うちのクラスの学級委員長、王弟殿下なんですよ~王弟カズンの冒険前夜

 その日、昼食の時間よりかなり早い時間に、カズンたちホーライル侯爵領行き一行は王宮に集合した。

 王宮奥、王城の入り口入ってすぐのサロンに集まって、王弟カズン、ホーライル侯爵令息ライル、リースト伯爵ヨシュアは最後の一人を待っていた。
 まだ学生の王弟に、高位貴族の令息、そして現伯爵と、若々しく見目も良く有名な三人とあって、用もないのに王宮の侍女たちがこっそり覗いては去っていく。

「もう一人追加って誰なんだ? カズン」

 ソファに座って、手持ち無沙汰に腕のストレッチをしながらライルが訊いてきた。

「うむ、皆知ってる奴だぞ」

 カズンはそう言うのみで、具体的に誰かまでは言わなかった。

「それにしても遅いですね。現地に到着してからお昼の調理でしょう? 間に合うのかな」
「一応、現地で海老中心に食材の手配は頼んである。まああんまり遅くなるようなら、先に飯食って調理実験は後回しにしようぜ」

 サロン付きの侍女に待ち人の様子を確認すると、もう間もなく到着するとのこと。



◇◇◇



 カズンたちがホーライル侯爵領への小旅行を決めたのが、一昨日の学園での昼休みでのこと。

 同じ食堂内で自分たちの話をユーグレン王子が聴いていたのを知っていたカズンは、その日の放課後、馬車留めへ向かう通路で彼を待ち伏せしていた。

 生徒会長の仕事を片付けてから下校するユーグレンは、案の定、夕方近くになってから護衛を兼ねた補佐官候補の生徒と現れた。
 いつ見ても自分と身長以外はそっくりな王子だ。黒髪黒目はこの国ではアケロニア王族だけだから、見つけるのは容易い。

「カズン? お前もこれから帰るのか。ちょうどいい、話が」
「……殿下? ホーライル侯爵領に来たいんですよね? けどその前にちゃんとホーライル侯爵令息に話を通すのが筋じゃないですか?」
「……うっ、そ、それはそうだが」

 既にライルに一人追加と伝えていることなどおくびにも出さない。
 ユーグレンの斜め後ろに控えている護衛兼の補佐官補佐の男子生徒は、カズンの言葉に同意するように深く頷いている。

「それに、急に週末二日間も王子が留守にするだなんて、国王陛下と王太女殿下にはどう伝えるおつもりで?」
「お、お前が一緒に説得してくれれば、絶対何とかなると思うのだがっ」

 はあ、とカズンは深い溜め息を吐いた。
 言われるまでもなくそのつもりだった。

 この世界は、前世で生きていた現代日本と違って、電話もメールも、スマホのメッセージアプリもないのだ。
 一応、通信機能を持つ魔導具はあるが高価で一般化まではされていない。
 連絡手段が限られているから、すれ違いを防止するにはこうして待っているしかなくて、少し面倒だ。

「仕方ないですが、引き受けましょう。どうせ、この後一緒に王宮へ向かうつもりでしたから。……その前に、うちの馬車の御者に伝言するので来てくれます?」

 そうしてアルトレイ女大公家の御者に、王宮に寄って行くので帰りは遅くなると伝言を託して、先に帰らせた。

 カズンはユーグレンの王家の馬車で、護衛を兼ねる補佐官候補の生徒と三人で王宮行きだ。



「母上は問題ないはずだが、やはりお祖父様が難関だ。カズン、どんなふうに口添えをしてくれるのだ?」

 カズンは黒縁眼鏡のブリッジを中指ですっと押し上げた。キラリとレンズが光る。

「……ガスター菓子店のショコラ詰め合わせ、大中小どれを賜るかで僕のやる気は大きく変わることでしょう」

 ガスター菓子店は王都の有名菓子店で、チョコレートを使ったスイーツで知られる名店だ。

 ショコラ詰め合わせは小箱が銅貨8枚(日本円で約800円)から。
 中箱が小銀貨5枚(約5000円)から。
 大箱はポピュラーなもので小金貨2枚(約20000円)から。

「ぐ……っ。こらカズン! お前だって私と大して小遣い変わらない癖に! ちょっと吹っかけすぎではないか!?」
「いえいえ、別に構わないのですよ、一口サイズのショコラ片2枚ぽっちの小箱だって。ただし結果はお約束できませんなあ」
「うぐぅ……そう来るか……!」

 前に座る補佐官候補の男子生徒が笑いを堪えている。
 普段はこの国の唯一の王子として、各所で采配を振るう悠々とした姿ばかり見ているだけに、カズンに振り回されている姿が面白いようだ。

「うう……中箱ショコラで手を打ってほしい……それ以上はさすがに無い袖は振れない」

 しばらく唸りながら熟考した後、断腸の思いでユーグレンは決断を下した。

 いくら王子とはいえ、まだ未成年のユーグレンの使える金銭は“小遣い”の範囲内に過ぎない。
 もちろん、王族としての品格を維持する費用は毎年大金が動くが、それは国から出ている予算であって、ユーグレン個人が私用で使えるものではない。
 王弟のカズンもその辺の懐事情は同じだ。毎月一定額の“お小遣い”をやりくりする、一学生に過ぎなかった。

「よろしい。そんなに悔しそうなお顔をなされますな。きっと、実に良い出費だったと後で僕に感謝するでしょうからね」
「馬鹿丁寧な言葉遣いはやめろというのに。お前は一応、私の大叔父様ぞ。……ヨシュア絡みでは、お前の手のひらの上で上手く転がされてばかりな気がする。まったく」

 好物を報酬にして交渉成立のカズンは、黒縁眼鏡の奥でにんまり笑う。
 対するユーグレンは思わぬ出費に項垂れている。



 その後は、王宮に着いてすぐ、国王テオドロスの執務室へ向かう一行だった。

 そして速攻でテオドロスの説得ばかりか、小遣いまでせしめるカズンの手腕に、ユーグレンは内心舌を巻いた。

「わあ、ありがとうございます、お兄ちゃま! お土産買ってきますからね!」
「うむうむ、気を遣わずともよいぞ、怪我にだけは気をつけるがよい。ユーグレンもな」

 しかも、しっかりユーグレンの分の小遣いまで確保してくれるときた。

(これはしばらく、カズンに頭が上がらん……)

 それぞれ一掴み分ずつの大銀貨を頂戴したのだった。(大銀貨1枚=約5000円×十数枚)

 侍女から、待ち人は間もなく到着すると報告を受けてから数分後。
 現れたユーグレン王子に、さすがにライルもヨシュアも驚いていた。

「え、な、何で王子殿下が!?」

 既に自身のやらかした婚約破棄事件と転生者同士と判明して以降、王族にはカズンで慣れていたライルも、驚いてソファから飛び上がっていた。

「ああ、実は……カズンから話を聞いて、な」

 ちらり、とカズンを見てくるユーグレンに、仕方ないなと軽く頷いて見せる。

「そういうことだ。ユーグレン殿下も自由に遊びに行けるのは、学園を卒業するまでだからな。良い経験になるのではないかと、誘ってみたのだ」
「何だ、そっか……。あ、だから『一人追加予定』だったんだな! 焦ったぜ、それなら最初から言っておいてくれればいいのによ!」

