★
耐え凌いで一週間が過ぎた。白血球が回復してきたみたいで、ようやっと熱が落ち着く。ひさびさにクリーンルームから出る許可が下りた。
点滴スタンドを転がしながらナースステーションを覗いてみると、先生の背中姿が見えた。つい、胸が小躍りしてしまう。砂漠の日常ともこれでおさらばだ。
声をかけたい、そう思ったけど、何人もの先生達が丸くなり討論を繰り広げている。
よく見ると金井先生は白髪の先生と相対していた。高畑教授だ。
皆、表情は硬く、ぴりぴりしているみたい。ただならぬ雰囲気を察し、身を隠して耳をそばだてる。盗み聞きなんて悪いとは思うけれど、病気の悪性度から比べたらたいした罪じゃない。自分にそう言い聞かせた。
「金井君、きみは何を言っているんだ、そんなのは常識的じゃない。最適の条件のドナーがいるし、病状もコントロールされているだろう」
「それでも滝崎さんは移植するべきではないと、僕は考えています」
――えっ?
なぜ金井先生が治療の常識を否定しているのか、理解できなかった。
「再発したら疾患の性格はより悪化する。患者は追い詰められていく一方だ」
「だけど、もしも海外の研究の結果と一致するのであれば、彼女の白血病は――」
高畑教授は声を荒らげて金井先生の言葉を遮る。
「何度も言わせるな。常識として確立していないものを信じるなど、医師としてありえないぞ!」
「しかし!」
「いいかい金井君、君の役目は患者の腫瘍を完全に叩き切ることだ。だから迷わず血で血を洗いなさい!」
血を血で洗う、その表現は移植のことに違いない。
高畑教授は早足でナースステーションを後にした。私は見つからないように急いで自分の部屋へと舞い戻る。
振り返るとガラス越しに見えた、金井先生の思い詰めたような顔。
その苦しそうな表情は、私の心の中に焼き付いて離れなかった。
その日、金井先生が私の病室を訪れることはなかった。
★
翌日、先生は時間通りに病室を訪れた。けれど表情は曇天のままだ。
正直なのは医者として致命的なんじゃないかと思う。でも、信頼できる金井先生らしい。
気づかないふりをして「ご無沙汰していまーす」と能天気な挨拶をする。
「だいぶ元気になったみたいだね。大変な時にいられなくてごめんね」
「なんで先生が謝るんですか」
普段通り、椅子に腰を下ろし、私の顔をじっと見据える。深い瞳に吸い込まれそうになる。私もベッド上で正座になって向かい合った。
「きみに聞いてほしいことがある」
「はい」
金井先生はとつとつと言葉を紡いでゆく。
「移植をやめる、という選択肢があるんじゃないかと、僕は思うんだ」
「やめる……んですか?」
ナーステーションで彼が言っていたことは本当だった。でも、どうして?
「なぜなら、きみの白血病は移植の必要がないかもしれないからだ」
「えっ……?」
「僕は今までこの病気の遺伝子解析を研究テーマにしてきた。そこで君の病気の細胞を調べたところ、とある遺伝子異常が見つかった。最近発見された、新しい異常だ」
思い出すと病名告知の時、先生は研究の話をしていたような気がする。その時は頭が真っ白だったけれど、父親が書類にサインをしていた。ああ、あれはサンプルを研究に利用するための承諾ってことだったのか。
「で、その異常には、どんな意味があるんですか」
「実は今回の学会で、いくつかのヒントを得たんだ。病気の細胞にその遺伝子異常がある場合、化学療法がよく効き再発が少ないという報告があった」
「それってつまり――化学療法だけで治る、っていうことですか」
先生は米国でブラックボックスの中身を覗いてきたのかも。だとすれば――。
「いや、そこまでは言い切れない。科学的な立証は不十分だった」
「かもしれない、っていう感じなんですか」
「その通り。だけど僕の研究データベースに当てはめても矛盾しない結果だった」
先生の意味することは、すこぶる腑に落ちた。
移植をしなければ、いろんな未来の選択肢が残されるのではないか。順調に治療を完遂できれば大学受験に間に合うかもしれない。子供を産める可能性だって残される。
だけど先生が真実を引き当てていないとしたら、再発の可能性は確実に高まる。それが原因で命を落とすかもしれないのだ。
現実は美談でできているわけじゃない。楽観視したら、たやすく病気に足をすくわれる。震えるほど怖い選択肢。移植をしないという選択は、みずから魔物の巣に飛び込んでいくようなものだ。両親だって、治る可能性が高い移植治療を選ぶに違いない。
でも、先生は私たち患者の最適解のために、今を頑張っている。それに私は先生の誠意をよく知っている。私を絶望の淵から救い上げるために、毎日自分の時間を切り分けてくれていることを。
だから私は先生の信念を、先生が描く未来を信じたい。私の運命は他の誰でもなく、私自身が決めればいいのだから。
そう思うと、迷いやためらいなんて一気に吹っ切れた。まっすぐに先生を見て決意を伝える。
「先生、私――」
耐え凌いで一週間が過ぎた。白血球が回復してきたみたいで、ようやっと熱が落ち着く。ひさびさにクリーンルームから出る許可が下りた。
点滴スタンドを転がしながらナースステーションを覗いてみると、先生の背中姿が見えた。つい、胸が小躍りしてしまう。砂漠の日常ともこれでおさらばだ。
声をかけたい、そう思ったけど、何人もの先生達が丸くなり討論を繰り広げている。
よく見ると金井先生は白髪の先生と相対していた。高畑教授だ。
皆、表情は硬く、ぴりぴりしているみたい。ただならぬ雰囲気を察し、身を隠して耳をそばだてる。盗み聞きなんて悪いとは思うけれど、病気の悪性度から比べたらたいした罪じゃない。自分にそう言い聞かせた。
「金井君、きみは何を言っているんだ、そんなのは常識的じゃない。最適の条件のドナーがいるし、病状もコントロールされているだろう」
「それでも滝崎さんは移植するべきではないと、僕は考えています」
――えっ?
