学園の家庭科室で茶碗蒸しを作ってから数日後。

 放課後に単独でブルー商会を訪れたヨシュアは、一階の商会受付でブルー男爵令嬢カレンに挨拶だけした後、三階のグレンの部屋を訪ねた。

 他愛無い話を少しだけして、ヨシュアが核心に切り込む。

「グレン。君、ナイサーと……いや、ナイサーから暴行を受けたね?」

 唐突な指摘にグレンの顔色が変わる。

「な、何で急に、そんなこと」

 動揺を見せるのが何よりの証拠だ。

 ひとつ頷くと、ナイサーと一緒になってグレンを嬲ったと思しき取り巻きたちの家が騒がしくなってきたと、ヨシュアは語った。

「だ、だから何だっていうんです? ヨシュア先輩には関係ないでしょう!?」

 興奮するグレンに、やはりかと嘆息したい気持ちを抑えて、ヨシュアは更に口を開いた。

「オレもね、似たようなこと経験したからさ。ほら、前に話しただろ。我がリースト伯爵家の簒奪を目論んだ後妻の連れ子から、……まあそんなことがあったのさ」
「そんな……ヨシュア先輩まで?」
「ああ。でもオレは結局、大したことはなかったんだ。でも君は、違うんだろう?」
「先輩……」

 ヨシュアを辱めようとした後妻の連れ子は、母親諸共、処刑されたと先日公表されている。

 だが処刑前に、性的暴行の加害者に対する最も重い刑罰である“去勢”刑が行われたことを知って、ナイサーの取り巻きたちが慌てだしたとヨシュアが言う。

 取り巻きたちは全員が余罪追求待ちで一時帰宅を許されているが、性的暴行の加害者と判明するなら話は別だ。
 今も被害者たちがいつ告発するか、謹慎中の自宅の自室で戦々恐々としているはずだ。

「君の性格なら、何か証拠を持っているんじゃないかと思ったんだ。自分や……ブルー男爵家を守るための保険として」
「はは……すごいな、ヨシュア先輩。そこまでお見通しなんだ」

 机の下から木箱を取り出す。中には学園生がよく使うタイプの、茶色の革製リュックサックが入っている。

「見て不快になっても知りませんよ、ヨシュア先輩」
「かまわないよ。開けてくれるかい?」
「………………」

 無言でグレンがリュックサックを開け、中身を木箱にあける。
 途端に強い腐敗臭やカビ臭さが漂う。この制服が汚れたのはもう一ヶ月以上前だ。それから一回も開けていないのだから腐敗するのも当然だった。

 出てきたのは薄汚れた学園高等部の女子生徒用の制服だった。ビリジアングリーンのブレザーは男子生徒用と共通。
 スカートはグレーのチェック柄だが、一部破れて、ほとんどの部分に濃淡の違う染み汚れがある。

「これが証拠かい?」
「……はい。ボクがナイサーに着せられていたものです」
「そうか」

 ヨシュアは美麗で形の良い眉を顰めた。

「これを証拠として保存してあるってことは、君は鑑定スキルを持ってるのか?」
「いいえ。でも、物品鑑定スキルの持ち主なら、これを鑑定すれば誰が何をしたかもわかると聞いてるので」



「上級の物品鑑定スキルの持ち主が見れば、制服についた汚れが何で、誰のものかわかる。当然、騎士団にはスキル保有者がいるわけだけど。これが君の切り札か」
「はい。ボクはタダじゃやられませんよ」
「いいね。転んではタダでは起きないのはとてもいい」

 ガタッと部屋のドアの外から何か物を落とす音がした。
 ハッとグレンもヨシュアもドアの方向を見る。
 少しして、躊躇いがちにドアが開いた。
 現れたのは制服姿のライルだ。足下に学生鞄が落ちている。

「ら、ライル先輩……今の、聞いてたんですか」
「……すまねえ。その、ヨシュアが行くって聞いて後から付いてきたんだけど……立ち聞きするつもりはなかった」
「………………ッ」

