うちのクラスの学級委員長、王弟殿下なんですよ~王弟カズンの冒険前夜

「それで、侯爵家まで事情を説明に行ってたのかい?」

 夜の9時過ぎと、いつもより何時間も遅い時刻に帰宅した息子を待っていた父親と、遅い夕食を取りながら、はい、とカズンは頷いた。

「わかりやすいハニートラップでしたから。経緯を令息のお父上の侯爵閣下に説明したら、すぐに女を押さえに動いてくれましたよ」

 あらかじめクラスメイトに先触れを頼んでおいたお陰で、非常にスムーズに事態は進んだ。

 息子がハニートラップに嵌まったと聞いた王国騎士団の副団長でもあるホーライル侯爵は、すぐに息子ライルの居場所を確認した。

 帰宅した息子が本邸ではなく、同じ敷地内の別宅に入ったと執事から報告を受け、即座に自ら別宅へ赴いた。

 すると、そこに居たのは薬を嗅がされ意識を失って、部屋の柱に縛られ物置の中に放り込まれていた息子ライルの哀れな姿だったというわけだ。

「既に別宅の貴重品が盗まれた後でした。あの様子だと計画的な犯行だから、犯人の捜索は難しいかもしれません」

 ホーライル侯爵令息ライルとピンク頭のアナ・ペイルが別宅に入ってから、学級委員カズンがホーライル侯爵家に到着し、侯爵に詳細を説明するまでの間は一時間と空いていない。

 その短時間のうちにこれだけのことを仕出かすとは、おそらくアナ・ペイルは単独犯ではなく協力者や組織だった犯行の可能性が高い。

「ホーライル侯爵令息は無事だったのか?」
「……無事といえば無事でしたが……」

 薬物で眠らされたライルは、気付け薬代わりのブランデーを口に含ませるとすぐに目を覚ました。
 カズンも侯爵や侯爵家の家人たちも安堵したが、しかし。

「彼の発見されたときの姿が問題で。……その、女性の下着を頭に被されていて……」

 部屋の柱に縄で縛り付けられたライルの頭部には、女物の下着、俗に言うパンティーがヘッドマスクのように被されていた。

「犯人女性の脱ぎたてと思われます」
「それはまあ、何とも」

 その光景を想像して父親も苦笑している。

「発見した一同、大爆笑ですよ。あんまりにも無様な姿だったものだから、侯爵閣下も叱る前に腹抱えて笑ってましたね」

 とはいえ、意識を取り戻した後のライルを拳で思いっきりぶん殴っていたが。



 それからカズンは、侯爵家から早急に報告の必要な関係各所に、事態の経緯を改めて手紙にまとめて送った。

 まずはライル・ホーライル侯爵令息の婚約破棄の被害にあった、ロザマリア嬢のシルドット侯爵家。

 次に、報告を待ち望んでいるだろう、学園の職員寮に帰宅して待機している担任教師ロダンへ。

 その上でホーライル侯爵に声をかけてから、侯爵家を辞去してきたというわけだ。

 夕食後、リビングに移動して食後のお茶を父と息子で楽しんだ。

 お茶を入れるのは父親のヴァシレウスだ。

 厚みのある鍛えられた巨躯の持ち主である父がティーセットを扱うと、ティーカップもポットもミニチュアのままごとの道具のようで、ほっこりした気分になるなとカズンは思った。

「あっ。お父様、お茶を蒸らしすぎです! また渋くて飲めなくなります!」
「!? 砂時計の砂はまだ残ってるぞ!?」
「あー! そこでひっくり返してどうするんですかー!」

 何で執事に任せないんだ、などと無粋なことを言うつもりはない。
 これは父の楽しみのひとつなのだ。



 彼はこのアケロニア王国の先王で、英傑王、大王と呼ばれる偉大な人物だった。
 この世界で大王は、王の上位職で名誉称号でもある。

(今、世界中に大王の称号持ちは僕のお父様だけ!)

 異世界転生したカズンの親ガチャは大成功、間違いなく☆5やURクラスを引いた。実に誇らしい。

 年齢はとうに九十歳を超えているが、髪こそ白髪まじりだがいたって壮健、百歳も余裕で超えるだろうと国の誰もが思っている。
 体力も気力も衰えを見せない彼は、外見だけなら六十代そこそこに見えるぐらい若々しい。

 カズンの黒髪と黒目、端正な顔立ちはこの父から受け継いだものだった。

 カズンは彼と、同盟国の公爵令嬢との間に生まれた息子だ。
 その公爵令嬢は、同盟国に嫁した、この父の最初の子供である第一王女の孫だった。ヴァシレウスから見ると曾孫にあたる。

 それゆえ、カズンはこの国の先代国王の実子にして玄孫、かつ現国王の実弟という、大変ややこしい出自を持つ。

 同盟国の元公爵令嬢だった母セシリアは、社交的な金髪碧眼の美女だ。
 成人後、初めて祖母の祖国を訪れたとき、当時既に退位していたヴァシレウスに一目惚れした。
 情熱的に告白しヴァシレウスを口説いたが、求愛はやんわりと断られ続けたという。

 そうこうするうちに帰国する日が近づき、諦めきれなかった母は決死の思いでヴァシレウスに夜這いを仕掛け思いを遂げた。
 その後も帰国せず留まり妊娠が発覚して初めて、腹の子供の父親が祖母の祖国の先王だと語り、大騒ぎになった。