 実際は、ユーグレンを連れて行けるか、国王テオドロスの許可を取れるかの確率が半々だったので、確実なことは言えなかったというのが正しい。

 この場の四人とも、アケロニア王国の王族と貴族たちなので、既に互いに面識はある。
 だが、ライルにとって親しく付き合っているカズンと、最近カズン絡みで雑談するようになったヨシュアはともかく、王子のユーグレンとはさほど馴染みがない。

「略式で失礼します。ユーグレン王子殿下にご挨拶申し上げます。ホーライル侯爵家のライルと申します。どうぞライルとお呼びください。よろしくお願い申し上げます」

 軽く胸に手を当てて、略式礼の形を取った。
 王族など身分が上の者への正式な挨拶では膝をつくが、この後すぐ出かけるのだ。また同年代の同じ学園生で、畏まった挨拶にこだわる必要もない。

「うむ、君のことはカズンから聞いている。堅苦しいことは抜きにして、私もユーグレンと呼んでくれ」
「はは……色々お恥ずかしい話でお耳汚しをしてしまったかと。では、ユーグレン殿下とお呼び致します」

 と、ここまでが貴族社会のセオリー通りのやりとりだ。
 ひとまず、ここまでやっておけば、あとは互いに羽目を外さぬ程度で良いのである。



 さて、王宮内の転移陣は、アケロニア王国内の主立った貴族領内の領事館を繋ぐように双方に設置されている。
 アケロニア王国はどの地方へも早馬で三日も駆ければ到着する程度の広さだが、魔法や魔術が発展した現代では、こうして所定の料金を支払って瞬間的に転移できる転移陣を使うことも多い。

 現地のホーライル侯爵領では、侯爵令息のライル、王弟カズン、リースト伯爵ヨシュアの他に一人の計四人が来訪すると事前に連絡を受けていた。
 その中に、まさかのユーグレン王子が混ざっていて、出迎えに来ていたホーライル侯爵家の家令、領事館の領事や職員たちは大騒ぎになった。

(しまった、やはりいきなりユーグレンを連れて来るとこうなるか)

 内心慌てたカズンだったが、顔には出さず、軽く手で制すると一同はすぐに口を閉じ、部屋は静まりかえった。
 しばし誰もが無言だった。沈黙の間を効果的に使うよう、更に数秒待ってからカズンが口を開く。

「混乱させて済まない。今回はユーグレン殿下も学生らしく、お忍びで遊びに来られただけなのだ。暖かく見守ってもらえるだろうか?」
「お、お忍びでしたか! それならもちろん、はい!」

 家令と領事が胸を撫で下ろしている。
 お忍びとは、即ち非公式ということだ。言葉は悪いが、非公式で王子が何か問題を起こしたり、巻き込まれたりしても現地で迎えた者たちが責任を負わされることもない。

「しかし、お忍びとはいえユーグレン殿下や皆様、護衛はどうなされたので?」

 ホーライル侯爵家の初老の家令が、きっちり確認してくる。
 特にユーグレンはいつも護衛を兼ねて連れている、補佐官候補の生徒を今回は同伴させていなかった。

「今回は二日間だけだし、出歩くところも決まっているのだ。護衛ならホーライル侯爵令息のライル君と、リースト伯爵で魔法剣士、竜殺しの称号持ちのヨシュア君がいる。過度な護衛は必要ないだろう」
「そ、それは確かに……!」

 一同に紹介されて、ライルとヨシュアは軽く微笑んで見せた。こういう場合は頭を下げるのでなく貴族らしく笑っていればいいのだ。

 こう見えてライルは騎士団副団長の父や身内の騎士たちから指導を受け、学生ながら剣士として確かな腕を持つことが知られている。

 ヨシュアは竜殺しの称号を授与されたとき、国内の新聞で大々的に紹介された過去がある。貴族や平民でも有力者クラスならよく知っているだろう。

 一通り今回の小旅行の理由を説明し直して、何とか事なきを得た。

 今回のホーライル侯爵領への小旅行の目的は、ただ一つ。
 カズンが作っているラーメンの新たなスープ材料として、海老をゲットするためである。

 ひとまず家令はホーライル侯爵邸へ帰し、同じ区画にある商業ギルドへと移動する。
 商業ギルド内の調理室を借りて、調理実験をすることとなった。
 ライルを通じて、その日の早朝に水揚げされた新鮮な海老を主体に材料を揃えてもらってある。

 アケロニア王国は円環大陸では一部の領を除き、比較的気候の安定した地域にある。

(前世の知識と比べてみると、イタリアっぽい食文化なんだよな)

 他国と比べても食糧事情が良い。必然的に食道楽が多く、貴族もこうして自ら調理するのは珍しいことではない。
 もっとも、生活のために料理を作る庶民たちと比べれば、貴族は調理スキルを磨くための趣味であることも多いのだが。

 上着を脱ぎ、エプロンと髪をまとめる用の三角巾だけ身につけて、いざ美味スープの調理へ。

 が、しかし。

「やはり海老出汁スープには味噌が欲しい……!」
「海老単体でも美味いんだけどなあ……何か物足りねえっつうか」

 ラーメンマニアのカズンとライルが、出来上がったスープを味見して項垂れている。
 とりあえず最初は、車海老と芝海老に似た海老を殻ごと、いくつかの香味野菜とともに煮てみた。
 素材の海老の鮮度が良いので、十数分後に出来上がったスープは海老の旨味がふんだんに溶け出した素晴らしい風味だった。
 まだほとんど塩も足していないのに、口の中いっぱいに広がる海老の旨味がすごい。

 だが求めていた海老出汁スープのイメージとは大分かけ離れていた。



「身じゃなくて、殻からもスープを取るのですね。面白い使い方だ」

 試作品第一号のこのスープベース、ヨシュアは結構好きな味だった。
 隣で同じように味見していたユーグレンも、具も何もないスープだけの旨味に驚いている。

 飲食店組合の組合長によると、ホーライル侯爵領では海が近く海老も新鮮なものが毎朝市場に出回るので、加熱せず生のまま食すことも多いのだそうだ。

「茹でた海老の身を荒く刻んで、香草と和えてゼリー寄せにしたものは母が好きなんだ。リースト伯爵家ではどうだい?」
「我が家だとやはり鮭が多いですね。名産品ですし」

 リースト伯爵領には海はなくとも、川がある。その川へ、海に面した他領経由で鮭が上がる。

 カズンとライルは、ああでもない、こうでもないと海老出汁スープ第一号を前に、他の材料をあれこれ吟味しては次の手を模索している。
 こちらはこちらで、ヨシュアはユーグレンと工夫してみることにした。

