斜陽が差し込む病室。もうすぐ午後四時三十分。
 頭上から清風を送る機械のスイッチは「弱」に切り替えておいた。
 私はベッドサイドに腰掛け、金井先生の来訪を待っている。
 夕方の回診のとき、先生は私のために十五分、時間を取ってくれるのだ。だから私も心して来訪を待ち構えている。もとい、心、踊っている。
「滝崎さん、いいかな?」
「はーい、どうぞー」
 今日も時間ぴったりだ。分かっていたけど、普段よりも声の音程が高くなってしまう。
 先生がカーテン上部のメッシュ越しに顔をのぞかせた。
「いま話、大丈夫?」
 病室のカーテンがメッシュ構造なのは、スプリンクラーの水が部屋全体にかかるようにするためだって、先生が教えてくれたっけ。
「絶賛ヒマしてますってば」
 化学療法の吐き気は抜けてすっかり調子はいい。退屈なのは元気な証拠。
 そして先生のお話は、世間と隔絶された悲しき女子高生である、私にとっての貴重なオアシス。
 先生は椅子に腰を下ろすと同時に尋ねてきた。前回、お話の後に宿題があったのだ。
「それで血液内科が不人気な理由の答え、想像できたかな?」
「いろいろ考えたんですけど……亡くなる人が多いからですか?」
 自分の身に降りかかるかもしれない不幸を口にするなんて、正直怖くてしかたない。
 けれど先生は私の不安を吹き飛ばすくらいの、爽風の表情を見せてくれる。だからバッドエンドなんて起こるはずはない、って信じられる。
「実はさ、医療ドラマを観て、憧れから医者を目指す人って結構多いんだ。けど、ドラマの主役になるのって、外科とか救命科とかの先生ばっかりじゃない?」
「あ、そうかもですね。あんまり聞き慣れない職種のお医者さんが出てくるドラマもありますけど。でも、血液内科は聞いたことないです」
「そうなんだよ。血液内科医の主人公っていないんだ」
「登場しても、悲劇のヒロインが映っている画面の端っこでしょんぼりする、脇役っぽいイメージですよねー」
「ああ、やっぱり影の薄い存在だと思っているんだ……」
 さてはこの宿題、私の抱く印象を探るための問題だな。先生は打ちのめされているけれど、正直な私が悪いわけじゃない。
「だいじょうぶ、先生は私のヒーローですってば!」
「そう言ってもらえると嬉しいよ……はぁ」
 なぜ私が先生を慰める役になっているのだろうか。それともこの展開も先生の筋書き通りなのだろうか。
 先生は飄々としていて、誰もがイメージするようなお医者さんの貫禄がまるでない。というか、少年時代の延長みたいな無邪気さを持ち合わせている。推定、ひとまわり年上のアラサーなのに。
 でも看護師さんから収集した情報によると、研究の実績は飛び抜けて凄いらしい。
 先生の話は医学生という異世界生活に始まって(人体解剖や実習の実験は興味津々)、病院にまつわるおどろおどろしい話とか(眠れなくならないように手加減してもらった)、医療ドラマさながらの劇的な患者さん復活劇(先生だからうまくいったんだと思う!)など。
 時には友人の恋愛話までしてくれて。(でも友達の友達が、っていうときは先生自身のことなんじゃないかと勘ぐってしまう)
 日替わりの物語はどれもドラマチックなものばかりで、私ひとりに話すのはもったいないほど、てんこ盛りのネタ祭り。毎日、この時間が待ち遠しくてたまらない。
「さて、今日のお楽しみはここまでです。続きは後日ですよ」
 至福の時間の終わりはいつもそうだ。諭すような丁寧語がにくらしい。
「ぶーっ、いいところだったのにー」
 可愛こぶって頬を膨らましてみたって、どうせ洒落っ気のないすっぴんの丸坊主。勝ち目なんてあるはずない。敗者にこれ以上のわがままは禁句だ。
「じゃあ、ここからは真面目な話。いい?」
「はいっ!」
 すぐさまニットの帽子を整え、ベッドの上で正座をし先生と向き合う。先生は一変して真面目モードへ。残りの時間は、私の病状に関する毎日の報告だ。
「今日、検査結果が返ってきたんだ。お兄さんとHLAが一致したよ。持病のない方だから、造血幹細胞移植のドナーとして申し分ないと思う」
「あっ、ありがとうございます!」
「移植の予定は2ヶ月後。もう1回、地固めの治療をしてから移植に入ろうと思う」
 経過は想像以上に順調だった。初回の治療で寛解状態になり、今はたたみかける治療をしている。移植治療は総仕上げとして行うものらしい。
 一方で化学療法だけで治る可能性が高いタイプもあるらしい。だけど、私はそうじゃないとのこと。
 
「君の病気の細胞には、治りやすさに関係する染色体異常が検出できなかった。遺伝子レベルでの異常はあるはずだけど、それは一般的に調べられるものじゃない」
 私はそういう『ブラックボックス』の急性骨髄性白血病だった。
 
「移植って、他の人からパワーをもらって病気をやっつけるんですよね」
 昔観たアニメで、世界の人々から元気を分けてもらう必殺技を思い出した。でも先生は表情を緩めてくれない。
「いいかい、造血幹細胞移植っていうのは、強力な化学療法と放射線で血液細胞を全部叩いた後に、新しい細胞を入れて血液を作ってもらうんだ。そんな命がけの治療だよ」
「そうなんですか!?」
 
 聞いて背中がぞっと冷たくなる。移植ってものを安易に考えていた軽率さを後悔した。
「でも、再発を防ぐためには移植が一番有効な方法なんだ。ただし移植を受けたら高い確率で子供が産めなくなると思う。学業への復帰も時間がかかるはずだ」
 出産についてなんて、考えたこともなかった。だいたい、彼氏がいたことだってまだないのに。
 ただ、完全に元の自分には戻れないという落胆が、冷たい風となって心を吹き抜ける。
 それでも先生が最善の方法だというなら受け容れるしかない。だって、先生は私を治すことを一番に考えてくれているんだから。
「しょうがないですよ……」
 ためらいつつぽつりとこぼす。けど、先生は返事をしなかった。見ると釈然としないような顔で、でも何を考えているのか私には分からなかった。
 それから先生は去り際に、「一週間ほど留守にするよ」と言い残した。
 前々から聞いていたけど、米国で研究の成果を発表するらしい。大学院を卒業しても研究を続けているとのこと。終わりのない旅なんだなぁって思う。
 診療はグループ制だから心配はないはず。それでも先生のいない一週間はひどく長く感じる。先生に会えないと、とたんに病院が牢獄みたいに思えた。看護師さんに文句が増えそう。それに寂しくて泣きそうになる。
 気落ちしたのが悪かったのか、その夜、急に寒気がして発熱した。治療の影響で正常な白血球が減ったからだ。熱に浮かされて、先生が病室に来てくれる夢を何度も見た。