 結果からいえば、母セシリアは見事にヴァシレウスの後添いの座をゲットし、現在こうして同じ屋敷で共に暮らしている。
 現時点で先王ヴァシレウスの唯一の妻だった。彼自身が長寿者なので、既に正妃も他の側室も亡くなっているためである。

 セシリアは偉大な先王と同盟国の王族、双方の血を引く筋目の正しい令嬢だった。
 結果、アケロニア王国に帰化してから嫁したこともあり、正統な血筋を評価された上で、先王の伴侶として現在は女大公の爵位を授けられている。

 その母セシリアは、この国でできた友人の貴族夫人の出産祝いで現在は留守にしている。
 ここに彼女がいれば、今日学園で起こったハプニングを楽しんで聴いてくれたことだろう。



「よし、できた」

 父の大きな手からソーサーごとティーカップを渡される。

 最初は慣れずによく中身のお茶をこぼしていたが、最近はだいぶ自然な手つきになってきた。

 残念ながら訓練された執事や侍女が入れるより薄かったり、濃すぎて渋かったりだが、カズンは父が不器用に入れてくれるこのお茶の時間が大好きだった。

「あああああ。お父様、紅茶が真っ黒です……」

 抽出時間を長くかけすぎだ。

「なあに、毒じゃないんだ、飲める飲める」
「……お茶請けのショコラ追加でお願いします」

 お茶を入れるのも本来なら侍女の役割だが、この屋敷では父自ら気軽にやることが多い。

 生まれながらの王族で、王になることが定められていたヴァシレウスは、これまでの人生で温かい食事を食べたり、熱いお茶を飲んだりしたことがほとんどなかったという。
 暗殺を警戒するための、毒味後の食事や飲料しか口にできなかったため、日常ではぬるいか冷めた物ばかりだったらしい。

 それが、後添えとなったセシリアと暮らすこの屋敷に移ってきてからは、妻と息子と共に、厨房に隣接した家族用の食堂での飲食が可能になった。

 温かいものは温かいままで、冷たいものは冷たいままで。

 国王としての現役時代には望めなかった幸福だと、彼は笑って息子のカズンにたびたび語る。

「昨日は大変迷惑をかけた! 済まなかった!」



 朝のホームルームで、クラスの担任に許可を得て、開口一番そう謝罪した男子生徒がいた。

 学級委員長カズンの所属する3年A組にホーライル侯爵令息ライルがやってきて、昨日教室を騒がせたことを謝罪しに来たのだ。

 本来、三枚目寄りだが男臭く整っていたはずのその顔は赤くパンパンに腫れ、ところどころ青黒いアザになっている。

 ああ、父親の侯爵に殴られたんですね、と誰もが思った。
 ホーライル侯爵は現役の騎士団の副団長だ。剣の腕だけでなく腕っぷしが強いことでも知られている。

 婚約者だったシルドット侯爵令嬢ロザマリアとの婚約は、もちろん破棄だ。
 当然ながら、ホーライル侯爵令息ライル側の有責で既に話が進んでいた。

 クラスメイトたちの視線を受けて、ロザマリア嬢は慎ましげに苦笑している。



 ハニートラップ犯のアナ・ペイルは窃盗犯として国から指名手配されることになったという。

 本人を見かけたらホーライル侯爵家か騎士団本部に知らせて欲しいと言って、ライルはもう一度深く頭を下げて去って行った。



 昼休みになって、改めてカズンに謝罪と世話になった礼をしに来たライルと、話しがてら昼食を共にすることになった。

 朝は真っ赤に腫れていたライルの顔も、治癒魔法が得意な者に治して貰ったようで、ほぼ元通りになっていた。
 昨日の今日で、さすがにいつもの目立つ赤茶の髪もどことなく艶がない。

「その様子だと、昨日は侯爵閣下に絞られたようだな」
「ああ……うっかり、亡くなった母上がお花畑で微笑んでる光景が見えたぜ」
「関係各所に迷惑をかけまくったが、君が五体満足で無事だったことは幸いだ」
「……まあ、それは親父にも言われた」

 会話しながら、食堂の注文カウンターで特別メニューを注文するカズン。
 出てきた料理をトレーに乗せて、カズンは嬉しそうに席に着いた。

「ん?」

 ふと、自分の定番のランチ定食と比べたライルは、カズンのトレー上の料理に驚愕した。

「お、お前、それって……!」
「ん? ああ、これはラーメンという麺料理だ。この国になかった料理だが、家庭科の先生と食堂の料理人の皆さんの協力を得て研究してきて、ようやく形になってきてな。安定して調理できるようになったら食堂のメニューに入れて貰おうと思ってる」
「……醤油だけか?」
「んん?」

 何やら意味深な問いかけだ。

「俺はラーメンなら味噌派なんだ」

 生憎とこの学園のあるアケロニア王国に、味噌なる調味料は存在しない。あるかもしれないが、一般的ではないはずだ。

 ず、と麺を一口啜ってから、カズンは湯気で曇った眼鏡を無言で外して、口を開いた。

「……ラーメンはどこの国発祥の料理か知ってるか?」
「中国だろ。でも現地とは違う独自の発展を日本でしたんだよな」

 中国も日本も、この世界にはない国名だ。

「……ラーメンには醤油味、味噌味の他に何がある?」
「俺が知ってるのは、塩味、海老出汁、鯛とかの海鮮出汁、あと豚骨や担々麺なんかもあるな!」

「……麺は何麺が好きだ?」
「俺は断然太麺だぜ。食い応えのある感じが好きでさ」
「……そうか。僕は佐野ラーメン系の幅広の縮れ麺派だ」

 おっといけない、麺が伸びてしまう。
 とりあえず麺とあらかたの具、スープまで美味しく飲み干して、カズンはライルをじっと見つめた。

「………………おまえ、転生者か」
「おう。お前もなー」

 がし、とフィストバンプで男ふたりの拳が合わさった。同士。

「俺もラーメン食っていいか? 醤油も味噌の次に好きなんだ」
「良かろう。存分に食すがいい。カズンの許可を得たと注文カウンターで言えば出してくれるぞ」
「おっけー、行ってくる!」

