ボブは変態だ。
いや、これでは流石に言葉足らずでボブに悪いか。
ボブは物理学の変態だ。変人ではない、変人のさらに上の上の上に位置する、紛れもない変態だ。……ただ、「物理学の」と一応付け加えておく。
私はアリス。真空チャンバーにイオンポンプを繋ぎ、実験装置の組み立てをしながら、そんな事を考えていた。大学の研究室。旧校舎の端の端の端にひっそり隠れた研究室で、私はタイムマシンを作っている。タイムマシンと言っても、そんなたいそれたものではなく音声情報を未来に飛ばすだけの装置だけど、一応時間の流れを変えるのでタイムマシンと言って間違いではないと思う。
ボブに言わせると、未来へのタイムマシンは至極簡単と言うけれど、私にはこれが限界。相対性理論の一部を活用した、ゴテゴテのDIY的装置。
液体窒素を使って装置を冷やし、超電動状態を作り出す。さらに装置を真空チャンバーの中に装填し、空気抵抗も排除する。その中で寸胴のコマのような回転体を高速で回し、さらにそれを幾重にも幾重にも重ね更に回し光速に近づけていく。近づけるといっても光速に近づくとどんどん重くなるから、物理的に光速には遥かに及ばないんだけどね。
そしてその中に格納する超小型の特殊な通信装置が重要で、情報を載せた電子を極小電子銃から発射させたり、磁力を使って電子の起動を曲げて回転させたりしながら、「電子内の情報」と「周りの世界」にタイムラグを生み出すのだ。この重要な部分は、結局ボブが作ったものなんだけどさ。
ま、これで一応、情報がタイムマシンに乗って未来に届く。私の計算が正しければ、今喋ったことが、ちょうど明日の今の時間に届くはず。注意して言っておくけど、情報が長い伝達経路を通って遅延して届くわけじゃないからね。電子内の情報は一瞬で伝わるけど、その一瞬が、電子外、私たちの世界の1日分の時間に値するの。
わかりやすく言うと、卒業式なんかでタイムマシンだと言って、グランドに宝箱を埋めた事ない?
想像してみて。あれは、あの箱の中も私たちと同じ時間が流れているから、生ものなんて入れたら、大変な事になっちゃうけど。今、私が作っているタイムマシンでは、あの箱の中の時間は一瞬、だから私の好きな、あったかいコーヒーを入れて何十年後かに開けたとしても、あったかいまま美味しく飲めるっていう事。
ま、実際は、このタイムマシンでは音声情報を明日へ1日飛ばすのが精一杯だけど。
フレッシュ!! これが重要。
原理はどうだっていい。「フレッシュな言葉が届く」と言う事が重要。
私は、装置の組み立てが終わり、一息ついた。改めてこの装置を見る。なんてアナログなんだろう。フーとため息がでる。私は、このゴテゴテとした不格好な装置の見た目が気に入らなかった。でも、文系の私にはこれが限界。
そう、私、文系なんだけどな。何、やってんだろう。
ま、だから、さ、原理が分からなければ、それはそれで良いのだ。「私、文系ですから!」と胸を張って言えばいい。さ、さ、ここまでチンプンカンプンな方は、是非一緒に言ってみて「私、文系ですから!」って。
秋も深まり寒くなった。日が落ちると、このオンボロ研究室は特に冷え込む。困ったもんだ。
そして、あったかいコーヒーが美味しい。私は「困ったもんだ」と呟いて、3杯目のコーヒーを淹れに行った。白衣の下に薄手のセータを着込む。これからまたグッと冷え込んでくるだろう。
私はコーヒーを飲みながら考えた。
ボブは変態だ。「物理学の」と一応付け加えておく。そして、ボブはカッコいい。見た目だけは。たぶん。好みにもよるけど。
ボブは銀色の長髪に、薄い褐色の瞳。細身のすらりとした格好が、中世ヨーロッパの王侯貴族を思わせる。そして、彼の名前がなぜボブなのか? それは永遠の謎だ。
重ねて言うが、格好いいのは見た目だけだ。そして、私の好みではない。……と思う。
私の格好はどうだろう。背は低い。茶色い髪に青い瞳。あ、そうだ。私アリスだった。そうそう、不思議の国のアリスみたいって、ちょっと言われる。もう、大学生なのに。いいのか悪いのか、ちょっと悩む。そして私の名前が何故アリスなのか? それも永遠の謎だ。
「あーあー、マイクテスト、マイクテスト」
私はタイムマシンに連動しているマイクに話しかけた。よし、こっちも大丈夫。このマイクで喋った言葉が、時を超えて明日へ届くのだ。録音でもなく、遅延でもなく、フレッシュで。
イオンポンプの電源を入れ、大型の真空チャンバーから空気を抜く。ゴゴゴポゴポという音が、しばらくするとコポコポと可愛い音を立て始める。
その時、研究室のドアが開いた。
「アリス、ちょっと手伝ってくれないか?」
両手に荷物をいっぱい抱えたボブが、扉を体で支えながら呼びかけてきた。
荷物を持ち直した時、白衣に銀髪がはらりと落ちる。
「何、これ?」
ボブから次々と品物が渡される。よく冷えたシャンパンに、ステンレス製のシャンパンクーラー。氷。クラッカーにチーズ、オリーブにキャビア。そしてシャンパングラスが3つ。私は、実験器具の散らばった中央のテーブルを片付け、渡された物を並べていった。
