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 僕は彼女のことをクララ、と呼んでいる。クララは自身の名前を覚えていない、というので便宜上呼び名に困った僕は、僕の好きな女性ピアニスト「クララ・シューマン」から名前を拝借した。クララ自身もその命名を気に入っているみたいで、僕がクララと呼ぶ度に顔が少しほころぶ。クララはいつからかこの音楽室で住み着くようになった幽霊で、僕は「この美しいピアノは誰が弾いているんだろう?」と気になって音楽室へ入り、クララと出会った。最初こそ、その非科学的な存在に腰が抜けるほどびっくりしたものだけれど、いきなり「あなた、私のことみえるの? こわくないの? やったぁ! 一人で寂しかったんだよね。ねぇねぇ、見てよ、私が着てるワンピース。なんで幽霊って白いワンピースがデフォルトなんだろうね。あははっ」なんて満面の笑みで言う女の子の笑顔に僕は一目惚れをした。幽霊に恋だなんて我ながら不毛なことをしていると思うけど、「ねぇ、凛大朗、今日は何を弾いてくれるの?」そうキラキラとした目で見つめてくるクララがやっぱり僕はどうしたって好きだ。



「そうだな。フランツ・リストの『ラ・カンパネラ』にしようかな」そう言いながら鍵盤の前に座り、軽く指慣らしをしていると、クララもピアノの近くにきて、僕が奏でる音に反応してうっとりとした顔を見せる。青空から降りそそぐ太陽光を受けて、その表情はよりあたたかく感じる。



「凛大朗の奏でる音は、世界一きれいな音色だよね」それは僕にとって、クララからの最上級の褒め言葉だ。ぐっと感情を込めて導入部分を弾き始めると、クララは目を閉じて僕が演奏するピアノを全身で浴びるように神経を研ぎ澄ませて聞き入る。両手を耳に寄せて、時にはメロディに乗せて体を揺らして。その姿を見られるのが嬉しくて、その姿が見たくて、僕は今日もピアノを弾く。クララに捧げて。そういう毎日が続いてきたし、これからもずっと続くものだと思ってた。