 思わぬところで異世界転生仲間、ゲットである。



 ちなみに後日、ライルのホーライル侯爵家から盗まれた貴重品や装飾品は、送り主不明で送り返されてきたらしい。

 どうやら、アナ・ペイル嬢なる女は、貴族令息を鴨にした愉快犯の一種ではないか、とのことである。

 ホーライル侯爵令息ライルによる婚約破棄事件は、ひとまずこれで終息となった。



 と、ここまでが、王弟にして学級委員長カズンが、自分と同じ異世界転生の友人ライルを得るまでの経緯である。


 カズンの幼馴染み、ヨシュアは幼い頃からの親友だ。
 リースト伯爵家という、国内でも屈指の魔法の大家の嫡男である。

 学園のクラスメイトでもあるので、ほとんど毎日顔を合わせている大の仲良しなのだが、最近休みがちで心配だった。

 ヨシュアは青みがかった絹糸のように滑らかな銀髪と、湖面の水色の瞳に銀の花が咲いたようなアースアイを持つ、優美な美少年だ。

 背はカズンと似たり寄ったりで、もう少し細身か。

 一見すると儚げな美人で、麗しの美貌を愛され、学年や男女を問わず人気がある。
 学内には非公式のファンクラブがあり、絵姿が出回っているともっぱらの噂である。



 そんなヨシュアだったが、父親の伯爵が事故で急死し、後妻とその連れ子に虐げられているとの噂が広がりだした。

 元々身体が弱く休みがちな生徒ではあったが、最近では不登校の日数が以前より増えていた。

 その上、リースト伯爵家では伯爵の実子であるヨシュアではなく、義弟になる後妻の連れ子が後継者になるのだと、社交界で後妻本人が言い出すようになった。
 その連れ子にはリースト伯爵家の血は一滴も入っていない。後妻の前の嫁ぎ先での子供である。

 伯爵家の血の入っていない連れ子がその家を継ぐことは、この国の法律上、まず不可能なのだが。



「……今日で無断欠席七日目かあ」

 朝のホームルームでクラスの出席簿を眺めて、担任教師ロダンは溜め息をついた。

「先生、ヨシュアは今日も欠席ですか?」
「残念ながらそのようだ。おうちから連絡はないんだけどねえ」

 リースト伯爵令息ヨシュアは、今年に入って父親が事故で急死し、混乱していることが知られている。

 まだ学生で成人前だから急遽、父方の叔父が後見人となったが、亡父の後妻とその連れ子との関係がとにかく悪い。
 最近では学園でも憔悴した様子を見せることが多かった。

 担任のロダンは伯爵家を幾度か訪問していたのだが、不在だったり不調で寝込んでいるなどと応対した後妻に言われて、なかなかヨシュア本人に会えないでいた。
 安否を確認したいのだが、強引に貴族家に押し入るわけにもいかない。

 そこで担任は、同じクラスで元から仲の良い学級委員長のカズンを頼ってきた。

 とはいえ、王弟ではあっても、まだ学生のカズンには大した権力がない。
 父親の先王陛下に頼っても良かったが、ここは現役世代に相談するのがベストだろう。





「お兄ちゃま、学園のことで相談乗ってください」

 王宮へ登城し、顔パス・フリーパスで国王陛下の執務室へ向かったカズンは、部屋の主にそう切り出した。

「カズン! 何でもお兄ちゃまに任せなさい!」

 久し振りに顔を見る弟を、ぎゅううっとハグするのはアケロニア王国の現国王、テオドロスだ。
 齢は六十を過ぎていて傍から見ると祖父と孫だが、異母兄弟ながら、れっきとした兄弟である。
 年は大きく離れているが、ふたりとも同じ黒髪と黒い瞳、顔立ちはどちらも父親のヴァシレウスとよく似ている。

「ありがとうです。でもお兄ちゃま、話を聞く前にそんなこと言っちゃ駄目ですよ?」
「カズンだからいいのだ!」

 書類仕事をほっぽり出して、溺愛する孫ほど年の離れた弟を連れて、応接室へと向かうのだった。



「なるほど、友人の伯爵令息の安否を確認したいのだね」

 侍女に入れさせた紅茶を飲みながら、詳しく話を聞いた。

「はい。リースト伯爵家のことはお兄ちゃまたちも把握されてますよね?」

 テオドロスは一緒に応接室へ来ていた、傍らに控えている宰相に確認を取った。

「ええ、伯爵が急死されてから家中が混乱して、貴族達の間でもきな臭い噂が流れていますね。後に残されたのが成人前の嫡子ひとりと、伯爵の後妻とその連れ子ですから、円滑な爵位継承が行われるかどうかの監視対象になっています」

 しかもその後妻は男爵家出身の出戻り未亡人で、伯爵家に嫁ぐには元々の身分が低い。
 だからこそ、“危ない”のだ。余計な野望を持たせないよう、公的な監視が必要だった。

