俺は異空間転移でバケツを手に入れ、先ほど自分が薬を飲んだ湖にまで来ていた。
飲み水の確保は最重要。俺は飲まなくても生きていけるが、ネイアはそうはいかない。
湖面を見ると透き通っていながらも、水草などが自生している。
水が強烈な酸性、或いはアルカリ性など、人間にとって有害な毒素を含むのならば、水草も枯れてしまうはず。なので毒性は極めて低いと考えられる。
更にこの湖はどこかの川から流れ込んできている形跡がない。恐らくは湧水が溜まってできたタイプの湖だ。毒性が低いからと言って微生物がうじゃうじゃいたのでは、腹を下してしまう可能性がある。湧水と言うことは石や砂利に濾過されたはずだから、その点も心配なさそうだ。
水流直射で水を出せなくもないが、何しろ魔界の水だ。絶対汚い。偏見だが、絶対汚い。そんな危ないものを飲ませるわけにはいかない。
因みに異空間転移で手に入れたこのバケツは使い終わったら返すつもりだ。なんか見たことがあるなと思ったら、うちで使っていたやつだ。子供の頃に書いた覚えのあるらくがきがあったので間違いない。
今まで異空間転移で召喚した戦車や銃も恐らく地球のものだろう。戦車はヴァンパイアにくれてしまったが、これから出すものは返すようにしよう。と言うか、なるべく地球からの異空間転移は使わない方がいいな。銃やなんかも戦場から転移させてしまったのだとすると、それにより命を落としてしまう兵士もいるかも知れない。
ベースキャンプに戻り、バケツを置く。
ネイアには枝拾いを頼んでおいた。
魔術で樹木を薙ぎ倒せなくも無いが、伐ったばかりの樹木は多量に水を含んでいるため、火の燃料としては不向きだ。
自分も枝を拾いに行くか。と思ったが、既に十分過ぎるほどの枝が集められていた。
では、ネイアはどこに行ったのか。
不思議に思いつつも、火の準備をする。
石で囲いを作り終わって火を点けても、なかなか戻る様子がない。
心配になり立ち上がったところで、人影が動いたのを目の端に捉えた。
その影は徐々にこちらに歩いてくるが、足取りがおかしい。
とてもフラフラしている。
今にも倒れそうだ。
その人影が焚火の光に照らされた時、驚愕に叫んでしまった。
「ネイア!」
それは確かにネイアだった。
しかし、彼女の頬には赤黒い血が付着していた。
目に光は無く、放心しているようだった。
手に持っているクロスも血にまみれている。
彼女に駆け寄る。
「大丈夫か!? いったいどうしたんだ!」
彼女の肩を揺さぶるとようやく俺の方をゆっくりと向いて、小さく呟いた。
「あ、ウーさん……」
辛うじて俺に視線を合わせているが、虚ろであることに変わりはない。
彼女の瞳を見ていると、ボロボロと大粒の涙がとめどなく溢れ出てきた。
しばらくの間、虚無を張り付けた顔からただただ涙が流れ続けていた。
俺はただそれを黙って見るしかできないでいた。
不意に、彼女の半開きになっていた口が固く結ばれ、次の瞬間に堰を切ったように流れ出す泣き声。嘆くような、喚くような……彼女の平時からは想像もつかない、直情的で子供のような素振りに困惑してしまう。
そのままそこにへたり込む。
俺は彼女の背中をゆっくりと撫ぜて、だからと言ってそれ以上何をできるわけもなく、一緒に俯いていた。
「いったい、何が……」
彼女が泣き止むのを待って話し掛ける。
ネイアはクロスを持っている方とは反対側の手に持っていたものを差し出した。
今まで暗闇に隠れていて分からなかったが、焚火の灯りに照らされて、それが小動物であることが解った。
ふわふわとした体毛に覆われた、耳の長い動物。地球で言うところのウサギのようだ。
そのふわふわが血でベタベタに汚れていた。
息もしていないようだ。
「殺しました。生まれて初めて」
声を絞り出すように紡ぐ。
「いつもはロアネハイネさんが……仲間のハンターの方が捕ってきてくれるんです。調理もその人がしてくれて、私は出来上がったものをただ食べているばかりでした。
動物を殺したことはありませんでしたが、生きる為だと、そんな理由があれば良心の呵責も少しは和らぐかと思っていました。しかし、実際はそう簡単な事ではありませんでした。捕まえた時の体温と、怯えきった表情、首にクロスを振り下ろした時の痙攣……。