「これは、未来の僕へのプレゼントだ。もうすぐ未来の僕がくる」
ボブはそう言うと、腕時計を確認した。
「いよいよ、世紀の大実験が行われるぞ。ハァッハー! 未来からのタイムスリップだ! 明日、そう、まさしく明日のこの時間。僕は、いよいよ過去へのタイムスリップを試みる。やっと完成したんだ、過去へ戻るタイムマシンが」
そう言ってボブは、実験室の奥に置いてある姿見鏡のような実験装置を指差した。鏡ではないので姿は映らないが、湖面を切り取って立てかけたような、吸い込まれるような青藍せいらん色の表面に不思議な波紋が広がっていた。
「これって、未来へのタイムマシンじゃないの?」
私は、何度もこれでボブが未来へ行くのを見ているから不思議に思った。
「違う、違う。まあ、見た目はそれ程変わらないが、改良したんだよ。大幅にね」
改めてタイムマシンを眺めてみるが、前と変わったところは見受けられなかった。不思議な顔をボブに返す。
「そんなもんさ。だけど全然違う。未来にも過去にも行けるようにしたんだ。人生において、重要な事件が起きてそれまでの価値観がガラッと変わってしまうことってあるだろ。見た目は変わらないけど、自分が全く別物に変わってしまう。……そんなもんさ」
ボブは機嫌良く、皿を取り出しクラッカーを並べていく。
「明日、そう、まさしく明日のこの時間。僕は、いよいよ過去へのタイムスリップを試みる。明日の僕がもうすぐここにくるんだ。ワクワクが止まらないぞ。ハハハハハ」
私は、ボブのタイムマシンに向き直り、青藍(せいらん)の湖面に呟いてみた。
「そう。あなた、重要な事件が起きて別人になっちゃたの。大変ね。心中お察しします」
「……手伝ってくれ。アリス」
ボブがキャビアの入った瓶を開けながら呼びかけてきた。
「私、チョコレートが食べたい」
「チョコはない」
「……」
やっぱり、ボブは変態だ。そして、チョコも買ってくれない。
だけど、情熱的な変態だ。その情熱が時に重要な事件を起こす。
かつて私が、見ず知らずのボブに掛けられた第一声は「助手が欲しい」だった。しかも、両手を握られ、真っ直ぐに目を見て、いきなり声をかけられた。
裏庭の木陰に風が吹いて、ボブの銀髪がサラサラと風に揺れていた。
本来、決して合うことのないAとB、私アリスとボブは、あの日偶然会ってしまったのだ。
その日、私は裏庭の木陰に座りただ時間を潰していた。何も考えず時間をただプチプチと潰していく。退屈だったのだ、何もかもに。人生の川を下り切った私は虚無感の海に漂い、溶け込んでいた。波一つ立たず、波紋一つなく。ただ、ただ、何もなかった。そこには、私には。そんな虚無感の海に溶け込んでいた。
「助手が欲しい」
ふいに両手を握られ声をかけられた。ビックリして見上げると、ボブと目があった。その時のことはただただビックリしてあまり覚えていない。ただ、木陰に風が吹いて、ボブの銀髪がサラサラと風に揺れていた。
それから、何か物理や数学の事を話していたけど、何を言っているのかは分からなかった。ただ、必死に、でも楽しそうに話すその姿は、嫌な感じはしなかった。虚無感の海に、石が「ドボン」と投げ落とされ、波紋が広がっていく。
「フーリエキュウスウって知ってるかい?」
「……? 飲み物? おいしい?」
それから、ボブの授業が始まった。何ですかこれは? そして何故、フーリエキュウスウ? 私、文系ですけど。そんな私に関係なく、ボブの情熱的な授業が、訳も分からず進んでいく。サイン? コサイン? タンジェント? 波形の重ね合わせ? 分かりません。よし、ここまできたら。私が理解するのが早いか、ボブか私が諦めるのが早いか勝負だ。
それから情熱的に、何時間でもボブは教えてくれた。本気なのだ。それから、更に驚いたことに、私は三日三晩かかって「フーリエ級数」を理解した。私が一番ビックリしていた。私の中の何かが別物に変わった気がした。何故、フーリエ級数だったのかは、今でも分からない。「ラプラス変換」でも、「ベクトル解析」でも、あるいは物理「相対性理論」でも「素粒子論」「場の量子論」でも、なんでも良かったんだと思う。
ただ、新しい種が私の中に埋め込まれた気がしたのだった。
私は、そんなことを思い出しながら、クラッカーの上にチーズとオリーブを乗せて行った。あれから、私は古典的なタイムマシンを作れるまでになったのだ。変態のせいで、私も変人ぐらいにはなってしまったかもしれない。
「よし、準備は完璧だ。あと5分」
ボブが時計を確認し呟く。
「食べていい?」
「まだ、ダメだ」
「……ケチ」
「君はこの実験の重大さがわかっているのか? 量子テレポーテーションから2歩進み、虚数で表される力の次元をねじ曲げて作ったタイムマシン。エンタングルメントの関係にある2つの粒子、この二つはだね、どんなに離れていても……」
ボブの話はわからないけど、ボブが全てをかけて取り組んでいるタイムマシン。私には理解はできなくても、きっと重大なことが起こるのは分かる。世界を変えるような、革新的な。
