王太女グレイシアとその伴侶クロレオは同い年で、学園でクラスも同じだった。

 ヨシュアの父でルシウスの兄の前リースト伯爵カイルは彼らの三歳年下になる。
 カイルは一年だけ飛び級で早く学園の高等部に進学していたので、グレイシアたちが3年生のとき、カイルは1年生。
 リースト伯爵令息だったカイルは、親同士が親友だった縁で、王女グレイシアの幼馴染みでもある。

 その一年間だけ彼らは学園で共に通う仲間だったわけだが、その年、王都を中心に大地震が起こり、王宮は無事だったが街中の古い建物がいくつか倒壊する被害が出ていた。
 その倒壊した建物のひとつが、リースト伯爵家の王都でのタウンハウスだった。
 幸い、ほとんど怪我人はなかったのだが、兄カイルが学園に通うため王都のタウンハウスに当時住んでいたものだから、仮の宿に困っていた。

 ちょうど、王都騎士団の寮に空き部屋があったので、屋敷が修復できるまでそこにカイル、ルシウスの兄弟は一時的に避難して生活することになった。
 部屋は単身者用だったが、まだ15歳で学生のカイルと7歳年下のルシウスがふたりで住むには十分だった。

 特に兄が大好きなルシウスは同じ部屋、たったひとつの部屋で一緒に暮らせることに周りが微笑ましくなるほどはしゃいで喜んでいたものだ。

 だが対する兄カイルは繊細な男で、歴史あるリースト伯爵家の嫡男である自分がこのような狭い部屋で生活せねばならない現状を屈辱に思っていたらしい。

 本来リースト伯爵家はとても豊かな家だが、さすがに王都の屋敷を修繕するとなると費用がかさむ。
 この期間中、経済的に節制を迫られた兄弟は、騎士団寮内の簡易キッチンで自炊を余儀なくされた。これがまた次期伯爵のカイルにとっては矜持を傷つけることだったらしい。

 反面、弟ルシウスは元来、非常に器用で物覚えが早いので、騎士団寮内の食堂の厨房に出入りしていたかと思えば、あっという間に調理を覚えてしまった。
 それで朝昼晩と兄と自分の食事を見事に用意してみせた。



 グレイシアとクロレオが思い出すのは、学園のランチタイムになると騎士団寮から大きなバスケットを持ってやってくる、まだ頬の辺りに幼さを残した8歳のルシウスの半ズボン姿だ。

 8歳とはいえ、莫大な魔力を持って生まれたルシウスは成長が遅く、当時で5歳児ぐらいの背丈しかなかった。

「兄さん、お昼ご飯持ってきたよ!」

 と白い頬を薔薇色に染めて、よちよちと手を振って駆けてくる姿。

 あれは実に愛らしかった。今の存在するだけで圧の強い姿からは想像もできないほどだ。
 あまりに可愛すぎて誘拐の心配があるからと、頼まれもしないのに毎回、騎士団員の誰かが自発的に護衛に付いてくるぐらいだった。

 バスケットの中身はもちろん彼の作った昼食が詰まっている。
 リースト伯爵家は魔法薬だけでなく、食料生産も盛んだから領地から送ってくる食料にだけは事欠かなかった。

 特にリースト伯爵領の特産品のひとつである鮭は最高だった。
 ルシウスは毎回、何か最低ひとつは故郷のご自慢の鮭を入れたものを作る。
 グレイシアもクロレオも日々相伴に預かっていた。実に美味かった。
 特にスモークサーモンを挟んだサンドイッチの美味さときたら、夢に見るような贅沢な味わいときた。



 なぜルシウスが兄の昼食を作っていたかといえば、やはり当時の彼らの懐事情が厳しかったからだ。
 学園には食堂があって料金は学生価格で王都の一般的なレストランのものより抑えられていたが、それでも毎日となると当時のカイルには痛い出費だった。
 それを知ったルシウスが、ならば昼も自分が作ると言い出して始めたのだ。

「あれは、自分が兄とランチを楽しみたいからやっていたのだろうな」

 懐かしげにグレイシアが目を細めている。

 カイルの性格的に金銭的支援は受け付けないだろうことがわかっていたから、この兄弟の苦境を知った友人たちは積極的に材料の差し入れをしていた。
 そのお陰で当時の彼らリースト伯爵家の兄弟の食生活はかえって豊かだったかもしれない。

 グレイシア、クロレオのひとつ下、カイルのひとつ上には現ホーライル侯爵のカイムがいて、女運の悪さでよくトラブルに巻き込まれては笑いをもたらしてくれたものだ。
 学園では何となくこの四人で仲が良く、生徒会長だったグレイシアを中心に学生生活を楽しんだ。

 それがグレイシアたちの青春時代だった。



 ルシウスは生まれながらに魔力が極めて強く、能力の欠けが一切なかった。

 特筆すべきは絶対直観とでも言うべき眼力で、彼がイエスと言ったことは必ずその通りになったし、ノーと言ったことが実現することはなかった。
 この特質から、ルシウスは現在ではアケロニア王国を代表する要人として広い人脈を持つようになった。

