その日の放課後、特に予定もなかったブルー男爵令息グレンは、そのままカズンたちに貰った茶碗蒸し入りの魔術樹脂を抱えて、帰路に着いていた。

 グレンの通う王立の高等学園から、王都のブルー男爵家のタウンハウスまでは徒歩で15分ほど。
 貴族の子息子女は馬車通学する者が多いが、この程度の距離ならグレンは歩くのが好きだからと、両親には馬車の手配を断っていた。

(馬車で通学すると、寄り道とかできないもの)

 もっとも、今日みたいに重い荷物がある日ばかりは、辻馬車で帰宅するのも有りかなとは思っているが。

 季節は五月の末。
 過ごしやすい春が終わり、通学路の街路樹も若葉が伸びて日に日に緑が濃くなってくる。
 学園を出て5分ほど経つと、額に少し汗が滲み始める。
 そして、もう5分少々歩くと、大通りから小道に入る横道がある。
 ここから道に入っていくと、一階は食堂、二階は宿屋、そして地下は居酒屋という小さな建物がある。

「……くそ」

 グレンにとって忌まわしい場所だった。
 忘れたくて堪らないが、まだ早い。まだグレンの復讐は終わっていない。



 グレンは、その居酒屋の個室でドマ伯爵令息ナイサーとその取り巻きたちに暴行を受けた。
 
 実行された日は、アナ・ペイルに女装してホーライル侯爵令息ライルをシルドット侯爵令嬢ロザマリアと婚約破棄させた日で、時刻は彼と別れてナイサーたちと合流した後だ。

 一時間か、二時間か。途中で殴られて気を失っていたグレンはそのまま放置された。
 ナイサーたちは戻ってくる気配はなかった。

「あのクズ野郎ども。絶対に殺す」

 しばらく動けなかった。
 ようやくソファの上から起き上がれるようになって、自分の状態を確認する。

 学園の女生徒の制服は引き裂かれ、見るも無惨な状態になっていた。
 幸いグレン自身の男子生徒用の制服は別に持っていて無事だった。個室に入った時点で部屋の隅に放られていたグレンの荷物に、ナイサーたちが手を付けた気配はない。

 自分の制服を詰め込んであった、通学用の革製のリュックサックの横ポケットから、小瓶を一本取り出す。

「くそ、こんなことで中級ポーション使う羽目になるなんて」

 中級ポーションは小金貨1枚と大銀貨1枚(約15000円)だ。冒険者活動をしているとはいえ、まだ学生のグレンには痛い出費だから、使わず取っておきたかったのだが。

 ヤケクソ気味に蓋を捻り開けて、中身をあおった。
 ほんのり甘く清涼感ある味わいが思いのほか美味しくて、少しだけ涙が出そうになる。
 痛めつけられた身体の怪我や痣はそれで消えた。



 自分の制服を着直し、それまで着ていた女生徒用の制服は、自分の制服を入れていた通学用のリュックサックの中に突っ込んだ。

「あーあ。新しいリュック買わないと。とんだ出費だよ」

 両親に失くしたといえば新しいものをすぐ手配してくれるだろうが、商会の経営で忙しい彼らに余計な手間をかけさせたくなかった。




 ブルー男爵家の王都のタウンハウスは、商会本部と同じ建物の上階にある。
 王都の城下町の、大通りから一本奥に入った中通りの好立地。
 三階建てのアズライトブルーのタイル張りのブルー男爵家のタウンハウスは、領地の本邸の三倍の規模がある。
 一階二階が商会の店舗と商会本部になっている。
 ブルー男爵家の家族の部屋は三階フロアだ。グレンの部屋も三階にある。

 8歳のとき、ブルー男爵家にグレンが引き取られ、数年経った頃にこの建物が建てられるほど商会の業績が安定した。
 もちろん、王都の数ある老舗商会と比べれば、まだまだ小規模だ。
 それでも、中通りとはいえ個人商店が十数店舗以上の建物と、商会員たちを擁するところまで成長している。
 今後は他領への支店進出も視野に入れていると聞く。
 今のアケロニア王国の中でも、成長率の著しい貴族家の一つなのは確かだった。

 グレンが、その身を犠牲にして守った家であり、人々だった。



 家族フロアに向かう前に、商会の受付を手伝っていたカレンに会いに行く。
 茶碗蒸しの話をして、ヨシュアに施してもらった透明な魔術樹脂を見せると、目を丸くした後、盛大に喜ばれた。

 夕方になって、仕事を終え三階に上がってきたカレンがグレンの部屋に浮き足立ってやってくる。
 一通り魔術樹脂を眺めて撫で回した後で、魔力を流して魔術を解く。

 状態保存の効果でまだ熱々の茶碗蒸しを、懐かしい味だと幸せそうな表情で食べる妹を、グレンは小さく笑って見守っていた。

「お兄ちゃん。学園でカズン様たちと仲良くやってる? あ、ヨシュア様やユーグレン殿下の話とか何か知らない!?」

 食事中、カレンに学園で先輩たちとの関係はどうかと聞かれる。
 カレンはそういう要素のあるロマンス小説に夢中なのだ。

(お前が無邪気に笑っていられるなら、それが一番だよ)



 王立学園の高等部に進学したグレンは、入学早々に3年の先輩で学園の問題児として有名だったドマ伯爵令息ナイサーに、少女のような可憐な容貌に目をつけられて付き纏われた。