一度では殺しきれずこの子の皮膚が破れるまで何度も叩きました。ウサギさん。痛かったでしょうに」
亡骸を抱きしめる。
声を上げることも、熱を返すことも無いウサギと呼ばれたそれは、両足をだらりとぶら下げていた。
「私は何をこんなに懸命に生に縋りついているのでしょうか。私の生きたいと言う意志を貫いたがために、この子の生きたいと言う意志は蔑ろにされました。
ロアネハイネさんはきっと、毎日動物たちにごめんなさいって謝りながら、こんな辛い思いをしながら捕ってきて、料理をしてくれていたのです。そんな当たり前のことを、今、自分でやってみてようやく知りました。
私は毎日死肉を食らう浅ましい人間です」
ぶるぶると凍える様に震える。
俺はと言えば、相も変わらず背中を撫ぜている。
「ネイア。ありがとう」
「え……」
疑うような、驚いたような眼差しを向けてくる。
「君の残酷が、君のみならず俺の命も救った」
ネイアは首をゆっくり横に振る。
「君が言うように、ロアネハイネという人は凄いな。毎日そんなことをして。でも君が死肉を食らう浅ましい人間だと言うのなら、ロアネハイネの苦しみはどうすればいいのだろう。それでもやはり動物を殺してまで生きるべきではないと言うのなら、ロアネハイネが行ってきたその全てを否定することになる。そうではなく、ネイアがもしもロアネハイネに感謝しているのなら、動物の命は救えないにしても、その人の心は救えると思うんだが。どうなんだ?」
「感謝しています」
「なら、今君は俺に感謝される立場に居る。結局、ネイアがやらなくても俺が殺していた命だ。ロアネハイネが居ないからネイアが殺した様に。綺麗ごとだけでは生きていけない。生きると言う選択は、何千何万を殺すと言う選択に他ならない。多くの人間はそれを知らずにのうのうと生きているだろうし、だって仕方がないじゃあないかの一言で片づけてしまうだろう。とは言え、失われた動物の命に感謝をすれば彼らが報われると言うこともない。それは生きたかった生命に対してあまりにも乱暴で独善的な感謝だ。傲慢不遜の極みだと言えよう。今回のことで、ネイアはそれを知ることが出来た。
生きて良いかどうかの判断はいつだって自分で行わなければいけない。……俺は結局それが出来なくて死んでしまったが」
ネイアががばっとこちらを振り向く。
「え!?」
「……あ! いや、その……、ものの例えだ。死んだらここに居ないからな」
「そ、そうですよね」
「ともかく、生きる是非の判断は本来自分で行うべきだが、それもままならないと言うのなら、俺から頼もう。君に生きて欲しいと」
ネイアの瞳が一際大きく開かれた。その鉄紺色の瞳に映ったオレンジが、パチッと弾ける。
「確かにネイアの行いが全ての生物から容認されることは無い。だが、少なくとも俺は生きて欲しいと願う程に感謝をしている。俺がガンジマルを撃退した時、君は俺にお礼を言った。それと何も変わらない。俺は確かに君の命を救いはしたが、同時にガンジマルに怪我を負わせたのだから」
俺は彼女の手からウサギを貰い、火の方に近寄る。
歩き出そうとしないネイアを振り返った。
彼女は力なく笑っている。それは、慰められたことによる安堵からくるものか、結局決して人間は清らかなものではないことを確認させられたことによる失意からの自嘲か、分からない。
「偉そうなことを言ってすまない」
「いいえ」
「だが、俺が君に感謝をしていることは、真実だ。そして、一つの命を奪うことに躊躇いと罪悪感を覚えるネイアを、尊いと感じるのもまた等しく真実なんだ。君は君を許せなくとも、その分俺が許そう。もしも俺が同じことで苦しんでいたら、今度は君に許しを請うよ。当事者不在の許し合いの中でしか、自分たちを認め合うことができないのなら、浅ましいことだと知りつつも、俺はそれに縋り続ける」
出来るだけの笑顔を向けた。自分でも酷く曖昧な笑顔だったと思うが。
「さあ、命を頂く準備をしよう」
腹が減っていなくても、この小さな生命を自分の体に取り入れなければならないと思った。
どうあれそれは独善的で暴力的で退廃的な使命感だが、同時に純粋でもあるとも信じていた。
