世界滅亡ともなれば日常は崩壊するかと思われたが、俺たちはたくさんの思い出を作ることができた。遊園地も水族館も通常営業をしていたし、令和金桜美術大学創立百五十周年展は予定通り開催された。
 ほどなくしてアメリカ大統領が隕石破壊プロジェクト“メシア計画”を発表したからだ。アメリカ軍が開発した特殊な宇宙船にパイロットが一人で乗り込み、隕石を破壊する。人類は守られる。
 当然、特殊な宇宙船であるため乗ることができる人間は限られている。そのため、全人類一斉パイロット適合遺伝子検査が行われた。

「何で適合しちまったんだろうな」
 俺は大きくため息をついた。この部屋に入ったときテーブルに置かれていた手紙にはアメリカ大統領直筆の文字でこう書いてあった。
「親愛なる救世主様
大切な人と安らぎのひと時をお過ごしください。
貴方に、人類に、神の御加護がありますように」
 知りたくなかった。あたかも人類に平和が訪れたかのようにメディアは報道しているが、“メシア計画”の成功率は五十パーセントにすぎないなんて。パイロットの生存率は絶望的だなんて。
 命を懸けたところで、五十パーセントで人類は滅び皆死ぬ。我が子ともいえる絵ごと全部消えてなくなる。それに人類の99.99%が死亡することだって、裏を返せば命を懸けなくたって、一万分の一の確率で生存できるということじゃないか。
 理不尽だ。こんなのあんまりだ。アメリカ大統領のプライベートジェットに乗せられてここに向かっているとき、何度も上空一万メートルから海に飛び込んで全部終わりにしてやろうかと思った。飛行機が墜落しても生還した人だっているのだ。少なくとも、メシア計画の生贄になるよりは生存率が高いと思った。
「怖い?」
 優絵が心配そうな顔で俺を見つめている。
「優絵には言わねえよ」
 俺は必死で強がった。
「私ってそんなに頼りないかなあ。じゃあさ、生き残ったら何したいか話そうよ。幸せな未来のこと考えてみたっていいじゃん」
「画家になりたかった」
「何で過去形なのさ」
 そんな未来はないからだ、なんて言葉にしたくなかった。優絵といられる時間もあとわずかだ。
「怖かったらさ、私の胸で泣いたっていいんだよ。誰だって死ぬのは怖いよ」
 優絵が小さな体で目いっぱいに両腕を広げる。
「絶対泣かねえ」
 俺は顔をそむけた。必死で笑顔を作ってきたけど、もう限界だ。その時、優絵の手が俺の腹に触れた。

「望が女の子だったら、私の子供を遺してあげられたのにね」
 優絵は俺の腹を何度もさすった。
 違うだろ。逆だろ。優絵が俺の子供を産んでくれればよかったんだ。命と引き換えに地球を救った俺の子供を優絵が育てて、その子が大人になったら「パパは地球を救ったヒーローだったんだよ」って言ってくれればよかったんだ。
 芸術の神様に愛された遺伝子を死神は嫌った。遺伝子検査に適合し、死神に魅入られたのは優絵の方だった。
「隕石壊す技術は作れてもさあ、私の赤ちゃん望に産んでもらえる技術は作れないんだねえ。あれかなあ、パイロットの命と引き換えですとか、特殊な遺伝子の人しかパイロットになれませんみたいな欠陥機械しか作れない人類にはまだ早すぎたんかねえ」
 優絵が俺の腹に呼び掛ける。
「男の子なら和也(かずや)。女の子なら和香(のどか)。平和な感じの名前つけてあげたかったなあ。変な適合遺伝子とか持たない普通の子。絵は下手でもいいし、私より音痴でもいいや」
 優絵はもうすぐ死ぬというのに笑っている。
「優絵こそ、何で無理して笑うんだよ」
 ほんの数時間前まで、「怖いから時間まで抱きしめて」なんて言っていたのに。ずっと抱きしめ続けるつもりだったのに、ほんの数分で優絵は吹っ切れたように笑って最後の晩餐を食べ始めたのだ。
「だって、最後に見る私が泣いてたら、望立ち直れないでしょ? 望繊細だし」
「立ち直ったところでどうするんだよ。優絵のいない人生なんて考えられねえよ。好きな奴も、絵のモデルも。優絵しかいねえよ」
 画家になりたかった。優絵を描き続けたかった。でも、そんな未来はあっさりと奪われた。
「うん。私も望が好き。だから、私が守るよ」
 優絵が両手で俺の頬を包み込む。慈愛に満ちた目で俺をまっすぐに見つめている。
「でもさあ、やっぱり怖いなあ。私が失敗したら、望も死んじゃうんだよね。望のことはさ、幸せにしてあげたいよ。私、望と恋人になれて幸せだったからさ」
 少しずつ優絵の声が震えていく。
「でも、もし願いが叶うなら、ずっと望の絵のモデルでいたかったし、望と結婚したかったなあ」
 ついに優絵の目から涙が溢れる。
「死にたくないよ……! 怖い、すっごく怖い。私、死にたくない!」
 優絵が俺の胸に顔をうずめて泣きじゃくる。小さな背中が震えている。俺は優絵を抱きしめた。意を決して、俺は言う。
「やめようぜ」
「え?」
 優絵が驚いて顔を上げる。
「俺、優絵に全部背負わせてまで生きたくない。2人で逃げちまおうぜ。隕石ぶち当たるまで2人で誰にも見つからないところに隠れるなり、この部屋にバリケード作るなりしてさ」
 細かいプランは考えていない。しかし、あちらは優絵を殺すわけにはいかないのだ。優絵に逃げる意志さえあれば、うまく逃げきれるかもしれない。
 世界最強のアメリカ軍から逃げ切れる成功率はとてつもなく低いことはわかっている。それでも、優絵がメシア計画で死ぬ可能性よりはずっと高い。
「正気……? 80億人死ぬんだよ?」
 優絵が戸惑っている。
「構うもんか! 俺は、地球より優絵が大切なんだよ! 優絵を犠牲にした世界なんかより、優絵が最後まで笑ってられることの方がずっと大事だ!」
 優絵を強く抱きしめる。今度こそ、二度と離さない。
「わー、反逆者だねえ。そういえば、恋愛って背徳が最高のスパイスだって誰かが言ってたねー」
 優絵が泣きやんだ。真っ赤な目で、俺に笑顔を向ける。
「全人類敵に回すとか最高のスパイスだな」
「スパイス効きすぎじゃない?」
「俺、カレーは激辛派」
「だからすぐお腹壊すんだよ」
 いつまで入学式の日の話を蒸し返すんだ。絶対に今、そういう空気じゃないだろ。あきれて俺は笑った。優絵も笑っている。二人で顔を見合わせて声をあげて笑った。それこそ、腹が痛くなるくらいに一生分笑った。

