神の死により部屋を覆っていた結界は解けた。
 自分の腹部に刺さっていた神の針もいつの間にかない。ただ血は滴っているので、魔術でとめておくことにした。
 魔王の力では即時回復することができない。ただ、状態をとめるだけ。
 もともと魔王の自己治癒能力は高いようなので、その状態にしておけば勝手に治るようだ。
 しかし、傷程度ならいいが、腕や足を無くしてしまう程の重傷を負ったら、自身の力では治せないと言うことだ。気を付けなければ。

 自分の怪我の処置を終えたら今度は神の遺体だ。それは魔術により跡形もなく焼却できた。
 死ねば、神の力は通用しなくなるらしい。
 あまりにあっさり死んだので実感が湧かない。
 果たしてこの死体は本当に神のものか?
 ふとそんな疑念も過る。
 だが考えても仕方ない。
 仮に直前に誰かと入れ替わったのだとしたら、必ず不意打ちをしてくるはず。それをするなら今か、それより前がまさにそのタイミング。それでも攻撃が来ないと言うことは、間違いなく死んだのだろう。

 しかし、神が死んだと言うことは、この世界はどうなるのだろうか。
 今は何も変わらないが、数日、或いは数秒後に突然消えてなくなるなんてことは?

 ……いや、そう言うことじゃあないだろう。
 俺は殺したんだ。初めて、人を。人じゃあなく神だが、そういう問題じゃない。己の怒りと都合で殺してはいけないものを殺した。
 少し、考える余裕が出てきてからなのか、殺傷の罪悪感が、胸を満たし始めた。冷静になったことで、一層事実を真に受け止めるようになった。頭は急速に冷めていくのに対し、心臓がバクバクと音を立てる。
 一言に罪悪感と言えたが、しかし良心が痛むと言う感覚ではない。ほとんど無自覚に信仰していた道徳心に心根から背いたような不義理。それが内面から膨らみ、自分を圧迫してくる。

「仕方なかったんだ」

 知らず、呟いていた。
 仕方なかった。そう、仕方なかったんだ。いや、本当にそうか?
 確かに危機は迫っていた。払いのけるには殺すしかなかった。
 殺さなかったら殺されていた。
 だから殺すしかなかったんだ。
 いや待て。だったら殺されていれば良かったのではないか?
 俺は何様だ。少なくともあいつは神様だ。どれほど俺にとっての害であっても、この世界を作り上げた創造主であることに変わりはない。俺はその神よりも高尚で世界にとっての有効性が高い人間だとでも言うのか?

 この、魔王の中に入った元人間。

 俺が生きていて良い意味など、あるのか?
 神を殺してまで生きる意味。
 嗚呼、俺は何てことしてしまったんだ。

 しばらく同じようなことをぐるぐると考えていた。
 だが考えても考えても、答えが出ることはなかった。

 疲弊した脳は、自分にとって都合の良い場所で折り合いをつけた。どうしたって神を殺した俺を正当化することはできなかった。結局俺は、神を憎んでいたのだ。だからどうあれ殺していたのだ。生きると言う選択は、他のあらゆる生命を脅かすと言うことなのだ。昨日の鳥の丸焼きに使われた鳥が、そうして殺されてしまったように。

 不意に、ドアのノック音が耳に届いた。
 扉を開けると、そこにはヴァンパイアが居た。

「魔王様。昨夜仰っておられましたお薬をお持ちしましたねぃ」

 とても仕事が早い。
 やはり魔王の部下は優秀なようだ。

「チナミに効果の程も間違いありませんねぃ」
「ん? どうしてわかるんだ?」

 ヴァンパイアはにっこり笑って胸を張った。

「昨夜のうちに近隣の村の井戸水に仕込んだところ、今日の朝には村人全員が子供化したのを確認できましたのでねぃ」

 ……優秀過ぎるようだ。
 多分皆、魔王に対してはとても献身的だが、その分人に対しては極悪非道のようだ。

「心遣いは嬉しいんだが、今度からそう言う事は、俺の指示無しで動くな」
「はっ、スミマセン」
「いや、良いんだ。言ってなかった俺が悪い。とにかくこれからは頼む」
「はい」
「あと、薬ありがとうな」
「……え、あ、ハイ!」

 お礼を言われ慣れていないのだろう。とてもしどろもどろに答えた。
 確かに魔王ってあまりお礼を言わなさそうなイメージだ。あくまでイメージだが。
 しかしイメージと言えば、この二日間で色々と変わったな。

 魔王は人を憎んでいるし、人には情け容赦ないようだが、それは人の醜さを知っているからだ。だから魔王は自分の価値観で生命を助けたりもする。昨日話を聞いたヘルとスケルトン以外にも、結構な人数の命を救っているように思える。
 そして神は、おぞましいほどに醜悪だった。
 自身の目的の為ならば手段を選ばず、力の優劣がはっきりすると手を抜き見下す。
 そもそも死んで神と会うまで、その存在を疑っていた口だが、そんな無神論者の俺でも、あれはないわと思ってしまう。……いや、殺してしまった者の悪口はやめよう。言えば言う程、自身の浅ましい自己肯定に成り下がってしまう。

 この世界の神はともかくとして、地球の神様は、人々が信じる通りに崇高で慈悲深い存在であってほしいなと思った。

 薬を持ってこのまま城を出ようかと思ったが、気掛かりな事がある。
 多分恋人或いは嫁であるヘルの存在だ。
 かといって連れて行くわけにはいかない。

 俺は自室に戻って手紙を書いておくことにした。
 机には紙やペンが用意されており、魔王が普段から筆まめな性質であることが窺えた。
 すらすらと文章を書いてみてその字を見て驚いた。

 ――日本語じゃない!

 考えてみれば当たり前の事だ。
 恐らく脳内で置換しているだけで、俺も実際はこちらの言葉を話しているのだ。
 聞こえてきた言葉なども自身の脳内では日本語再生されているが、本当はこの世界の言語が飛び交っているに違いない。
 実際もう一度紙を見直すと、そこに書かれているのは日本語になっている。脳内で再置換されたのだろう。

 俺は改めてヘルへの手紙をしたためた。

『ヘルへ
 俺はこの城を離れる。
 此度の戦いで、勇者はまっすぐ俺の首を取りに来た。
 それは裏を返せば、俺さえ居なければこの城が狙われることはなかったと言うことだ。
 この城を守る為にも俺はここに居てはいけないと確信している。
 だから探さないで欲しい。
 今後の統率はお前が執り行ってくれ。
 人間サイドに手を出さなければ、勇者たちもこの城に攻め入る事も無いだろう。
 何もかもお前に任せてしまってすまない。
 二度と会わないと言う訳ではない。
 ほとぼりが冷めたらまたいつかこの城に戻ることになるだろう。
 それまでは待っていて欲しい』

 読み返してみると本当にわがままな魔王様だなと思うが、こうするより他にない。
 自分自身、魔王ではないのだから。

 手紙をその場に残し、城を後にした。