飲み水の確保は最重要。俺は飲まなくても生きていけるが、ネイアはそうはいかない。
湖面を見ると透き通っていながらも、水草などが自生している。
水が強烈な酸性、或いはアルカリ性など、人間にとって有害な毒素を含むのならば、水草も枯れてしまうはず。なので毒性は極めて低いと考えられる。
更にこの湖はどこかの川から流れ込んできている形跡がない。恐らくは湧水が溜まってできたタイプの湖だ。毒性が低いからと言って微生物がうじゃうじゃいたのでは、腹を下してしまう可能性がある。湧水と言うことは石や砂利に濾過されたはずだから、その点も心配なさそうだ。
水流直射で水を出せなくもないが、何しろ魔界の水だ。絶対汚い。偏見だが、絶対汚い。そんな危ないものを飲ませるわけにはいかない。
因みに異空間転移で手に入れたこのバケツは使い終わったら返すつもりだ。なんか見たことがあるなと思ったら、うちで使っていたやつだ。子供の頃に書いた覚えのあるらくがきがあったので間違いない。
今まで異空間転移で召喚した戦車や銃も恐らく地球のものだろう。戦車はヴァンパイアにくれてしまったが、これから出すものは返すようにしよう。と言うか、なるべく地球からの異空間転移は使わない方がいいな。銃やなんかも戦場から転移させてしまったのだとすると、それにより命を落としてしまう兵士もいるかも知れない。
ベースキャンプに戻り、バケツを置く。
ネイアには枝拾いを頼んでおいた。
魔術で樹木を薙ぎ倒せなくも無いが、伐ったばかりの樹木は多量に水を含んでいるため、火の燃料としては不向きだ。
自分も枝を拾いに行くか。と思ったが、既に十分過ぎるほどの枝が集められていた。
では、ネイアはどこに行ったのか。
不思議に思いつつも、火の準備をする。
石で囲いを作り終わって火を点けても、なかなか戻る様子がない。
心配になり立ち上がったところで、人影が動いたのを目の端に捉えた。
その影は徐々にこちらに歩いてくるが、足取りがおかしい。
とてもフラフラしている。
今にも倒れそうだ。
その人影が焚火の光に照らされた時、驚愕に叫んでしまった。
「ネイア!」
それは確かにネイアだった。
しかし、彼女の頬には赤黒い血が付着していた。
目に光は無く、放心しているようだった。
手に持っているクロスも血にまみれている。
彼女に駆け寄る。
「大丈夫か!? いったいどうしたんだ!」
彼女の肩を揺さぶるとようやく俺の方をゆっくりと向いて、小さく呟いた。
「あ、ウーさん……」
辛うじて俺に視線を合わせているが、虚ろであることに変わりはない。
彼女の瞳を見ていると、ボロボロと大粒の涙がとめどなく溢れ出てきた。
しばらくの間、虚無を張り付けた顔からただただ涙が流れ続けていた。
俺はただそれを黙って見るしかできないでいた。
不意に、彼女の半開きになっていた口が固く結ばれ、次の瞬間に堰を切ったように流れ出す泣き声。嘆くような、喚くような……彼女の平時からは想像もつかない、直情的で子供のような素振りに困惑してしまう。
そのままそこにへたり込む。
俺は彼女の背中をゆっくりと撫ぜて、だからと言ってそれ以上何をできるわけもなく、一緒に俯いていた。
「いったい、何が……」
彼女が泣き止むのを待って話し掛ける。
ネイアはクロスを持っている方とは反対側の手に持っていたものを差し出した。
今まで暗闇に隠れていて分からなかったが、焚火の灯りに照らされて、それが小動物であることが解った。
ふわふわとした体毛に覆われた、耳の長い動物。地球で言うところのウサギのようだ。
そのふわふわが血でベタベタに汚れていた。
息もしていないようだ。
「殺しました。生まれて初めて」
声を絞り出すように紡ぐ。
「いつもはロアネハイネさんが……仲間のハンターの方が捕ってきてくれるんです。調理もその人がしてくれて、私は出来上がったものをただ食べているばかりでした。
動物を殺したことはありませんでしたが、生きる為だと、そんな理由があれば良心の呵責も少しは和らぐかと思っていました。しかし、実際はそう簡単な事ではありませんでした。捕まえた時の体温と、怯えきった表情、首にクロスを振り下ろした時の痙攣……。