 子供の頃から冒険者登録して活動していたグレンだったが、体格が大きく、力もあるナイサーに腕力で迫られると抵抗できなかった。
 次第にナイサーに放課後、アクセサリーのように連れ回されることになる。

 そのナイサーから、女装してホーライル侯爵令息ライルをハニートラップに嵌めてシルドット侯爵令嬢と婚約破棄させろと命じられた。

 貴族同士の政略に下手に関わることほど恐ろしいことはない。
 わかっていても、男爵家の庶子という弱い立場の自分で、伯爵令息のナイサーには逆らえなかった。



 翌朝、すぐに王都騎士団の本部に駆け込んで、ナイサーから受けている恫喝や、詐欺教唆の相談に行った。
 そこで、受付奥からホーライル侯爵が現れたときには、自分は何て強い運を持っているのだろうと歓喜に打ち震えたものだ。

 しかし、その喜びは二日酔いで頭を押さえる侯爵から面倒臭そうに追い払われたことで、呆気なく霧散した。

 それでも既に受付は済ませて、ホーライル侯爵家に関わる相談事だと受付担当の騎士にも伝え、グレンの連絡先も受付簿に記入してあったのだ。
 後からすぐに連絡が入るものとばかり思っていた。

 ところが当日、翌日、更にその次の日になっても、騎士団からは何の連絡もなかった。

 ナイサーは毎日、グレンのいる1年生の教室までやってくる。
 あの人相の悪い男に絡まれ続けていると、すぐにクラスメイトたちからは遠巻きにされるようになった。
 ナイサーからは「いつやるんだ、早くやれ」と毎日のように圧力をかけられる。時には暴力を振るわれて。

 結局、女生徒に扮して馬鹿みたいな高い裏声を出し、娼婦のようなわざとらしい媚びる仕草で、ホーライル侯爵令息ライルに近づくことになった。



 ライルに近づくのは簡単だった。
 彼は剣術馬鹿で、早朝の授業前、昼休み、放課後と武道館で剣の素振りや稽古をすることが多い。
 学園内の主だった施設へは中庭を経由する配置になっているから、武道館に通じる通路付近に訳ありげな雰囲気を作って待ち伏せしていれば、接触は容易だった。

「あ、あの、ホーライル先輩、すみません。シルドット先輩のことでご相談があるんです」

 両手を胸の前で握り締め、上目遣いに不安げな表情でじっと見つめると、赤茶の毛に茶色い瞳の剣士は途端にテンパって、呆気なく落ちた。

(そう。ボクって可愛いんだよね。下手な女の子より)

 まだ学園に入学したての十代半ばで背も低く、身体つきが華奢なのも良かった。
 女生徒の制服を着ていても、違和感がない。



 結果として、ライルをシルドット侯爵令嬢ロザマリアと婚約破棄させることには成功した。

 だが、それでナイサーお目当てのロザマリア嬢がナイサーに靡くかどうかは当然別の話だろう。
 ナイサーのドマ伯爵家経由での婚約打診は、幾度も断られ続けた。

 当たり前だ、ロザマリアはシルドット家の第二子で上に兄がおり、婿養子を取って家を継ぐわけではない。

 ナイサーもドマ伯爵家の四男に過ぎず、跡継ぎは長男の兄だ。ドマ伯爵家は伯爵以外の爵位も特に持っていない。
 ナイサー自身が素行が悪過ぎて、学園卒業後に騎士団へ入団するための推薦状も取れない状態だった。ということは騎士爵も授かれないということだ。

 そのような男と婚約させるメリットがシルドット侯爵家側になかった。



 次第にナイサーが焦り出し、取り巻きたちやグレンに、ロザマリアを誘き出すよう命じてきた。
 しかし相手は高位貴族のご令嬢だ。彼女には護衛を兼ねた生徒が付いている。そんな隙などあるわけがない。

 すると、ナイサーはどこからか隷属魔法のかかった魔導具の腕輪を調達してきた。
 腕に嵌めると、相手は嵌めた相手と強制的に隷属関係が結ばれ逆らえなくなるという。

 妹が魔導具師のグレンは、その腕輪が違法な代物で、明るみになれば関わった者たち全員がただでは済まないことにすぐ気づいた。



 どうすればいい。
 こういった犯罪行為を管轄するのは騎士団だ。
 だが、その騎士団の副団長であるはずのホーライル侯爵には無視されてそれっきり。

 授業もそっちのけで必死で考えていると、朝のホームルームのとき配られた学内新聞に気づいた。
 新聞の第一面に生徒会長のコメントが掲載されている。

 生徒会長・アケロニア王国第一王子ユーグレン。

 そう最後に手書きで署名されている。

(そうだ。今この学園には王子様がいる。生徒会長なら生徒の相談に乗ってくれるかもしれない)

 その日のうちに情報を集めてみると、ユーグレン王子は放課後なら生徒会室にいることが多いという。
 放課後までに相談する内容を頭の中でまとめておいた。

 それでも、すぐ生徒会室に向かうには躊躇いがあった。

(ユーグレン殿下はボクの話を聞いてくれるだろうか。聞いてくれて、何かボクのために動いてくれるんだろうか……)

 しばらく、放課後の誰もいなくなった教室で考え込んでいた。

 だが夕方近くなったところで我に返り、慌てて生徒会室へと向かう。

 途中、登り階段の踊り場でぶつかったのが、ユーグレン王子の年下の大叔父で王弟のカズンだったのが、グレン最大の幸運だと知るのはその直後のことだった。