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 翌日の放課後、音楽室に入ると、クララはピアノの前にちょこんと座りながら「どうだった?」と聞いてきた。けど、その声はどこにも何も疑問に思っている節がない。あぁ、クララは記憶を取り戻したんだなってことがすぐに理解出来た。


「ある女の子の話を聞いてくれる? どこにでもいるような女の子の話なんだけど」そう前置きをしながら、クララはピアノを弾き始めた。僕が先日演奏したリストの『ラ・カンパネラ』を僕以上にうまく、表現力豊かに弾きこなす。


「同年代の音楽家を目指す子の中でもね、とびっきり素敵な音色を奏でる男の子に出会ったの。出会ったっていっても、一方的にだけどね? その男の子は『神童』って呼ばれるくらい有名人で、色んな国内のコンテストで優勝しちゃうようなすっごい人。雑誌とかテレビのメディアでも特集されるくらいに。最初はね、興味本位だったの。もてはやされてるその男の子の演奏は、どんなもんなのかなって。だけど、聞いた瞬間圧倒された。本物だって思った。それから、その男の子のファンになって、追いつきたいって気持ちが出てきた。負けてられないって。その男の子はどんどん飛躍していって、遂には国際コンクールで優勝しちゃったの。ニュースをみた時、私も自分のことのように飛び跳ねて喜んだな。だけどね、その男の子、それ以来ヴァイオリンから離れちゃったんだよね。私はその男の子じゃないから本当の気持ちまでは分からないけど、きっと心が少し疲れちゃったんだなって思った。それでも、私はその男の子の音が好きだから、いつか共演出来るようなピアニストを目指そうって。協奏曲を一緒に奏でたいって願いを込めながら毎日練習に励んだ」歌うように言葉を吐いていたクララはそこで黙ると同時にピアノの演奏も中断した。室内が静寂に包まれる。クララは僕の方に視線をやると、こらえきれないといった感じで涙をこぼし始めた。


「こわいの」クララはそう一言言うと、次々涙を流す。


「凛大朗がヴァイオリンをまた弾く気になってくれたのはとっても嬉しい。それも、私がきっかけだってことも。きっと、憧れの凛大朗のヴァイオリンと協奏曲を演奏出来たら、私は体に戻れるんだと思う。分かってる。理解してる。だって私の体がそう告げてくるんだもの。けど、体に戻れば、今までこの音楽室で、二人で過ごした記憶が消えてしまうかもしれない。それが、こわい」


 僕が手に持っているヴァイオリンケースを見つめながら、クララは叫ぶように言葉を発した。


 それに対して、僕は「なくならないよ」と静かに断言する。


「一華が僕を見つけてくれたように、もし一華がこの音楽室での記憶を失っても、今度は僕が一華を見つけてみせる」僕の言葉に一華は目を見張る。久しぶりに調弦したヴァイオリンを手にして、「『別れの曲』は弾かないよ」と静かに微笑むと、一華もやっと泣き止んでくれた。


「じゃあ、リストの『愛の夢 第三番』でいい? 私の一番好きな曲」と言って泣き笑いのような顔で鍵盤に手を乗せる。二人で合図を取り合って演奏を始めると、一華の儚く美しい音色に心を持って行かれそうになる。一華へ僕の想いが伝わるように、これまでの楽しい時間に浸るように夢中で演奏していると、徐々に一華の体が光を帯びて薄く透けて消えていくのが見えた。



 そうして演奏が終わった時、音楽室には僕一人の姿しかなかった。