「僕がリースト伯爵家に入れるように、手配してもらえないでしょうか?」
「それなら、父を亡くして心細かろうと心配する陛下からの労りの手紙を託された、というストーリーは如何でしょうか。本人に直接渡すよう王命を受けたと言えば、王印の入った手紙ですから来訪を拒否できないはずです」

 それから執務室に戻った国王にすぐ王印入りの手紙を書いて貰い、そのままカズンはリースト伯爵家へ向かうことにした。
 あえて先触れは出さないことにして、直接だ。



 リースト伯爵家へ向かえば、タイミングの良いことに後妻とその連れ子の息子はお茶会に出かけていて留守だった。

 カズンの訪問を受けて、王印の入った手紙を受け取った老執事は青ざめて、

「よ、ヨシュア坊ちゃまをどうかお助けください、王弟殿下……!」

 と深く頭を下げて、カズンをヨシュアのいる部屋へと足早に案内した。

「執事さん、随分前に引退したんじゃなかったか?」

 カズンはヨシュアやリースト伯爵家とは幼い頃からの付き合いだ。
 今のリースト伯爵家は、親戚筋の者が家令を兼ねた執事長として家政を取り仕切っているはずだった。その執事長の姿が見えない。
 カズンを案内してくれている彼は、先代の執事長の補佐だった人物だ。

「……新しく来られた奥様が、執事長を口うるさいからと厭うて領地へ追いやってしまったのです。ですが彼がいない分、屋敷の中が回らぬからと、引退していた私が引っ張り出されることになりました」
「……それは、それは」

 由々しき事態ではないか。

 案内されたのは伯爵家別宅の屋根裏部屋だった。

「鍵がかかっているな。外から開けられないのか?」
「そ、それが、屋根裏部屋の鍵は奥様がお持ちでして」
「スペアキーは?」
「それも奥様が……しかも何やら術がかけられているようで、外部から開けることもできぬのです」

 ここに来るまでに、老執事から詳細を聞き出している。

 やはり噂通り、ヨシュアは後妻となった義母やその連れ子から虐げられ、本宅から別宅へと追いやられてしまったという。

 終いには屋根裏部屋へ押し込められて、執事や他の家人たちが抗議すると、伯爵家から首にするぞと脅されたり、鞭で暴力を振るわれたりと手が付けられなかったと悔しげに言う。

 今はヨシュアの後見人となった彼の叔父が当主の急死でひとまず当主代理となったが、領地での実務処理にかかりきりになっていて、なかなか王都のこの屋敷に戻ってこれないのだという。
 彼さえ戻ってくれば、ほとんど解決したも同然なのだが。

「……ヨシュアがここに入れられてから、どのくらい日数が経っている?」

 少なくとも学園を無断欠席するようになった七日間より前のはずだ。
 執事に確認すると、ほぼその頃で間違いないという。

「まずいな、七日間も監禁されて外から鍵までかけられているとなると……おい、鍵を壊すぞ。修理費用は後で僕の家まで請求してくれ!」
「は、はい、お願いします!」

 見たところ、カズンの持つ魔力でならドアノブ部分から破壊できそうだ。
 最も強く魔力を載せられるのは足技だ。黒革の学生靴の踵で一気に、ドアノブとその下の鍵穴を蹴り飛ばし、開いた扉の中へと駆け込んだ。



 屋根裏部屋の室内はホコリっぽく空気が淀んでいる。

 ここは子供の頃はヨシュアと一緒にかくれんぼなどで遊んでいた秘密基地だったが、もう何年も足を踏み入れていない。
 近年は確か物置きになっていたはずだった。

 室内奥、壁際に薄汚れたマットレスと毛布。その上に、目的の人物であるリースト伯爵令息ヨシュアが目を閉じて横たわっていた。
 鍵を壊すときに大きく音を立てたが、ヨシュアはピクリとも動かない。

「ヨシュア! ……執事殿、力のある家人を連れてきてくれ、あと早急に医師の手配を!」
「は、はいぃいいっ!」

 駆け寄って、まず手首と首筋で脈を確認する。どちらも温かく、脈もあった。

 良かった、生きている。

 しかし目を覚ます気配はない。
 唇がガサガサに乾いてヒビ割れている。
 その口元から白いシャツの胸元にかけて、広い範囲で汚れていた。

「吐いたのか……」

 吐瀉物は乾ききっている。吐いてからかなりの時間が経っているようだ。
 室内を見回すと、封が開いたワイン瓶が二本、転がっている。
 他に飲食物の形跡はない。
 一本は空、二本目は辺りに中身がほとんど零れている。

「ぶどう酒でギリギリ水分を取っていたか……。……いや待て、吐いたものに赤紫色の色素が混ざっている。だとすると」

 ワインの中には何か、嘔吐させるような毒が入っていた可能性が高い。

「くそ、もっと早く来ていれば……!」

 想定していた最悪の事態に近かった。

 カズンはすぐに王弟の名前と印入りの手紙を王都騎士団に出して、騎士たちを派遣して貰った。
 ヨシュアが閉じ込められていた屋根裏部屋の現場の確認と、保存をしてもらうためだ。

 何よりヨシュア本人の状況を第三者の目で確認させ、監禁し毒を飲ませた犯人の確保に早急に動いてもらう必要があった。
 犯人、即ちリースト伯爵の後妻ブリジットとその連れ子のアベルをだ。



