退屈な授業が終わると同時に、僕は教室を飛び出し音楽室へ向かう。それはこの校舎にある素敵なグランドピアノに惹かれているためであり、そこに住み着く陽気で可愛らしい幽霊に会うためでもある。



 二ヶ月前に僕はこの学校の特進科に転校してきた。母方の祖父母の家で暮らすことを望んだのは、環境を変えたかったからだ。僕に過干渉気味な母親へ勇気を出して「もう、ヴァイオリンは弾きたくない」と最初こぼした時、母親は顔色を変えず「何を言っているの? 冗談なんて凛大朗(りんたろう)らしくないわね」と本気にしていなかった。だけど、僕が毎日弾いていたヴァイオリンを弾くのをやめ、練習やレッスンをサボり、家出まがいのことを繰り返して初めて僕の言葉を信じ出した。次に始まったのは「凛大朗は特別な子なのよ? 神様から選ばれたの。もちろん、凛大朗が努力しているのも分かっているわよ? けど、努力だけでは国際コンクールで最年少優勝なんて出来やしないの。神様から与えられた特別な才能よ?」という、諭しだった。僕に言い聞かせるように、そう唱え続ける母親も色々限界だったのかもしれない。


 でも、僕はもう疲れ果ててしまったんだ。ヴァイオリンは自由に自己表現出来る手段だったはずなのに、いつしか競争に勝つため奏でる自分の音が、ひどく醜く、歪なものだと感じるようになってしまった。そんな演奏をする自分のこともどんどん嫌になってしまった。「おじいちゃんとおばあちゃんの家で暮らしたい。今の学校も転校したい」ヴァイオリンに触れなくなってそう言い出した僕に、母親はもう何も言わなかった。淡々と転校の事務手続きや荷造りの手伝いをしてくれ、僕の出発を見送ってくれた。


 そうして僕は音大付属で中高一貫の、音楽のエリートばかりが集まった学校から、祖父母の家から通える私立へと転校してきた。音楽科のある学校を選んだのは母親の最後の執念かもしれない。だけど、僕の転入先を音楽科ではなく、特進科にしてくれたのは、母親の優しさで愛情だろう。