「オレは別の料理を作ってみようかと思います。殿下はどうなさいますか」

 カズンたちのラーメンスープ作りに混ざるか、ヨシュアの方を手伝うか。

「あちらは、あれで盛り上がっているようだ。私は君を手伝おう。何かできることはあるかい?」
「では海老の殻を一緒に剥いていただけますか」

 王族の一人として調理などしたことがなくとも、『全方向に優秀な王子』と言われるだけあってユーグレンは器用だった。
 最初の一、二尾だけ潰してしまったが、ヨシュアや飲食店組合の調理師たちにコツを教えられ、すぐにスルッ、スルッと海老の頭や殻、脚を剥がしていった。
 二人の調理師も加わって、あっという間に海老の身と殻がそれぞれ山になってボウルにわけられる。

「あとはこう……殻を軽く焼いて、煮て……」

 ヨシュアは調理スキルを持っているが、専門の調理師がいるので実際の調理はそちらに任せることにした。口だけ出して、指示通りに調理していってもらう。
 ニンニクやタマネギ、トマトなども細かく刻んで煮詰めたり、油で炒めておいたりしてもらう。

 同時進行で、カズンたちが使いたがっていたものとは別の幅広の麺も大鍋で茹でるよう指示した。
 殻ごと茹でたスープは、中身の殻を一部だけ残して取り除き、ここで少しだけヨシュア自ら魔術を用いて殻ごと滑らかになるまで細かく粉砕し、かき混ぜた。

 そこへ、炒めておいたニンニク、タマネギ、トマトも入れて、更に滑らかになるまで同じように魔術を使いかき混ぜていく。
 最後に生クリームを足して、味見をしてから塩を足す。

 その頃には茹で上がっていた幅広パスタのフィットチーネを、一人前ずつ鉄のフライパンで海老のソースと合わせて軽く加熱して、皿に盛り付けていった。

 別で塩ゆでしていた海老の身と、香草のパセリを彩りよく飾り付けて完成である。



「おーい、二人とも! お昼ご飯できましたよー!」

 出来上がったのは、いわゆる海老のビスク風パスタだった。

 ヨシュアに声をかけられて、まだ海老出汁スープにああだこうだと言いながら試行錯誤していたカズンとライルが、勢いよく振り向いた。
 そして、調理台に載っているパスタ料理の皿を見て、指差して叫んだ。

「ちょ、何だそれ! 何でパスタなんか作ってんだよヨシュア!」
「だって、カズン様たちのラーメンスープ、今日中に完成しそうにないんですもの。オレはお腹が空いてるんです」

 悪びれなく言って、ユーグレンや調理師たちと隣の食堂に皿を持って運んでいった。

「くそ、やられた!」
「おのれヨシュア……静かだと思ったら何という裏切り」

 毒づいているカズンたちに、調理室まで戻ってきたユーグレンが呆れていた。

「あのな、お前たち。とっくに昼時は過ぎてるんだ、ラーメンスープとやらに夢中になる前に、先に食事にしよう」
「……悔しいが美味い」
「………………以下同文」

 新鮮な海老の濃厚な旨味を、生クリームと香味野菜でまとめあげた海老のクリームパスタは、ソースを残すのが惜しくなるほど美味だった。

「文句言いながらなんて、お行儀悪いですよ、カズン様、ライル様。でも美味しかったのなら良かった」

 食堂はまだギリギリ、ランチの時間帯だったので、食べ放題のパンがカゴに盛られて各テーブルの上にある。
 メインはパスタだが、残ったソースをパンで拭って食すのはこの国の食事マナー的に有りだ。

「しかも、あんな短期間で前菜とサラダまで作るとは。侮り難しヨシュア……」

 千切った葉野菜の上に、刻んだ生の海老の身を円盤状にまとめたものが載っている。その上に香菜のディルのみじん切りと、オリーブオイルのドレッシングがかかっている。
 いわゆる、海老のタルタルステーキだ。

「これもシンプルだが美味いな。ディナーなら白ワインと一緒にいただきたかったぞ、ヨシュア」
「お褒めに預かり光栄です、殿下。オレの初級の調理スキルでは一度に二品が限界なのです。でも喜んでいただけたなら嬉しいです」

 微笑むヨシュアの、麗しの美貌の威力よ。

「ンンッ、……うむ、いや本当に……美味い」

 ユーグレンが飲んでいるのはワインなどではなく、ただの水だ。
 なのにその頬はほんのりと赤い。



「……なあ、ユーグレン殿下ってさ……」
「しっ、言うなライル。下手に突っつくと延々と切ない推し語りに付き合わされるぞ!」

 さすがに間近で見ると、普段は剣しか興味がないライルでも気づく。
 ひそひそと、彼らに聞こえない程度の声量で情報交換するカズンとライル。

「え、あれっていつから?」
「僕たちが学園に入学した頃からだ。ほら、竜退治のときから」
「なるほど、あれでキュンと来ちまった口かあ殿下……」
「ヨシュアのファンは皆ああなるからなあ」
「普通に仲良くなりゃいいのにな」
「まったくだ」

 とりあえず邪魔はせず、見守るに留めようということで話はついた。



「にしても、海老出汁ラーメンスープ、案外難しかったな」
「ああ。僕も海老出汁はそんなに詳しくなかったからな。簡単に考えすぎていた。ライルのほうは?」
「俺は作るほうは全然だなァ。領の本宅も、王都での屋敷でも飯は美味いから自分で作るとか考えたこともねぇ」

 調理スキル持ちの一部を除けば、貴族の男子などこんなものだろう。

「でも、辛味噌系の海老ラーメン……食いたいよな?」
「食いたい。やっぱ味噌探しやろうぜ、魚醤や醤油はあるんだし探せば絶対どこかの国にはあるはず」

 漁港のあるホーライル侯爵領には、何と魚醤、前世の日本ではナンプラーと呼ばれていたものに相当する調味料があった。
 調理室の調味料入れを確認したところ発見したのだが、あの強烈なアンモニア臭を我慢して味見してみれば、懐かしい塩気の強い発酵調味料の味。間違いない。

 醤油は他国から輸入する代表的な調味料のひとつだが、これは王都でも保存食扱いで容易に入手可能だ。実際、学園の食堂で再現してもらった醤油ラーメンのスープには既に使っている。

「魚醤と醤油・味噌は原材料からして別だぞ。……だがまあ、醤油があるのに味噌が輸入されてないのは謎だな。味噌の副産物が醤油なわけだし」



 ヨシュア作の生海老タルタルステーキと海老のビスク風パスタを食べ終わり、さてこの後はどうしようかとカズンは思いを巡らせる。

「いや待てよ、タルタルステーキ……タルタル……」
「カズン、それってまさか」

 黒縁眼鏡のブリッジを押し上げながらのカズンの呟きに、ハッとライルが茶色の目を見開いて反応する。

「この国って、タルタルソースはないよな?」
「ない。卵酢もといマヨネーズはあるが、タルタルソースはまだ見てない」

 ナイフとフォークを置き、すくっと二人同時に立ち上がった。

「ヨシュア! まだ海老は残っているな!?」
「え、ええ……残った分は食堂で使い切ってくださるそうなので」
「よし! 行くぞライル!」
「了解!」

 再び調理室へ向かうカズンとライル、そして一同の相伴に与っていた調理師たちも慌てて席を立ち、後を追う。
 残されたユーグレンは呆気に取られるが、ヨシュアは慣れた様子で笑っている。