 ただ、不可能のないルシウスにも決して手に入らないものがあった。
 それこそが兄、カイルだ。
 家族愛なのか恋情の絡む愛なのかまではグレイシアたちの預かり知らぬところであるが、人前でもなに憚ることなく「兄さん、大好き」と言っていた姿を思い出す。

 ただ一緒にいるだけで、まだ幼かった子供の頃も、成人して大人になった後もルシウスは幸福そうだったのだが。



 しかし兄カイルのほうは、言葉にこそ出さなかったが、自分より圧倒的に強いこの弟を厭う素振りを見せることが多かった。

 良くないな、とグレイシアが昔から思っていたのは、兄カイルが弟ルシウスの忠告を聞かないことだった。

 素直に聞いておけば大抵の問題を回避できるのに、わざと聞こえなかった振りをして、結局問題に巻き込まれていたのがリースト伯爵カイルという男の哀れなところだった。

 最たるものは、最初の妻、つまりヨシュアの実母を早くに亡くした後、長らく再婚する気を見せなかった癖に、数年前急に再婚すると言い出したことだろう。
 連れ子持ちの男爵家出身の後妻を娶ると言い出して、彼女たちの調査をしたルシウスは強硬に反対した。
 しかし兄カイルは強引に再婚して後妻とその連れ子をリースト伯爵家の本家に入れてしまった。

 その後のことは皆が知る通りだ。
 カイル本人は後妻によって毒殺され、息子ヨシュアも監禁と、毒殺一歩手前までの被害を受けて、あと少しでリースト伯爵家が乗っ取られるところだった。

 また悪いことに、ヨシュアが被害を受ける少し前から、カイルは弟ルシウスに他領との折衝を命じていて、ルシウス本人が王都のタウンハウスに行けない状況だった。

「なんであそこまで頑なだったんだろうなあ。あいつ」

 自分だって天才と呼ばれたリースト伯爵で魔法剣士。
 一度は若くして魔法魔術騎士団の副団長にまで昇り詰めていたではないか。



 リースト伯爵カイルの死は、グレイシアやクロレオたち同世代の者たちにとってひとつの時代の終わりを感じさせた。

 あの美しき伯爵の死は、彼をこよなく愛する弟ルシウスの逆鱗に触れた。
 カイルの死に直接関わる後妻とその連れ子は既に処刑されていたが、後妻の実家の男爵家は完膚なきまでに潰され、元婚家だった子爵家も相応の制裁を受けたと聞く。たったひと月の間にだ。

 その報復は後妻たちと親しかった者たちにも当然飛び火し、少しでも兄の死に関わると判断された者は死ぬより酷い報復を受けたと聞く。

 そして先日、ひと段落ついてしまった。
 現在はまだ他に残っていないか執念深く調査を進めていることだろう。

「あいつ、説教くさいだけで気のいい男なんだけどな。何でわざわざ本人の勘に障ることをやらかす輩が出るのだか」

 とグレイシアは昔から不思議に思っている。

 基本、親切で情に厚いし、自分が強く有能だからといって礼儀知らずなわけでもない。
 だから貴族社会の中でも先王ヴァシレウスや現王テオドロスにも可愛がられている。

 酒も強くて、じっくり飲み交わすと彼が誰より懐の大きく深い人物であることがよくわかる。

 彼と親しい者たちはルシウスと関わると良いことしか起きないので、なぜ逆らう者がいるのかが理解できない。

 息子のユーグレンや、再従姉妹セシリアの息子カズンも幼い頃からルシウスと面識がある。
 子供のことだから悪戯も多く、そういうのにはルシウスはこんこんと善悪や倫理道徳を教え諭す。

 それ以外だと、子供好きなルシウスは喜んでユーグレンやカズンたちと遊んでやっていた。
 そんな男だから、絶対的強者として畏怖を覚えつつも、ユーグレンもカズンもルシウスが大好きだ。

 今も、慰労会の会場では試験官だったルシウスの周りに集まって嬉しげに会話を楽しんでいる。

「あの子たちは良い縁に恵まれました。ルシウス君の加護を受けているなら、少なくとも道を間違えることだけはないですからね」

 クロレオが微笑ましげに見守りながらコメントした。



 リースト子爵ルシウス。

 金剛石の輝きを持つ唯一無二の聖剣を持つこの麗しい男前が、円環大陸でも十人といない聖者であることを知る者は少ない。

 彼は聖者としての使命より、己の愛する者たちのために生きることを選んだ。
 だから今はもう、滅多にアケロニア王国からも出ない。以前は冒険者として国外に出ていたこともあったのだが。

 そんなルシウスは、大王の称号を持つ先王ヴァシレウスに次いで、ふたりめの永遠の国からの称号持ちだ。

 円環大陸の神秘の国である永遠の国が彼に与えた称号は“無欠”。

 無欠のルシウスは、文句なしにアケロニア王国の最重要人物だった。