一度では殺しきれずこの子の皮膚が破れるまで何度も叩きました。ウサギさん。痛かったでしょうに」
亡骸を抱きしめる。
声を上げることも、熱を返すことも無いウサギと呼ばれたそれは、両足をだらりとぶら下げていた。
「私は何をこんなに懸命に生に縋りついているのでしょうか。私の生きたいと言う意志を貫いたがために、この子の生きたいと言う意志は蔑ろにされました。
ロアネハイネさんはきっと、毎日動物たちにごめんなさいって謝りながら、こんな辛い思いをしながら捕ってきて、料理をしてくれていたのです。そんな当たり前のことを、今、自分でやってみてようやく知りました。
私は毎日死肉を食らう浅ましい人間です」
ぶるぶると凍える様に震える。
俺はと言えば、相も変わらず背中を撫ぜている。
「ネイア。ありがとう」
「え……」
疑うような、驚いたような眼差しを向けてくる。
「君の残酷が、君のみならず俺の命も救った」
ネイアは首をゆっくり横に振る。
「君が言うように、ロアネハイネという人は凄いな。毎日そんなことをして。でも君が死肉を食らう浅ましい人間だと言うのなら、ロアネハイネの苦しみはどうすればいいのだろう。それでもやはり動物を殺してまで生きるべきではないと言うのなら、ロアネハイネが行ってきたその全てを否定することになる。そうではなく、ネイアがもしもロアネハイネに感謝しているのなら、動物の命は救えないにしても、その人の心は救えると思うんだが。どうなんだ?」
「感謝しています」
「なら、今君は俺に感謝される立場に居る。結局、ネイアがやらなくても俺が殺していた命だ。ロアネハイネが居ないからネイアが殺した様に。綺麗ごとだけでは生きていけない。生きると言う選択は、何千何万を殺すと言う選択に他ならない。多くの人間はそれを知らずにのうのうと生きているだろうし、だって仕方がないじゃあないかの一言で片づけてしまうだろう。とは言え、失われた動物の命に感謝をすれば彼らが報われると言うこともない。それは生きたかった生命に対してあまりにも乱暴で独善的な感謝だ。傲慢不遜の極みだと言えよう。今回のことで、ネイアはそれを知ることが出来た。
生きて良いかどうかの判断はいつだって自分で行わなければいけない。……俺は結局それが出来なくて死んでしまったが」
ネイアががばっとこちらを振り向く。
「え!?」
「……あ! いや、その……、ものの例えだ。死んだらここに居ないからな」
「そ、そうですよね」
「ともかく、生きる是非の判断は本来自分で行うべきだが、それもままならないと言うのなら、俺から頼もう。君に生きて欲しいと」
ネイアの瞳が一際大きく開かれた。その鉄紺色の瞳に映ったオレンジが、パチッと弾ける。
「確かにネイアの行いが全ての生物から容認されることは無い。だが、少なくとも俺は生きて欲しいと願う程に感謝をしている。俺がガンジマルを撃退した時、君は俺にお礼を言った。それと何も変わらない。俺は確かに君の命を救いはしたが、同時にガンジマルに怪我を負わせたのだから」
俺は彼女の手からウサギを貰い、火の方に近寄る。
歩き出そうとしないネイアを振り返った。
彼女は力なく笑っている。それは、慰められたことによる安堵からくるものか、結局決して人間は清らかなものではないことを確認させられたことによる失意からの自嘲か、分からない。
「偉そうなことを言ってすまない」
「いいえ」
「だが、俺が君に感謝をしていることは、真実だ。そして、一つの命を奪うことに躊躇いと罪悪感を覚えるネイアを、尊いと感じるのもまた等しく真実なんだ。君は君を許せなくとも、その分俺が許そう。もしも俺が同じことで苦しんでいたら、今度は君に許しを請うよ。当事者不在の許し合いの中でしか、自分たちを認め合うことができないのなら、浅ましいことだと知りつつも、俺はそれに縋り続ける」
出来るだけの笑顔を向けた。自分でも酷く曖昧な笑顔だったと思うが。
「さあ、命を頂く準備をしよう」
腹が減っていなくても、この小さな生命を自分の体に取り入れなければならないと思った。
どうあれそれは独善的で暴力的で退廃的な使命感だが、同時に純粋でもあるとも信じていた。