「まだまだ美味しい追加が出てくるってことですよ、殿下」

 さて、それから十数分後。
 達成感溢れる表情でカズンとライルが持ってきたのは、フライものだった。

 一つは有頭・尻尾付きの海老フライ。
 もう一つは、円盤形のフライ。

 白い皿の中央に中サイズの海老2本と、円盤型フライ1枚が載せられ、彩りの香草とレモンの櫛切りが載せられている。

「海老と、海老の身の叩きをまとめたものに、溶き卵とパン粉をまぶして揚げてみたのだ」
「随分地味な見た目の料理だな?」

 自信満々に胸を張ったカズンに対し、こんがりきつね色だが茶色いフライ料理を見て、ユーグレンは訝しげな表情だ。

 アケロニア王国で揚げ物はあまり一般的でない調理方法だ。
 揚げ物といえば素材の形と色が見える素揚げがメインで、こういう衣を付けたものは珍しい。

「そう思うだろ? とりあえず、レモンかけて食って見てくれ」

 カズンと共に再びエプロンと三角巾を装着していたライルが、これまた自信満々にユーグレン、ヨシュアに勧めた。

「そこまで言うなら……」

 言われるままにフライへレモン汁を振りかけ、ナイフとフォークで海老の頭と尻尾を切り離し、一口大に切り分けてから口へ運ぶ。

「む」
「おお、これはこれは」

 フォークを刺したときの手応えでわかっていたが、ざくっとした軽いパン粉衣の歯応えの良さ。
 そして口いっぱいに広がる海老の旨味。
 レモンの爽やかな酸味と合わさって、非常に食べやすく舌を楽しませる料理だった。

 驚いて次から次へ口に運ぶ二人の様子に満足して、カズンは隣のライルを促した。

「そんで! 次は是非こっちのソースをかけて食ってみてくれ!」

 ライルが持つ配膳用のトレーの上には、人数分の小皿が載っている。
 小皿には黄色味がかった具入りのソースが入っている。

「円盤の形をした揚げ物も試してくれるか?」

 カズンに言われるまま、ソースをスプーンですくって円盤形のフライに添え、カットしたフライを付けていただく。

「「……!」」

 ヨシュアとユーグレンの反応はなかなかだ。
 カズンはライルとともに、己たちの勝利を確信した。



「揚げ物にマヨネーズベースのソースをかけるだなんて。背徳的な組み合わせです、カズン様」

 自前の物品鑑定スキルで材料を見抜いたヨシュアが、しみじみ呟いた。
 タルタルソースの材料は、マネヨーズ、ゆで卵のみじん切り、タマネギのみじん切り、パセリなど香草、後は軽く塩や胡椒。今回はレモン汁も加えてある。

「このフライなる揚げ物も素晴らしい。我がリースト伯爵領の鮭でも今度試してみますね」
「うむ、サーモンフライにタルタルソース。海老に勝るとも劣らぬマリアージュよな」
「ですよね! うちのサーモンパイにバリエーションが広がりそうです」

 ユーグレンや、調理を手伝ってくれていた調理師たちが、ワインが欲しい、いやこの揚げ物にはエール一択! などと悶えている。

 なお、このアケロニア王国の成人は18歳で、今回の学生組の中で成人しているのは春生まれのユーグレンだけだ。

 余談だが、爵位を継承するとたとえ幼児でも成人扱いとなる。
 既にリースト伯爵のヨシュアも実年齢は未成年だが、社会的には成人だ。
 もっとも、まだ本人に飲酒の意思がないことをカズンは知っている。



「まだ揚げたやつがあるから、腹に余裕があれば遠慮しねえでくれ」

 調理場から油切りバットごと、ライルが残りのフライを持ってきた。

「ふ。海老の円盤形フライもとい海老カツといえば、これをやらねばな」

 心得たとばかりに、カズンも調理場から何やら野菜の千切りや調味料を持ってきた。
 更には紙ナプキンまで。

「こう、丸パンを半分に切るだろう?」

 テーブル上のパン籠から、ミルク入りの柔らかな丸パンを手に取り、使っていなかった予備のナイフで横から切れ目を入れる。
 そこにバターではなく、マスタードを薄く塗る。
 その上に細かく千切りにしたキャベツ、海老カツと重ねていき、最後にタルタルソースをたっぷりと。
 出来上がったものは紙ナプキンで包んで、持つ手が汚れないようにした。

「というわけで、海老カツサンドの完成だ」

 やりきったという達成感に満ちた表情のカズンに、「それ俺食いたい!」と速攻手を上げるライル。



 対して、ヨシュアとユーグレンは少しだけ引き気味だった。

「揚げ物をパンに挟むなど……大丈夫なのか?」
「ええ……凄いこと考えますよね?」

 もちろん、アケロニア王国にもサンドイッチはある。
 ただ、従来だと挟む具は野菜やゆで卵、肉は燻製などが主流で、脂っ気の多いものは入れないことが多かった。

「ふっふっふ。さあ、二人ともどうする?」

 眼鏡のレンズを光らせながら不遜に笑うカズンに、ヨシュアとユーグレンは顔を見合わせた。
 既にフライで味をしめている調理師たちは、率先して海老カツサンド作りを買って出てくれている。

「あれ、二人とも食わねえの? ならオレ残り貰ってもいいか?」
「ああ、存分に食せライル。僕もいただくが、余った分は食堂の皆さんが美味しくいただいてくれるだろう」

 おう! と食堂のあちこちで声が上がる。
 今回は商業ギルド内の調理室を借りて実験しており、ここは食堂の一角だ。
 さすがに王族がお忍びで来ているため遠巻きにされているが、領主の息子が調理スキル持ちと何やら調理実験しているとは聞いているらしく、興味津々らしい。

「……っ、カズン様が言うなら絶対美味しいはず! 一つお願いします!」
「……私も一つ頼む」
「毎度ありがとうございます」

 紙ナプキンで包んだ海老カツサンドを皿に載せて、一つずつサーブした。

「これは、このままかぶりつけばいいのか?」

 慣れない食べ方にユーグレンが苦戦している。
 既に先に食べているライルを見て真似しようとするが、普段食しているサンドイッチと違い紙ナプキンに包まれているため、勝手が異なるようだ。

「殿下、こう……ナプキンから食べる分だけ押し出して囓ればよろしいかと」

 こう、と横からヨシュアが手を伸ばして、ユーグレンが持つ海老カツサンドの紙ナプキンを押さえてやっている。
 触れ合う指と指。互いの顔も近い。思わずユーグレンが取り落としそうになるのを、すかさずヨシュアが受け止める。

