その日、ここにやって来たのはランドセルを背負った里村航平(さとむらこうへい)だった。周りを気にしながら少しおどおどしていた。人が来ない寂しげな雑木林で、自分で踏んだ折れた小枝の音にもびくっとしている。何かただならぬ気配がするのだろう。まるで幽霊が出たらどうしようと怖がっている様子だった。
 それでも勇気を出して奥へと一歩一歩落ち葉を踏んで進んでいく。足元はまるで絨毯(じゅうたん)を敷いたように赤や黄色の葉っぱが広がっていた。
 かつてここには歴史的にも立派なお屋敷が建っていて、航平が生まれるよりもずっと以前に老朽ですでに取り壊されていた。
 時々、犬の散歩をさせる人がやって来るくらいで、わざわざ何もないようなところに小学生がやってくるのは珍しい。でも航平は辺りを見回して何かを探して歩いていた。
 そのうち静かな場所に声が響く。
「あった! お父さんの言ったとおりだ」
 航平はそれを見つけるや否や走り出した。
 そして目の前に現れたものに一目散に手を合わせる。
 それは小さなおんぼろの祠だった。ぽつんと太い木の隣で忘れ去られたように建っていた。
 かつてここに住んでいたものが祀った屋敷神だ。航平はその前に立ってブツブツと唱えた。
石束帆波(いしづかほなみ)といつか結婚できますように」
 小学生が結婚を願うなんてまだ早すぎる。
 そんな無茶な願いに呆れたかのように、木の枝に止まっていたカラスが飛び立って「カァー」と一鳴きした。
 航平はハッとして我に返ると、急に怖くなって一目散に来た道を走って戻っていく。
 願いをするために必死でここまでやってきて、願ったとたんに恐れをなして逃げていく。
 宙を舞っていたカラスはふわっと祠の屋根に止まり、その様子を冷ややかに見ていた。供え物がなかったことに不満げで何度も繰り返し鳴いていた。
 カラスの鳴き声を背中で受け、航平はお参りしに来たことが怖くなっていた。噂では呪われるかもしれないと言い伝えられ、以前祠の近くに住んでいたお屋敷の人も祟られたなど好き勝手に言われているようないわくつきの場所だ。でも航平の父だけはその祠に祈れば願いが叶うと頑なに言っていた。それを航平は思い出しやって来たという訳だった。
 やっと雑木林を抜け、人通りのある道へと出た航平はそこで一息ついた。
「なんか緊張した」
 急に力が抜けると、自分でも不思議なくらい顔が緩んでヘラヘラと笑い出した。目的を果たした満足感もあったのだろう、気持ちが軽くなって上の空に歩いていた。そんな油断していた時に後ろから呼び止められた。
「航平君、何を一人で笑ってるの?」
 航平は振り返る。そこには先ほど結婚したいと願った石束帆波が自転車に跨って止まっていた。
「あっ、帆波……えっとその」
 会えたのは早速のご利益かもしれない。でもその反面、目の前に好きな人が現れて航平はドキドキとしてしまう。咄嗟に上手く答えられないまま、目だけはじっと帆波を見つめていた。
 クラスの中でも帆波は一際目立ってかわいい。帆波を好きな男の子はたくさんいる。航平もその中の一人であるけども、お互いの親同士が知り合いで、幼稚園の頃からの幼馴染だ。その分付き合いは誰よりも長い。
 誰もが羨むような間柄ではあるのだけど、この時航平は自分に自信がなかった。よく食べるから顔も体も丸く決してかっこいいとはいえない。何か特別な才能や取り得があるというわけでもなく、つくづく平凡、またはそれ以下かもしれない存在。
 そんな航平でも、帆波は仲良く接してくれるからそれが航平の心の支えだった。このままずっと帆波と一緒にいたい。だから結婚したいとそう願ったのだ。特に帆波が他の男子と仲良くしていたのを見たこの日は落ち着かなくて、どうしても願いを神様に聞き入れて欲しかった。
 もしかしたらこんな自分でも帆波は好きでいてくれるかもしれない。願いを祠に伝えた後の航平は淡い希望を抱いていた。
「相変わらずはっきりしないわね」
 中々答えない航平に帆波は呆れてしまう。いつも帆波が航平を引っ張る役目だから、帆波は思ったことをすぐに口にする。
「いや、別に。ただ道草食ってただけだよ」
「その分じゃ、今日の夕飯のことでも考えてたんでしょ。早く家に帰りなさいよ」
「帆波はこれからどこか行くの?」
「うん、塾なの」
 帆波は勉強も良くできた。
「そっか、じゃあ、気をつけてな」
「航平君も目標もってしっかりしてよね」
「目標は一応あるけど……」
 それは帆波との結婚のことだった。先ほど願ったことを思い出し、またドキドキしてしまう。
「あるんだ。じゃあ、それなら頑張って。私も応援するからね」