やっぱり、ボブは変態だ。「物理学の」と一応付け加えておく。
そして、歴史的な変態だ。人類初。過去へのタイムスリップが、今、ここで、こんな辺鄙な研究室で行われようとしているのだ。
時計の針が進む。
ボブは意外と、ちょっとだけ、変態的にやさしい。
「意外と」と言う所を強調しておく。そしてとても不器用だ。
椅子に座ったボブは足と手を組み目を閉じていた。そんなボブを見つめながら、ある日の事を思い出した。
その時、ボブは手回しオルゴールっぽいものを作っていた。
「何、作ってるの?」
「ああー、これかい? これは、霊界との通信装置だ」
「ふーーーん」
この頃には、もう何も驚かなくなっていた。ボブなら本当に、きっと作ってしまう。
「なんだ、興味なしかい?」
「うん」
私はキッパリと返事をした。
「これだからアリスは…… いいかい。この研究がどれだけ大事なものか、君はわかっちゃいない」
「うん」
「はぁー、かのエジソンだって、テスラだって、人生の最後に取り組んだのは、この霊界通信なんだぞ」
「あ、そ」
「なぜだと思う?」
「なぜ?」
ボブはしばらく考えたあと、フフフフフと笑って何も答えなかった。
私が「おい!」って言う前にボブが口を開いた。
「まあ、それはいいとして、これは友達用だ。彼は先日、不慮の事故で両親を亡くしてね。ひどく落ちこんでいる。だから、両親の声を届けてやろうと思ったんだが……」
「ボブでも無理?」
「いや、もう霊界には繋いだ。ただ……」
ボブはそこで言葉を切って、手回しオルゴールのような装置を動かしはじめた。
すると、ゴゴゴゴゴーーーという爆音と共に、ギャーーーという悲鳴が幾重にも重なって聞こえてきた。
「なに? コレ?」
ボブが装置を止める。
「どうやら地獄に繋がってしまったようなんだ」
「……」
私はひとまず、悪いことをしないように気をつけようと思った。地獄には行きたくない。
「改良の余地あり! 次は天界につなぐ」
そう言うと彼は、立ち上がり部屋を出て行こうとする。
「どこいくの?」
「ひとまず彼の所に行ってくる。何か言ってくるよ。うーん。いい言葉は浮かばないんだけどね」
「そう」
きっと、また変な事を言うんだろうな。私に「助手が欲しい」って言ったように。そして物理の話を延々とするのだろう。
それがいいのか悪いのか?
……私には分からない。でも、これが変態的なボブの優しさ。
私にかけた言葉も、きっと……
ほんとはボブに助手なんていらない。それは、これまでのボブとの研究で良くわかった。ううん、研究じゃないな。私に出来る事なんて何もない。私はただ教えてもらうだけ。物理について教えてもらうだけ。
だから私は助手じゃない。助手になんてなれない。たぶんそれは、あの最初の日から、ボブも分かっていただろう。だけどたぶん、虚無感の海に漂って死んでいた私をほっておけなかったのだ。だからたぶん、あんな言葉を口にしたのだ。
「助手が欲しい」あの日の、ボブの言葉が、ずっと脳裏に響いている。
そう言うやつなのだ。
ボブは優しい、だけどボブは物理学の変態なのだ。言う事、やる事、的外れではあるけども、だけど優しいのだ。
だから、そんなボブを許してやって欲しい。
ポチャン……
水滴の落ちる音が響き、不意にタイムマシーンの湖面がさざなみ光出した。
未来のボブが現れる。もうすぐだ。
「実験前のドキドキ」
足を組んで座っているボブが呟いた。目をとじ、額をコツコツと叩いている。
「そして、実験前夜のワクワク。僕はこの時間が一番好きだ。また一つ世の理を解き明かす。それが、成功するのかどうか? いや成功か失敗かなんかより、この希望の揺れ動く不安定な時間が、僕は好きなんだ。人生をかけた実験の成功よりも、実はこの高揚感を求める為に実験してるんじゃないかとさえ思ってしまう。あーーーー。きた」
そー言って、髪をかきむしるボブ。
「他のものだってそうだろ。旅行前の計画、御馳走を食べる前の「いただきます」、遠足前のお菓子選び、お弁当箱のエビフライ、コンテスト発表前の緊張。あー、ドキドキする。ドキドキが止まらない。ドキ、ドキ、ドキ、ドキ、……ハァ、ハァ、今晩は寝れるだろうか?」
ボブが、物理以外のものを口走っている!
興奮している。鎮めなきゃ。
私は彼の唇に人差し指をそっと添えて黙らせた。
「シッ」
アナログ時計の秒針だけが、冷えた研究室の中で音を立てる。
カチ、カチ、カチと1秒の永遠とわが時を刻む。
ボブと目が合い、瞬きをするまでのわずかの時間が、ぐにゃりと曲がり伸びて静止した。
ドキドキしている。
わかるよ。ドキドキしている。
心臓が飛び出して踊りそう。
ドドドドドドドーーーーー!!
いきなり止まった時間を切り裂き爆音が轟いた。タイムマシンの湖面が光り、手が飛び出してくる。
こちらのボブは興奮を取り戻し、私の手を払い退けると、立ち上がって「きたー!」と雄叫びをあげた。
私は払い除けられた手を見て、フッとため息をついた。
やっぱり、ボブは変態だ。「物理学の」と一応付け加えておく。
そして、ボブはバカだ。
バーカ! バーカ! バーカ!
