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「はぁ……」

 ある日、ため息とともに大男が納戸にやってきた。
 最初はいつものように荷物を置きにきただけだと思ったけれど、違うようだ。逆に、部屋に詰め込まれているものを出している気配がする。
 激しい物音を聞きながら、ふと、とうとう私の一生が終わるのだと思った。
 ダンシャリ、オオソウジという単語は私たちの死の予告なのだという。
 袋に詰められ、どこかに連れていかれ、二度と帰ることはないのだと仲間たちが囁いていた。
 覚悟はしていた。
 私たちは寿命がないかわりに、その一生に突然終わりがやってくる。私たちの存在が必要なくなったとき、私たちは闇に葬られる。
 心残りはない。
 私は役割を全うした。
 飼い主は、ヒロは、きっと幸せになれたのだ。
 最後に飼い主の生活を確認したかったけれど、叶わぬ願いなので諦めるしかなかった。
 大男はしばらく納戸の中の物を外へと運び出していた。よいしょという声とともにあたりが揺れる。私の前に立ちはだかっていたテーブルがどけられ、視界が広がると、何年かぶりの光が目に差し込んできた。
 大男が私に気づき、動きを止める。
 しばらくの間、私たちは固まっていた。私も久しぶりに見る大男の、増えた皺、白くなった髪をまじまじと観察していた。
 大男は急に我に返ると、私を抱えてリビングへと走った。
 懐かしい空間が目に映る。
 ヒロといたころとなにも変わっていない。納戸から取り出した荷物は散乱しているけれど、数えきれないほどの思い出が詰まったこの部屋は、私の中に染み込んだ暗闇を一瞬で消し去っていった。
 大男は散らかった部屋を放置し、コートを着込むと私を連れて車を走らせた。
 たどり着いたのは、白くて四角い店だった。

「こちらは三千五百円となりますが、よろしいでしょうか?」

 制服を来た女性が私を眺めて値段をつける。あぁ、そうか。私はサンゼンゴヒャクエンで売られるのか。
 大男は承諾し、私は女性に引き渡された。大男は私の飼い主ではないけれど、時折ヒロの部屋に入っては私の頭の上の埃を払ってくれた。その恩を思い出し、去っていく彼に向かって会釈をした。
 女性は私を袋に詰め、しばらく放置した。その後また車に乗せられ、着いた場所で急に水に浸かされ、揉まれ、気づいたころには体がさっぱりしていた。
 わけもわからずまた白い店に戻されると、数日後、今生の別れだと思っていた大男がまた現れた。
 車に乗せられ、気づけば私はまたヒロの家へと戻っていた。

「あぁ、見つかったんだ!」

 リビングに戻った瞬間、懐かしい声が響いた。
 ヒロだった。
 ヒロがいた。
 長い年月が経ち、ヒロは立派な大人になっていた。

「納戸の奥に紛れ込んでたんだよ。いつのまにあんなところにいたんだろう。片付けしてたら偶然見つけてさ」
「そうだったんだ……どうりで見つからないわけだ」

 ヒロは私の体を抱きしめた。その目にはわずかに涙が浮かんでいる。
 ヒロ。泣いてはだめだ。
 そう念じて彼の手を掴むものの、ヒロは泣くのをやめなかった。せっかく泣き虫を卒業したのに、またぶり返しているらしい。

「ごめんなぁ、随分ほったらかして。ずっと探してたんだけど見つからなかったんだよ。でもまた会えてよかった。本当に」

 ずっと、探して……。
 その言葉を聞いた瞬間、自分のまあるい手の先がじんと痺れるような、尻尾の先になにかが駆け巡るような、妙な感覚がした。
 忘れたわけではなかったのだ。
 ようやく理解しはじめる。
 忘れたわけじゃ、なかった。ずっと探していた。
 ヒロの幸せの中に、私も組み込まれていた。
 その事実に、私は不思議とあたたかさを感じていた。
 ヒロが幸せならばそれでいい——そう思っていたのに、私はどこかで、ヒロに求められたいと感じていた。
 そばにいたい。見守りたい。
 ヒロのためもあるけれど、なによりも、自分のために。
 そんな想いが芽生えていたことに、今、ようやく気づく。
 それはずっと胸の奥にしまわれていた、紛れもない私自身の感情だった。
 ヒロに頭を撫でられると、いつだってうれしかった。
 毛並みがふわふわだねと褒められると、いつも照れ臭かった。
 だけれど、私の役割は飼い主の幸せを願うことなのだからと、自分のことは考えないようにしていた。
 そうして、私は自分の感情にずっとふたをしていた……。
 ふと、トイレのほうから声が聞こえてきた。
 すりガラスの向こうに誰かがいる。ドアを開け、リビングに入ってくる。
 女性だ。
 ヒロと同じくらいの年の、きれいな女性。
 彼女は私の顔を見ると、ぱっと花が咲くように笑った。

「どうしたの、その子。くまさん?」
「そう。かわいいだろ? 母さんが大切にしててさ、俺も小さいころずっと一緒にいたんだよ。だからいつか見つかったら、ミユにあげたいって思っててさ。ミユー、ほら。くまさんだよ」
「……くまさん!」

 いつのまにか女性の足元に女の子が立っていて、走ってきて私を奪うと、ぎゅっと抱きしめた。
 そうか。この子が私の次の飼い主になるのか。
 随分と小さくて、守りがいのある人間だな。

「名前はポムっていうんだよ。なぁ、ポム。ミユのこと、これからよろしく頼むよ……」