 結果はすぐにカズンへ報告された。

 本人たちはヨシュア監禁や毒殺の罪状を認めなかったが、倒れていたヨシュアと物品が何よりの証拠だ。
 屋根裏部屋の鍵も後妻の荷物から押収されている。

 その上、参加していた茶会でも平気で、自分の連れ子が間もなくリースト伯爵を襲名するのだと公言していた。

 心ある貴族夫人たちは、リースト伯爵家の血筋ではない連れ子が爵位継承することは不可能だと知っており扇の裏で顔を顰めていたと聞く。
 そんな茶会の空気を、後妻はまったく読めていなかったようだ。

 そう、早かれ遅かれ彼らの自滅は確実だった。

「……まったく。干からびていても、お前は相変わらず美しかったぞ」

 監禁されていた七日間、ほとんど絶食状態だったヨシュアは脱水症状を起こして、非常に危険な状態だった。
 治癒魔法の使える医師から治療を受け、体内に水分を補給して貰って、何とか一命を取り留めることができたのは幸いとしか言いようがない。

 当日の夜には目を覚まし、カズンはそれを確認してから自宅へ帰った。

 翌日、学校帰りに見舞いの果物を携えて、再びリースト伯爵家を訪ねた。
 朝のうちにカズンの家へ、リースト伯爵家からヨシュアの健康状態が回復し意識もはっきりしていると報告が来ていたからだ。

 弱ってやつれてはいたが、ヨシュアの万人を魅了する麗しの美貌は健在だった。
 むしろ、より物憂げな儚さが増してグレードアップしている。



「助けてくれてありがとうございました、カズン様。さすがのオレも、まさか自分の家で魔力封じが施された部屋に閉じ込められるとは思ってもみなくて……」

 申し訳なさそうに苦笑いしている。

「あの屋根裏部屋か。床板の裏側にびっしり魔力封じの呪符が仕込まれていたそうだな」
「ええ。窓と壁、ドアにも透明なインクで描かれていました。あそこまでやられてしまうと、オレでも太刀打ちできません」

 ヨシュアは膨大な魔力を持って生まれ、幼少期から魔法剣士として研鑽を積んできた人物だ。

 ただ惜しむらくは、体内に蔵する魔力量を支えるだけの肉体の強さが足りなかった。
 いつも気怠げで学園を休むことも多いのは、魔力と未成熟な肉体とがアンバランスなせいだ。
 それも成長して鍛錬を続けていけば改善すると彼の叔父は言っているそうだが、まだまだ先は遠い。

「お前が魔法剣の一本も出せないほど完璧に魔力封じをやられるとはな。後妻たちはどこで、そこまで術が使える術師を見つけてきたんだ?」

 後妻ブリジットは男爵家出身で、この伯爵家に嫁ぐ前は子爵家へ嫁いでいた人物だ。連れ子はそのときの子爵との間の息子と聞いていた。
 どちらも、大した魔力量はなかったと聞いている。

「……本当かどうかはわかりませんが、魔道書を読んで自分たちで材料を調達して描いたんだそうです。あのまま魔力封じの施された屋根裏部屋に監禁し続けて、死ぬ寸前に特殊な毒を飲ませると、傀儡のように命令を聞くようになるのだそうで」
「なるほど、その薬剤の入っていたのがワインか」
「ええ、元からあの部屋の中に、これみよがしに置かれていましてね。水も食料もなかったものだから、危ないとわかっていてもあれを飲むしかなかった」

 後妻たちは違法な隷属の魔導具を所持していたとも報告を受けている。

 話を聞いて、カズンは深い溜め息をついて、ヨシュアが身体を起こしているベッド脇の椅子に腰を下ろした。
 長い話になりそうだ。





「……で。後妻とその連れ子は牢へぶち込まれ、伯爵家嫡男の監禁と殺害未遂で相当、重い罰が下されるだろう。お前の描いたシナリオ通りか?」
「ふふ。……鬱陶しい輩が視界から消えてくれて、嬉しいですよ」

 微笑むヨシュアは文句なしに麗しく、美しい。
 この顔に皆、勝手に勘違いしたり、騙されたりするんだよなあ、とカズンはしみじみ思った。

 基本的に貴族令息らしいおっとりマイペースな男だが、虫も殺さぬような可愛いタマでは決してない。

 確かに成長するにつれ魔力と肉体のアンバランスで体調を崩しがちになり、物憂げな顔を見せることが多くなった。

 しかし幼馴染みでもあるカズンからしたら、やんちゃが程よく抜けて大人しくなったなぐらいの感想である。
 子供の頃はよく一緒に悪戯して、彼の叔父に怒られていたものである。




「……僕はてっきり、お前は爵位は継ぐが実務の面倒臭いことは義理の弟に任せて楽できるよう環境を整えるのだとばかり思っていた」

 世間話ついでにヨシュアからその話を聞いたのは、そう遠い昔のことではない。

 二人は同じ教室のクラスメイトで、幼い頃から互いを知る幼馴染みでもある。
 今年、学園の最終学年に進級してからは同じクラスとなったので、とても親しい友人関係だった。

「最初はそのつもりでした」

 実際、数年前に男爵家出身の出戻り未亡人ブリジットを後妻として迎えたヨシュアの父、リースト伯爵カイルの思惑もそうだったらしい。

 魔力と肉体のアンバランスで不調を抱えていた息子ヨシュアの世話と補佐が可能な、貴族家出身で学園の卒業生でもある女性。
 後妻ブリジットは学園時代は成績優秀クラスにいたそうで、連れ子アベルも伯爵家の役に立つ程度には有能だと判断されていたはずだった。