 帆波は知らないとはいえ、航平は独りよがりに自分との結婚のことを考えてくれているように思えて嬉しくなってしまう。でも次の言葉で現実に引き戻された。
「私も中学受験のために頑張らないと。それじゃまたね」
 帆波は自転車を漕ぎ出して去っていく。
 その後姿を航平はショックを受けて見ていた。
 来年の春、中学にあがる航平は地元の学校へ帆波と一緒にまた通えると思っていた。帆波の中学受験を知ったとたん、離ればなれになるかもしれない不安に悲しくなる。
 航平も帆波と同じ中学に通いたいと願うも、ハードルが高すぎた。
「でも、僕、さっきお願いをしたんだった。もしかしたら僕も頑張れば帆波と同じ中学へいけるかも」
 諦めてはいけない。祠に願ったことで少し希望が湧いていた。
 家に帰ると、母親に受験のことを相談する。急に勉強へのやる気が出た瞬間だった。母親は航平の意気込みに喜び、側にいた祖父母も頑張れと応援した。
「航平が自分から勉強したいというなんて、いい息子を持って良かったな、ワタル」
 祖父がワタルに話しかける。ワタルは祖父からしたら自分の息子であり、航平には父親だ。その後チーンとお鈴の音が部屋に響き渡る。航平の父親は仏壇でいつも笑顔を絶やさないで笑っていた。
 数年前、父親は写真の中だけの人となった。
 その写真に写る父親は航平が撮ったものだった。あの笑顔は航平に向けてとても嬉しそうに笑ったときのものだ。
『航平は立派に育つぞ。お父さんは航平が大人になるまで絶対に死なないからな』
 余命を宣告された闘病中、心配する航平に何度も言っていた。本当は辛いのにとても幸せだと最後まで笑っていた父親だった。
「お父さん、応援してね」
 航平も父親に願う。
 そして心の中で父親に伝えた。
『お父さん、僕もあの祠で祈ったんだよ。絶対願い叶うよね。お父さんがお母さんと結婚したいって願って叶ったように』
 父親はあの祠の前でお告げが聞こえたと大げさに話すから、当時小さかった航平はすっかり信じ込んでいた。
 全てがうまくいくと航平は思っていた。
 しかし、航平が問題集を手に入れたとたんそれは絶望へと変わっていく。塾に通ったところで帆波と同じ中学にいける望みは薄かった。
 それから年が明け、帆波は見事合格し、中高一貫校の道を進むことになった。航平は地元の中学へと進むしかない。中学からは帆波と離れ離れになってしまう。その間に帆波が他の男子を好きになったらどうしようと航平は恐れていた。
 このまま終わってはなるものかと航平は卒業式の日、帆波に告白することを決意する。
「帆波、あのさ、僕、帆波のことが好きなんだ」
 卒業証書を抱え、校舎を背にして立っている帆波に航平は顔を赤くして俯き加減に必死に伝えた。
 帆波はなかなか答えず、ずっと黙っていた。航平はゆっくりと顔を上げ、帆波を見た。帆波は戸惑い、何か言いたそうにしながらそれをためらっていた。その姿は普段の帆波らしくない。
「ごめん……航平君」
 やっとの思いで小さく呟く帆波。視線を航平からそらした。とても気まずい空気が漂い、航平は泣きたくなりそうなのをぐっとこらえながら、何でもなかったことのように装うとする。
「その、なんていうか、今までありがとうっていう意味だから」
 どう繕っても告白した事実は消えない。振られた現実に航平はいたたまれなくなって走り去っていく。その時、留めていた制服の上着のボタンがプチンと弾けた。体が大きくなりすぎて、卒業まで何とか無理をして着ていた服だった。
 自分の気持ちも同じように弾けとんだ。
 航平はずっと一緒にいてくれた帆波も同じ気持ちでいると自惚れていた。悲しく涙がこみ上げる。落ち込んで歩いていると、またあの雑木林の中の祠へと足が向いていた。
 祠を目の前にすると、帆波と上手く行かなかったことをぼやいた。
「こんな調子で、僕の願いは叶うんでしょうか?」
 そんなことを言っても答えてくれなかった。代わりにカラスが騒ぎたて頭上で一鳴きした。
 それでも航平は性懲りもなく手を合わせる。
「どうか帆波が僕のことを好きになりますように」
 諦めきれない航平はぐっと腹に力をこめて祈った。かつて父親もここで願い、その望みが叶えられたと言っていた。それがあるから自分の願いが叶わないなんておかしいと思う気持ちが強かった。
「僕、何でもしますから願いを叶えて下さい」
 祠の力を信じひたすら願っていた。

 中学に上がると、日に日に体が大きくなっていく航平は自分が太っていることを周りからからかわれ始めた。
 それは馴れ合いから来る悪気のないささいな事なのかもしれない。いつもへらへらと笑っている航平は大事にならないようにと軽く受け流す。