「す、すまない!」
「大丈夫ですか? 難しいようでしたら、皿でナイフとフォークを使って食べてもいいと思いますよ?」
「い、いや、このまま頑張ってみる……」

 うん。頑張れ。すごく頑張れ、ユーグレン殿下。

 図らずもカズン、ライルだけでなく、調理師たちも皆心の声は一緒だったようだ。
 あえて余計な口は挟まず、見守りに徹するのみ。

 何とかユーグレンが自分で海老カツサンドを食べ始めたのを確認して、ヨシュアも自分の分に口を付けていく。

「……うん、鮭をフライにして同じようにパンに挟むの、有りですね!」

 鮭が特産品のリースト伯爵領の主は、海老カツサンドを咀嚼しながら力強く頷いている。

 その隣の席では、「鮭を食しにリースト伯爵領……行きたいな……(ヨシュアと共に)」と副音声まで聞こえてきそうなことをユーグレンが呟いている。



「えっと……あれ、もちろんヨシュアは気づいてんだよな?」
「そう思うか? 気づいてるなら話はもっと早かったんだ」
「え。無自覚なの? 気づいてねぇの、あれで!?」

 うむ、と重々しくカズンは頷いた。

「ヨシュアはあの容姿だし、人から好意を向けられることに慣れているからな。はっきり言われない限り、自分から気にすることもないのだろう」
「うっわ、てっきり殿下からの好意をわかっててスルーしてるんだとばかり。それはそれでキツいな……」

 それぞれ数個めの海老カツサンドを囓りつつ、ヨシュアとユーグレンを眺める。

 にこやかに海老カツサンドの感想を言い合っているが、平常なのはヨシュアだけで、やはりユーグレン側はどこか挙動もぎこちない。

「キツいのは、あれを上手く導かねばならん僕のほうだ。今はまだ学生だから良いが、卒業後の王宮内でもあのままだと不味い」

 一国の王子が、ただの伯爵を信奉、いや崇拝する姿を他者はどう思うか。

 今は学園の最終学年で、三学期制の第一学期が始まったばかり。
 もう少し何とかなれば良いのだが。

「お前も大変だな。ま、愚痴くらいなら俺でも聞けるからさ」

 へへっ、と照れたように笑う赤茶の髪の少年の存在が、今はありがたい。
 今後は彼ら絡みの件でも遠慮なく巻き込ませてもらおう。



「カズン様、お待たせしてすいません。ところで海老のラーメンはどうされるんです? この後まだ調理実験します?」

 談笑しながら海老カツサンドを食べ終えたヨシュアが、ようやくこちらを思い出したようで、確認してきた。

「………………やはり一朝一夕にはいかん。今回は美味いフライ料理が作れたからよしとしよう」

 前世での日本のように保冷剤などない世界だ。
 転移陣はあくまでも人間の移動のためだけのもので、各地の物産品を運ぶことは禁じられているし、海老を新鮮なまま王都に持ち帰るのも難しい。

 商業ギルドからは干し海老を融通して貰えたので、王都ではそれを使って引き続き海老出汁スープの研究を行おうと思っている。



 それから腹ごなしに、漁港の街を散策することにした。

 今回のホーライル侯爵領への小旅行は私的な探訪のため、特に礼服は持参していない。
 ライルの父であるホーライル侯爵も王都のタウンハウスにいて、こちらまでは来ていないことだし。
 こういった街歩きを想定していたため、良家の坊ちゃんが街を適当に散策する程度のラフな衣服を心がけている。

 とはいえ、全員がジャケットとシャツ、スラックスに革靴と、これでスカーフかネクタイを締めればそのまま高級レストランに入れる格好でもある。
 カズンがどう頑張っても、アルトレイ女大公家の執事がこれ以上カジュアルな衣服を用意してくれなかった。その辺の事情は他の三人も同じだろう。

「なあ。ジーンズ、欲しいよな?」
「激しく同意。どうせ革靴とシャツからは逃れられんのだ、ジーンズルックだってキレイめにまとめればうるさくは言われないはず」

 アケロニア王国は王族や貴族のいる国のため、どこに行っても身分ごとのクラス感からは逃れられない。
 自宅の屋敷ならゆったりと動きやすいズボンとシャツだけでもいいが、人目のある場所で“庶民に見える格好”は、王族や貴族である彼らには許されなかった。



「ライル様ー! 地図お持ちでしたよね、見せてくださーい!」

 前を歩いていたヨシュアがライルを呼ぶ。
 商業ギルドで貰ってきた、漁港付近の簡易地図はライルが代表して受け取っていた。

 ライルがヨシュアの元へ行くと、すかさずユーグレンがカズンの元へやって来た。

「カズン……私はもう今日で死んでしまうのではないか? 今日だけでどれだけ彼と話しただろう? もう一生分話した……」
「何言ってるんですか、殿下。これからまだホーライル侯爵邸に行って、一緒の晩餐がありますよ。その後だって」

 さすがに高位貴族のホーライル侯爵邸で枕パーティーはできないだろうが、同級生の男子4人が集まっているのだ。話題は色々尽きないだろうと思う。

「殿下がもうちょっとしっかりしてくれてたら、ホーライル侯爵邸でゲスト用の四人部屋を用意してもらえたんですよ? 残念ながら今回は僕と二人部屋です。王族は二人まとめておいたほうが警備も楽でしょうから」

 当初、ちょっとした合宿みたいにしないか? とライルが提案してくれて、ホーライル侯爵邸では四人一緒に同じ部屋で眠れる広いゲストルームを用意してもらえる予定だった。

 ところがその話を聞いたユーグレンが「無理だ! 憧れの人(ヨシュア)と同じ部屋でなんて眠れるはずがない!」と悲痛な叫びを上げたため、仕方なく別々の部屋を準備させることになってしまった。

「この調子で、明日の午後帰るまで保つんですかね?」
「保たせて……みせる……」

 旅行はまだ丸一日残っているのに。

 まるで死に戦に赴く騎士の如き悲壮さを浮かべて、ユーグレンが黒い瞳に決意を固めている。
 自分より高い身長と体格以外はほとんど同じ、黒髪黒目の端正な顔立ちのいい男のはずが、どうにも締まらないことだ。

 前途多難だなあとカズンは思ったが、父ヴァシレウスに頼まれているということもある。
 この旅行期間中に、少しでも二人が親しくなれれば良いのだが。

 今のところ、ヨシュア側のユーグレン王子への対応は社交辞令の域を出ていない。

 アケロニア王国の貴族家には、それぞれ伝統的に伝わる名物料理がある。

 ホーライル侯爵家の代表料理は、自領で取れる魚介類をふんだんに使ったサフランスープで米を炊き上げた、いわゆるパエリアに近い米料理だ。
 大切な来客を迎えるときには大きな鉄のフライパンを使って炊き上げる。底にできる香ばしいお焦げの匂いが空腹を刺激して堪らなかった。

「今回は突然の来訪にも関わらず、このような歓待を受け感謝する。……乾杯!」

「「「かんぱーい!!!」」」

 やはりこういうときは、王子のユーグレンがいると挨拶など楽でいい。
 乾杯用の炭酸入りぶどうジュースのグラスに口をつけながら、カズンは内心ほくそ笑んでいた。
 これでユーグレンがいなければ、次は王弟の自分にお鉢が回ってきてしまう。