「だから義母と義弟の贅沢も、必要経費と思って目を瞑ろうとね。……だけど、彼女たちは決してしてはならないことをした」
「というと?」
「我がリースト伯爵家の先祖伝来の宝物を売り飛ばして、豪遊に使っていたんですよ。母の遺品の装飾品もね。もちろん、すぐに買い戻しを配下に命じましたが……」

 リースト伯爵家は後妻に、伯爵夫人として必要と思われる品格維持費を渡していたが、本人には足りなかったようだ。

「それに……」

 ぎゅ、とヨシュアが拳を強く握りしめ、唇を噛み締める。

「義母が手元に置いていた魔道書には、魔力封じの術以外に、様々な毒の調合方法も書かれていました。付箋の貼られたページには、遅効性で時間調整のきく毒薬の調合方法が書かれていて……」
「ま、まさか、お父上のリースト伯爵の死因は毒なのか!?」

 椅子から飛び上がらんばかりに驚いたカズンに、こくりとヨシュアは頷いた。

「父は領地の視察中、心臓発作を起こして馬から転落したとされています。……でも、領地の屋敷を出てから落馬するまでの時間が、魔道書の毒薬ページに書かれていた効能を発揮するまでの時間と一致した」
「それは騎士団には伝えたのか?」
「ええ、とっくに。だけど被害者の体内に残らない毒薬だったから、証拠を掴めなかった」

 後妻たちがヨシュアを排除したがっていることはわかっていたのだ。
 それをあえて逆手にとって、彼らを地獄に落とす計画を立てた。

「お前が毒とわかっているぶどう酒を飲んだのは、毒で死にかけている姿を第三者に確認させる必要があったからか」
「ええ。カズン様、うちの執事、そして呼んでくれた医師と王都騎士団員たち。……完璧でした」



「一歩間違えば、あのまま干からびて死んでいただろうに。危ない橋を渡ったな」
「でも、義母と義弟の罪は誰の目にも明らかになった。オレにとって最高の結果ですよ」

 まず、義母たちはリースト伯爵家嫡男で後継者のヨシュアを虐待し、別宅に押し込めただけでなく、屋根裏部屋に監禁した。

 屋根裏部屋に食料はなく、毒の入ったワインだけを置いた。飢え乾いたヨシュアがそれを飲まざるを得ない状況に追い込むためだ。

 社交の場では、資格もなく伯爵家の血を持たない連れ子が次期伯爵になると妄言を吐き続けていた。

 他にも、伯爵家の家人たちへの恫喝や過度の体罰など、細かいことまで挙げれば山ほどの余罪がある。

「特に義母は、伯爵家の後添いとしてオレの伯爵位継承をサポートする義務がありながら、放棄して自分の子に継がせようとしましたからね。今回、彼女が犯した一番大きな罪だ」

 このアケロニア王国の法律において、貴族家やその貴族家が持つ爵位の簒奪は大罪である。

 いわゆる“お家乗っ取り”への処罰は、首謀者は処刑と決まっている。場合によっては親兄弟、親戚にまで飛び火する。

 今回、義母たちの行為はあまりにも悪質で、被害も大きく深刻だった。被害者のヨシュア自身が死にかけたぐらいだ。

 まず間違いなく、義母ブリジットの実家男爵家が取り潰される。
 男爵家には義母の実兄の当主夫妻と子供が二人。当主夫妻も連座で重罪になる可能性が高い。良くて平民落ち、最悪は処刑だ。

 連れ子アベルは義母の前の嫁ぎ先の子爵家当主との間の子供だ。
 義母は第三夫人で、子爵家の中での立場が低かった。
 子爵が亡くなった後は、嫡子で子爵位を継いだ第一夫人の長男から手切れ金を渡され、子爵家からの籍を抜かれて実家に返されている。

 連れ子アベルは母子ともに既に籍を抜かれていることから、今のところ子爵家へのお咎めはないという。



「あと数日もすれば、オレも学園に復帰できます。担任の先生に伝えてくれますか? それと……」

 言葉を途切れさせて、ヨシュアは小さく唇を噛んだ。銀の花の咲いた、湖面の水色の目が、泣きそうに歪められている。

「……父の死を確定させねばなりません」
「死を確定、とは? リースト伯爵が事故で急死したことは、既に周知されていたはずだが」

 不思議な物言いである。
 リースト伯爵の葬儀も既に領地、王都の両方で終わっている。

 するとヨシュアは、王族のカズンだから教えるが他言無用と言い置いて、

「父は魔術師でしたから……身体に貴重な術式がいくつか組み込まれています。その術式保存のため、領地で落馬直後のまだかすかに息のあるうちに仮死状態にしてあるんです」

 魔法使いや魔術師を多く輩出するリースト伯爵家が受け継いできた特殊な術式を、次期伯爵となるヨシュアは継承せねばならないという。

 代々、当主の肉体が死亡する寸前に発動し、当主本人を仮死状態のまま、魔力で作られた樹脂の中に封印する魔術がある。

 アケロニア王国には、このような特殊事情で死亡寸前に本人を封印する魔術式を使う家が、貴族・平民問わず十数家ある。リースト伯爵家はそのひとつだ。

 リースト伯爵は魔術樹脂の中でまだ仮死状態で生きており、現在は王都の屋敷内に厳重に保管されているという。
 葬儀で棺の中に収められ埋葬されたのは、本人に似せた人形だったとヨシュアは語る。

