ひととおりの治療を終えて退院し、二カ月が過ぎた。髪の毛が生えてきたけど、まだ地肌を隠しきれるほどは育っていない。
「滝崎さん、どうぞ」
 外来の診察室に呼ばれて扉を開ける。金井先生と目が合った。私の表情を注視しているのは、体調だけでなく、挑戦の結果を推し測ろうとしているからに違いない。
 先生は私の心持ちに敏感だ。だから今日は読まれる前に答えてやろうと意気込んでいた。
「先生、聞いてください。大学、合格できたたんです!」
「おおっ、すごいじゃないか!」
 先生は大袈裟なくらいに手を叩いて祝ってくれた。
「頑張った甲斐があったね」
「第一志望ではなかったんですけど、自分なりに納得です」
 外来はのんびりと話をできる雰囲気ではない。つい、早口になってしまう。ああ、病室でのゆったりしたお話の時間がなつかしい。
 結局、私は移植を受けず、化学療法のみで治療を終了することにした。
 だから現役での大学合格をめざし、入院生活中に勉強を進めた。なりふり構っていられなかったので、先生に無理を言って病院で授業や試験を受けさせてもらった。留年にさえならなければ、それでよかったから。
「ところでキャンパスはどこなのかな」
「実は、東京なんです」
 先生の表情が一瞬、びたりと固まった。
「ここからの通学はかなり大変だと思うよ」
「毎日ラッシュアワーの往復四時間なんて耐えられません」
「もしかして一人暮らしするの?」
「そのもしかして、です」
 金井先生はさらに目を二倍にして驚いた。さすがの金井先生でさえ、病み上がりの私が独り立ちするなんて思っていなかったのだろう。
「ですから紹介状を書いてほしいんです。キャンパスは東京国立医科大学のそばなので、そこを希望します」
「もう顔を見られなくなっちゃうんだね。ほんとに大丈夫?」
「もちろん大丈夫ですよー。それに先生かっこよかったけど、通院が終わるのは五年後ですよ。そのころには案外、しょぼいおじさんになっちゃったりして。未来は知らない方が、お互いのためかもですよ?」
  強がってそう言ったけど、先生は心底心残りな表情をしている。そんな顔しないでほしい。必死に振り切ろうとしている私の方が悲しくなってしまうから。
「紹介状、事務の方に渡しておいていただけたら、後で取りにきます」
「そうか……じゃあこれが最後の診察だね」
「そうですね。では、今までほんとうにありがとうございました」
 せいいっぱいの笑顔で深々と頭を下げ、顔を伏せたまま振り返る。
 別れはできるだけ淡泊なほうがいい。先生の瞳を見たら、固めた決心が揺らいでしまう。
 勉強を頑張っていたのは、絶対に遠いところへ行こうという決意があったからだ。移植をしないと決めたその日に、思い至ったことだ。
 そして東京の病院に移ったら、担当の先生にこうお願いするつもり。
『もしも再発しても、そのことを紹介元の先生には伝えないでください』、と。
 金井先生が私の不幸な結末を知ってしまったら、先生の研究に対する信念はきっと揺らいでしまうから。
 今日の非常識が、未来の常識になることだってあるはず。私は先生と一緒に、未来の常識に賭けたんだ。この賭けの責任は、私だって背負わなくちゃいけない。たとえ先生に会えなくなったとしても。
 扉が閉じた瞬間、感じたことのないさみしさが込み上げてきて、涙が溢れてきた。こらえようとしても、止めることができない。
 ――先生は私にたくさんの幸せを贈ってくれました。だから何が起きても、先生が淀みなく未来に向かっていけるよう、ずっと願っています。
 ――私、先生のことが大好きでした。