 調理実験と昼食を終え、商業ギルドを後にしてからは適当に漁港の街を散策し、露店などを冷やかしながら各々が家族への土産を買い求めていた。
 ライルが土産にと勧めてきたのは、海産物のオイル漬け瓶詰めだった。海老や魚、貝などを加熱してオリーブオイルのような食用油を注いだものだ。
 ニンニクや唐辛子、香草といったハーブ類と一緒に漬け込んだものなど様々あって面白かった。
 ホーライル侯爵領で育ったライル本人の一押しはイワシのニンニクオリーブオイル漬けで、これで作ったパスタが子供の頃からの好物だという。
 ところが、このイワシのオイル漬けなるもの、茹でたパスタと和えるとどうにも見た目がよろしくない。

(貴族の食卓に“猫まんま”を載せるわけにはいかんものなあ)

 イワシのような赤身で脂の強い魚は、瓶詰めや缶詰めにして保存すると脂身部分が黒っぽくなる。パスタと和えると、料理全体が黒っぽく雑多なものになってしまう。
 庶民なら気にせず日常的に食事に出すのだろうが、貴族の会食には不向きだ。
 しかしライルは是非とも! とごり押しして、カズンやヨシュア、ユーグレンに中瓶を一瓶ずつ買わせた。よほどのオススメ品と見た。

 そのイワシ、晩餐ではスープの具として登場した。
 切り身ではなく、すり身をスプーンで掬いやすいよう一口大に丸くまとめて、塩味でリーキ(ネギ)だけを具にしたシンプルで透明なスープに仕立てられている。いわゆる“つみれ汁”だ。
 イワシのすり身には生姜のすり下ろしも臭み消しに入っていて、爽やかな芳香がスープから漂う。
 口の中でとろけるイワシのつみれの脂と旨味に、皆相好を崩している。

(イワシのつみれ汁……前世ではよく食ったな)

 イワシが安い季節になると母親がよく作ってくれた。
 もっとも、前世では味噌仕立てで食すほうが多かった。
 今世、アケロニア王国に転生してからは、母親の名前も顔も不鮮明なままなのだが、そういうことだけは覚えている。

 ちなみに他のオイル漬けは、三人とも店の売れ筋を一通り購入して、王都まで配送してもらっている。

 加えてカズンは、更に燻製牡蠣のオイル漬けを数瓶追加した。
 これも前世で食したことがある。家族が他所から貰ってきて、家族で取り合いになった記憶が思い出される。

 燻製した牡蠣のオリーブオイル漬け、晩酌を楽しむ父への土産として間違いない逸品だ。



 さて、晩餐も終えて腹も膨れた。
 これが大人たちなら、ワインをウィスキーやブランデーに変えていくところだが、主賓は現役学生ばかり。
 そのまま食堂で食後のお茶をいただきながら、今後の話をした。

「疲れたならこのまま部屋戻って休んでくれてもいいぜ。余裕があるなら、風呂入った後はサロンに集まろう」

 ライルが言うが、晩餐を終えてもまだ時刻は夜の七時前後。夜はこれからだ。
 茶を飲んで一息ついてから、各自入浴を済ませ次第サロンに集合することにした。

「男四人集まって夜やることと言えば猥談だろ」

 などと宣うライルを、とりあえずカズンは一発殴っておいた。

「いってぇ!」
「馬鹿なことを言うからだ。……む、髪はちゃんと乾かしてこい、まだ春とはいえ風邪を引く」

 赤茶の髪がしっとり濡れている。首に掛けたままだったタオルを取って、がしがし遠慮なく拭いてやった。

「んー……風魔法、あんまり上手くなくてよ」
「暖かい季節だからと油断してると、調子崩すぞ」
「そんな柔じゃねえって」

 部屋で入浴を済ませ、ホーライル侯爵邸で用意してもらった寝間着、襟付きで前開きの俗にいうパジャマ姿で一同サロンに集まった。

 ちなみに全員、同じ男性用の淡いブルーの無地パジャマである。
 主のホーライル侯爵は留守だし、飲み物などの準備を整えた後で、執事や侍女など家人も下げてもらっての無礼講だ。



 風呂上がりで上気した肌を冷ますように、ヨシュアがグラスで冷たい水を飲んでいる。
 何気にユーグレンはちゃっかり推しと同じ三人掛けソファの隣に陣取っている。
 もっとも、その距離はしっかり安全に人一人分空いているのだが。

 ローテーブルを挟んで反対側に、こちらも三人掛けソファにカズンとライルが並んで座っていた。

「そういえば、カズン様は異世界からの転生者でしたね。ラーメンのような不思議な麺料理のことといい、もしかしてライル様も同じだったりしますか?」

 最初の話題にとヨシュアが持ち出したものが、それだった。

「おう、そうだぜー」

 何とも軽く肯定するライル。

「“異世界からの転生者”とはどういう意味なのだ?」

 初めて知る情報にユーグレンは困惑した様子を見せている。

 アケロニア王国のみならず、円環大陸全体で、異世界転生者というの一般的ではなかったが、知る人は知っている。そんな存在だ。
 この世界とは別の世界で生きていた記憶を持って生まれた人間を、そう呼んでいる。

 カズンもライルも公表はしていない。
 カズンは父母と兄王には幼少期から伝えてある。
 それとヨシュアには詳しく話していなかったが、ヨシュアの叔父が情報通で相談していたことがある。

 ライルは誰にも言っておらず、初めて出会った他の転生者もカズンだけで、これまでやってきている。

 ひとまず、異世界転生者についてカズンが概要を説明すると、納得したようにユーグレンは頷いた。

「こことは違う世界って、どんなところなのですか? カズン様たちの前世とはどのような方たちでしたか?」

 元が好奇心旺盛なヨシュアが、身を乗り出して訊いてくる。
 カズンとライルは顔を見合わせてから、特に隠すことでもないからと語ることにした。



「そんなに大した人生じゃなかったけど、悪くはなかったぜ」

 と前置きして語られたライルの前世は、このようなものだ。

「俺がいたのは、この世界とはまったく違う世界で、日本って国だ」
「ニホン……」

 円環大陸上にはない国の名前だ。

「昭和って名前の時代で、高校……今の俺らが通ってる高等学園と同じような学校だな。そこを卒業した後は警察学校に進学して、その後警察官になったわけだ」
「警察学校というのは、この国なら騎士団の警邏や犯罪の取り締まり部門に相当する人員を育成する機関だ。警察官はその騎士だな」