「領地で落馬したとき首の骨を折っていて、 その時点で魂が抜けているんです。身体だけが辛うじて生きていても……治癒魔法でも完全回復薬のエリクサーでも駄目でした」
「魔術樹脂の封印を解除するのだな」
「……はい。そうして父の肉体の死を見届け、きちんと埋葬してあげたいのです」

 このように魔術樹脂で封印された者を解術する際は、侯爵家以上の高位の身分を持つ者、三名以上の見届け人が必要となる。

「そのうちの一人に、カズン様をお願いできますか」
「もちろん引き受けさせてもらう。残り二人はもう決まっているのか?」
「一人は、父のいた魔法魔術騎士団の団長閣下にお願いするつもりです。最低もう一人必要なのですが、どなたか頼めそうな方の紹介をお願いしても?」

 王弟のカズンは、まだ未成年で公的な権力こそないが、人脈には恵まれている。
 父親の先王ヴァシレウス、母親のセシリア・アルトレイ女大公、あとは兄の国王でもいい。溺愛されているカズンが頼めば、誰も嫌とは言わないはずだ。
 王族以外なら、学園のクラスメイトや教師たちの中にも高位貴族はいる。

「すぐに確保できると思う。実施日が決まったら、アルトレイの家まで連絡をくれ」

 長話で疲労を見せたヨシュアをベッドに寝かしつけてから、カズンはリースト伯爵邸を後にした。

 カズンが帰宅すると、屋敷の馬車留めに王家の紋章入りの馬車が留まっている。

 あれは、ユーグレン王子の馬車だ。

 屋敷に入ると、来客用の応接間で父ヴァシレウスとユーグレン王子がボードゲームで遊んでいた。

 ユーグレンはカズンと同年、数ヶ月だけ年上の、“兄の孫”だ。
 カズンの異母兄で、現国王テオドロスの孫にして、今のところ唯一の王子である。

 カズンはれっきとした王族の一員なのだが、王子の身分は持っていない。
 アルトレイ女大公令息であり、先王ヴァシレウス大王第三子というのが公的な身分だ。
 ゆえに、本来なら“殿下”の敬称は定められていない。
 ただ、先王ヴァシレウスの実子で、現国王テオドロスの実弟なので、便宜的に王弟殿下と呼ばれることはある。



 ユーグレンの容姿はカズンとよく似ている。黒髪と黒い瞳の正統派の男前だ。

 ということは曽祖父ヴァシレウスとも似ているということだ。
 カズンの兄、国王テオドロスも含めて、アケロニア王族は黒髪黒目の端正な顔立ちが特徴である。

 背はユーグレンのほうがカズンより高いし、体格にも厚みがある。
 わりと鍛えていて、身体強化なしで大剣を振り回す程度には強い。

(僕、親ガチャ友人ガチャは大当たりだったけど、僕自身はさっぱりなんだよなあ)

 カズン自身は、王族として護身術と多少の武術を覚えたぐらいで、剣などは使えない。たまに学園の授業で触るぐらいだ。

 カズンは密かに同い年の彼の背を追い越すことを野望にしているのだが、なかなか追いつけないのが残念だった。



 カズンが部屋に入るのを見るなり、ユーグレンがすっ飛んできた。

「か、カズン! ヨシュアは、ヨシュアは無事なのか、もう元気になったのか!?」
「落ち着いてください、殿下。ヨシュアは無事です。もう身体を起こして会話もできるまで回復してましたよ」
「そ、そうか……!」

 このユーグレン王子が、ヨシュアの熱烈な信奉者なのである。
 もっとも、ヨシュア本人はそのことを知らないし、ユーグレンも憧れの人になかなか近づけず話しかけることもできないでいた。

(遠くから見てるだけじゃなくて、友人になればいいのに)

 カズンにとってヨシュアは“親友ガチャ”のチュートリアル一回目で引き当てた的な、ウルトラレア級フレンドだったりする。

 確かにあの麗しの容貌は近づき難さがあるが、本人は別に傲慢や高飛車な性格もしていないし、付き合いやすいタイプだとカズンは思っている。
 あの顔だって、数日も一緒にいれば慣れるものだ。

 けれどこの王子は、学園で同じクラスのカズンから『今日のヨシュア』を聞いては悦に浸っているだけのチキン野郎である。



「そんなに心配なら見舞いに行けばいいだろうに」

 ヴァシレウスもすっかり呆れている。
 ユーグレンのこの言動は、彼がヨシュアを初めて見た高等学園一年次から、最終学年となった今年までずっと繰り返されている。
 今は留守中の母セシリアなどは、面白がって喜んでユーグレンの話を聞いてやっているものの。

「だ、だってヴァシレウス様。見舞いに行けるほど親しくないんです、行っても『何でこいつが来たんだ?』みたいな顔をされてしまったらどうします? そんなことになったら私はもう生きていけません!!!」

 本人は必死だが、いくら何でも王子のユーグレンをそこまで粗末に扱うヨシュアではないだろうに。

「う、うむ……青春の悩みであるな……?」
「ファンクラブまで作って会長就任してるくせに、何で個人的に親しくなれないのだか」

 学園では人気の生徒や教員、講師のファンクラブ設立が認められている。
 対象者本人の許可があれば公認ファンクラブとなるし、なければ非公認となる。

 ヨシュアのファンクラブは後者、非公認だ。
 なお、公認だとクラブ活動の一環として学園から予算が出て、非公認だとそれがない。

 以前ヨシュア本人に公認しないのかと聞いたことがあるが、会長が承諾書を持ってきてくれればちゃんと許可するんだけど、とのことだった。

 ちなみにヨシュア自身は、自分のファンクラブの会長が誰かも知らないらしい。
 このチキン野郎が事務的に必要な行動すら起こせていないと知って、カズンは開いた口が塞がらなかったものだ。