その後、湖面から『ポチャンポチャン』と不思議な音がしたかと思うと、未来からやってきたボブは、あまりに自然にスッと出てきた。そしてそのままテーブルにスタスタ近づき、何事も無かったようにシャンパンを開けると、3つのグラスに注ぎ始めた。
「さ、飲もう」
そう言うと彼は、キャビアの乗ったクラッカーを食べ、シャンパンを飲む。
私と、こっちのボブは、彼のあまりに普通な振る舞いを、ただ唖然として眺めていた。
「ボブ?」
私の呼びかけに、二人のボブが顔を向ける。
「成功?」
未来のボブがシャンパンを飲み干してから答える。
「成功だ」
「そう。なんか普通だね?」
「うん、結果を知っているからね」
そう言うと、未来のボブは、そそくさとタイムマシンに戻り、パネルを操作した。
「じゃ、帰るよ。明日、実験よろしくね。もう成功するってわかってるけど」
「ファーーーー」
とこっちのボブが悲鳴のような、ため息のような、よく分からない声を出した。
「あ、そうそう。大事なものを忘れてた」
と言って未来のボブが戻ってくる。そして、「はい」と言って小さな包みを手のひらに乗せてくれた。ボブらしからぬ、かわいい巾着の包紙にリボンが付いている。
「なに?」
「あけてくれないか」
リボンをほどいて中をのぞくと、光沢ある赤や青などカラフルな包装紙に包まれた、丸い塊がいくつかあった。
「食べてみてくれ」
「私が?」
「助手だろ。これは世界で初めて時空を超えた食べ物。今まで食べ物をタイムマシーンで運んだことはなかった。世界初だ」
中から取り出した丸い包が、手のひらで『コロン』と可愛く転がる。青い包みを開き、出てきた茶色い光沢ある食べ物。甘く香るカカオの香り。そう、チョコレートだ。
ボブがうなずく。
私は口に放り込んだ。少しビターなチョコレート。口の中で固まっていた時間が優しくとろけていく。
「おいしい」
「良かった。実験成功だ。ありがとう、助かったよ」
そう言うと、未来のボブはちょっとだけ表情を崩して笑った。
「じゃ、戻るよ」
未来のボブ。彼はそのまま、普通に明日へ帰って行った。
こっちのボブは固まっている。
「どうしたの? 成功したんじゃないの」
「うん。成功だ。成功するんだ ……そうか、成功するのか ……だが、しかし。明日の実験の結果を……」
「嬉しくないの?」
「嬉しいが。この成功は、この実験の終わりを意味する。そして、結果を知ってしまった」
「……」
「……ワクワクもドキドキも ……終わってしまった、と言う事だ」
ボブはガックリを肩を落とすと、亡霊のように立ち上がった。
「テーブルの上は、明日片付けるよ。今日はドキドキが無くなったショックで、もう何もする気がしない」
そう言ってボブは力なく扉を開け、消えていった。
「バーカ」と私は小さく呟いた。
やっぱり、ボブは変態だ。「物理学の」と一応付け加えておく。
そして最後に付け加えるならば、ボブは過去からやって来た過去人だ。実験が成功したら、過去に帰ってしまうかもしれない。
私が初めて研究室に来た日。未来へ行けるタイムマシンはもうすでにあった。そして、何度も未来にいくボブを見ている。1日だけだけど、明日へ行くボブを何度も見ている。何度も何度も何度も何度も。だから彼は、本当は、かなり昔の人なのだ。そうやって何度も私の時間から彼は消える。
それに、そんな彼が、もっと昔に帰る実験に成功したら、元いた時間に帰ってしまうんじゃないだろうかと心配してしまう。
一度ボブに聞いたことがある。
「ボブはいつか過去に帰るの?」
「それは。……まだ考えてない、が」
はっきりとは答えてくれなかった。
ブザーが「ビーーーー」となった。
真空状態が完了したのだ。私は私の自分の実験準備をやらなくちゃ。
私は中の装置とマイクの電源を入れ、緑色のランプが着くのを静かに待った。待ってる間に、未来のボブが持ってきてくれたチョコレートをもう一つ食べる。今度はちょっとナッツ風味のチョコレート。やっぱり美味しい。
やがて緑のランプが付いたのを確認して、私は話し始めた。
「ボブ。成功、おめでとう。それから、チョコレート、ありがとう」
そこで私は一呼吸置いて目を閉じた。
「ねえ、今度のタイムスリップは私も連れてって。過去でも未来でも霊界でも地獄でも天界でも、世界の果てでも、どこでもいい。連れて行って欲しい。いつも一緒に同じ時間、永遠でも、一瞬でも、一緒に。……一緒に、いたいから。だから、連れてって。離れたくないの ……連れてって」
深呼吸する。
「だって助手でしょ私。そして……好きだよ。ボブ」
ゆっくりとマイクを止めて、実験装置の電源を切った。私の声はフレッシュに明日届くはずだ。
うまく行けば。
ボブのいう実験前のドキドキがわかって、フっと鼻で笑ってしまう。
私の本番、そして結果は、明日。
それまでは、このドキドキを楽しもう。
Fin
いや、これでは流石に言葉足らずでボブに悪いか。
ボブは物理学の変態だ。変人ではない、変人のさらに上の上の上に位置する、紛れもない変態だ。……ただ、「物理学の」と一応付け加えておく。