 横からカズンが補足する。

「で、警察官になった後は地元で知り合った女の子と結婚して、数年後に子供ができた」

 妻も子供も、もはや名前は思い出せないという。だが子供が男の子だったことは覚えているとライルは言った。

「んで、仕事が終わると職場の同僚たちと飲んで帰ることが多くてさ。上司もいるから下手に断ると仕事に差し支えるし。いっつも母ちゃんに怒られてた」

 高位貴族のライルが細君を庶民のように「母ちゃん」呼びするのが、何だか不思議な感じがするなと思いながら、一同は彼の話に耳を傾ける。

「日本だと、大学っていう、高校より高度な学修機関を卒業しないとあんま出世できねえんだ。だから俺も給料が低くてさ。まだ若かったし、大した贅沢はできなかった」

 そんな生活でも、楽しみはあった。

「夜中になると、よく家の近所に屋台のラーメン屋が来てさ。ほら、昼間、漁港近くで小さい荷台引いてる店あっただろ。あれに屋根付けたみたいな小さい店が来るんだよ」
「うん。何となくイメージは掴めます」

 ライル自身が前世のものと、この世界にあるものとを比較させて語るので、実物は知らなくとも何となくはわかる。

「その屋台が来るのが、日付が変わる前あたりでさ。その頃になると、母ちゃんも子供を寝かしつけた後でやっと一息つけるわけ。そんで母ちゃん連れてラーメン食いに行くのがささやかな贅沢ってやつだった」

 同じように日本人が前世だったカズンには、その光景がありありと脳裏に浮かんだ。
 まさに、古き良き昭和の庶民の光景だ。

「ワンコインでラーメン一杯と、母ちゃんの機嫌が良ければビールの中瓶を付けてもらえる。あッ、ビールってのはラガーのことな。俺のいた頃だと、エールより辛口のラガーのほうが主流だったんだ」

 この屋台のラーメンが絶品の味噌味で、だからライルは今もラーメンといえば味噌味にこだわりがある。
 アケロニア王国の貴族として生まれて以来、一度も口にしたことがないというのに。

「味噌はやはり探すべきだな。醤油と一緒に濃縮調味料を開発して、いつでも食せるよう環境を整えたいところだ」
「それな!」

 心意気を新たにするカズンに、ライルも強く同意する。
 ヨシュアとユーグレンはよくわからないなりに、二人を応援すると請け負った。



「俺が住んでたのは、日本の東北って地方だ。国土の北部で、すごく寒いし雪もドカドカ降る。ラーメンの屋台も来るのは雪が降る前、せいぜい秋口頃まででさ。後は春になって雪解けの季節になるまで、大した楽しみもねえ」

 そこからライルは、意図してか声をひそめた。

「警察学校を卒業して順調に警察官になった後、俺は地元の交番勤務のお巡りさんになった。交番てのは騎士団の小規模な詰め所みたいなやつで、お巡りさんはそこ勤務の騎士だな。で……」

 その先を続けるのを、ライルはほんの少しだけ戸惑いを見せた。

「あるとき、交番の担当地区を巡回していたら、騒いでた中年男を発見したんだ。雪の降る夜のことでさ。普通なら夜中になんて誰も出歩かねえような場所だ。そいつに職務質問したら、相手がナイフを隠し持ってて、グサッと」

 誰かが息を短く飲む音がした。
 ライルの前世での死亡シーンは、まるで他人事のように本人の口から語られている。

「んーと、ここだな。腹のとこ。すぐ医者にかかって治療してもらえば助かったかもしれなかった。でも雪が降っててさ……降り積もる雪が音を吸って消しちまって。助けを呼ぼうにも、相手と揉み合ったときに無線機を雪の中に落としちまったみたいで、見つけられなかった」

 無線機は説明なしでもわかる。魔導具で離れた場所同士でも通信できる機械がある。

 ライルが手を当てたのは、腹部の右側だ。急所の肝臓は逸れている。だが刃物で刺されたならすぐ治療せねば危ない位置なのは確かだ。

「交番に戻らない俺を心配して、他の警察官が来てくれたとは思うんだよなあ」

 だがその口ぶりだと、到着は遅れ、結果として前世のライルはそのまま助からなかったのだろう。



「……前世で、何か後悔などはないのか?」

 慮るように慎重に、ユーグレンが訊ねる。
 問われて、ライルは物事を思い起こすような顔つきになった。

「んー……まだ小っちゃかったガキんちょ……子供のことは心配だな。でも母ちゃんが育てるなら大丈夫だろ」

 案外後悔は少ないのだと、ライルはカラッと晴れた表情で笑う。

「あ、でも、そろそろ警察の剣道選手権大会が近かったんだ。死に際で浮かんだのが武道館の会場でさ」

 雪に埋もれながらの思念で思い当たるものといえば、それだ。

「……前の人生では、剣道をやっていたのだな」
「おう。中学のときの体育の先生がすっげえ有段者でさ。そこから剣道部に入って、中高とやってきて、警察官になった後も続けてた」

 前世から剣の道を歩み続けているとはすごい、とヨシュアやユーグレンが驚いている。

「今、剣豪を輩出するホーライル侯爵家に生まれて、剣の道に進んで実力磨いてるってのは、前の人生での想いを引き継いでるみたいな気がするぜ」

「ん……僕の場合は、ライルほどドラマチックではないのだが」

 カズンは躊躇ったが、同じ転生者のライルが語って、自分は黙したままというのもフェアじゃない。
 さて、何から話せばいいものやら。

「僕もライルと同じ日本という国にいた。時代はライルの昭和の次、平成という時代だ。そこで高等学校……高校の生徒だった。庶民の家庭に生まれて、両親は共働き。下に弟が一人の4人家族だった」

 標準的な、何不自由ない生活をしていたとカズンは言う。
 ただし、

「僕には親しい友人がいなかった。……ああ、いじめなどに遭っていたわけではない。学校では互いの家に行くほど親しい友人はできず、アルバイト先……短時間労働のファミレス……飲食店では、一人だけ年末のクリスマスパーティーに呼ばれなかった、そんな立ち位置だ」

 あるいは、バイト仲間の誕生日にプレゼントを渡しても、いざ自分の番になるとプレゼントどころか誰も誕生日を覚えていない。
 そんなポジションにいた少年だったという。

 ざわ、とカズン以外の3人がどよめく。
 偉大な先王と女大公の母親の間に生まれ、日々をほのぼの過ごしている今のカズンからは想像もできない姿だからだ。

「死因は、……僕も雪の季節だな。都市部に住んでいてそうそう雪なんて降らない地域だったのだが、その年は例年にない大雪で。労働先のレストランから帰宅しようとしたところで、雪の重みで店の看板が落ちてきたんだ」
「えっ、もう死ぬシーンかよ!?」
「……だって、本当に特筆すべきもののない人生だったのだ。年もまだ十代半ばくらいで、ライルほど社会経験があったわけでもない」

 そうして、落ちてきた大きな看板が頭部を直撃。頭蓋損傷による重傷だった。

「看板が落ちたことにすぐ店の者たちが気づいて、救急車……この国なら医療軍人たちだな。それを呼んでくれていた。だけど僕は負傷が頭部だったし、血も大量に流れ出ていて、自分はもうこのまま助からないと思ったよ」

 倒れて救急車が来るまで、そして自分が息を引き取るまでに、多少の時間があった。

「店での同僚や上司が、必死に呼びかけてくれていた。痛みが薄れてボーッとしてくる意識の中で、もし次に生まれ変われるならもっといい環境がいいなと思っていた」
「……それは、まあ、そのような死に方をしたなら当然思うだろうな」