 絶望した顔になったグレンは、そのままライルを押しのけて走り去った。
 スピードが早い。咄嗟に足に身体強化をかけている。

「ライル様、追いかけるんだ! 早く!」
「お、おう!」




 グレンの後を追ったライルを見送って、やれやれとヨシュアが溜め息をついたとき。
 ドアの反対側に、所在なさげにグレンの妹カレンが青ざめ立ち尽くしているのに気づいた。ブルー商会の受付嬢の紺色の制服姿で、ティーセットのトレイを持っている。

「君も、聞いちゃったかな。今の」

 こくり、と小さくカレンが頷く。水色の瞳が涙で潤んでいる。

「あ、あたし……そんな、お兄ちゃんがそんなことになってるなんて……」
「おっと、危ない」

 震えるカレンが落とす前に、ティーセットの載ったトレイを受け取った。

「まあ、とりあえず入りなよ。二人が戻ってくるまで、少し話をしよう」

 ライルが落としていった学生鞄を拾うようカレンを促し、グレンの部屋で待つことにした。



 グレンの部屋はワンルームだ。部屋の奥に机と、脇にベッド。その間に小型のテーブルがひとつ。
 ヨシュアは机の椅子に、カレンはベッドの上に座って項垂れている。

 貴族の未婚の男女が密室に二人っきりなのは良くない。話の内容が内容だから侍女を入れることはできないが、念のため、部屋のドアは少しだけ開けてある。

「あたし、どうしたら……」
「気がつかない振りをするしかないよ。グレンは君やご両親に知られたくないだろうし。このこと、ご両親には君から話してもいいけど、全員で素知らぬ振りを貫くことだ」
「で、でも、お兄ちゃんは!」

 おや、とヨシュアは睫毛の長い瞳を瞬かせた。
 この様子では、カレンはまだ気づいていないのか。

「君を守るためにグレンは犠牲になったんじゃないか。守られた者として、そのぐらいの思いやりを見せたって罰は当たらないと思うよ?」
「え? 守った……って……」

 意外な言葉だったのだろう。呆気に取られるカレンに、ゆっくりと言い聞かせていく。

「グレンもだけど、君たち兄妹はちょっと見ないぐらい可愛らしい容姿をしてる。子供の頃はご両親、誘拐の心配が尽きなかったんじゃない?」
「そ、それは確かに、そうですけど。でも王都に来てからは騎士団も街を巡回してるし、そういう心配はなくなって……。………………あ」

 どうやら気づいたようだ。

「そう。ナイサーが狙っていたのは君。君に手を出さない代わりに、ナイサーはグレンに目を付けた。そういうことなんだ」
「そんな……そんなことって……」

 だとしたら、自分はどうやって兄に償えばいいというのか。

「んー……グレンはだいぶ傷ついてると思う。でも、それだけじゃないと思うよ」
「え?」
「君のお兄さんは、したたかだ。じゃなきゃ、自分が被害を受けたときの証拠を保存なんてしてないさ」

 と先ほどグレンが持ち出した木箱の中身を見せる。
 中には汚れた学園の女生徒の制服。漂う腐敗臭やカビ臭さの原因に気づいて、カレンは顔色を変えた。

「こ、これ……っ」
「そう。グレンが保存していた証拠品さ」

 カレンに触らないようにと制す。証拠物品に第三者が触れると、後々面倒なことになりやすい。

「これ、こんなもの、お兄ちゃんはどうしようっていうの!?」
「ナイサーは行方不明だけど、生存は絶望的。でも、あの男の取り巻きは二人残ってるんだよね」
「ど、どういうこと?」

 そこでヨシュアは、この国で特に性的暴行の加害者として告発され、断罪された場合の刑罰を教えた。

「き、去勢ってあの、ちょん切っちゃうやつ?」
「そう。ちょん切っちゃうあれ」

 右手で人差し指と中指をハサミの刃になぞらえて、くっつけたり離したりして見せる。

「この証拠品を物品鑑定すれば、汚れの原因の持ち主の名前まで出る。これがグレンの切り札なんだよ」
「……その二人の取り巻き相手に、何か交渉するってことですか」
「多分ね。取り巻き二人はナイサーに追随して、ちょっとやりすぎた。調査してみると、グレン以外にも被害者が結構いて。平民は泣き寝入りする者も多いけど、中には裕福な者もいて裁判も辞さない家もあるみたいだ。あと、やはり男爵家や子爵家といった下級貴族の令嬢に被害が数件」
「……お兄ちゃんがこの証拠を使って動いたら、他の被害者の人たちを巻き込んで、取り巻き二人を十分潰せるってことなんですね」
「ご名答。さすがに頭の回転が早いね」
「そりゃどーも!」