私はアリス。真空チャンバーにイオンポンプを繋ぎ、実験装置の組み立てをしながら、そんな事を考えていた。大学の研究室。旧校舎の端の端の端にひっそり隠れた研究室で、私はタイムマシンを作っている。タイムマシンと言っても、そんなたいそれたものではなく音声情報を未来に飛ばすだけの装置だけど、一応時間の流れを変えるのでタイムマシンと言って間違いではないと思う。
ボブに言わせると、未来へのタイムマシンは至極簡単と言うけれど、私にはこれが限界。相対性理論の一部を活用した、ゴテゴテのDIY的装置。
液体窒素を使って装置を冷やし、超電動状態を作り出す。さらに装置を真空チャンバーの中に装填し、空気抵抗も排除する。その中で寸胴のコマのような回転体を高速で回し、さらにそれを幾重にも幾重にも重ね更に回し光速に近づけていく。近づけるといっても光速に近づくとどんどん重くなるから、物理的に光速には遥かに及ばないんだけどね。
そしてその中に格納する超小型の特殊な通信装置が重要で、情報を載せた電子を極小電子銃から発射させたり、磁力を使って電子の起動を曲げて回転させたりしながら、「電子内の情報」と「周りの世界」にタイムラグを生み出すのだ。この重要な部分は、結局ボブが作ったものなんだけどさ。
ま、これで一応、情報がタイムマシンに乗って未来に届く。私の計算が正しければ、今喋ったことが、ちょうど明日の今の時間に届くはず。注意して言っておくけど、情報が長い伝達経路を通って遅延して届くわけじゃないからね。電子内の情報は一瞬で伝わるけど、その一瞬が、電子外、私たちの世界の1日分の時間に値するの。
わかりやすく言うと、卒業式なんかでタイムマシンだと言って、グランドに宝箱を埋めた事ない?
想像してみて。あれは、あの箱の中も私たちと同じ時間が流れているから、生ものなんて入れたら、大変な事になっちゃうけど。今、私が作っているタイムマシンでは、あの箱の中の時間は一瞬、だから私の好きな、あったかいコーヒーを入れて何十年後かに開けたとしても、あったかいまま美味しく飲めるっていう事。
ま、実際は、このタイムマシンでは音声情報を明日へ1日飛ばすのが精一杯だけど。
フレッシュ!! これが重要。
原理はどうだっていい。「フレッシュな言葉が届く」と言う事が重要。
私は、装置の組み立てが終わり、一息ついた。改めてこの装置を見る。なんてアナログなんだろう。フーとため息がでる。私は、このゴテゴテとした不格好な装置の見た目が気に入らなかった。でも、文系の私にはこれが限界。
そう、私、文系なんだけどな。何、やってんだろう。
ま、だから、さ、原理が分からなければ、それはそれで良いのだ。「私、文系ですから!」と胸を張って言えばいい。さ、さ、ここまでチンプンカンプンな方は、是非一緒に言ってみて「私、文系ですから!」って。
秋も深まり寒くなった。日が落ちると、このオンボロ研究室は特に冷え込む。困ったもんだ。
そして、あったかいコーヒーが美味しい。私は「困ったもんだ」と呟いて、3杯目のコーヒーを淹れに行った。白衣の下に薄手のセータを着込む。これからまたグッと冷え込んでくるだろう。
私はコーヒーを飲みながら考えた。
ボブは変態だ。「物理学の」と一応付け加えておく。そして、ボブはカッコいい。見た目だけは。たぶん。好みにもよるけど。
ボブは銀色の長髪に、薄い褐色の瞳。細身のすらりとした格好が、中世ヨーロッパの王侯貴族を思わせる。そして、彼の名前がなぜボブなのか? それは永遠の謎だ。
重ねて言うが、格好いいのは見た目だけだ。そして、私の好みではない。……と思う。
私の格好はどうだろう。背は低い。茶色い髪に青い瞳。あ、そうだ。私アリスだった。そうそう、不思議の国のアリスみたいって、ちょっと言われる。もう、大学生なのに。いいのか悪いのか、ちょっと悩む。そして私の名前が何故アリスなのか? それも永遠の謎だ。
「あーあー、マイクテスト、マイクテスト」
私はタイムマシンに連動しているマイクに話しかけた。よし、こっちも大丈夫。このマイクで喋った言葉が、時を超えて明日へ届くのだ。録音でもなく、遅延でもなく、フレッシュで。
イオンポンプの電源を入れ、大型の真空チャンバーから空気を抜く。ゴゴゴポゴポという音が、しばらくするとコポコポと可愛い音を立て始める。
その時、研究室のドアが開いた。
「アリス、ちょっと手伝ってくれないか?」
両手に荷物をいっぱい抱えたボブが、扉を体で支えながら呼びかけてきた。
荷物を持ち直した時、白衣に銀髪がはらりと落ちる。
「何、これ?」
ボブから次々と品物が渡される。よく冷えたシャンパンに、ステンレス製のシャンパンクーラー。氷。クラッカーにチーズ、オリーブにキャビア。そしてシャンパングラスが3つ。私は、実験器具の散らばった中央のテーブルを片付け、渡された物を並べていった。
「これは、未来の僕へのプレゼントだ。もうすぐ未来の僕がくる」
ボブはそう言うと、腕時計を確認した。