 ユーグレン曰く、ヨシュアは尊すぎて無理、駄目、しんどい、だそうだ。

 カズンの前世だった現代日本人の感覚だと、アイドル的な推しを信仰する信者の感覚に近いのかなと思う。

 本人は現在の王家唯一の王子にして、次の立太子が内定している。
 高貴な身分に加えて、全方向的に優秀有能な、同世代随一の傑物なのだが。

 王立学園高等部では最高学年、政治家や文官を目指す個性的な面々の集う上位クラスの3年B組に所属し、今年の生徒会長でもある。

 絵に描いたようなスパダリ様気質の王子なのだが、どうにもヨシュアに弱い。

(『薔薇の花弁を主食にしていそう』などと本気で言っていたからな、殿下は。まあそれを聞いて後日、薔薇ジャムを街で買ってヨシュアに渡したら、好きな味だったようで喜んでスコーンに乗せて食べてくれた)

 で、それをまた後日カズンから聞いたユーグレンが、「ヨシュア尊い……薔薇の精霊か……!」と悶えていた。

 何言ってんだこいつ、正気か? と思うが、本人は至って真面目なのである。

 不調でさえなければ、普段のヨシュアは頭の回転も速く、気の置けない会話が楽しい人物のひとりだ。
 早熟な魔法剣士として、魔法と魔術、剣術に天与の才を持ち、学園の授業では数多の魔法剣を自在に扱う姿は圧巻だった。

 ユーグレンも、信奉者として遠くから眺めているだけでなく、親しく交わればいいのにと思い、何度もヨシュアに紹介しようとしていたカズンだったが、

「無理、絶対ムリだ、彼を前にして冷静に受け答えできる自信がない……!!!」

 寸前になって、いつも逃げてしまうのである。
 これはこれで面白いので、現在ではユーグレンの周囲の人々はヨシュア絡みに限り、すっかり放置状態だった。

 詳しく『今日のヨシュア』を聞きたがったユーグレンを交えて夕食を取った。

 食後はリビングに移動して、カズンとユーグレンはハーブティーと甘味、ヴァシレウスはウィスキーと燻製鮭を肴に談笑することとなった。

「亡くなられたリースト伯爵の魔術樹脂の解術儀式の立ち会いを依頼されました。あと最低1人必要なのですが、お父様のご都合いかがですか」

 さすがに先王として在位期間の長かったヴァシレウスは、リースト伯爵家など特殊事情のある家の魔術樹脂の話を知っていた。

 ユーグレンは初めて聞いたようで、王宮でよく顔を合わせていたヨシュアの父の顔を思い浮かべて痛ましげな表情になっている。

「……ヨシュアには辛いことばかり起こるな……。先日の爵位簒奪事件といい……」

 呟いたユーグレンに、ウィスキーのグラスを卓上に置いて、ヴァシレウスは少し厳しい顔を作った。

「今更言っても仕方のないことだがな、ユーグレン。お前が恥ずかしがってないでヨシュアと親しくなっていたなら、リースト伯爵家の惨事は防げたかもしれないのだぞ」
「……そうかも、しれませんね」

 せめて学園内でだけでも親しくしていれば、噂は貴族社会の社交界ですぐに広がる。ヨシュアの義母とその連れ子だって耳にしたはずだ。

 その上で一度でもリースト伯爵家を訪れ遊びにでも行っていれば、義母たちだって“王子の友人”のヨシュアに魔の手を伸ばさなかったかもしれない。

「まあまあ、お父様。王弟の僕が友人でも事件は起きましたから、“たられば”の仮定の話をしても意味がありません」

 カズンは父を軽くたしなめた。
 とはいえ、カズンが王弟で、アルトレイ女大公令息であることを詳しく知るのは、今はまだ学園側と担任、クラスメイトたちぐらいだ。

 この国で王侯貴族は学園卒業と同時に成人となるから、まだ未成年のカズンは社交界にも出ていないし、あまり貴族社会で顔が知られていない。

 母セシリアが大公位を授与されたのもここ数年のことで、政治の中枢に近い者や高位貴族でもごく一部の者しか詳細を知らなかった。

 先日、婚約破棄騒動を起こしたホーライル侯爵令息ライルがカズンを知らなかったのがいい例だ。



「立ち会いは引き受けよう。……ユーグレン、いい経験になる。お前も一緒に参加しなさい」
「え」

 ヴァシレウスに命じられたユーグレンが硬直した。

「わ、私もリースト伯爵家へ行けと仰るのですか、ヴァシレウス様!?」
「いい加減にヨシュアへの、おかしな関わり方を正すがよい。今後は彼が新たな伯爵となるのだから、社交界や王宮での貴族界でも頻繁に顔を合わせることになるのだぞ」

 まさか、そんな場で『ヨシュア尊い……すき……』などと恍惚として天を仰ぐわけにもいくまい。

「魔法魔術騎士団の団長に、僕、お父様、ユーグレン殿下と王族三人。まだ学生のヨシュアの後ろ盾としては文句なしですね!」

 魔法魔術騎士団の団長は公爵家出身で、親戚の侯爵家に婿入りした人物だ。当然、高位貴族である。

 これで見届け用の立会人は合計四名。
 若き魔法剣士でもある新伯爵ヨシュアの応援に、これ以上の布陣はあるまい。