なぜ金井先生が治療の常識を否定しているのか、理解できなかった。
「再発したら疾患の性格はより悪化する。患者は追い詰められていく一方だ」
「だけど、もしも海外の研究の結果と一致するのであれば、彼女の白血病は――」
高畑教授は声を荒らげて金井先生の言葉を遮る。
「何度も言わせるな。常識として確立していないものを信じるなど、医師としてありえないぞ!」
「しかし!」
「いいかい金井君、君の役目は患者の腫瘍を完全に叩き切ることだ。だから迷わず血で血を洗いなさい!」
血を血で洗う、その表現は移植のことに違いない。
高畑教授は早足でナースステーションを後にした。私は見つからないように急いで自分の部屋へと舞い戻る。
振り返るとガラス越しに見えた、金井先生の思い詰めたような顔。
その苦しそうな表情は、私の心の中に焼き付いて離れなかった。
その日、金井先生が私の病室を訪れることはなかった。
★
翌日、先生は時間通りに病室を訪れた。けれど表情は曇天のままだ。
正直なのは医者として致命的なんじゃないかと思う。でも、信頼できる金井先生らしい。
気づかないふりをして「ご無沙汰していまーす」と能天気な挨拶をする。
「だいぶ元気になったみたいだね。大変な時にいられなくてごめんね」
「なんで先生が謝るんですか」
普段通り、椅子に腰を下ろし、私の顔をじっと見据える。深い瞳に吸い込まれそうになる。私もベッド上で正座になって向かい合った。
「きみに聞いてほしいことがある」
「はい」
金井先生はとつとつと言葉を紡いでゆく。
「移植をやめる、という選択肢があるんじゃないかと、僕は思うんだ」
「やめる……んですか?」
ナーステーションで彼が言っていたことは本当だった。でも、どうして?
「なぜなら、きみの白血病は移植の必要がないかもしれないからだ」
「えっ……?」
「僕は今までこの病気の遺伝子解析を研究テーマにしてきた。そこで君の病気の細胞を調べたところ、とある遺伝子異常が見つかった。最近発見された、新しい異常だ」
思い出すと病名告知の時、先生は研究の話をしていたような気がする。その時は頭が真っ白だったけれど、父親が書類にサインをしていた。ああ、あれはサンプルを研究に利用するための承諾ってことだったのか。
「で、その異常には、どんな意味があるんですか」
「実は今回の学会で、いくつかのヒントを得たんだ。病気の細胞にその遺伝子異常がある場合、化学療法がよく効き再発が少ないという報告があった」
「それってつまり――化学療法だけで治る、っていうことですか」
先生は米国でブラックボックスの中身を覗いてきたのかも。だとすれば――。
「いや、そこまでは言い切れない。科学的な立証は不十分だった」
「かもしれない、っていう感じなんですか」
「その通り。だけど僕の研究データベースに当てはめても矛盾しない結果だった」
先生の意味することは、すこぶる腑に落ちた。
移植をしなければ、いろんな未来の選択肢が残されるのではないか。順調に治療を完遂できれば大学受験に間に合うかもしれない。子供を産める可能性だって残される。
だけど先生が真実を引き当てていないとしたら、再発の可能性は確実に高まる。それが原因で命を落とすかもしれないのだ。
現実は美談でできているわけじゃない。楽観視したら、たやすく病気に足をすくわれる。震えるほど怖い選択肢。移植をしないという選択は、みずから魔物の巣に飛び込んでいくようなものだ。両親だって、治る可能性が高い移植治療を選ぶに違いない。
でも、先生は私たち患者の最適解のために、今を頑張っている。それに私は先生の誠意をよく知っている。私を絶望の淵から救い上げるために、毎日自分の時間を切り分けてくれていることを。
だから私は先生の信念を、先生が描く未来を信じたい。私の運命は他の誰でもなく、私自身が決めればいいのだから。
そう思うと、迷いやためらいなんて一気に吹っ切れた。まっすぐに先生を見て決意を伝える。
「先生、私――」