 言葉を選びつつ、ユーグレンが同意する。

「うむ。それで僕が思ったのは、次があるなら、当時好んで読んでいた青春小説みたいな人生がいいなあ、ということだ」

 前世ではライトノベルやWeb小説と呼ばれていた作品のような、反則的に強いチート能力持ちの主人公になったり、異世界転生したりなどだ。

「イケメンの王子様に生まれて、イケオジの父親と美女の母親がいて。気の置けない友人がいて……こんな不運で死んでしまう取るに足らない存在でなく、『誰かにとって大切な存在』になりたいと強く思った」

 死に際の思念が天に通じたのかどうか。
 今、カズンは王弟として、偉大な父と美しい母親の元に生まれた。
 父母や兄とその家族から大いに愛され、親しい友人もできて恵まれた人生を送っている。

 生憎と、チート系能力の保持者にはなれなかったようだが。それだけが残念である。

(むしろチートは周りにいるのだよなあ)

 竜殺しの魔法剣士、伯爵ヨシュア。
 学生の身でありながら剣豪と呼ばれている、次期侯爵のライル。
 次期王太子で次世代の国王が確定している王子ユーグレン。

 そもそも、父親からして大王の称号持ちの先王ヴァシレウスで、母親は人物鑑定スキル特級ランク持ち。

(この中に混ざると、僕はだいぶ霞む)



 幼少期、4歳くらいの頃に前世の記憶を思い出した。
 当時、両親と暮らしていた離宮の自室の隅で蹲って泣いていたところを乳母に発見され、慌てて両親の元に連れて行かれた。

「あのね、おうちにかえっても、ごはんがないの」

 ポロポロと涙を流しながら言う息子に驚いた父ヴァシレウスと母セシリアは、慎重に、根気よくカズンから話を聞き出した。

 そうして、カズンが異世界の前世を持つ異世界転生者であることが判明する。
 『家に帰ってもご飯がない』とは、学生で放課後、アルバイトをして帰宅したとき、家族が自分の分の夕食を残しておいてくれなかったときの記憶らしい。

 “ピザ”という、アケロニア王国にもある小麦粉を水で捏ねて薄く延ばした生地にトマトソースと具材、シュレッドしたチーズを載せて焼いた料理がある。
 その日、家族はピザを自宅に配達して貰っていたようなのだが、アルバイトを終えて帰宅した前世のカズンの分を考慮せず食べきってしまったようだ。
 というのも、カズンの職場はレストランで、仕事終わりに希望すれば廉価で賄い料理が食べられるからだ。
 家族は前世のカズンが賄いを食べて帰って来るとばかり思っていた。だから夕食分を残して置かなかった。

 けれど前世のカズンはピザが好物で、自分にも数切れ残しておいてくれると思っていた。
 だからアルバイト先で賄いを食べずに楽しみに帰ってきたのだが、残っていたのはピザ入っていた空き箱だけ。

 話を聞いて、ヴァシレウスもセシリアも胸が締め付けられるような悲しい気持ちになった。
 前世のカズンは、決して家族から虐げられていたわけではない。衣食住はきちんと整えられていて、毎度の食事も用意され、洗濯だって母親が毎日洗って畳んで部屋まで持ってきてくれていたという。

 そんな恵まれた生活の中、些細であっても、優しい気持ちが傷つく経験を沢山していたらしい。

 それから泣き止まぬカズンを抱き締め、両親は時折うなされる息子と共に眠ることが多くなった。



「だが、僕自身はこの前世の記憶に少々疑問を持っている」
「疑問?」

 ああ、と頷く。

「他の記憶では、普通にちゃんと衣食住を整えてくれる家族だったんだ。それに、労働先から自宅への帰路にはピザが食べられる飲食店がざっと6店舗はあった。正直、配達されるピザよりずっとリーズナブルで美味なものだったと記憶している」
「だけどよ、悲しくてご両親と一緒に寝ないと泣いちゃうぐらいだったんだろ?」
「それは……まあ、そうだな。幼い頃は前世の記憶を思い出すたびに涙が止まらなかった」

 ライルに突っ込まれるものの、それでもやはりカズンとしては納得できていなかった。

「今の僕が客観的に思い返してみても、別に何てことのない記憶ばっかりなのだ」
「案外、核心的な記憶は思い出されてないのかもしれませんね。『家に帰ってもご飯がない』など、ちょっと聞いただけでは虐待かと思えますけど」
「それは今の父や母も言っていた。だが、同じような出来事の記憶は他にもあるが、前世の僕は本当に堪えてないんだ。ただ、……どうにもスッキリしない」

 それから誰も言葉を発しない。
 カズンの前世はあくまでも彼だけのもの。話を聞くだけで、あれこれ深いコメントができるわけでもなかった。



「なるほど、その前世とやらの記憶があるから、お前はずっと心配したヴァシレウス様やセシリア様と寝ていたのだな」
「え?」
「ふ。私は知っているぞ。カズンが高等学園に入学する頃まで、ご両親の部屋で寝ていたことを!」
「!?」

 突然、ユーグレンからの暴露話が来た。

「な、なぜそれを知っている……?」

 そう。実はカズンは高等学園に入学する前まで、週の半分は両親と寝ていた。
 幼少期、最初に前世の記憶を思い出して泣きじゃくったときから、ずーっとだ。
 王侯貴族の子供は、物心つく頃には一人部屋で一人で寝るのが習わしだ。それからするとかなり異例のこととなる。

「なぜって。ヴァシレウス様ご本人から伺ったに決まってるだろう」

 いつもカズンに口先でやり込められているユーグレンの反逆か、とカズンは警戒したが、意地の悪い意図があるわけではないようだ。

「……昔、私たちが6歳ぐらいのことだったか。ヴァシレウス様たちが公務で国外に出て留守にしたとき、お前を離宮ではなく王宮で預かっただろう。昼は私と同じ部屋で勉強していたが、夜は祖父王の部屋に入って行った。あれがずっと不思議だったんだ」

 で、祖父王テオドロスと先王ヴァシレウスが酒を飲む場に同席したとき訊ねてみたところ、二人ともあっさり教えてくれたというわけだ。

「くっ……父のみならずお兄ちゃままでバラしてるのか……っ」

 恥ずかしくて顔が熱くなってくる。
 カズンは眼鏡を外して天井を仰いだ。

「ふふ、ヴァシレウス様の伝記がまた厚くなりますねえ。末っ子の王弟殿下に添い寝する先王陛下。微笑ましいエピソードです」
「そ、それだけは勘弁願いたい……っ」

 これには全員が笑った。
 偉大なヴァシレウス大王は退位後に本人監修の伝記が刊行されている。
 現王への譲位後の業績は番外編としてまとめられているが、カズンとのエピソードはその中に加えられそうだ。

 まだ夜は長い。少年たちの談笑する声は、ホーライル侯爵邸で穏やかに響いていった。