「いよいよ、世紀の大実験が行われるぞ。ハァッハー! 未来からのタイムスリップだ! 明日、そう、まさしく明日のこの時間。僕は、いよいよ過去へのタイムスリップを試みる。やっと完成したんだ、過去へ戻るタイムマシンが」
そう言ってボブは、実験室の奥に置いてある姿見鏡のような実験装置を指差した。鏡ではないので姿は映らないが、湖面を切り取って立てかけたような、吸い込まれるような青藍せいらん色の表面に不思議な波紋が広がっていた。
「これって、未来へのタイムマシンじゃないの?」
私は、何度もこれでボブが未来へ行くのを見ているから不思議に思った。
「違う、違う。まあ、見た目はそれ程変わらないが、改良したんだよ。大幅にね」
改めてタイムマシンを眺めてみるが、前と変わったところは見受けられなかった。不思議な顔をボブに返す。
「そんなもんさ。だけど全然違う。未来にも過去にも行けるようにしたんだ。人生において、重要な事件が起きてそれまでの価値観がガラッと変わってしまうことってあるだろ。見た目は変わらないけど、自分が全く別物に変わってしまう。……そんなもんさ」
ボブは機嫌良く、皿を取り出しクラッカーを並べていく。
「明日、そう、まさしく明日のこの時間。僕は、いよいよ過去へのタイムスリップを試みる。明日の僕がもうすぐここにくるんだ。ワクワクが止まらないぞ。ハハハハハ」
私は、ボブのタイムマシンに向き直り、青藍(せいらん)の湖面に呟いてみた。
「そう。あなた、重要な事件が起きて別人になっちゃたの。大変ね。心中お察しします」
「……手伝ってくれ。アリス」
ボブがキャビアの入った瓶を開けながら呼びかけてきた。
「私、チョコレートが食べたい」
「チョコはない」
「……」
やっぱり、ボブは変態だ。そして、チョコも買ってくれない。
だけど、情熱的な変態だ。その情熱が時に重要な事件を起こす。
かつて私が、見ず知らずのボブに掛けられた第一声は「助手が欲しい」だった。しかも、両手を握られ、真っ直ぐに目を見て、いきなり声をかけられた。
裏庭の木陰に風が吹いて、ボブの銀髪がサラサラと風に揺れていた。
本来、決して合うことのないAとB、私アリスとボブは、あの日偶然会ってしまったのだ。
その日、私は裏庭の木陰に座りただ時間を潰していた。何も考えず時間をただプチプチと潰していく。退屈だったのだ、何もかもに。人生の川を下り切った私は虚無感の海に漂い、溶け込んでいた。波一つ立たず、波紋一つなく。ただ、ただ、何もなかった。そこには、私には。そんな虚無感の海に溶け込んでいた。
「助手が欲しい」
ふいに両手を握られ声をかけられた。ビックリして見上げると、ボブと目があった。その時のことはただただビックリしてあまり覚えていない。ただ、木陰に風が吹いて、ボブの銀髪がサラサラと風に揺れていた。
それから、何か物理や数学の事を話していたけど、何を言っているのかは分からなかった。ただ、必死に、でも楽しそうに話すその姿は、嫌な感じはしなかった。虚無感の海に、石が「ドボン」と投げ落とされ、波紋が広がっていく。
「フーリエキュウスウって知ってるかい?」
「……? 飲み物? おいしい?」
それから、ボブの授業が始まった。何ですかこれは? そして何故、フーリエキュウスウ? 私、文系ですけど。そんな私に関係なく、ボブの情熱的な授業が、訳も分からず進んでいく。サイン? コサイン? タンジェント? 波形の重ね合わせ? 分かりません。よし、ここまできたら。私が理解するのが早いか、ボブか私が諦めるのが早いか勝負だ。
それから情熱的に、何時間でもボブは教えてくれた。本気なのだ。それから、更に驚いたことに、私は三日三晩かかって「フーリエ級数」を理解した。私が一番ビックリしていた。私の中の何かが別物に変わった気がした。何故、フーリエ級数だったのかは、今でも分からない。「ラプラス変換」でも、「ベクトル解析」でも、あるいは物理「相対性理論」でも「素粒子論」「場の量子論」でも、なんでも良かったんだと思う。
ただ、新しい種が私の中に埋め込まれた気がしたのだった。
私は、そんなことを思い出しながら、クラッカーの上にチーズとオリーブを乗せて行った。あれから、私は古典的なタイムマシンを作れるまでになったのだ。変態のせいで、私も変人ぐらいにはなってしまったかもしれない。
「よし、準備は完璧だ。あと5分」
ボブが時計を確認し呟く。
「食べていい?」
「まだ、ダメだ」
「……ケチ」
「君はこの実験の重大さがわかっているのか? 量子テレポーテーションから2歩進み、虚数で表される力の次元をねじ曲げて作ったタイムマシン。エンタングルメントの関係にある2つの粒子、この二つはだね、どんなに離れていても……」
ボブの話はわからないけど、ボブが全てをかけて取り組んでいるタイムマシン。私には理解はできなくても、きっと重大なことが起こるのは分かる。世界を変えるような、革新的な。
やっぱり、ボブは変態だ。「物理学の」と一応付け加えておく。
