あれ。これはどう見ても、俳優の八神大翔のサインではない。
色紙には達筆な字で『八神博人』と書かれている。
「ねぇ八神くん、このサイン……」
「ああ、俺の伯父の八神博人のサインだけど?」
おじさんって何それ!
「ひろとはひろとでも、全くの別人じゃない。嘘つくなんてひどい!」
私は、色紙を思わず机に叩きつけてしまう。
まさか同姓同名だったなんて。
「いやいや。嘘はついてねぇよ。俺はちゃんと『八神博人』のサインを貰ってきたんだから」
にやりと口角を上げる八神くん。
く、悔しい……! まさか、また騙されるなんて。
「もういい」
私は八神くんをきつく睨むと、読みかけていた文庫本を机に広げた。
*
SHRが終わり、一限目の数学の授業中。窓際の席の私は、ボーッと窓の外を眺めながら考える。
八神くん、あんな嘘をつくなんてひどい。私、大翔のサイン凄く楽しみにしていたのに。
ああ。思い出したらまた腹が立ってきた。
……八神くんは以前、友達の汐野くんの書く字が下手だと言っていたけれど。
私が日直だった日、先生に頼まれた課題プリントを返却する際に見えた汐野くんの名前は、とても綺麗な字で書かれていた。それなのに何が下手よ。私の書く字よりも、汐野くんのほうが何倍も上手いし。
持っていたシャーペンの芯がポキッと折れる。
「えー、それじゃあ次の問3を……朝井!」
「はい!?」
考え事をしていたせいで数学の先生の話を全く聞いていなかった私は、突然指名されて戸惑う。
「問3の答えは何だ?」
「えっと……」
突然のことに、私は頭の中が真っ白になる。
どうしよう。全然分からない。
「2X」
すると、隣の八神くんが小さな声を出す。
「問3の答えは、2Xだよ」
「……2Xです」
「うん、正解だ。それじゃあ次いくぞ」
先生の視線が私から黒板へと移る。
もしかして八神くん、私を助けてくれた?
*
「……八神くん!」
数学の授業後。休み時間になるとすぐに教室を出ていった八神くんを、私は追いかける。
「八神くん!」
「あれ、朝井さん?」
廊下の自動販売機の前で、カフェオレを買っていた八神くんが私に気づく。
「八神くん、あの……さっきはありがとう」
「えっ、何のこと? 俺は別に何もしてないけど」
八神くんがとぼけるように言う。
「でも、本当にありがとう」
「そうだ。朝井さん、前に甘いものが好きって言ってたよな?」
「え、うん」
「それじゃあこれ、受け取って」
八神くんが、少し離れた私へと向かってカフェオレの缶を投げてくる。
「朝井さん、ナイスキャッチ!」
何とかキャッチした私に、八神くんがニカッと笑う。
「でもこれ、八神くんが飲もうと思って買ったんじゃ?」
「いいよ。さっきのサインのお詫びにあげる」
「あっ、そうだ。サイン……」
八神くんに言われて思い出した私は、再び怒りが込み上げてくる。
「あんな嘘つくなんてひどいよ、八神くん」
「ごめん。俺、朝井さんのことが好きだから。ついからかいたくなったんだよ」
え。八神くんが私を好き?!
八神くんは今まで見たことがないくらい、真剣な顔つきで。
好きって、まさか本当に? って、いけない。今までこうして何度も八神くんには騙されてきたんだから。そんなの信じちゃダメ。
私は首を横にブンブン振る。
「どっどうせ、それもまた嘘なんでしょう? さすがにもう騙されないんだから」
はっきりと言い切る私を見た八神くんは、一瞬目を大きく見開くと、廊下に響くような大声で笑い出す。
「なっ、何がおかしいの?」
「あーあ。さすがの朝井さんも、今回は引っかからなかったか。つまんねぇの」
「つ、つまんないって」
少し離れたところに立っていた八神くんが、私のほうへと近づいて来る。
「俺、学校ってほんとつまんないからさ。見るからに馬鹿そうな朝井さんで遊んでただけだよ。お陰でちょっとは暇つぶしになったわ」
私の目の前に立つ八神くんは、とても冷たい目をしている。
暇つぶしってそんな……。
私の目には次々と涙が溢れてくる。
「八神くん、最低っ!」
気づいたら私は、八神くんの頬をひっぱたいていた。
「痛ってぇ」
「もう二度と私に関わらないで!」
「朝井さんに言われなくても……そのつもりだよ」
冷たい声で言うと、八神くんが私の横を通り過ぎていく。
まさか、八神くんがあんな最低な人だとは思わなかった。数学の授業で助けてくれたときは、良い人だなって思ったのに。
「八神くんなんか、大っ嫌い」
廊下の窓に目をやると、いつの間にか外は激しい雨が降りしきっていた。