『この世界が息苦しい』





 初めて目にした落書き。朝早くから教室に来た私の視界に映る机の上には、そんな言葉が綴ってあった。見たことのない尖った薄い文字。もちろん自分が書いた記憶なんて一ミリもない。私は首を傾げる。



「なんだろ、これ……」



 もちろん、答えてくれる人なんているわけないけれど。



 身に覚えのない落書きがあるのはおかしいことだ。だってこれは私の机。毎日勉強という高校生の義務を果たすための道具。にも関わらず、こんな落書きは今まで目にしたことがなかった。見落とし、という線も薄い。誰かが知らないうちに書き殴ったのだろうか。他人の机に愚痴を吐くなんて非常識な人間なんだ。


 取り敢えず、消しておかなくては。このまま残して誰かに見られたら面倒くさい。そう思った私は、ボロボロの筆箱から消しゴムのかけらを取り出して、その文字を擦る。ゴシゴシと腕を動かすたび、文字は小さなくらいカスに生まれ変わっていく。



「誰だろ、ほんと……」


 誰もいない教室で、ポロリと心の声を溢す。



 こんなところまで私の時間を奪うなんて、この文字の主は本当に酷い人間だ。



 少なくとも初めはそう思っていた。




 それ以降、落書きは続いた。




『胸が苦しい』『周りの視線が怖い』『誰かに愛されたい』『全てが恐ろしい』




 日に日に内容が深く暗いものになっているような気がしたが、ただの落書きだ。害は無い。



 私は落書きの主に針の先程の興味も湧かなかった。どうせいつものような悪戯なんだから。



 それからいつしか、誰もいない朝の教室で机の上を確認し、消すことが日課となっていた。この時点で、害がない、と言ったことは撤回するべきだろう。何せ、貴重な一人の時間が奪われている。机の中とロッカーの中を確認するという行為が忙しくなってしまっているのだから。



 それでも、落書きを見るのはやめられない。止めてはいけない気がする。見落としてはいけない何かが隠されているような、そんな感覚が湧いてくるのだ。



 人知れず、日の出と共に机の落書きを見つけては消す行為を一体何度行っただろう。最早当たり前である一連の動作の一部となっていた。



 そんなある日、見慣れてきた文字を机に見つけては目を見開く。




     『自分なんか大嫌いだ』



 普段より酷く尖った刺さるような文字で綴られたその言葉は、見た瞬間に怖いほどに胸に刺さった。心なしか呼吸が苦しくなり、心臓が締め付けられたように痛み出す。今まで言われた言葉の何よりも鋭いものだと思う。




 私は急いでシャーペンを取り出し、落書きを消すどころか新たな殴り書きを増やした。なんとなく、胸騒ぎがあった。




『あなたが知らない世界はあまりにも広いです。諦めるのはまだ早い。お願い、自分を認めて』




 書き終えた途端、フッと心が軽くなった。体の力が抜けて、シャーペンが手から自然と離れる。カタリと乾いた音が、無音の教室に広まって吸収される。



 分からない、分からないけど、こうするのが一番正しい。根拠も理由もない。けど、そう確信した。



 力無く椅子に腰掛ける。全てが救われたような感覚が、一瞬だけだが身体中を駆け巡ったような、そんな気がした。だらけて椅子に座る頭に、コツリと硬いものが当たる。



 無意識に眉間に皺が寄る。痛みが走った部分をさすりながら振り向くと、案の定、犯人は立っていた。




「今日も早ーな笑」




 教室の扉の前に立つ石を片手で弄ぶ男子が嗤う。彼を囲うように群がるのはクラスメートの男女。所謂、一軍の人間ら。彼らはつられて、というよりリーダーに合わせてと言った方が合う形で笑い出す。



「んじゃ、いじめよう(遊ぼう)じゃねぇか」
  


 まるでおもちゃを見るような瞳で嘲笑う彼に、私はただ震えた笑顔を向けた。




「うん」



 ああ、また始まる。



 地獄の時間。苦痛の贈与。
 笑い続けたら勝ち、泣いたら負け。
 私に対するいじめ(ゲーム)が始まる。


 
 私の、もう一つの日課。