そして、歴史的な変態だ。人類初。過去へのタイムスリップが、今、ここで、こんな辺鄙な研究室で行われようとしているのだ。
時計の針が進む。
ボブは意外と、ちょっとだけ、変態的にやさしい。
「意外と」と言う所を強調しておく。そしてとても不器用だ。
椅子に座ったボブは足と手を組み目を閉じていた。そんなボブを見つめながら、ある日の事を思い出した。
その時、ボブは手回しオルゴールっぽいものを作っていた。
「何、作ってるの?」
「ああー、これかい? これは、霊界との通信装置だ」
「ふーーーん」
この頃には、もう何も驚かなくなっていた。ボブなら本当に、きっと作ってしまう。
「なんだ、興味なしかい?」
「うん」
私はキッパリと返事をした。
「これだからアリスは…… いいかい。この研究がどれだけ大事なものか、君はわかっちゃいない」
「うん」
「はぁー、かのエジソンだって、テスラだって、人生の最後に取り組んだのは、この霊界通信なんだぞ」
「あ、そ」
「なぜだと思う?」
「なぜ?」
ボブはしばらく考えたあと、フフフフフと笑って何も答えなかった。
私が「おい!」って言う前にボブが口を開いた。
「まあ、それはいいとして、これは友達用だ。彼は先日、不慮の事故で両親を亡くしてね。ひどく落ちこんでいる。だから、両親の声を届けてやろうと思ったんだが……」
「ボブでも無理?」
「いや、もう霊界には繋いだ。ただ……」
ボブはそこで言葉を切って、手回しオルゴールのような装置を動かしはじめた。
すると、ゴゴゴゴゴーーーという爆音と共に、ギャーーーという悲鳴が幾重にも重なって聞こえてきた。
「なに? コレ?」
ボブが装置を止める。
「どうやら地獄に繋がってしまったようなんだ」
「……」
私はひとまず、悪いことをしないように気をつけようと思った。地獄には行きたくない。
「改良の余地あり! 次は天界につなぐ」
そう言うと彼は、立ち上がり部屋を出て行こうとする。
「どこいくの?」
「ひとまず彼の所に行ってくる。何か言ってくるよ。うーん。いい言葉は浮かばないんだけどね」
「そう」
きっと、また変な事を言うんだろうな。私に「助手が欲しい」って言ったように。そして物理の話を延々とするのだろう。
それがいいのか悪いのか?
……私には分からない。でも、これが変態的なボブの優しさ。
私にかけた言葉も、きっと……
ほんとはボブに助手なんていらない。それは、これまでのボブとの研究で良くわかった。ううん、研究じゃないな。私に出来る事なんて何もない。私はただ教えてもらうだけ。物理について教えてもらうだけ。
だから私は助手じゃない。助手になんてなれない。たぶんそれは、あの最初の日から、ボブも分かっていただろう。だけどたぶん、虚無感の海に漂って死んでいた私をほっておけなかったのだ。だからたぶん、あんな言葉を口にしたのだ。
「助手が欲しい」あの日の、ボブの言葉が、ずっと脳裏に響いている。
そう言うやつなのだ。
ボブは優しい、だけどボブは物理学の変態なのだ。言う事、やる事、的外れではあるけども、だけど優しいのだ。
だから、そんなボブを許してやって欲しい。
ポチャン……
水滴の落ちる音が響き、不意にタイムマシーンの湖面がさざなみ光出した。
未来のボブが現れる。もうすぐだ。
「実験前のドキドキ」
足を組んで座っているボブが呟いた。目をとじ、額をコツコツと叩いている。
「そして、実験前夜のワクワク。僕はこの時間が一番好きだ。また一つ世の理を解き明かす。それが、成功するのかどうか? いや成功か失敗かなんかより、この希望の揺れ動く不安定な時間が、僕は好きなんだ。人生をかけた実験の成功よりも、実はこの高揚感を求める為に実験してるんじゃないかとさえ思ってしまう。あーーーー。きた」
そー言って、髪をかきむしるボブ。
「他のものだってそうだろ。旅行前の計画、御馳走を食べる前の「いただきます」、遠足前のお菓子選び、お弁当箱のエビフライ、コンテスト発表前の緊張。あー、ドキドキする。ドキドキが止まらない。ドキ、ドキ、ドキ、ドキ、……ハァ、ハァ、今晩は寝れるだろうか?」
ボブが、物理以外のものを口走っている!
興奮している。鎮めなきゃ。
私は彼の唇に人差し指をそっと添えて黙らせた。
「シッ」
アナログ時計の秒針だけが、冷えた研究室の中で音を立てる。
カチ、カチ、カチと1秒の永遠とわが時を刻む。
ボブと目が合い、瞬きをするまでのわずかの時間が、ぐにゃりと曲がり伸びて静止した。
ドキドキしている。
わかるよ。ドキドキしている。
心臓が飛び出して踊りそう。
ドドドドドドドーーーーー!!
いきなり止まった時間を切り裂き爆音が轟いた。タイムマシンの湖面が光り、手が飛び出してくる。
こちらのボブは興奮を取り戻し、私の手を払い退けると、立ち上がって「きたー!」と雄叫びをあげた。
私は払い除けられた手を見て、フッとため息をついた。
やっぱり、ボブは変態だ。「物理学の」と一応付け加えておく。
そして、ボブはバカだ。
バーカ! バーカ! バーカ!
