰るのに、朝にはちゃんと起きてしまい、出社できてしまう。
遅刻できる奴。
不真面目に振舞える奴。
病気になれる奴。
彼らが羨ましかった。
週に一度の休みの日も、出張の前のりで潰れることもあった。
そんなある日、父さんは会社を辞めた。
まだ定年まで10年もあるのに。
これからは俺の稼ぎだけで、自分を含めた三人を養っていかなくてはならなくなった。
ますます辞められなくなった。
毎日辞めたいと思いながら、しかし辞められないのを繰り返していた。だが、これからは辞めたいと思うことすらできなくなってしまった。
ある種、辞めたいと思うことは、薬――鎮痛剤のようなものだった。
いざってときには辞めよう。
死にたくなったら辞めよう。
そう思えば、仕事に潰されそうになる毎日を耐え抜くこともできた。
だがその退路すら断たれてしまっては、自分がどうなってしまうのか分からなかった。
たまらず聞いた。
どうして父さんは辞めたのかと。
「お前が一人前になって働いているのに、お父さんが働き続ける必要もないだろう。お前が良い所に就職できるように、大学にだって行かせてやった。学費だって馬鹿にならなかったんだ。お前はこれから恩を返していくんだよ」
恩。
産んでくれた恩。
育ててくれた恩。
その恩義に報いたい。
それは子が親に感じる当たり前の感情だろう。
しかし堂々と、報われる対象者から「報え」と言われると、違和感を覚えてしまう。
「お前も老後に楽をしたいのなら子供を持つことだ。俺も早く孫の顔が見たいしな」
プライベートを犠牲にする生活をずっと続けている。
孫の顔とか、結婚とか、その前に相手を見つける時間すらない。
くれよ。
時間。
くれよ。
お金。
あんたらを養うために浪費される一日の内の数分、数十万の内の数円でいいから、くれよ。
そもそもなんだよ。
老後の暮らしを楽にするために、俺を産んだのかよ。
子供に恩を売って、返してもらう前提で育ててきたのかよ。
それで、俺が親の面倒など見ないと言えば、親不孝者、落伍者扱い。
ふざけるなよ……!
生活の為に働いているのか。
働く為に生活しているのか。
分からない。
子供の為に親が居るのか。
親の為に子供が居るのか。
分からない。
わからない。
明日の為の昨日だったのか。
昨日の為に明日が来るのか。
分からない。
わからない。
ワカラナイ。
帰宅途中だった。
俺はふらふらとコンビニに立ち寄って、ぼんやりと雑誌コーナーで適当に本を読んでから、何も特別なことをした感覚も無くカナヅチを買って家に帰った。
そして気が付いた時には自室で封を切ってカナヅチを手に持っていた。
後はもう、ビールのプルタブを開けるみたいな普通さで、それをこめかみに思いっきり叩き付けるだけだった。
別に自殺したかったわけじゃあない。
死にたいとか、生きたいとか、そういう感覚は特にない。
覚悟も諦観も無い。
疲れていた。
ただ疲れていた。
ただただ疲れていたんだ。
先が開いた歯ブラシを取り換えるみたいに、自分も取り換えるような。
野菜の端っこを切るしかないみたいに、日常もストンと切るような。
そんな感覚。
白濁していく意識の中で、俺は円盤の淵に立っていた。
円盤の中心からは激しい風が出ており、俺はこのまま行くと円盤の外に落ちるなと他人のことみたいに思っていた。
外は闇。
そのギリギリ。
落ちるその手前に思った。
みんな困ればいい。
――俺は、会社と両親に殺されたのだから。
「ざまあみろ」