 この場合、混乱しているカレンを考慮して、ヨシュアがわざわざ丁寧に噛み砕いて説明してくれているだけだ。

「取り巻き二人はもちろんだし、彼らの家も甚大な被害を受ける。貴族の家は外聞を重視するからね。これからナイサーの事件が公式に発表される。ドマ伯爵は息子の醜聞消しに今も必死さ。そんな中、暴行の現物証拠品が出てきたら?」
「貴族社会の批判が殺到するでしょうね。もちろん平民だって黙っちゃいない」

 ここまでの事件となれば、王都の新聞各社も特集を組むはずだ。
 貴族にとって醜聞が新聞に掲載されることほど怖いものはない。購読者は王族から平民までいるし、紙媒体は保存性に優れるため誤魔化しがきかない。
 後から事件当時の新聞を引っ張り出してきて、交渉を有利に進めることは、よくある。



「とまあ、ここまでは読めたんだけどね。今日オレはグレンに、ドマ伯爵家や取り巻き二人の家に対して示談で済ませるようにって説得に来たんだよ」
「え!? どういうことですか!」

 まさか、被害者の兄に泣き寝入りしろというのか。
 憤るカレンを、どうどうとヨシュアは宥めた。

 現状、グレンは自分がナイサーたちからの暴行被害者であると騎士団の聴取で伝えていない。
 直接相手の家と交渉するつもりだろう。
 だが、それでは危険過ぎるのだ。

「グレンが一人単独で動かないようにって釘を刺しに来たんだ。交渉の際はオレたちの誰かを仲介人にしろって」
「あ……」
「カズン様になると思う。彼はあまり威圧感がないし、淡々としてるからわりと交渉も上手いんだ。何より王族だしね、立場が強い。それで取り巻き二人から多額の慰謝料をもぎ取ってくれると思うよ」
「え。で、でも、示談だって今ヨシュア様言ったじゃないですか!」
「うん。だから、そこで手打ちにして、家には実害ないよう収めましょうねって示談ね」

 貴族家の当主にとって大事なのは、家の名誉だ。それさえ守られれば、彼らは恐らくそう抵抗することなくグレンへの加害者となった息子たちを切り捨てるだろう。
 交渉が必要なのは、彼らが抵抗できない程度の慰謝料の金額をどう決めるかだ。

「うっわ……えげつなっ」
「傲慢なお貴族様っぽいでしょ?」

 ぱちん、と銀の花咲くアースアイでウインクされる。
 ヨシュアの美貌でウインクされると身も心も蕩ける男女がほとんどだろうが、カレンは騙されないぞと思った。

(この人もしかして、Sっ気強い攻め気質なのかも……)

 あまり深入りしない方がいいのかもしれない。

 とぼんやりカレンは思ったが、意思に反して魔導具師のカレンは彼とはそれなりに長い付き合いとなる。

「グレンは多分、全員を家ごと潰す気でいたと思う。それをやると彼ばかりか、君たちブルー男爵家も報復されて危ないからさ。だからそれで何とか手打ちにしようって説得に来たわけ」
「ここまで説明されれば、さすがにわかります。ありがとうございます」

 そこで、忘れていたティーセットでお茶を入れようとカレンが動き出す。
 トレイの上にあるティーポットは魔導具だ。まだ茶葉は入れてなかったようだし、魔力を流せば熱い湯で入れられるだろう。

 ヨシュアの座るグレンの机の前にある窓から、王都の中通りが見える。
 窓から見える範囲には、赤茶の髪も、ピンクブロンドの髪も中通りにはいなかった。

 ライルは婚約破棄のやらかし事件から、学園内での評価が落ちている。
 周囲に謝罪したことで多少は持ち直していたが、やはりトラブルの原因となったグレンとの仲が微妙なままだ。

「さて、ライル様はグレンを見つけてこれるかどうか」