 太っていることは事実だから、反発して嫌な態度になったところでなんの得にもならない。気にしないように、虐められないようにと自分を誤魔化し受け入れていた。
 そんな自分の姿を学校の階段の踊り場に設けられた鏡の前で改めて見た時、航平は悲しくなっていく。
 落ち込んだ気分の帰宅途中、自転車に乗った帆波を見かけ、航平は咄嗟に身を隠してしまった。中学に上がった帆波はセーラー服が良く似合ってとてもかわいかった。
「こんな自分を見たら帆波もやっぱり嫌だろうな。好きになんてなってくれるわけがない」
 ため息を吐いて、とぼとぼと歩けば足はあの祠へ向かっていた。
 帆波との結婚を願ったけれども、一向にその方向へは向かわない。それよりもどんどん帆波から遠ざかる。
 祠は一層みすぼらしく薄気味悪いぼろさがあった。お供えもなく、お参りに来る人もなく誰も手入れをしない。どんどん風化して今にも崩れそうだ。それが悪い影響を与えているのかもしれない。
「やっぱり呪われているのだろうか」
 航平はここで祈ったばかりに悪い方向へと向かっているとしか思えなかった。
 またカラスが鳴いている。それも不吉なことに思えた。
 航平は落ちていた小枝を拾い、思うようにならない不満からカラスのいる方向に向かって投げつけた。それは届くことはなかったけども、カラスを威嚇するには十分な行為だった。
 だがそれが悪かったのか、その後、帆波がかっこいい男子と肩を並べて歩いている姿を見てしまう。
 航平には見せたことのない恥らった笑顔。意識して男の子の顔を見ていた。
 帆波は全く違う世界へと行ってしまった。残された航平は益々暗くなっていく。
 落ち込むと食べることが止められなくなり、体もどんどん太っていくのだった。
 そんな時に一緒にいる友達が悪気なく言った。
「航平の側にいるとさ、俺細くてかっこよく見えないかな」
 一瞬周りは引いて、言葉を失った。
 誰も何も言わないのは、それが失礼だとわかっているからだ。だからといって、航平が太っている事実は変わらないし、否定も肯定もできなくてどう反応していいのか困りかねている。
 みんな航平を見て様子を窺っていた。
「僕、そんなに酷いのかな」
 航平は半分笑い、半分怒っていた。
「お前、気づいてなかったのか。性格も暗いしさ、全然いけてないぜ」
 航平と比べた友達だって、そんなかっこいいと言えない。そんな奴の引き立て役にされるのは傷つく。
「お前さ、心で思っていても口に出すなよ」
 フォローにもならないことを他の誰かが言った。無理に笑い全てをなかったことのようにまた誰かが話題を変えた。航平だけがぽつんと取り残される。
 前にも同じように太いことをからかわれたけど、その時はこんなにも傷つかなかった。自分が気にせず笑っていられたのも、いつも帆波が側にいて航平の盾となっていたからだ。
 クラスの人気者の帆波が航平を庇い、いつも一緒にいた。それは皆が羨ましがり、航平も唯一自尊心が保てる時だった。
 帆波はいつも気にかけてくれたから、それを好意と航平は思っていた。だけどそれは幼馴染という関係だっただけで、ただの友達だったのだ。
 今思えば、父親がなくなって悲しんでいた航平に寄り添っていただけなのかもしれない。
 航平は自分の出っ張った腹を見て、先日見た帆波の隣を歩く男子を思い出す。
 自分がかわいい帆波を好きなように、帆波だってかっこいい男子がいいに違いない。
 ようやく目が覚めたように、航平は自分の身の丈を知る。
 それからまたあの祠へと足を向け、自分の思いを吐き出した。一度願いを伝えてから何かあるごとにやってくる癖がついていた。
「気軽に願い事をしてごめんなさい」
 安易に願ったことが今では恥ずかしい。叶わなかったことを腹いせに呪いと言った事も反省していた。
 自分で何もしないのに、願いが叶うってありえない。まずは自分を変えてからだ。そのことに航平は気がついた。
 そこにある古い祠にこちらから話しかけても言葉が返ってくるわけでもないのだけども、航平は自分の気持ちを吐き出すことですっきりする。
 いつの間にか心の拠り所となって気持ちを奮い起こす有難い存在になっていた。
 その時だった、祠から小さな声が聞こえてきた。
 驚きながら耳を澄ませば、誰かが話しかけている。辺りを見回し、格子戸を覗き祠の中も確認するが小さな祠に人が入れる訳もなかった。まさかと信じられない思いでいると、それは次第にはっきりと聞こえてきた。
『どうか、ミクちゃんと結婚できますように』
 自分と同じような願いを言っている。でも周りには誰もいない。
 その時、はっとした。ミクは航平の母親と同じ名前だったからだった。
 ――まさか、お父さん!?