 笑い疲れて部屋に一瞬の静寂が訪れた後、俺たちは互いの目を見つめあった。あの日と同じように、どちらからともなくキスをしようとする。唇が触れ合うまで、あと数ミリのところで、優絵が制止する。
「ごめんね。やっぱり私は行くよ。望に死んでほしくない。明日も明後日もずっと望には笑っててほしいし、素敵な画家になってほしい」
 優絵が俺の腕をすり抜ける。覚悟を決めた声だった。
「私がちゃんとうまくやれたらさ、望は他の子をモデルにしてもいいし、他の女の子と家族になってもいいからね。私は望が幸せになるために出撃するんだから、絶対に幸せにならないとだめだよ」
「やめろよ……何でそんなこと言うんだよ……!」
 ずっとこらえてきた涙が俺の目からあふれ出す。泣かないと決めていたのに。
 優絵は一度自分で決めたらそれに向かって突き進む。信念を曲げたりしないし、迷いがない。俺が行くなと何度止めても、聞き入れてはくれなかった。「愛してるから行かないでほしい」と言えば、「愛してるから行くんだよ」と返された。
 行きの飛行機を飛び降りればよかった。俺の未来を守るために優絵がその命を散らすくらいなら、俺は死ぬべきだった。
 あるいは、優絵と手を取り合って二人で飛行機から飛び降りればよかった。飛行機から飛び降りて生還した人が過去にいるのならば、二人で奇跡的に生き延びて、隕石からも奇跡的に生き延びて……そんな未来に賭ければよかった。
 もうすぐ、死神の迎えが来る。アメリカの偉い人が優絵を連れ去りに来る。俺は号泣した。
「優絵じゃなきゃダメなんだ! 誰も優絵の代わりになんてならない。優絵以外の恋人なんていらない。優絵以外描きたくない。子供もいらない。優絵しかいらないんだよ……!」
 子供のように泣き叫ぶ俺を優絵が聖母のように抱きしめる。
「ダメだよ、幸せにならないと。望は天才なんだからさ。何より、私が好きなんだよね。望も、望の絵も」
 子供の頭を撫でるような手つきで、優絵が俺を諭す。
「いやだ、行かないで。優絵、行かないで」
 俺は泣きじゃくる。部屋をノックする音がする。優絵が行ってしまう。優絵が死んでしまう。
「うーん。じゃあさ、こういうのはどうかな。もし、他の女の子を絵のモデルにするとしてもお嫁さんにするとしても、1個だけ約束してほしいな。ほら、望って想像力最強じゃん? だから、もし私が望のことを守れたら」
 私案外独占欲強かったんだな、と優絵が独り言のようにつぶやいた後、俺の耳元で最期のお願いをささやく。
 優絵は俺の頬にキスをしたあと、偉い人に連れられて去っていった。優絵を追いかけることは許されず、俺は護衛らしき人に取り押さえられた。
 ずるい。あんなことを言われたら叶えるしかないじゃないか。後を追うこともできないじゃないか。
 窓の外の不穏な影が消えて、人類の勝利を告げる祝福の花火が次々とあがっても俺の頭の中では優絵との最期の約束がこだまし続けた。

「私たちの子供の絵を描いて」

Fin