その後、湖面から『ポチャンポチャン』と不思議な音がしたかと思うと、未来からやってきたボブは、あまりに自然にスッと出てきた。そしてそのままテーブルにスタスタ近づき、何事も無かったようにシャンパンを開けると、3つのグラスに注ぎ始めた。
「さ、飲もう」
そう言うと彼は、キャビアの乗ったクラッカーを食べ、シャンパンを飲む。
私と、こっちのボブは、彼のあまりに普通な振る舞いを、ただ唖然として眺めていた。
「ボブ?」
私の呼びかけに、二人のボブが顔を向ける。
「成功?」
未来のボブがシャンパンを飲み干してから答える。
「成功だ」
「そう。なんか普通だね?」
「うん、結果を知っているからね」
そう言うと、未来のボブは、そそくさとタイムマシンに戻り、パネルを操作した。
「じゃ、帰るよ。明日、実験よろしくね。もう成功するってわかってるけど」
「ファーーーー」
とこっちのボブが悲鳴のような、ため息のような、よく分からない声を出した。
「あ、そうそう。大事なものを忘れてた」
と言って未来のボブが戻ってくる。そして、「はい」と言って小さな包みを手のひらに乗せてくれた。ボブらしからぬ、かわいい巾着の包紙にリボンが付いている。
「なに?」
「あけてくれないか」
リボンをほどいて中をのぞくと、光沢ある赤や青などカラフルな包装紙に包まれた、丸い塊がいくつかあった。
「食べてみてくれ」
「私が?」
「助手だろ。これは世界で初めて時空を超えた食べ物。今まで食べ物をタイムマシーンで運んだことはなかった。世界初だ」
中から取り出した丸い包が、手のひらで『コロン』と可愛く転がる。青い包みを開き、出てきた茶色い光沢ある食べ物。甘く香るカカオの香り。そう、チョコレートだ。
ボブがうなずく。
私は口に放り込んだ。少しビターなチョコレート。口の中で固まっていた時間が優しくとろけていく。
「おいしい」
「良かった。実験成功だ。ありがとう、助かったよ」
そう言うと、未来のボブはちょっとだけ表情を崩して笑った。
「じゃ、戻るよ」
未来のボブ。彼はそのまま、普通に明日へ帰って行った。
こっちのボブは固まっている。
「どうしたの? 成功したんじゃないの」
「うん。成功だ。成功するんだ ……そうか、成功するのか ……だが、しかし。明日の実験の結果を……」
「嬉しくないの?」
「嬉しいが。この成功は、この実験の終わりを意味する。そして、結果を知ってしまった」
「……」
「……ワクワクもドキドキも ……終わってしまった、と言う事だ」
ボブはガックリを肩を落とすと、亡霊のように立ち上がった。
「テーブルの上は、明日片付けるよ。今日はドキドキが無くなったショックで、もう何もする気がしない」
そう言ってボブは力なく扉を開け、消えていった。
「バーカ」と私は小さく呟いた。
やっぱり、ボブは変態だ。「物理学の」と一応付け加えておく。
そして最後に付け加えるならば、ボブは過去からやって来た過去人だ。実験が成功したら、過去に帰ってしまうかもしれない。
私が初めて研究室に来た日。未来へ行けるタイムマシンはもうすでにあった。そして、何度も未来にいくボブを見ている。1日だけだけど、明日へ行くボブを何度も見ている。何度も何度も何度も何度も。だから彼は、本当は、かなり昔の人なのだ。そうやって何度も私の時間から彼は消える。
それに、そんな彼が、もっと昔に帰る実験に成功したら、元いた時間に帰ってしまうんじゃないだろうかと心配してしまう。
一度ボブに聞いたことがある。
「ボブはいつか過去に帰るの?」
「それは。……まだ考えてない、が」
はっきりとは答えてくれなかった。
ブザーが「ビーーーー」となった。
真空状態が完了したのだ。私は私の自分の実験準備をやらなくちゃ。
私は中の装置とマイクの電源を入れ、緑色のランプが着くのを静かに待った。待ってる間に、未来のボブが持ってきてくれたチョコレートをもう一つ食べる。今度はちょっとナッツ風味のチョコレート。やっぱり美味しい。
やがて緑のランプが付いたのを確認して、私は話し始めた。
「ボブ。成功、おめでとう。それから、チョコレート、ありがとう」
そこで私は一呼吸置いて目を閉じた。
「ねえ、今度のタイムスリップは私も連れてって。過去でも未来でも霊界でも地獄でも天界でも、世界の果てでも、どこでもいい。連れて行って欲しい。いつも一緒に同じ時間、永遠でも、一瞬でも、一緒に。……一緒に、いたいから。だから、連れてって。離れたくないの ……連れてって」
深呼吸する。
「だって助手でしょ私。そして……好きだよ。ボブ」
ゆっくりとマイクを止めて、実験装置の電源を切った。私の声はフレッシュに明日届くはずだ。
うまく行けば。
ボブのいう実験前のドキドキがわかって、フっと鼻で笑ってしまう。
私の本番、そして結果は、明日。
それまでは、このドキドキを楽しもう。
Fin