 それはありえない。だけど、もしそうなら伝えてあげないといけない。航平はすっと息を吸って大きな声で祠に向かって叫んだ。
「お父さん、結婚したかったら、自分で努力しないといけないよ」
 その声は届いたのだろうか。でも父親と母親は結婚し航平が存在する以上その事実は消えない。それよりもそれは自分に向けた航平が出した答えでもあった。
 暫く様子を窺うも、祠からはその後なんの反応もなかった。
 またカラスが鳴きだし、航平は我に返る。まるで夢から目覚めたように、一秒一秒時間の経過とともに記憶が次第に薄れていく。家に帰る頃には本当にあったことだったのだろうかと自分でも信じられなくなっていた。
「なんか学校であったの?」
 浮かない顔をして帰って来た航平に、母親は首を傾げる。
「いや、何でもないんだけどさ、あのさ、お母さんはなんでお父さんと結婚したの?」
「えっ、急にどうしたの?」
 母親は面食らいながらも、真剣に訊いてくる息子に誤魔化すこともできなかった。
「それはね、一生懸命なお父さんがかっこよく見えて好きになっちゃったのよ」
「そっか」
 航平はどこか満足したように微笑んだ。
「もう、おかしな子ね」
 その航平の顔つきが少し大人びたと口には出さないけど母親は感じていた。そしてそれが亡き夫の面影と重なる。
 夫に先立たれて短い結婚生活だったけど、ワタルと結婚してよかったとミクは航平の横顔を見て少し涙ぐんだ。
 部屋に向かう息子の後姿をじっと見た後、仏壇の前に座った。
「あなた、息子は心配なくいい子に育ってますよ。真面目なところはあなた譲りかもしれません」
 静かに手を合わせると心が落ち着いた。まるで夫が側にいるようなそんな温かい気持ちに包まれていた。

 それから年月が過ぎ、航平は二十歳を迎えた。大人になった航平は太っていた頃とは別人にすっきり痩せていた。背も高く精悍な青年といわれるのに相応しい姿となっていた。
 目じりの皺を気にしていた母親がおかまいなしに目を細くして満面の笑顔を向ける。
「二十歳の誕生日おめでとう。これはお父さんからよ」
 父親が残した手紙。生前にこの時のためにと用意していたのだ。
 白い封筒を手にした航平は驚き、暫し父の姿を思い出す。懐かしい思いに浸りながら封を開けて中を取り出し読み始めた。
『航平、元気ですか。航平が大人になるまで死ねないと言ったけど、実はその願いも叶ったことを伝えたいと思います。すっかり大人になった航平の姿はすでにお父さんは見ています。本当に立派になってとても嬉しいです。あの時、航平がお父さんに掛けてくれた声のお陰でお父さんはお母さんと結婚できました。お父さんにすばらしい人生をくれてありがとう。この先も航平の幸せを願っています。もちろんあの祠にもお願いしておきました。きっと叶えてくれると信じています。だからこれからも頑張るんだぞ。父より』
 手紙を読み終えるや否や、航平は慌てて玄関で靴を履きだした。頭の中はあの祠のことでいっぱいだった。
 玄関先を飛び出せば、ケーキの箱を持って家の前にいた帆波とぶつかりそうになった。
「どうしたの? そんなに慌てて」
「ごめん、上がって待ってて。今、急いでいるんだ」
「私を放っておくくらい大切なことなの? ちょっと、航平君」
 帆波は仕方がないとふっと息を吐いた。何かをしたいと一生懸命になる航平の姿を見る度、帆波は胸キュンしていた。
 その頃航平は、息を弾ませ走っていた。
 父親は航平の声が届いたと手紙にはっきりと書いていた。本当にその通りだとしたら、もしかして――。航平の胸がドキドキと高鳴っていた。
 航平は祠へと一目散に向かう。雑木林を駆け抜けるその先で人影が見えてくる。自分とよく似た背格好の男性が子供の時に見たときの姿のままで祠の前に立って手を合わせていた。
 それは説明いかない現象だ。だけど、強く願いしものだけが信じて起こせる力がそうさせたといっていい。
 航平は迷わず「お父さん」と叫んだ。
 その男性はゆっくり振り返る。そして全てがわかっていると言いたげに目を潤ませて航平をしっかりと見つめていた。

 了